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第九話 同居人との初デート

 夏というのは暑いものだ。

 そもそも暑いから夏なのであり、暑くなければ夏ではない。

 いや、もちろん暑くない夏だってあるのだろう。

 でもそれは夏の自然な姿ではなく、いわば異常気象ともいえるものであって。

 だから、夏に暑さを感じられるのはいいことなんだ。幸せなことなんだ。……そうとでも思わなきゃやってられるかってんだ、こんちくしょうめ。


 うん、そろそろ自分でもどうかというテンションになってきたな。

 だからただ一言、僕の思う世の真実を呟こう。

 ああ、暑さのせいで思考のほうは支離滅裂。秩序というものがまるでない。でも仕方がないさ、夏だもの。

 それはともかく、これは僕の心からの叫びだ。

 え? 叫びなのに呟きなのかって? そんな細かいことは気にしない気にしない。

 そんなわけで。


「あぢぃ……」


 まあ、寝床から起きてきて、まず朝一番に呟く一言がこれっていうのは、我ながらどうなんだろうとも思うのですが。

 でも、率直に言って……。


 ――先生、冷たいシャワーが、浴びたいです……。


 本当、いい感じに頭のほうがヒートしてきた。ヒートアイランドだ。……うん、アイランドってつけた意味は特にない。ただつけたくなっただけ。

 いま冷たい水を被ったら気持ちいいだろうなあ。絶対に気持ちいいだろうなあ。

 でも集中力が切れまくっていて、魔術で水を出すとかできそうにないよ。できても温水とかが出てきそうな勢いですよ。


 だからシャワーを。

 いまこそ人類の発明品に頼るとき。

 シャワーを浴びてさっぱりすれば、シャワーはリリンの文化の極みだよって言えるくらい、回復できるに違いない。

 ……違った。回復したら言えるようになるのは、そういう類のことじゃないだろうに。

 でも熱に浮かされた頭じゃあ、正常な状態に戻ったときの思考なんて考えつかないのですよ、マイハニー。うん、ダーリンとでてこないだけ、まだマシだといえるだろう。……いや、マシか? 本当にマシなのか?


 ともあれ、暑さでぼーっとした頭のまま風呂場へ向かう。

 あそこに見えるはイッツ・シャワー! ……じゃないな、ただの脱衣所の扉だ。そもそも、イッツってなにさ。

 あ、でも、あれにへばりついていれば、少しは涼しくなれるかな? いやいや、そのすぐ先にシャワーがあるのだから、ちゃんとそちらを使おう。人間らしく。


 ガチャリ、と脱衣所の扉を開ける。

 ああ、その先にあるのは僕の心のオアシス!

 いや、比喩抜きでシャワーという名のオアシスが広がって……って、あー……。


「…………」


 うん、まあ、その、なんだ。

 心のオアシスって比喩のほうが、しっくりくるかな、この場合……。


「あ、あの、えっと……明、くん……?」


 だって、いま目の前に立っているのは、全身から水をしたたらせている深山さ――じゃなかった、綾なんだから。

 冷水をぶっかけられたように、僕の思考は瞬間冷却。

 弾かれたように後退し、慌てて脱衣所の扉を閉める。


「ご、ごめんっ!!」


 まさか先に綾が使ってるとは思わなかった。本当、全然予想していなかった。

 基本、綾は僕よりも早起きで、寝てるときにかいた汗が気持ち悪いからシャワーを浴びよう、という発想に至る確率も、僕よりずっと高いに決まっているのというのに。ああ、それなのに!


 しかも、だ。今回は彼女、バスタオルで身を隠していなかった。

 僕の頭がまだぼーっとしていたから、いまひとつ不鮮明な記憶しか残らなかったけど、それでも見ちゃった事実に変わりはないわけで。

 ああもう、今回は前みたいに『おあいこ』とはいかないぞ! 僕は服を着ていて眼鏡だってかけてるから、訴えられたら全面敗訴確定だ!

