七月二十七日 水曜日 (4)
201号室の前に立つチョーノを余所に、ハナは彼に何の断りも無く202号室のインターホンを鳴らした。
「何してんだ?」
「うん」
じっと扉を見つめているが、反応は無い。
「……この部屋、音はするんだけど住んでる人は見たこと無い、って言ったろ? 201号室のおばあちゃんには、この部屋についても聞いてみよう」
ハナはそう言うと、もうすっかり慣れた様子で201号室の住人を呼び出す。その表情に、もう緊張の色は無い。
ーーピーンポーン
電子音がして、すぐ扉の向こうから足音がする。102号室の男とは違う、軽い足音が近づく。
「はぁい?」
姿を見せたのは腰の曲がった老婆だった。歳は七十を過ぎているだろうか、腰が曲がり、顔は皺でくしゃくしゃで目尻が垂れている。後ろでまとめた髪の色は圧倒的に白が多く、扉を支える手の指は節くれ立っていた。
チョーノは何の気なしに思う。なぜ人の着る服はーー。子どもの着る服は赤や黄色、青といった原色のものが多いのに、歳をとるにつれてその色味は失われてゆくのだろう。まるで生命力そのもののメーターのよう。老婆は着古されよれた、茶褐色の服を着ていた。
ハナが自己紹介と挨拶を済ましツマラナイモノを差し出すと、老婆は「あぁ」と少し笑って受け取った。マトモなコミュニケーションを取れる住人にようやく出会い、二人はようやく安心する。
「おばあちゃん、ここには住み始めて長いんですか?」
少し腰をかがめて、ハナは世間話を吹っかける。チョーノの書いた台本とは違うが、突然名前を聞いたり、急に『ネームプレート及び表札についての謎』について質問するのは確かに不自然で怪しまれかねない。まずは老婆の警戒心を解き、トークに弾みをつけてから質問をぶつけるべきだろう。チョーノは話の行き先をハナに任せた。
老婆は話し相手ができたのが嬉しいのか、段々と表情も豊かに、火がついたように喋り出す。二十年前に夫と死に別れ、以来ここに住み続けているのだと話した。
「一人暮らしにも、慣れたものよ」
ハナは「へぇ〜」と相槌を打つと、次の話題に移すように「ところで……」と室内を指差す。
「あの写真に写っているのは、お子さんですか?」
チョーノは少し首を動かしてそちらを見る。玄関の靴箱の上にアクリルの透明な写真立てがあって、角の欠けた古い写真が一枚、入っていた。
そこには目の前の老婆が、まだ髪も黒く、肌にも艶のある姿で写っていた。背景の空に近い、水色のシャツに白いパンツ。しゃがみこんで、小さな男の子を抱えるようにして笑顔で写真に写っていた。とはいえ、『お子さん』は言い過ぎだろう、とチョーノは思う。しゃがむ老婆の前に立つ、赤いシャツを着て微笑む子どもはようやっと二本の足で立つ事を覚えた一、二歳。老婆は若く見えるとはいえ、五十幾つといった風だ。
ハナはわかりきったお世辞を言ったのだ。本人に悪気は無く、嫌味でも無く。彼は公営団地の一階部分を占める古い書店でアルバイトをしていた。常連客は団地に住む老人が多く、彼らを喜ばせるツボをハナは知っていたのだった。
若く見られれば喜ぶに決まっている。ハナは「あらやだ、孫なのよ」と言って喜び、孫の自慢を始める展開を予想していた。しかし、その予想は大きく外れる。
老婆はあからさまに狼狽えた。口ごもり、視線をキョロキョロ動かして、扉を支える腕からは力が抜け、自然と室内に身体を引っ込める形となる。
ハナは焦った。「あの……一つ聞きたいんですけどね。202号室なんですけど……どんな人が住んでるのか、知ってます?」
老婆はハナを見た。その顔からは笑みが失せ、怯えた目で二人を見た。そして、ついにドアを閉めてしまった。
ーーバンッ
「あっ……」
虚しい声が、静かになった廊下に響く。しばらく二人は、黙ってその場に立ち尽くした。




