七月二十七日 水曜日 (3)
「ん? 何?」
「何って……お前が手渡すんだよ。じゃなきゃ意味ねぇだろ」
チョーノは五つ持っていたCDケース大の紙袋の内、一つをハナに手渡した。駅前のスーパーマーケットで買った、一つ五百六十円のクッキー。ハナはチョーノに説得されて渋々買ったそれを一つ受け取ると、101号室のインターホンを押す……その既の所で動きを止めた。
「なんて言ったらいいのかね……」
情けない顔でこちらを見るハナに、チョーノは呆れた顔で言った。
「『203号室に住んでる花山という者です。挨拶が遅れてしまってすみません。これ、ツマラナイモノですが良かったら食べてください。ところで、何とお呼びすれば良いのでしょうか。郵便ポストにも名前がありませんでしたし、表札も無いものですから』……とか。そんなとこだろ」
スラスラ並べられたセリフの要所要所を、ハナは掻い摘んで小さく口にした。「203号室に住んでる……挨拶が遅れてしまって……」やがて、意を決してインターホンを押す。チョーノは思った。(そんなに緊張せんでも……)
扉の向こうから『ピーンポーン』と聴き馴染んだ音がして、しばらくの沈黙が続く。
……。
「留守かね」
ーーピーンポーン
二度目の呼び出しにも反応しないことをもう数秒かけて確認し、二人は目を合わせた。
「留守だね」
ハナによるとこの部屋の住人は五十過ぎの会社員という話だった。もう夏休みだという学生のチョーノやハナとは違い、平日である今日は当然会社に行っていることだろう。同居人がいない可能性は強まる。チョーノは「次だ」とハナを促した。
102号室の前に二人は立つ。
ーーピーンポーン
…………数秒の間。
「おい、ホントに人住んでんのか?」
チョーノがそう言った時だった。向こうでドカドカと音がして、扉が乱暴に開かれる。
姿を見せたのは中年の男だった。歳は四十から五十、白いものが混じるぼさぼさの長い髪に髭。開かれた両目はいやに大きく、濁った白目がギョロギョロ動いた。上下灰色のスウェットにはあちこちに染みが浮き、手の爪の先は黒ずんでいる。部屋の奥では遮光性の高いカーテンがピッチリと閉められていて室内は暗く、テレビかパソコンか、ディスプレイから光が放たれているそこだけが明るい。男の足元にはゴミ袋が乱雑にいくつも転がっていて、時間差で異臭が二人を襲った。チョーノは顔色を変えずに息を止めたが、ハナは一瞬ムッと顔をしかめた。
「あの……203号室の花山といいます。……これ……ツマラナイモノなんですけど……」
おずおずとハナが紙袋を差し出すと、男はドアを支える右手とは逆の手で、むんずと袋を掴んだ。そして二人の顔をギョロ、ギョロと交互に見ると、軽く会釈してバタン! と強くドアを閉めた。
「……」
ハナは言葉にならない、と言った顔でチョーノを見た。肝心の名前を聞いていなかったが、彼はハナを責める気にはならず、首を横に振って次の扉に向かった。
三輪車が置いてある、103号室。
ーーピーンポーン
カチャリ、と小さな音がして、ほんの少し扉が開く。ピンと張るドアチェーンが目に入るものの、誰の姿も見えない事に二人は面食らった。(勝手に扉が……⁉︎)そんな風に思っていると、視界の下の方でコソリと動くものが目に入る。
それは、小さな男の子だった。整ったサラサラのおかっぱの下で、ビー玉のような二つの目が二人を見上げている。
「こんにちは」相手が小さな子どもと見えて緊張もなくハキハキと話せるハナは、首を傾げて対子ども用笑顔で言った。高校時代からアルバイトで接客を続けてきた経験がここで活かされる。「お母さん、いるかな?」
男の子は警戒を解かない表情でフルフルと首を振った。小さなおちょぼ口は閉ざされたまま。
ハナはチョーノを見た。チョーノには子どもがニガテだ、という自覚があった。ハナ以上に子どもとうまくコミュニケーションを取れる自信は全く無く、腕を組んだまま言葉は無しに、表情と首を振る仕草でそれを伝えた。
「これ、クッキーだから。俺、上の部屋に住んでる花山、って言うんだけど。お母さんとお父さんと、よかったら食べて」
男の子は紙袋とハナの顔を見た。そして小さな口を開けると、舌足らずな、それでいて聞き取りやすい声で言った。
「しらないひとに、たべものをもらっちゃいけませんって、ママゆってた」
言い終えると、静かに、ソロソロとドアを閉めた。
ーーパタン
ハナは泣きそうな顔で振り返った。
「……次。上」
名前どころかまともなコミュニケーションも取れないままに、一階を後にして二人は階段を昇った。