 だから、僕はただひたすら扉に向かって頭を下げる。許してもらえるまで、何度でも。


「ごめん! 本当にごめん! わざとじゃないんだ! 本当なんだ!」


 あ、間違っても、どうせならじっくり見ておけばよかった、なんて後悔はしていない。していないったらしていない。

 扉の向こう側からは、ただただ綾が呆然ぼうぜんとする気配だけが伝わってくる。しかし、それも僕が謝罪を繰り返すうちに、くすくすという忍び笑いに変わって。


「大丈夫。そんなに謝ること、ないよ」


「いやいや、そういうわけにはいかないって!」


「だって、恋人同士でしょ? わたしたち」


 いやまあ、それはそうなんだけど。


「それでもさ! 親しき仲にも礼儀ありっていうか! 悪いことは悪いっていうか!」


「別に、そこまで悪いことってわけでも……」


 その言葉に頭をあげる。……ほ、本当に怒ってないのか、彼女は?


「まあ、どちらが被害者かっていったら、紛れもなく今回は、わたしのほうってことになるんだろうけど……」


「ですよねーっ! ごめんなさいっ! 本当にごめんなさいっ!」


「あ、ご、ごめんなさい。いまの、わたしの失言……」


 いやいや、全然正当かつ真っ当な言葉でしたよ? 綾さん。

 心の中でそう突っ込みながらも、再び頭を下げまくる僕。綾は綾で、今度は困惑したような声音で、


「え、ええと……どう、しようか?」


 どうしようかって……。

 そんなの、僕に答えられるわけがない。

 だって、僕は彼女の下す裁決に全面的に従わなければならない身なのだから。


 あ、それともここは、減刑を訴えてもいい場面なのか?

 恋人同士なんだから、裸なんて見て当然。むしろ一緒に風呂に入ろうと提案したって許されるはずだ、と居直れと?


 ……嫌すぎる、そんな自分……。


 綾がそれを望んでくれているっていうのならまだしも、風呂上がりの姿を目撃したうえに、その姿に欲情するあまり一緒に風呂に入れと迫るだなんて、僕には絶対にできないし、したくない。

 ……あ、いや! 綾と一緒にお風呂に入りたくないってわけじゃないんだけど! むしろ本音では入りたいんだけど! 幸い、父さんたちはすでに仕事に出かけたあとなわけだし!


 ……って、いやいやいやいや! なにが『幸い』だよ! 思考が暴走してるにも程があるぞ、僕!

 と、そこで、なにやら考え込んでいた様子の綾が、「じゃあ……」と控えめに告げてきた。


「デート、一回……」


 もちろん僕は、どんな要求をつきつけられても喜んで従うつもりだった。彼女の性格と僕たちの関係性からして、親にだけは言わずにいてくれるだろうという楽観があったし、ひどいことは言わないだろうという彼女への信頼だってあったからだ。

 しかし、それでも。

 その要求は、僕にとっていくらなんでも……その、ご褒美すぎやしないだろうか。


「携帯電話、買いに行きたいから」


「うん、そのことは僕も、いつ切りだそうかって前々から考えてた。でもさ、それじゃ全然、罪滅ぼしにならないんじゃない? 僕にとっては嬉しいだけだよ?」


「それでも、明くんの時間をもらっちゃうことに代わりはないから。それに、二人とも嬉しいなら、それが一番だとわたしは思う」


「いい……のかなあ? 自分で言うのもなんだけど、僕は一度、ちゃんと綾からお仕置きを受けておくべきなんじゃないかと……」


 口をついて出てしまった不満の声に、なにを考えたのか、扉の向こうで綾が声のトーンをわずかに上げる。


「おっ……しお、き……? そ、それって、どういう……」


 うん、どんなことを考えたのか、なんとなく想像できる反応だった。でも僕はMじゃないから、そっち方面への期待はない。微塵もない。綾だってSじゃないだろうから、それで興奮するってことはないはずだ。……ない、はずだよね? 綾はどちらかといえばMだよね? 僕がどちらかといえばSであるように。

