第八話 同居人との試験勉強
「誰だ、お前えぇぇぇぇぇぇっ!!」
それが、深山さんの『素』を初めて目の当たりにした孝広の第一声だった。
いまは放課後、場所は堀口家の玄関。
あのあと、やるなら少しでも早いほうがいいとの孝広の言葉を受けて、さっそく今日から勉強会を開くことになった。
当然、僕と孝広、天宮さんは制服姿だ。
深山さんだけは、白いブラウスに長い丈のデニムスカートという普段着に身を包んでいる。
理由は説明するまでもない。彼女だけ、先にひとりで家に帰ったからだ。
そして、二人を家に連れてきた僕を出迎えてくれたのも、当然、『素』の性格に戻った深山さん。
ちなみに、勉強する場所がここになったのは、その深山さんの希望があったからだ。
まあ、それは当たり前。どこで学園の生徒と出くわすかわからないのだ、ダブルデートしようってわけじゃないんだから、彼女としては可能な限り外になんて出たくないに決まってる。……う~ん、こういうと深山さんが引きこもりかなにかみたいだな。
それはそれとして、いきなりの大声に耳を塞いでしまっていた両手を下ろし、僕は孝広に抗議の声をあげる。
「孝広、いきなり『誰だ』はひどいんじゃないか?」
「いや、だってよ! いくらなんでも別人すぎるだろ、深山! いや、もちろん家と学園とで性格違うって事前に聞かされてはいたし、別に怪獣っぽい姿に進化したわけでもねえけどさ。むしろ退化した感すらあるんだけどさ。なんていうか……こう、まとっているオーラが違うっての?」
「オーラって……。いやまあ、孝広の言いたいこともわかるんだけどね。実際、初めて彼女の『素』を見たときは、僕も本当の彼女の『素』はどっちなのか、正直、判断つきかねたから」
「だよなっ!?」
さすが親友、とばかりにグッと肩を掴まれた。そんな孝広に怯えたように僕の背後で縮こまってしまっている深山さんからは、悲しげな声。
「そ、そんなぁ……。堀口くん、ひどい……」
ごめん、深山さん。
でも実際、戸惑うんだよ、その唐突な性格の変化を目の当たりにするとさ。
「まあ、とりあえず孝広も天宮さんも上がって。……ほら、深山さん。ここは深山さんの家でもあるんだから、もっと堂々としてようよ。先頭歩くくらいでもいいんだよ?」
ぶんぶんと首を横に振る彼女。
う~ん、まさかここまで孝広たちに怯えた反応を示すとは……。
まあ、十中八九、いきなり孝広が大声上げたのが原因なんだろうけど。
二人の人となりは知ってるんだから、じきに彼女もいつもの状態に戻るだろう。
学園での『いつもの』深山さん、ではなく、家での『いつもの』彼女に。
内気で、恥ずかしがり屋で、控えめで、穏やかな深山綾に。
とはいえ、やっぱりすぐにとはいかないから、僕の後ろを歩くのは孝広になった。
「久しぶりに遊びにきたな~、お前の家。親父さんは元気か?」
遊びにきたわけじゃないだろう、と突っ込みたいのをグッとこらえる。
「元気だよ。ここのところ、仕事が忙しいみたいだけど。あ、それは義母さんも同じだけどね」
「義母さん、か。もうすっかり、この家になじんでるんだな、深山のおふくろさんも」
「ぶっちゃけ、やってきてわずか数分でなじんでた」
苦笑混じりにそう返す。
でも実のところ、それは僕にとって誇りのようなものになりつつあった。
客観的に見れば、そう簡単には『家族』になんてなれないはずの、僕たち四人。
なのに、乗り越える問題すらほとんどなく、僕たちは『家族』になってしまえたんだ。
いまでは、あの人が本当の母さんだったら、なんて思うことだってある。……もちろん深山さんとのことがあるから、心からそれを望んだことは一度もないけど。
それでも間違いないのは、そう思えてしまうくらい、僕たちは『家族』として上手くやっていけているということ。
まあ、深山さんとのことが明るみに出たとき、どんな反応をされるかが、ほんのちょっとだけ心配というのはあるけれど。
