七月二十七日 水曜日 (2)
まずチョーノが思ったのは、(『裏野』って書くのか)ということだった。
『裏野ハイツ』は大学のある最寄駅から二駅移動した所にあった。電車の中で「1LDKで四万九千円」と聞き、チョーノは驚いた。ここいらの相場だと、七、八万といったところである。
「イワクツキってやつだろ、そこ……」
顔を歪めて言うチョーノの言葉に、ハナは言葉を並べて反論した。彼は今年の春、不動産屋で「ここいらで目一杯家賃の安いアパート」というオーダーで物件探しをした。そして勧められたのが裏野ハイツ。五万円を切る家賃に風呂・トイレ別、不動産屋曰く駅から徒歩七分とのことだったが、築三十年の古い木造アパートで外見があまり良くないことに加え、その建物は勾配の強い五十メートル強の坂道の上にあった。先ほどの電車を待つ少しの間で『ハイツ』と『アパート』の違いを調べていたチョーノはその話を聞いて納得する。その建物の名付け親がちゃんとその意味を知っていたかどうかはわからないが、『ハイツ』とは高台にある集合住宅を意味する言葉だ。
「なるほど、一長一短あるってわけね」
「イッチョーイッタン?」
「良いとこもあれば悪いところもある、ってことさ」
陽が少し傾いて涼しい風が吹くようになったとはいえ、日中熱をいっぱいに吸い込んだアスファルトはまだしばらく冷えそうになかった。途中のコンビニでペットボトルの飲み物とアイスを買った二人は手の甲で汗を拭いながら歩き、その坂道の麓までたどり着いた。
チョーノは古アパートを恨めしげに睨み思った。四万九千円でも住まねぇな、と。
長い坂道を登りきったハナは肩で息をする。チョーノも運動経験が長かったとはいえ、一年とちょっとのブランクと疲労を感じため息をつく。
そして、初めて『裏野ハイツ』という言葉を文字で認識したのであった。
「ほら、これ」
ハナがそう言って指差したのは、壁に取り付けられた赤黒い郵便ポストだった。所々塗装が剥げ、錆びが覗いたそのポストは上下三つづつの扉が付jき、それぞれには「101」から「203」まで数字が振られている。
外見からでもすぐ分かったが、そのアパートには六つの部屋があった。
「ここが俺の」
そう言ってハナは「203」とある扉を開く。ジャッ、と金属の擦れる音がして、中に何も入っていないことを確認すると閉めた。
確かに、そこには誰の名前も無い。
チョーノは裏野ハイツ周辺を観察してみることにした。視線はそのままに、三歩後ろに下がって建物全体を見る。建物の壁面はーー元は白かったのだろうか、いまや経年劣化で黄ばんでいる。表面は鮫肌のようにざらついていて、細かに、斑らに黒い汚れが付着している。ひび割れの跡が、稲妻のように走る。その線をなぞるように補修がしてあって、そこだけハッキリと真っ白だった。彼はそれを、墨で描いた絵のようだと思った。黒い雨が降りしきる中、一つ落ちる大きな雷。
建物に近付き、細部も観察する。屋根から地面に向かって下りる排水パイプは地面に接するところでひしゃげている。車か何かに踏まれたのか、口を開けたアヒルのくちばしのよう。基盤であるところのコンクリートは黒ずみ苔が生え、割れ目からは雑草が伸び、蟻が列をなして歩く。二階に続く階段も郵便ポスト同様に錆びが浮いている。手摺を掴んで登れば、公園の鉄棒で遊んだ後のように鉄の匂いが手に染み付くだろう。
汚れ、くたびれた建物だった。染み付いた汚れや住み着いた小さな生命体が、その建物が長年ここに在り続けた歴史を感じさせる。
「なんか分かった?」
「いや……」
二人は揃ってドア側に回った。一階右手から『101』、『102』、『103』。
『103』のドアの前には、薄汚れた原色使いの小さな三輪車が置いてある。
「子どもが居る、って?」
「103号室には子どもとその両親が住んでる。小っちゃい子だったからまだ三、四才……そんくらいの男の子さ。両親もまだ若い」
「102は?」。扉を指差し言った。
「あまり印象ないけど……ゴミ捨てしてるとこを一回見たくらいで。太ったおじさんだよ。101はサラリーマンで、五十いくつ、ってとこかな。一限がある日、朝早く外に出ると会うんだ。挨拶してくれるから、俺も『おはようございます』って」
「一人暮らし?」
「奥さんは……いんのかなぁ。見たことないけど」
「結婚指輪してなかったか?」
「そこまでジロジロ見れねぇよ!」ハナは焦ったように言った。『名前も知らない』と言っていた通り、ご近所付き合いは本当に一瞬の挨拶程度らしい。
「203がお前の部屋だっつったな?」
チョーノの関心は二階に移った。
「そう。201がおばあちゃんが住んでる部屋で、多分一人暮らし。202は誰が住んでるのか見たことなくて……でも物音すっから誰かいんだよ」
呆れきった様子を隠さず言った。「ハぁ? 隣の人見た事無いってぇ?」
「う、うん」。ハナは動揺を隠せなかった。「102の人と同じで、引きこもってんだよ」
「そもそもまず引っ越してきた時に『これツマラナイモノですがー』っつってお菓子配って挨拶するじゃんか」小箱を手渡すジェスチャー付きでチョーノは言った。「そん時顔見なかったの? 上下左右の部屋くらいにはするだろ? フツー」この部屋数くらいなら全て回ったっていいだろう、と彼は思う。
しかし、ハナは思わなかった。「……するの? フツー」
「するよ……」チョーノは肩を落とす。そして、改めて全ての扉を一つづつ見やった。
表札のようなものは、確かに一つも見当たらない。
「行くぞ、スーパー。どこにある?」
「スーパー?」ハナはチョーノの唐突な言葉が理解できなかった。「腹でも減ったの?」
「買い行くんだよ。ツマラナイモノ」
そう言うと、チョーノはポケットに手を突っ込んで歩き始めた。ハナはそれを追いかけ、二人はつま先に力を込めながらゆっくり坂を下りた。




