七月二十八日 木曜日 (2)
チョーノは二日続けて裏野ハイツ前の坂道を昇った。午前からのアルバイトを終えた十七時半のことだった。手には清涼飲料水の入ったボトルが二本に、アイス。ハナへの手土産だった。
「聞こえなかったのか。声は」
ハナは彼を部屋に入れると挨拶もそこそこに問い詰めた。顔は真剣そのもので、余裕が無い。
「何も。お前には何が聞こえたってんだ」
チョーノはあえて強気で言った。弱ったハナの前で、怯えた様子は見せぬように気遣っていたのだ。
ハナは昨晩の一件についてチョーノに語す。ーー彼は深夜、物音に目を覚ました。枕元の携帯電話で確認すると、午前二時過ぎ。起き抜けで最初は何事かもわからなかったと言うハナだったが、やがてその音が玄関から聞こえてきていることに気が付いた。
ーートントントン、トントントン、トントントンーー。乱れることの無い一定のリズムで叩かれ続けるドア。ハナは初めイタズラを疑ったが、わざわざ自分を、この時間帯に脅かすような友人には心当たりが無かった。ーードンドンドン、ドンドンドン、ドンドンドンーー。徐々に音がはっきりと聞こえるようになり、こころなしか徐々に強くなってきている気がする。無感情に、それでいて生物的な柔らかさを持ったものが扉にぶつかり続ける音が、なんとも不気味だった。
……ま
扉を叩く音に紛れて、声のようなものを聞き取ったのはしばらく経ってからのことだった。男の低い声で、ぼそりと呟くような声が、ハナの耳に届いた。
はなやま
それが自分の名だとわかると、ハナは総毛立った。その声はノック音同様、一定のリズムで、無感情に呟かれ続けていた。
はなやま
はなやま
はなやま
ーードンッドンッドンッ
ハナは永遠に終わらない悪夢の中に閉じ込められてしまったような錯覚を覚えた。そうして、ハナは携帯電話を手に取ると、震える指でコールボタンを押したのだった。
ーー彼は話し終えると、やつれた顔でうなだれた。ただならぬ出来事ではあったが、当事者ではないチョーノの頭はクールに回った。
「それが、じゃあもう幽霊の類だったとしよう」
チョーノはハナがそれを信じているタイプの人間であるかどうかは知らなかったが、彼自身はといえば信じていないタイプの人間だった。嫌っているというわけではない。むしろ、彼はホラー映画や怪談話の類が好きだった。
とはいえ、チョーノがそれを楽しめていたのはフィクションだと割り切っていたからであり、何より彼にはそういったものを感じ取る第六感が備わっていなかった。高校時代の沖縄修学旅行の際、先の大戦当時の人々が逃げ込み、多くの人がそこで命を落としたという防空壕を見学したことがあった。彼が所属していたクラスが防空壕の目の前まで行き、暗闇を覗き込んで見学していると、一人の女子生徒がその場で倒れ意識を失ってしまう、という一件があった。その女子生徒は生徒間で『霊感がある』と噂されていた生徒だったが、彼はその出来事を傍から冷静に観察していた。ーー冷房の効いた室内で凄惨な戦争資料を見せられ、直後にこんな炎天下の中放り出されて本物の防空壕を見せられたんじゃあ、そりゃ体調も崩すんじゃないだろうかーー。彼のスタンスとしてはこうだった。そういったオカルティックな事象をバカにしたり、嫌ったりすることはないものの、心の底では全く信じず、エンターテイメントの一ジャンルとして楽しむ。
しかし、今はまずハナを落ち着かせることが重要だった。昨晩の電話では自らも『扉を叩くような音』を聞いてしまっていることもあるし、そんなイタズラをわざわざするような人間がいるとも思えなかった。ーーかつて科学の成熟する前の世界では、あらゆる不可思議な現象が超自然的な存在によるものだとされた。それは、当時の人間たちがその不可思議な現象に恐怖を感じていたからに他ならない。幽霊や妖怪、神の仕業だという事にし、納得する事で彼らは一時、安心したのだ。
チョーノがハナに今してやろうとしていることは、まさにその一時的な理由付けだった。
「ーーハナはもうここに住み始めて四ヶ月になるんだろ。今までは何にも無かった訳だ。それが何で昨日になって……」
「名前だよ」
ハナはわかりきった顔をしている。チョーノも考えていることは同じだった。彼らの頭の中では一つ、仮説が出来上がりつつあった。
「……それしか考えられないか」
二人は会話によって、考えを共有する。ーー四ヶ月ここに住み続けているハナが特別に昨日したことと言えば、挨拶回りと、名前を書いたガムテープをネームプレート代わりに玄関、郵便ポストに貼ったこと。そこで、名前が何者かに、知れてしまったーー。