二階に上がる階段に足をかけたところで、天宮さんから声をかけられる。
「そういえばさ、その深山さんのお母さん、今日は……いるのかな?」
「いないよ? さっきも言ったとおり、ここのところは仕事が忙しいから」
「だよね~……」
ホッとしたような、がっかりしたような、その両方が入り混じった複雑な表情を浮かべる天宮さん。
目線だけをそちらにやった孝広の表情も、負けず劣らず複雑そうだ。
一体なんなのかと気にはなったけれど、まさか桜井たちのように『裏の用事』があるとも思えない。……あるいは単に、僕が思いたくないだけなのかもしれないけど。
そんなわけで、二人の謎な反応は、とりあえず見なかったことにして僕の部屋へ。
「さてさて~、堀口くん秘蔵のエッチな本はどこに隠してあるのかな~っと」
入ってすぐ、ツインテールを振り回しながら僕の部屋を見回す天宮さん。
それに孝広が呆れた声を漏らす。
「美月、初めてオレの部屋に入ったときも同じようなこと言ってたよな……」
「うわ、そうなんだ……。――言っておくけど、そう簡単にバレるようなところには隠してないからね?」
「ほほう、持ってはいるんだ? その口ぶりからすると」
「そりゃ、一応は健全な男子ですから」
なんでもないことのように返す。
しかし、内心ではドキドキだ。なにしろ、ここには深山さんがいるし、そのテの本を隠し持っているのだって事実なのだから。
頼むから、本腰入れて探し始めたりはしないでよ、天宮さん。
そんな祈りにも近い僕の思いを察してくれたのか、深山さんが話を逸らしてくれる。
「天宮さん、東雲くんの家にお呼ばれしたこと、あるんだ……」
「あっ……と、それは……」
「ま、まあ、呼んだな……」
照れている、とは少し違う感じでうろたえ始めるカップル一組。
なんだろう、つき合っているんなら家に呼んだり呼ばれたりなんて、当たり前のことじゃないのか?
まあ、同じ家に住んでいる僕たちにはわからない感覚が、二人にはあるのかもしれないけど。
と、天宮さんにとって形勢不利な話題になったからなのか、彼女が早々に話の矛先を変えにかかる。
「そういえば、深山さんがこうやってちゃんと話をしてくれるの、なにげに今日が初めてじゃない? ちょっと感激~!」
「そ、そう……? 昨日の放課後に――」
「あれはもう、深山さんであって深山さんじゃないって。虎と子猫ぐらいは違うね! 同じネコ科なのにさっ!」
「そ、そこまで? 喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか……」
「喜ぶべきだって! 本当にこっちが『素』だっていうんなら、すっごく友達になれそうだし! というわけで、深山さんなんて他人行儀な呼び方はやめ! 今日からは綾ちゃんで!!」
「あ、綾……ちゃん?」
ちょっとだけ困惑ぎみに、でも満更でもない感じになる深山さん。
……って、天宮さんに先を越されたぞ、僕!
「でさでさ、綾ちゃん。実際どうなの? さっき、親が忙しいって堀口くんが言ってたけど、なら家で二人っきりでいる時間も多いんじゃない? 意識したりとか、する?」
「あ、あうう……」
あー、なんか深山さんの頭から湯気が出てきちゃったよ。
本当、女の子ってこういう話が好きだなあ……。
「大丈夫! 意識したとしても、なにもおかしいことなんかないって! だって一緒に住むようになったのはつい最近でしょ? そんなんで姉だ弟だって言われても……ねえ?」
それには恐ろしい勢いで同意する深山さん。
「うんうんうんうん! そうだよねっ! 意識するのは自然なことだよねっ……!」
「おおう! 予想以上の食いつきっぷり! よかったねえ、やっぱり脈ありっぽいよ? 堀口くん」
「あー、うん……」
脈ありっていうか、すでにつき合ってるんだけどね。……言わないけど。
それにしても天宮さん、今日は勉強をしにきたんだよな?