 ちょっと嫌な妄想が頭の中に広がってしまい、慌てて首を振って追いだす僕。


「いやいや、なんでも! ええと、じゃあ……こういうのはどうだろう! 見たんだから、相応以上の物を買わせてやる的な発想!」


「えっ……? わたしになにか、買ってくれるの?」


 聞こえてきたのは、期待に満ち満ちた声。喜んでもらえるのは嬉しいけれど、しかしそれ、僕はどうにも罰を受けた気になれなかった。

 だって、綾になにかプレゼントするのって、僕にとっても嬉しいだけだし。その機会をずっと狙ってすら、いたわけだし。


「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! もう本当、どうすればいいんだあぁぁぁぁぁぁっ!!」


「ええっ!? 明くんっ!?」


 頭をかきむしりながらしゃがみ込む僕に、心配そうな声をあげる綾。

 もしかして、こういったことが一向に『罰』にならないのは、綾が優しすぎるからなんじゃないかなあ。もちろん痛めつけてほしいわけじゃないけどさ、それでも、こう、罪人に相応しい処罰をっていうか……。


 ……うん、そうだな。裸を見ちゃった僕も悪いけど、全然『罰』にならない罰しかつきつけてこない綾も悪い。

 そう結論することで、この場は納めることにしよう。じゃないと、永遠にこのやりとりが続いてしまいそうな気がする。


「わかった。じゃあ、デート一回。それにプラスで、僕が綾になにかプレゼントすることでチャラ! ……ってことで、いい?」


「うんっ……! あ、ありがとう……!」


 いやいや、そこでお礼を言っちゃうようじゃダメなんだよ? 本当に。だって、これは僕のお詫びで、罪滅ぼしで、なにより、お礼を言いたいのはむしろこっちのほうって感じなのだから。

 まあ、本当に嬉しそうな声を出すものだから、もう突っ込もうという気さえ起きなくなってしまったけれど。


 そんなわけで、夏休みも始まったばかりの七月下旬に。

 こうして僕たちはようやく、初デートの約束をしたのだった。

 まあ、情けないにも程がある決め方だけどね。


 でも、これが僕たちの関係性。

 許して、許されて。

 遠慮しあって、お礼を言いあって。

 いざ無理難題を押しつけても、それは相手にとって全然、苦にならないことで。むしろ、嬉しく思うことですらあって。

 でもきっと、僕たちの場合はそれでいいんだと思う。

 もちろん、なに甘いことを言ってるんだって、言う人は言うと思うけどね。





 そして、デートの日がやってきた。

 天気は、まさにデート日和という感じの快晴で、時刻は午前の十時過ぎ。

 僕は電車に揺られて、汗を拭きつつ、目的地へと向かっている。


 いま、綾は隣にはいない。

 数駅先にある大きめの公園。

 今日はそこで待ちあわせようと、彼女から提案を受けているのだ。

 そう言われたとき、ちょっとだけ首を傾げてしまったけど、その理由にはすぐ思い当たった。

 おそらくは、学園の近くじゃ生徒と出くわす可能性が高いから、なのだろう。


 もちろん、移動先で学園の生徒と会ってしまう可能性だってゼロじゃない。

 でも、そんなことを言っていたら、二人で出かけるなんてことはできないわけで。

 だから、僕はこう思って嬉しくなってしまう。

 彼女は、『素』がバレる危険があるにも関わらず、それでも僕とデートしたいと思ってくれたのだな、と。


 やがて、電車が目的の駅に到着した。

 降りて改札を抜け、綾の指定した公園を目指す。

 僕の今日の服装は、普段着とまったく変わらないものだった。

 安物のワイシャツと、黒い長ズボン。

 もうちょっと気合いをいれた服装のほうがいいのでは、と思わなくもなかったけれど、僕がシャワーを浴びてる間に出かけてしまった綾が『いつもどおりの格好で、充分だから』と前日に言ってくれていたこともあって、こういうときだけ格好つけても無意味だと腹をくくった。

 まあ、ああ言っていた以上、綾も普段とそう変わらない服装で出かけたのだろう。

 こういう言い方は失礼かもしれないけど、綾は服装にこだわりとか、そんなになさそうだし。


 そんなことを考えながら歩いていると、公園が見えてくる。

 ああ、なんか早くも心臓がバクバクいってきた。

 携帯電話を買って、どこかで昼食をとって、町をぶらついて、なにか綾に買ってあげて、そして帰宅。たぶん、どこかで分かれて別々に帰宅。

 今日の予定としては、そんな感じでいいんだよな?


