第9話:山を動かす計画的斜面崩壊(山の安息角)
僕は塹壕の脇で、乾きかけた泥を円錐形に積み上げ、上から雨水を垂らしていた。
円錐形の泥山の周りに施されたグルーピングに沿って水が流れ、泥がたまったところで小さな水たまりが出来上がる。魔照機の光を地面近くで水平に当てると所々小さな窪みがあるのがよくわかる。
「……はぁぁ……やっぱり傾斜がないとダメだよね。いくら魔法で摩擦力下げても重力には勝てないよ……」
僕は右目に嵌めた自作の測量用モノクルを指先でトントンと叩き、泥まみれの図面と格好のつかない睨めっこを続けていた。
「おい、ドルト。今度は敵の鉄騎兵を泥沼に流し込んだかと思えば、また初心に戻って泥いじりか?」
通りかかった歩兵が、乾いた軍服を整えながら声をかけてくる。交通管理以来、兵士たちの僕を見る目は明らかに変わりつつあったが、この「事前検討」だけは相変わらず奇行にしか見えないらしい。
「……遊びじゃないですよ。『欠陥だらけの現場』の安全第一に続く、縮小モデル試験なんですから」
僕が力なく言い返すと、彼は不思議そうな顔で去っていった。
三角測量で山の向こうの敵弾薬庫をピンポイントでブチ抜き、進退窮まった敵軍の突撃を最小の被害で躱したことで、こちらの戦況は一気に優勢へと傾いたはずだった。だが、戦争という名の巨大な現場は、僕にのんびり防水処理の続きをさせてくれるほど甘くはない。
「ドルト! 遊んでいる暇があったら前線を見ろ。帝国軍の奴ら、完全に腹を括りやがったぞ!」
ゼノ曹長が、泥に塗れたブーツを激しく鳴らしながら僕の背中を叩く。
その視線の先――切り立った山岳地帯の急斜面に、僕は絶句した。
敵軍は進軍を止めるどころか、その圧倒的なマナの物量にモノを言わせ、急峻な崖の途中に強固な前線基地を構築していたのだ。それだけではない。その背後には、泥沼に沈めたやつとは比較にならないほど巨大な、超重量級の『要塞ゴーレム』が鎮座し、鉄壁の防陣を敷いている。
高所からの容赦ない魔導射撃。さらには要塞ゴーレムが物理的な力任せに引き起こす、小規模な落石攻撃。斜面の下から攻め上がらなければならない王国軍の歩兵部隊は、完全に足止めを食らい、一歩も進めない停滞状態に陥っていた。
「……はぁぁ。まあ、でも」
僕は使い古しのスコップを放り出し、乾きかけの泥を指でなぞりながら、自分の設計図と目の前の光景を照らし合わせた。
僕の脳内にある「現場監督」のスイッチが、カチリと音を立てて切り替わる。
――――1963年10月9日、ヴァイオントダム災害。
当時、世界最高峰の高さ(262メートル)を誇るアーチ式コンクリートダム「ヴァイオントダム」の貯水池において、左岸の山(トック山)の斜面が大規模に崩壊(地滑り)した事故だ。体積にして約3億立方メートル(東京ドーム約240杯分)にも及ぶ巨万の岩盤や土砂が猛烈なスピードで貯水池へと滑り落ち、その衝撃で高さ100〜250メートルに達する凄まじい津波(巨大な湧浪)が発生した。
崩壊した斜面は、もともと地質的に滑りやすい滑り面(古い地滑り地形)や、水が浸透しやすい石灰岩の亀裂を多く含んでいた。繰り返しの貯水や急激な減水(水位低下)が地盤を刺激していたこともあり、ダムに水を溜めた(湛水した)ことで、周囲の山に水が浸透し、斜面内部の「間隙水圧」が急激に上昇したのが原因とされている。
この事故のあと、ダム建設の際には、ダム本体(土台)の強固さだけでなく、「水を溜めることで影響を受ける周囲の斜面全体」の地質や過去の地滑り履歴を徹底的に調査することが世界的な基準となった――――
「おいおい、冗談だろ……。あいつら、頭のネジが数本抜けてるんじゃないですか?」
僕はモノクル越しにその光景を覗き込み、思わず頭を抱えた。
「どうしたドルト、あの壁の結合回路に何か欠陥でも見つかったか?」
隣で剣を握りしめるシギュン様が、怪訝そうな、それでいてどこか期待を孕んだ眼差しで僕を見てくる。
態度には表さないが、最近の彼女は僕が何かを始めるたびに、油の切れた熟練重機みたいにじっとロックオンしてくるのだ。正直、平民の一兵卒としては非常にやりにくい。
「回路以前の問題ですよ、シギュン様! あーもう! 雨が降り続いては止むを数か月繰り返していたあんな危なっかしい斜面に、あんな重たい要塞ゴーレムなんて建てて……。あそこは安息角ギリギリの不安定な地層なんですよ! ちょっと雨が降るか振動が加われば、一気に滑り面から崩落するって素人でもわかります。あんな場所で施工に付き合わされるなんて、工期がいくらあっても足りない!」