困ったことに、全然、始める体勢に移ろうとしないぞ。
一方、なんだかんだで、こういうところは真面目な孝広は、
「ところで明、この部屋、四人で勉強するには狭くねえか? テーブルもないし」
「……確かに。リビングのほうに移動しようか? いまは誰もいないわけだし」
それにもし、二人が義母さんに用事があるのなら、帰ってきたときにすぐわかるし。
そんなわけで、部屋から出て再び一階へ。……ああ、無駄足踏ませちゃったなあ。
ちょっとだけ落ち込む僕に、孝広が小さい声で話しかけてきた。
「しっかし、あれだな。オレはここに来るまで、明はさぞかし、窮屈な思いをしながら日々を過ごしているんだろうな、とか思ってたんだが……あの深山の様子を見た限りだと、そんなことは全然ないみたいだな」
「ああ、うん。……そりゃ、学園での深山さんだけを見ていれば、そうも思うよね」
ついつい忍び笑いで応じてしまう。
ちなみに、女子二人は楽しそうにおしゃべりに興じており、こちらの会話が聞こえている様子は微塵もない。
あの二人、思っていたよりも相性がいいようだ。よかったよかった。
……深山さんが僕に抱いている感情を天宮さんが否定しなかったのが、一番大きいのかな、やっぱり。
やがてリビングに到着し、四人でテーブルにつく。
僕と深山さんは定位置に、孝広は僕の前で、天宮さんは深山さんの前に。
「さて、それじゃあ始めようか」
その僕の言葉にうなずき、天宮さんが口を開く。
「うん! それで正直なところ、堀口くんは深山さんのこと、どう思ってるの?」
「いやあの、僕の言った『始めよう』ってのは――」
「皆まで言うな! わかってるから! わかっていて、けれど、それでも訊きたいのが乙女心なんだって!」
「そう言われても……」
困ってしまい、深山さんに目配せを送る僕。まだアイコンタクトが通じる仲ではないけれど、一応、『どうする?』という意思を込めてみた。
やはり彼女も困惑している様子。絶対にバラさないでって感じではないけれど、積極的にバラしてほしくもないってところか……?
まあ、僕だってバラしたいような、バラしたくないような、ものすごく複雑な心境だもんな、いま。
助け舟、というわけではないのだろうけど、そこに孝広が割り込んできてくれた。
「美月、とりあえずいまは勉強しようぜ。家に帰ったら、二人して遊びかねないし」
その言葉に、なにか引っかかるものを感じる。
しかし、そう思ったのは僕だけだったようで、
「う~、それは確かにそうかも……。あ、じゃあさじゃあさ、携帯の番号とメルアドを交換しておこうよ、綾ちゃん! 積もる話はそれでしよう! それだったら、いまは勉強に集中できるからさ!」
「……ごめんなさい。携帯は、まだ持ってなくて」
「まだ? じゃあ、近いうちには買う予定あり?」
そこで深山さんは、なぜか僕のほうをチラリと見て、
「……うん。わからないことだらけだから、一緒に行ってもらえたらって……思ってる」
ああ、なるほど。そういうことか。
もちろんつき合うとも。というか、デートに誘う口実になるんじゃないか? これって。
「いいよ。じゃあ今度の……って、どうしたの? 天宮さん」
「う~ん、なんかさ、会話の内容が恋人同士のそれっぽく感じられたんだよね。……でもまあ、一緒に住んでるんだからそんなものなのかな。あたしと孝広くんのときだって、割と最初のうちから、そんな会話してたわけだし」
「ちょい待ち、天宮さん。なにその『最初のうちから』って。その言い方だと、まるで……」
まるでこの二人も、僕たちと同じく同居している印象を受ける……ような?
「あー……、やっちまったな、美月」
「うん、大失態……。意外と口って滑っちゃうものなんだね、孝広くん」
「……だな」
なんか、僕の言いかけたことを認めるような反応。
え、本当に……?
「い、一体いつから!?」
「まあ、落ちつけ明。ええと……うん、お前たちとそこまで変わらないと思うぞ? お前たちよりかは、ほんのちょっとだけ早かった……くらいか?」
「でも、一緒に暮らしている上に、つき合ってるんだよな? なんというか、おばさんとかは知ってるのか? 知ってて同居を認めてるのか? それってもう、同棲って言わないか!?」
「だから落ちつけというに。……親父とおふくろには内緒にしてるんだよ。うちの親は寛容っつうかなんつうか、とにかく問題にはしなさそうだけど、やっぱり隠しておいたほうがいいだろうってことになってな」
まあ、そりゃそうだろうさ。
僕たちだって『なんとなく』くらいの理由で隠してるんだから。
なんというか、認められなかったときの『万が一』を考えちゃうんだよな……。
と、異常なまでに共感しているのが態度でバレたのだろう、孝広に怪訝そうな目を向けられる。
「どうした? 頭には『まだ』がつくのかもしれないけど、お前たちはつき合ってるわけじゃないんだろ? 親に隠すことなんてなにひとつないんだから、気楽なもんなんじゃないのか?」
その言葉に再度、深山さんと視線を重ねてしまった。
期せずして向こうの秘密を知ってしまったのだから、こっちのことも明かすのが筋……なのだろうか?