 デートなら遊園地だとか、映画だとか、カラオケだとか、高級レストランだとかいう話も聞いたことはあるけど、遊園地は携帯電話を買ったあとに行くにはどうかと思えた。

 映画は映画で、つまらないものだったら目も当てられないからと却下。

 カラオケもナシだ。初デートで密室とか、僕が女の子の立場だったらありえない。一緒に住んでいる綾だったら、あるいは平気だと言ってくれるかもしれないけど。それでも僕自身、あんまり歌うの好きじゃないからなあ。綾だって率先して歌うタイプには見えないし。

 高級レストランは一考にすらあたいしない。だって、そんなお金ないし。格好悪いかもしれないけど、ない袖はどうやったって振れないのだ。


 公園の噴水――綾との待ちあわせ場所に辿りついた。

 ここで誰かと待ちあわせる人は、思っていたよりもずっと多くて、見渡す限り人、人、人。

 誰もが周囲の人間には興味を示さず、しかし、この暑い中で群れている。

 そんな光景を見ながら、以前、綾が言っていたことを思いだした。


 ――魔道士は、孤立しながら群れるもの。


 あのときは、そんなことは不可能だ、矛盾してるって思ったけれど。

 ああ、なるほど。あれはこういう状態を指す言葉だったのか。

 確かに、誰もが『孤立』しながら『群れて』いる。

 周囲にはまったく興味を示さずに、けれど、離れることなく一緒にいる。

 ここにいるのは、誰も彼も知らない他人ばかりで、お互いにとってお互いが『どうでもいい存在』なのに、それでも目的が一致しているから、こうして一緒にいる。それが周囲の気温を上げるのに一役買っていると知りながら。


 どうしてか、それに孤独を覚えてしまう。

 こんなに多くの人がいる場所で『孤独だ』なんて変な話だけど、それはいつだって、誰にだってある感情のはずだ。

 生きている限り、決して消えることのない感情。

 こうやって『他人』といるからこそ、ひとりでいるときよりも強く感じてしまう感情。

 それが、孤独――。


「よう、カノジョひとり? 約束、すっぽかされたんじゃない?」


 と、そんなチャラい男性の声が、僕の意識を引き戻した。

 ……っとと、いけないいけない。僕も早いところ綾を見つけて合流しないと。

 いまみたいにナンパされていたら、彼女は……どういう対応をするんだろうか。

 家での綾だったら怖がりそうだし、学園での綾ならにべもなく断りそうな気がする。

 確かなのは、そんな状況に陥る前に合流して、ここから離れたほうがいいってことだけだ。

 男の声は、綾を捜す僕の耳に、拒むと拒まざるとに関わらず入ってくる。


「なんなら、いまからおれと一緒にどっか行かない? おれ、これでも歌が得意なんだ。このあたり、カラオケボックスも多いだろ? どう?」


 うわあ、なんて露骨な。

 見知らぬ男とカラオケになんて、どう考えても行くわけないだろうに。

 絶対にそういったことだけが目的だよ、この人。

 カラオケボックスという密室に連れ込んで、その場の雰囲気に任せてよからぬことをしようと考えてるに違いない。

 そんなの、絶対に断られるって。


「――別にいい。待ってる人がいるから」


 ほら、やっぱり断られてる。

 まあ、手当たり次第に声をかければ、乗ってくる女の子もいるのかもしれないけどさ。


「そう言うなよ。きみみたいな可愛い娘待たせる奴なんて、どうせ最低のクズだって。……な? 行こうぜ?」


「待たされてない。わたしが勝手に早めに来て、待つことを自分で選んだだけ。だから、放っておいて」


 それにしても、なんとも冷たい物言いだなあ。……でもこの声って、僕の耳にはなじみがあるような?


