七月三十一日 日曜日 (1)
ーーハナがチョーノの部屋に押しかけてから、三日が経とうとしていた。
「あの部屋にはもう居られない」というハナの言葉を彼は理解できたし、事を荒げてしまった責任は自分にもある、とチョーノは思っていた。しかし、面倒なことになってしまったな、とも彼は思う。1Kの部屋に男二人は中々苦しかったし、かといってハナを追い出すわけにもいかない。チョーノの期待通りに退屈を忘れる日々となったが、疲れは溜まった。
その日、二人は裏野ハイツ203号室に戻ってきていた。日曜の十四時。その日もまた、空は快晴。輪郭のはっきりとした入道雲がふかふか浮いて、辺りは蟬時雨に包まれていた。
男二人、五日も毎日顔を合わせていると会話も無い。二人は黙って、ある人物を待っていた。
ーーピーンポーン
インターホンの音に、ハナはびくりとして玄関を観た。チョーノが立ち上がって、客人を迎える。
「おぅ、遅れて悪い」
やたらと響く低い声がして、ハナは覗き込むようにしてその声の主を見た。
茶色の革靴に黒の靴下、スラックス。ジャケットを後ろ手に肩に引っ掛けた、カタギではなさそうな男。というのも、真っ白なシャツはだらしなく上二つボタンが開いていて、ネクタイは無し。髪はボサボサ、肩まで伸びて、無精髭が見えた。
「あっちぃ……」そう言って男はポケットから出した黒一色のハンカチで額を拭う。頬がこけ、落ち窪んだ目はエスニックな雰囲気を醸し出す。
「君が花山くん?」
男はハナにそう尋ねながら、畳に胡座をかいて座った。椅子に座るハナを見上げる形になる。
はい、とぼんやり答えるハナは、チョーノに助けを求めるような視線をぶつける。チョーノは言った。「この人がこの前言った、助けてくれる人だ」
「霊能力者的な?」
「ハァ?」男は言う。「俺はこういうもんだよ」
ジャケットの内ポケットを探り、薄いステンレスのカードケースを取り出すと中から名刺を一枚出し、ハナに渡す。
『私立探偵 荒川一朗』
「探偵?」ハナは少し落胆を見せる。探偵が、超自然的な現象を解決できるとは到底思えなかったのだ。
「アラカワさん、この裏野ハイツについて、調べておいてくれました?」
チョーノは膝をつき、アラカワに顔を近づける。
「調べてねぇよ」
「え?」
「だってよ。いくらお前からの頼みだからって、俺はプロの探偵として仕事を始めたらならキッチリ代金は取り立てるぜ。俺は安い男じゃあない」
アラカワは言った。チョーノは肩を落とす。
「説明したじゃないですか! 外に名前を貼り付けたその日の夜に、この部屋は妙な現象に襲われたんだって!」
「チョーノ弟。お前オバケなんか信じてるわけぇ?」
「じゃあどう説明つけるってんです。ここの住民たちは、名前を表に出さないんですよ……?」
「そりゃあお前、アレだよ。202号室に潜んでるのが実はキラで、名前を知られたらノートに書かれちまう……」
「マジメにやってくださいよ!」。チョーノは声を荒げた。アラカワとは五つ年上の兄の友人として知り合い、たまに酒を飲んだり麻雀をやる仲。雑居ビルの三階にあるアラカワの事務所に卓があり、一ヶ月に一度くらいの割合で誘われて、朝まで牌をめくるのであった。
チョーノが事務所を尋ねるとアラカワはソファに寝転んでアニメを見ているのが常で、彼は(この人ちゃんと仕事してるんだろうか……)と疑っていた。
しかし、彼に今思いつく頼みの綱はこれしか無い。
「ハハ、冗談だよ。けどな、幽霊云々は信じられねぇぜ。名前についてはお前も言っていた通り、『誰も貼らなかったから貼らなかった』。そんで音はな……まぁどっか別のアパートの203号室住み酔っ払いが間違えてやって来て、しつこくノックしていた……」
「音は俺も聞いてますけどね。そんな感じじゃあなかったですよ。こう……ドンドンドン、ドンドンドン、って、一定のリズムで叩かれてる訳です。普通じゃないんですよ!」
「ハナは夢を見ていた。ハナはその夢の中で音を聞いていて、チョーノに電話をかけた。チョーノも夢を見ていた。その夢の中ではハナから電話がかかってきたような気がする。……音がしていたような気がする」
チョーノはハァ、とため息をついた。「じゃあもういいですよ。バカにしに来たんですか?」
「とりあえずな、俺はこのクソ暑い中歩いてきて、あのクソ長い坂道を登ってきたわけだ」。チョーノは人差し指を立てる。
「水を一杯出してくれ」