僕は彼女に、うなずきをひとつ返す。
それに、ちょっとだけ身体をこわばらせる深山さん。……まあ、本当に嫌だったらなりふり構わず止めようとするだろうし、大丈夫だろう。
「いや、さ。実は……僕たちもつき合ってるんだ、これが……」
「マジかよ、おい!」
「うわ~っ! そうだったんだ! ついに念願成就って感じなんだね、綾ちゃん! おめでとう!!」
大きな声で驚く孝広と、深山さんを祝福する天宮さん。
深山さんも小さく「あ、ありがとう」と礼を言う。
「でも……表向きは姉と弟、だから。いまは隠してつき合ってる、の……」
「そりゃ、隠さなきゃマズいだろうよ。オレたちとはかなり事情が違うんだから……」
「そうは言うけど孝広くん、こういうのって抑えきれないものだよ? 孝広くんにだってわかるでしょ。この場合、姉弟として仲良くしろって言う周りの大人にこそ、問題があると思うんだけどな、あたしは」
「まあな。でも世間体っていうものもあるだろうし……。明、とりあえず、しばらくは隠したままで上手くつき合っていけよ。こっちと違って、かなり難儀な状態なわけだからな」
「うん、そうする……」
少し姿勢を正してうなずく僕に、どこか納得したように孝広が続けてきた。
「しかし、そっかあ。道理で学園では話もしてなかったわけだ。いやな、姉弟になったんなら学園での会話も自然と増えるんじゃないかって思ってたんだけど、なのに全然そうはならなかっただろ? 二人とも。
だからさ、そこが少しだけ疑問だったんだ。まあ、実はつき合ってましたってんなら、そりゃ、ボロが出ないよう会話も控えようってなもんだよなあ」
「ああ、今日の昼までの僕と孝広たちみたいに?」
深山さんの出した答えを僕が聞くまでは、お互い、関わりあいにならないよう心がけていたことを思いだす。
「そうそう、あんな感じ。あとは……同居が決まった翌日のオレと美月も、学園では互いに意識するあまり、ついつい距離とっちゃってたし」
「あったね~、そんなこと~」
ちょっとだけ懐かしそうに同意する天宮さん。
しかし僕としては、
「そんな感じの日なんてあったっけ? 記憶にないなあ……」
「あったんだよ。桜井には『今日は天宮と全然話さないんだな。どうかしたのか?』とか言われちまったし。あいつ、カンが鋭いからな~。明も学園では充分、注意しとけよ?」
「了解。まあ実際、要警戒対象だよね、桜井たちは」
なんせ、魔道士たちと同じ、裏の世界の人間だっていうんだから。そんなの、カンが鋭くないとやっていられないのだろう。
それにしても、なんかすっかり『勉強会』って雰囲気じゃなくなってしまった。
天宮さんは深山さんに興味津々な視線を向けているし、僕だって、こうなった以上はそれも無理からぬこと、と思ってしまっているし。
「それで、二人はどこまでいったの? 手は繋いだ? デートには行った? キスはした? あ、もしかしてもう、行きつくところまで……?」
「そ、そ、それは……」
天宮さんの質問攻めに、ぐるぐると目を回し始める僕の彼女。
代わりに僕が、できるだけ平静を装って答える。
「進展は……あんまりしてないかな。キスはしたけど、正直、ちょっとアレなことになっちゃったし……」
言いながら、唇をペロリと舐める。ああ、やっぱりまだ傷口は塞がってないか……。
「うん、なに? もしかして、舌入れようとして拒否されちゃったとか?」
「してないから! そんなこと、まだしてないから!」
まったく、なんてことを言いだすんだ、天宮さんは。
ともあれ、報復というつもりはまったくないけど、こちらからも孝広に尋ねてみる。
「そっちはどう? 天宮さんじゃないけど、行きつくところまでいっちゃったりとかしてる?」
それにしばし、孝広は黙り込み、
「……ノーコメント」
「孝広、こういう状況に置けるノーコメントって、イエスとほぼ同じだぞ?」
「わかってるって、そのくらい。それでも、大っぴらに言うようなことじゃねえだろ?」
まあ、それはそうなのだけれど。
しかし、そうかあ。
二人とも積極的な性格してるから、もしかしてとは思ってたけど、もうそこまでいってるのかあ……。