「――と、本当なら、それだけで済ませたいところだけど……」


「おっ? 乗り気になった?」


「まさか。そんなわけない。ただ……どういう理由があって、あの人の侮辱を? もし、わたしの関心を引くためだけにそうしたのなら……許さない」


「え? ちょっとちょっと、なにをそんな怒ってんの? いや、それくらい受け流せよ」


「わたしには、誰かに侮辱されるのが我慢ならない人が、五人いる。最近までは二人だけだったけど。……あの人は、その二人だけだったときからの、侮辱されたくない人のうちのひとり。――それをクズ呼ばわりなんてされたら、受け流すなんて、到底できない……!」


「いや、なにマジになってんだよ。つうか、なに? その細腕で殴りかかってこようっての? そういう目、してるよな……?」


 少しだけ引きつった声で、けれど笑いながら男は言う。

 見た感じ、大学生くらいだろうか。

 でも男はおそらく、単なる一般人。彼自身は体格とか性別とかで自分のほうが有利だって思ってるのかもしれないけど、思うに『魔道士』相手じゃ、触れることすらできずに終わるんじゃないだろうか。

 だって、この男がナンパしようとしてるのって、その……他でもない、僕の彼女なんだから。

 まあ、聞いたこともないような冷たい声と、初めて見る絶対零度ぜったいれいどの視線のせいで、一瞬、僕ですら見間違いかと思ったけれど。

 綾は男を眼光鋭く見据えたままで続ける。


「さっきの言葉、取り消して。でなければ――」


 ……って、これ以上傍観してるのは、色々とマズい!

 僕は慌てて割って入り、呪文の詠唱に入った綾の腕を握った。


「待って待って! 綾!」


「えっ……?」


 瞬間的に払われそうになったが、その手が僕のものだと気づいたのだろう、彼女はすぐに腕から力を抜いて、


「あ、明……くん?」


 豹変、という言葉が一番しっくりくるだろうか。

 綾の眼差しは、瞬時にいつもの――家でみる彼女のそれに戻った。

 いや、ちょっとだけ顔が蒼ざめてしまっていて、瞳にも不安の色があるような……?


 でも、そのあたりの詮索をするのはあと回しだ。

 綾を背後に隠し、僕は男と向かいあう。

 ただし、敵意をぶつけるつもりはない。僕も一応は魔道士の端くれとはいえ、水の魔術には人を攻撃するようなものは少ないし、なにより魔術は基本、人前でみだりに使っちゃいけないって綾から教わってもいる。……まあ、当の綾自身は使おうとしていたわけだけど。

 それは置いておくとして、僕は目の前の男に軽く頭を下げることにする。


「すみません。この娘は僕の彼女なので。あまり声をかけるのは、ちょっと遠慮してもらえないでしょうか」


 その言葉にいち早く反応したのは、僕の背後にいる綾。


「か、彼女……。あうぅ……」


 対してナンパ男のほうは、つまらなさそうに鼻を鳴らし、


「けっ。なんだよ、本当に待ちあわせしてたのかよ。……ああ、行っちまえ行っちまえ。そんな、彼氏とそれ以外の奴とで態度を激変させるような女、こっちのほうから願い下げだ」


 その物言いには、ちょっと……いや、かなりカチンときた。

 しかし、争っても得られるものはなにもないし、そもそも争いたいとも思わない。

 実際に綾の性格は豹変しているのだし、僕と彼では、彼女を見る前提条件が違いすぎるのだ。

 なにより、綾のいいところは僕が一番よく知っている。僕にとっては、それだけで充分。ぶっちゃけ、チャラチャラしたナンパ男なんかにそれを共有されるほうが、よっぽど不快。