「それは何だったんだろう」玄関前でチョーノが言う。ハナは昨日貼ったばかりの臨時表札をベリリ、と剥がした。「わかりっこないよ。オバケとしか言いようが……」二人は階段を降りると、郵便ポストの臨時ネームプレートも剥がした。
ふと、チョーノの目に動くものが映って反射的に首を動かすと、そこには昨日見た103号室の男の子がいた。こちらに背を向けしゃがみ込み、白い石で道路に絵を描いているらしい。
彼は一つ、試してみたいことを思いつく。「なぁハナ、昨日のツマンネーヤツ持ってきてくれ」。
「ツマンネーヤツ?」
「クッキーだよ!」
ハナは解せない、という顔で階段を昇り、少しして昨日挨拶回りで配ったクッキーを一つ、紙袋に入ったまま持ってきた。
チョーノはおもむろにそれを取り出すと、乱暴に包装紙を破ってクッキーを一つ取り出し、齧る。そして、聞こえよがしに言った。「うんめー! このクッキーチョオうめえよ! ほれ、お前も食ってみ」
「お、おう」。ハナは困った顔でクッキーを一つ受け取り、齧る。(普通のチョコクッキーだけど……)と彼の顔が言っている。
チョーノはパッ、と振り返る。こちらを見ていた男の子が、サッ、と下を向く。
彼は男の子に近づくと、しゃがんで言った。「クッキー、おいしいよ。食べる?」
「しらないひとに、たべものもらっちゃいけないって、ママゆってた」
クッキーをもう一口齧る。「変なモン入ってないって。ママにも言わない。約束する」
男の子はチラリ、チラリとチョーノを見やって、やがてこちらを見ずにおずおずと左手を伸ばした。小さな手に、彼がクッキーを一枚載せてやると、男の子は小さな口でポリ、と齧った。
「ねぇ、君、お名前何ていうの?」
「しらないひとに、なまえゆっちゃいけないって、おばあちゃんゆってた」
ーー名前を。チョーノは引っ掛かりを覚える。『お名前は?』。大人は喋れるようになったくらいの子どもを見ると、喋らせたくて無難な質問をする。この子も例外ではなく、この質問は幾度となくされているはずだ。
(名前を言ってはいけない……ん?)
(おばあちゃん?)
「おばあちゃんって?」
聞くと、男の子は建物の方を指差した。その指先から線を伸ばすと、201号室に辿り着く。
どうやら、201号室の老婆が男の子に「名前を言ってはいけない」と吹き込んだらしい。
「ねぇ、どうして、名前を言っちゃ、いけないの?」
チョーノはそれをどうしても聞き取りたかった。わかるようにゆっくりと、丁寧に話す。
「ゴンベエにつれてかれちゃうから」
ーー聞きなれない言葉と、子どもの放つ至極わかりやすいシンプルな言葉にチョーノは固まる。
(……連れて行かれる)
「ゴンベエ、って何?」
男の子はチョーノを見た。白くきめ細やかな肌で覆われた顔の中に、まん丸の艶がかった二つの眼球が埋まっていて、それがキョロ、っと彼を見る。
「ナナシノゴンベエ」
男の子は再び地面に目を落とすと、裏野ハイツを指差す。その先を見ると、そこには202号室がある。
「あそこにいるの」
チョーノは立ち上がった。「なぁ、ハナ」郵便ポストの辺りから見守っていたハナが駆け寄る。「なに?」
「なんで202号室に人が居ると思ったんだ」
「はぁ? ……だって、越してきた日からずっと、音が聞こえるから……」
「202号室に、人は住んでない」二人は同じ窓を見ていた。「だって、カーテンすら無いじゃないか」
どうして気付かなかったんだ、とチョーノは思う。思い込み。それが理由だった。ハナは越してきた当日から隣の部屋の物音を聞いていた。隣に当然人が住んでいるのだと思い、疑いもしなかったのだ。チョーノはハナから隣から物音がするから人は居る、と事前に聞いていた。だから、疑いもしなかった。
さらに言えば、このアパートの住人は皆、名前を表に出さない。
チョーノはガリ、ガリ、という音に引き寄せられるように高い位置から男の子と、その子が道路に描く絵を見下ろして、釘付けになる。男の子は道路いっぱいに、真っ白に広がる何か大きなものを描いている。その何か大きなものの中心部には三つの穴があって、そこだけ色が塗られていなく、道路本来の黒色だった。
「ねぇ、それは……」
「ゴンベエ」
太陽が水平線の向こうに身を隠すと、空は藍色に染まって、夜が近付く。蝉はいつの間にか鳴きやんで、静けさとともに、坂道の下から闇がひたひたと迫る。
二人は描かれてゆく絵から目が離せないでいる。どんどん大きく、際限なく広がってゆくそれの中心では三つの穴が、時間とともに、黒をより濃く、濃くしていくのだった。