見れば、孝広の隣の天宮さんは、顔を真っ赤にしてうつむいてしまっていた。元気いっぱいで明るく、健康的な彼女しか知らない僕には、その姿がとても意外で珍しいものに感じられる。
そこで話もようやくひと段落。四人で勉強を開始する。
もっぱら、深山さんが教える役に回り、僕たち三人が教えてもらう感じ。
孝広と天宮さんは「女神が降臨なされた!」と、僕たちが思わず引いてしまうほどの感激っぷりを見せていた。孝広の成績が悪いのは知ってるけど、天宮さんもそこまでヤバかったのか。教室での自己申告にはてっきり、誇張が入っているものだとばかり……。
もちろん、教科によっては僕が教える側に回ることもあった。けれど、それはあくまで孝広と天宮さんに対してのみ。
孝広と天宮さんが教えあう場面もあった。それにちょっとだけ『羨ましいな』って気持ちが湧いてしまう僕。
正直、深山さんに勉強教えるとか、僕じゃ絶対にできないからなあ……。
麦茶を淹れる、と深山さんが席を一度外したところで、休憩タイム。
彼女がキッチンに姿を消すやいなや、天宮さんがバッタリとテーブルに突っ伏した。
「こ、こんなに勉強したの、久しぶりだよ……」
「ああ、美月はよく頑張った。ぶっちゃけ、オレもしんどいし……」
そう言って、孝広も天宮さんと同じようにする。
「頭いたぁ~いっ! なんで試験なんてものがこの世にあるのかなあ! あるのかなあ! あたし、試験って昔から大嫌いなんだよう!」
とりあえず、これだけわめけるんだから、家まで帰る体力は残っているだろう。
仮に残っていなくても、同じ家に住んでいるんだから、最悪、孝広に任せればいいし。
「……お待たせ。麦茶、持ってきたよ」
麦茶を四つ乗せたお盆を持って、深山さんがキッチンから戻ってきた。
「ありがとう、深山さん」
「……ん。はい、天宮さんたちも、どうぞ」
ひとつずつ、テーブルの上に置いていく。
「ありがとう、綾ちゃん! あ、それと、あたしのことは美月って呼んでもらえないかな?」
「えっと、いきなり呼び捨ては、ちょっと……。……あ、美月さん……でも、よかったら……」
「もちろんいいって! ありがとう、綾ちゃん!」
感極まったのか、深山さんに抱きつく天宮さん。
「ちょっとちょっと……」
突然のことに深山さんが嫌がるのではないかと、苦笑混じりに天宮さんに声をかける。
しかし、それは天宮さんのニヤニヤという笑みに迎え撃たれた。
「ふっふ~ん、悔しい? 堀口くん、悔しい? 悔しかったら綾ちゃんのこと、名前で呼んでみなさいっ!」
「いや、別に悔しくなんてないからさ」
……嘘だけど。
先を越されたって、ずっと思ってるけど。
「でも実際さ、つき合ってるんなら名前で呼ぶくらい、してあげてもいいと思うよ? ねえ? 綾ちゃん」
「それは……うん、まあ……」
「ほ~らっ! というわけで、呼んでみそ?」
黙りこんでしまう僕。
だって、突然だし慣れてないし、なにより、二人がいるのに名前で呼ぶなんて、恥ずかしいし。
でも、名前で呼びたいって気持ちも、確かにあるんだよな……。
なにを思ったのか、天宮さんは次に、自身の腕の中にいる深山さんに顔を向けて、
「じゃあ綾ちゃん! 綾ちゃんが先に名前で呼んであげれば? こういうのはさ、どっちかがやらないと進展しないって!」
……あ、こうみえて、少しでも僕たちの仲を進展させようとしてくれてるのかな、天宮さんは。
深山さんが顔を赤くして、ぽそっとなにごとか呟く。
「それじゃあ聞こえないって、綾ちゃん! ほら、ワンモアプリーズ?」
その言葉に、さらに頬を紅潮させる深山さん。
ああ、困ってる。あれは絶対に困ってる。
一体どうやって断ったものか、いや、そもそも断っちゃいけないんじゃないか、なんてことを必死になって考えてるとみた。
とりあえず、二人の間に物理的に割って入って、深山さんをこの手に取り戻す。いや、そのくらいの強引さがないと現状は打開できそうになかったから、つい。
「おおっ! いいねいいね! 男たるもの、ときには強引さも必要だよ? 堀口くん」
「でも、強引ばかりでもいけないと思うんだ、僕は」
静かに火花を散らす僕と天宮さん。
「なるほどなるほど。いやはや、まったくもってそのとおり。――孝広くん、ちょっとだけ耳が痛いでしょ?」