「アンソクカク……? 何を言っている。敵はマナの力で強固に地盤を固定しているのだぞ。力押しではあの防壁は崩せん」
ゼノ曹長が苦渋に満ちた声を出す。
(力で抑え込むのが土木じゃねえんだよ、曹長)
魔法を過信するエリートどもは、いつだって大自然の物理法則をナメている。
「力で壊せないなら、山そのものを動かせばいいだけです。シギュン様、ちょっと手伝ってください。そこに転がってる石ころで、簡単なシミュレーションを行います」
僕は足元の泥を捏ね、モノクルで計測した山の縮尺通りにミニチュアの傾斜地を作り始める。
ここ数日の天候を説明しながら泥と水を交互に盛ってあげればミルフィーユ山の出来上がりだ。
「いいですか、シギュン様。あの要塞の自重、そしてゴーレムの荷重によって、地中には今、網目状の凄まじい負荷がかかっています。ここを、こうして……」
僕はミニチュアの泥山の「一点」を指先で突いた。
均衡を失った泥の斜面が、自重に耐えきれずにズルりと音を立てて崩れ落ちる。
「……なるほど。力でねじ伏せるのではなく、限界を超えさせるのか」
シギュン様がモノクルの奥にある、僕の「十字の照準線」をじっと見つめる。
彼女は知らないだろうが、このモノクルの照準線に使われているのは、先日ガリクに調達を依頼した、僕の身体よりも遥かに魔力の通りの良い馬の毛だ。僕は、その精密なデータを頼りに、本物の斜面の「滑り面(土砂が崩れる境界線)」を完璧にハサミ撃ちした。
「シギュン様、あの巨大な岩盤の左下――僕が魔照機の光でマークする『一点』に向けて、マナを込めた風の杭を垂直に打ち込んでください。深さは五メートル、正確にお願いします!」
「承った。貴公の『理論』、しかと見届けよう!」
シギュン様が猛然と一歩を踏み出し、大剣を振り抜く。
凄まじい出力の風魔法が、大気を引き裂きながら僕の指定した座標へと着弾した。ズドン、と硬質な音が響き、岩盤に深い亀裂が穿たれる。
「よし、開通! 仕上げはこっちの番だ!」
僕は地面に両手を突き立て、自身の微々たるマナを、シギュン様が開けた穴の奥深くへと滑り込ませた。
狙うのは、溜まりに溜まった荷重エネルギーの交差点。
「土質変換」の魔法を使い、地中のマナをベアリングのように球状化させる。水を含んだ粘土層の摩擦係数を、極限までゼロへと引き下げる命令を送り込む。
これぞ、災害を防ぐための技術を逆に引っくり返した――「計画的斜面崩壊」だ!
「滑り面、連動開始――山よ、笑え!」
次の瞬間、大地の底から「ゴゴゴゴゴ……」という、世界が引き裂かれるような重低音が響き渡った。
シギュン様が穿ち、僕が摩擦を消し去った「一点」の均衡が崩れた瞬間、限界まで応力を溜め込んでいた山全体の地層が、一斉に踏ん張る力を失った。
「な、なんだ!? 何が起きている!」
ゼノ曹長や味方の兵士たちが、一斉に地面にしがみつく。
前線基地、そして超巨大な要塞ゴーレムを支えていた足場が、文字通り「氷の上の滑り台」と化した。凄まじい轟音と土煙を巻き上げながら、数万トンもの土砂が、僕が脳内で設計した通りの「崩壊経路(導線)」に従って、雪崩のように谷底へと滑り落ちていく。
「グ、ガガ、ガギギギギ……ッ!?」
無敵の誇りだったはずの要塞ゴーレムは、自慢の質量が仇となり、踏ん張ることもできずに、土砂の濁流に飲み込まれていく。帝国軍の強固な陣地は、剣一本交えることなく、一瞬にして谷底の塵へと消滅した。
戦場を支配していた轟音が止み、ただ大量の砂埃が雨に洗われていく。
「……魔法で山を吹き飛ばしたんじゃない。貴公は、ただの一撃で、本当に山を動かしたのか……?」
呆然と立ち尽くし、剣を握る手が微かに震えているシギュン様。
僕は膝についた泥を乱暴に払いながら、平然と鼻で笑ってやった。
「力任せに壊すのは素人の仕事ですよ。僕はただ、山に『もう支えきれませんよ』って教えてあげただけです」
「……はい、安全確認、よし。曹長、進軍ルートが開きましたよ。さっさと次の現場(陣地)に行きますよ。工期が惜しいんでね!」
空を見上げれば相変わらずの雨だが、僕が動かした山岳の跡地は、これ以上ない確実な歩みで、僕たちの工期を次の勝利へと繋いでいた。