「いや、別にぃ……?」
嘘つけ、ちょっとだけ声が裏返ってるぞ、孝広。
「てかオレ、そんな強引に美月に迫ったことねえし!」
「そう思ってるのは本人ばかりなり。……なんて冗談だってば、冗談。孝広くんは優しいって。本当に」
「お前な……」
嘆息する孝広。
でも二人とも頬は緩んでいて、なるほど、これが『恋人』というものか、なんてことを思ってしまった。
そして、カップル二組で試験勉強に精を出す日々が過ぎていく。
ときに孝広と天宮さんのバカップルぶりをみせつけられたり。
ときに天宮さんの勉強嫌いに、驚きを通り越して辟易させられてみたり。
そしてときには、天宮さんと楽しげに話す深山さんの表情に『ああ、やっぱり彼女も本心では、友達と楽しく過ごせる毎日を望んでいたんだろうな』なんて思ってみたり。
そんなふうに、平和に、穏やかに、時間は流れていった。
そしてやってきた、試験前日の夜。
試験の一週間くらい前からは深山さんによる魔術講座もお休みとなり、二人で試験勉強のほうを進めていた。
でも夕方に四人でそこそこ真面目にやってるし、深山さんにはなにも教えることなんてないしと、自然、雑談のほうが増えていってしまい……。
「なんというか、孝広たちって息ピッタリっていうか、相性いいっていうか、なんか、一緒にいるのがすごく自然だよね」
「うん。二人とも積極的で、フレンドリーだから、なのかな」
「かもしれない。……そういえば、前に二人が一緒に学園を休んだことがあってさ、あのときは僕てっきり、その日だけ天宮さんが孝広の家にお邪魔してたんだとばかり思ってたんだけど」
「そうじゃなくて、そのときにはすでに一緒に暮らしてたんだね。……一緒にいるだけで楽しい関係って、ああいうのをいうのかな」
例にもれず、今夜の僕たちもこんな感じだった。
「……僕は、深山さんと一緒にいるのも、すごく楽しいけどね」
気恥ずかしさに目を逸らしながら、呟くようにそんなことを言ってみる僕。
目を戻してみれば、やはりというか、深山さんは顔を真っ赤にしてうつむいてしまっていた。
あの二人に比べれば、僕たちの交わす言葉は、きっとすごく少ないのだろう。
それでも、僕は彼女と一緒に過ごす時間を、かけがえのないものと感じられている。
でも、深山さんのほうはどうなんだろう、と少しだけ不安に駆られ、僕は彼女の顔を覗き込んでみた。
「うん。わたし、も……」
ぽそり、と返事が返ってくる。
流れる時間もゆっくりになってしまったかのような、ちょっとだけぎこちなくもある会話。
でも、それを心地いいと感じる。
ああ、けれどやっぱり孝広たちみたいに、じゃれあうような言葉の応酬もしてみたい。
そのためには、やっぱり僕のほうから距離を縮めなきゃダメなのだろう。
ヒントなら、何度となく孝広たちからもらっていた。
それに、深山さんにもそれを期待している節はある。鈍感なほうである僕が気づけるくらいなんだから、これはもう間違いない……はず。
だったら……勇気を振り絞って、やってみるべきだろう。告白のときは深山さんが勇気を出してくれたんだから、そのお返し的な意味でも。
でも、どうやったものだろうか。どんな形であれ、やっぱりきっかけめいたものがほしい。
そう、形から入るってわけじゃないけど、精神的な距離を縮める前に、まず身体的に近づいたほうがいいんじゃないか、とか思ってみたり。
もちろん、下心ありありの思考回路だって、自分でもわかってるけど。
そんなわけで、緊張でガチガチになりながらも、精一杯さりげなくみえるよう、会話を続けながら彼女の後ろに回っていき。
そっと、包み込むように、彼女を後ろから抱きしめた。
「――あっ……」
とても小柄な深山さんだから、その身体は、ほとんどが僕の腕の中に納まってしまう。
腕の中には、彼女のやわらかい感触と、いい香り。
それを感じられることをとても嬉しく思いながら、抱いた腕に少しだけ力を込める。
ちょっとだけこわばる、深山さんの身体。
「と、突然どうしたの? 堀口くん……」
驚きと戸惑いを隠せないその声に、詰まりそうになりながらも、僕は必死に言葉を絞りだす。
「……明、だよ。――あ、綾……」
振り向いた彼女の顔には、より濃い驚きの色。
けれど、僕が勇気を振り絞った甲斐はあった。
数秒してから、深山さんがぱあっと表情を輝かせてくれる。
「……! ……うん。 明、くん……」
同時に彼女の身体から抜けていく、余計な力。
よかった。背後から抱きしめて、もしも拒否されたらって不安が、僕の心の中には常にあったから。
だから、拒まれなかった現実に、どうしようもなく安堵する。
と、深山さ――いや、綾が完全に身体から力を抜いて、僕のほうにもたれかかってきた。
そして、呟くように一言。
「明、くん……」
「ん? なに?」
「……呼んでみたかっただけ。ふふっ」
そんな言葉に思わずニヤけてしまう僕。
気恥ずかしさをごまかすため、つい回した腕に力を込めてしまった。
それから、僕のほうからも彼女に呼びかける。
「……綾」
「なに? 明くん」
「……呼んでみただけ」
「ふふっ、わたしとおんなじだ」
第三者が聞いたら、きっと呆れてしまうことだろう。
でも、そんな気恥ずかしいやりとりが、どうしようもなく楽しくて。
こちらを向いている綾の表情も、とてもとても嬉しげで。
ああ、この娘はこんなふうにも笑うんだ、なんてことを思ってしまった。
端から見れば、バカップル以外のなにものでもない。そんなやりとりを何回も繰り返す。
そうしているうちに、綾の顔が、僕の吐息がかかるくらいの距離にあることに、遅まきながら気がついた。
嫌がられないかな、という不安を抱くよりも早く、彼女に口づけてしまう僕。もちろん、今回は顔を傾けることも忘れずに。
「んっ……」
ちょっと声を漏らすだけで、綾はそれを受け入れてくれた。
みずみずしくもやわらかい、彼女の唇の感触。
全身を熱くしながら、その心地いい感触を堪能する。
そこで、ふと天宮さんのセリフがフラッシュバックした。
――もしかして、舌入れようとして拒否されちゃったとか?
拒否……されちゃうかな、やっぱり。
僕だって、口の中に他人の舌が入ってくるとか、どう考えても気色悪いだけだろうし。
でも、他人のものだったらそうかもしれないけど、それが綾の舌だったらどうだろう。
少なくとも、気持ち悪いなんて思うことだけは、絶対ないはずだ。
だったら、あるいは綾も……?
いやいや、同じように考えちゃダメだ。
僕は僕で、綾は綾。
それは恋人という深い関係になっても変わらない。
僕たちは、同じ人間ではないのだから。
ああ、でも、それはわかっているのだけれど……。
――男たるもの、ときには強引さも必要だよ?
それも、天宮さんが言っていた言葉。
もちろん、自分に都合のいい解釈をしているだけなのでは、という不安は残る。
でも、綾からの了承が出るのを待つばかりじゃなく、自分から動いたほうがいいときというのも、やっぱりあるんじゃないだろうか。
そう、結果としてそれが、ちょっとだけ強引な行動になってしまったとしても。……もちろん、本当に彼女が嫌がるようなことをするのは論外だけど。
自分の中だけでそう結論づけ、少しだけ唇を離す僕。
「んぅ……?」
とろんとした瞳で、不思議そうに綾が僕を見つめてきた。
それは、僕にとってはとても危険な、上目遣い。
はやる気持ちを抑えて、彼女の唇をそっと舌で撫でるように舐めてみる。
「ふあぁっ……?」
ちょっとだけ驚いたように、綾が身をすくませた。
けれど、それも一瞬。
僕が予想もしていなかった、嬉しそうな微笑みを浮かべ、彼女のほうも僕の唇を舌でなぞってくる。
気色悪いだなんて、とんでもなかった。
まだ口の中に入れたわけでもないのに、とてもとても心地がいい。
「……ん、ちゅっ……」
押しつけあうように、お互いの舌を合わせる僕たち。
そっと絡ませ、口の周りが唾液でべとべとになるのもかまわずに、飽きることなく舌を動かす。
綾の目元がさらにとろんとしてきたところで、僕はそっと彼女の口の中に舌を入れていった。
まるで、ひとつになってとろけてしまうような感触。
あまりの気持ちよさに、どこか遠く、思考能力が落ちていくのを感じる。
「……ちゅっ……んんっ、はぁあっ……」
僕の舌にかかる、綾の、熱っぽい吐息。
それが興奮に拍車をかけた。
激しく動かし、口の中すべてを舐めまわす。その勢いはまるで、彼女の口腔を蹂躙しているかのよう。
やがて、頭が霞がかったようになっているのは、酸欠ゆえなのではと思いあたる。
それでも、一秒でも長く彼女とこうしていたくて、その危険信号を無視し続けた。
このまま死んでしまうとしても、これはこれで幸せな死因になるんじゃないかな、なんて馬鹿げた考えも浮かんできていたから。
けれど当然、身体のほうはそれを望んではいないらしく。
「――んんんんんっ……!」
息苦しそうに綾が身をよじると同時、
「――げふっ! げほげほげほっ……!」
僕のほうも唾液にむせて咳き込み、とうとう口を離してしまった。
とんでもなく苦しい。きっと、お互いに。
けほけほと咳き込む綾に、落ちついてから「ごめん」と謝る僕。
「つい、調子に乗っちゃった……。綾が積極的に受け入れてくれたのが嬉しくて……。大丈夫? 綾?」
「う、うん。大丈夫……。調子に乗っちゃったのは、わたしも、おんなじだから……」
頬を上気させた綾から恥ずかしげに返ってきたのは、そんな言葉。
嫌がるどころか、そんなふうに言ってくれるだなんて、思ってもみなかった。
がばっと綾をもう一度抱きしめなおし、僕はささやくようにお礼を口にする。
「――ありがとう、綾……」
「ううん、わたしのほうこそ……」
恥ずかしそうに、けれどそこで彼女は、ほにゃっとした笑顔になって、
「……わたしのほうこそ、してくれて……ありがとう」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
綾のことを、どうしようもなく『可愛い』と感じる。
これほどまでに彼女のことを『可愛い』と思ったことなんて、いままでなかった。
それくらい強く、それを感じる。
これからも、拒否されるんじゃないかって不安を抱くことは、きっと何度もあるんだろう。
そしてそれは、きっと一生なくならないんだろうなって、そう思う。
だって、僕は綾に嫌われたくないから。
こうして、ずっと一緒に生きていきたいと、思い始めているから。
でも、ちょっとくらいなら。
ちょっとくらいなら、つい強引にしてしまっても、失敗してしまっても。
綾なら許してくれるんじゃないかな、なんて。
そんなことを、彼女から『ありがとう』って言われて、初めて思えた。
だって、好きあってるんだから。
一度や二度の失敗で冷めてしまうことなんてないんだって、そう信じたい。
そもそも、失敗ならすでに何回かしてしまっていて。
それを全部、綾は許してくれているのだから。
うん、だから僕たちは大丈夫。
これからも、上手くやっていけるはずだ。
遠くない未来に、ちょっとした障害が存在していることは知っているけれど。
それも、覚悟さえ決まれば、二人で一緒に乗り越えていける程度のもの。
だから、いまはこうやって二人で絆を深めあっていこう。
いつかくる、その日のために。
――あとになって振り返ってみれば。
僕はこのときに、知らず願ってしまっていたのだろう。
密かに、永遠に続いてほしいとすら感じていた、『家族』の生活。
なにひとつ不満のない、ユメのような幸福な毎日。
それを、近い未来には終わらせたいと。
新たな『家族』の形を、この腕の中にいる少女と作っていきたい、と――。
さて、ちょっとだけ余談になるけれど。
試験のほうは四人とも、問題なく赤点を回避できた。
孝広と天宮さんの喜びようはすごかったし、それだけに僕がこのことを余談扱いにしたと知ったら、あの二人はきっと怒ると思うけど、そもそも僕と綾は赤点回避のために必死になんてなってなかったのだから、うん、これはやっぱり余談だ。
それよりも現在、僕の頭の中を占めているのは。
いよいよ夏休みに入った現在、携帯電話の購入を兼ねたデートのことを、どうやって綾に切りだそうかという、その一点のみなわけであって。
本当、どう言って誘ったらいいものなのやら。
そもそも、どういうふうに誘われるのが、綾は一番嬉しいのだろうか。
試験みたいに『これが正解!』という解答が存在しないあたりが、本当に難しいと感じてしまう僕なのだった……。