 そう考え、僕はもう一度、目の前の男に無言で頭を下げ、綾の腕を引いて静かにその場を立ち去った。


 数分歩いて、公園の入り口のところまで戻ってくる。

 そこで綾のほうに向きなおり、


「ごめん、綾。僕がもうちょっと早く来れば、ああいうのに絡まれないで済んだのに……」


 僕だって、待ちあわせの時刻よりも十分以上早く来ていたから、本当なら謝る必要なんてない。でも彼女が不快な思いをしていたのだって、紛れもない事実だったから。

 そのあたりのことをわかったうえで、なのだろう。綾は首を横に振って、


「ううん、明くんが謝ることない。わたしが先に来て、待っていたかっただけだから。実際、待っている時間も楽しかったし。……さっきのことを除いては」


 そこまで言って、一度、彼女は顔を伏せる。


「なにを言われても適当に断ってればいいって、頭ではわかってたんだけど……。ごめんなさい、明くんのことを悪く言われたら、つい、カッとなっちゃって。……気づいたら、あんなにたくさん人がいるところで、魔術を使おうとまでしちゃってた。明くんが止めてくれて、本当、助かったよ……」


「ああ、うん。まあ、しょうがないよ。僕も綾のこと悪く言われたとき、やっぱりカチンときたし。……僕の場合、人を傷つけるような術が使えないっていうのもあって、なんとか抑えがきいたけど」


 それにしても、なんとなくわかってはいたことだけど、やっぱり綾はあのとき、頭に血がのぼっちゃっていたのか。僕のことを悪く言われたからという、たったそれだけの理由で。

 もしかしたら、常にクールなふりをしていた穏やかな彼女は、その実、なかなかに激情家だったりするのかも。


「まあ、とにかく気にしない気にしない。――ほら、さっそくデート開始といこう?」


「……うん。でも、あんなわたしを見て、わたしのことを嫌いになったりとか、していない……?」


「……? 嫌いに?」


 予想外の言葉に、思わず首を傾げてしまう。


「どうして? そりゃ、学園以外の場所で暗示の術を使った状態の綾を見たのは初めてだったし、普段よりも迫力あるなあ、みたいなことなら思いはしたけど、綾が怒ってたのは、僕のためみたいな感じだったでしょ? 嫌いになんてなるわけないよ」


「本当……? 幻滅したりとか、していない?」


「してないしてない。だからほら、笑って笑って。今日は二人の記念すべき初デートの日なんだから。それに相応しい表情って、あると思うんだよ。僕は」


「……うん」


 そこでようやく。

 彼女は瞳から不安の色を消し、にっこりと微笑んでくれた。……うん、よかった。恥ずかしいセリフを頑張って言った甲斐があるってものだ。

 まずは携帯ショップに、と歩きだそうとしたところで、綾の右腕をずっと掴んだままでいたことに気づく僕。


「ごっ、ごめん!」


 バッと手を離す。

 そして、そこで今日の彼女の服装にようやく意識がいった。

 いま綾が着ているのは、白い、ややミニのワンピース。しかも肩がしっかり出てるデザインで、二の腕は完全に露出していた。

 彼女の長い黒髪がよく映える、いい色だった。

 頭には、これまた白の日よけ帽子。

 その組み合わせからはなんだか、避暑にやってきた深窓の令嬢って印象を受ける。


 ……っていうか、僕、いままで綾の腕を、素肌のまま握っちゃってたよ!

 うわあ、うわあ、うわあ……!


 すべすべだったなあ。男のそれとは全然違って、本当にやわらかいんだなあ。変な力の込め方したら折れちゃうんじゃないかってくらい、細かったなあ。

 というか、なんで離しちゃったかなあ、僕! かなり自然な感じで触れられていたのに!

 後悔役に立たず……じゃない、先に立たずとはこのことか。ああ、もったいない……。


 いや、そんなことよりも、だ。

 僕、まったくもっていつもどおりの普段着だぞ?

 いくら、いつもどおりの格好で充分と言われていても、やっぱりそれを真に受けるべきじゃなかったのか?

 綾のほうも普段とそう変わらない服装なんだろうって、気楽に構えてたのに、彼女のほうは本当に気合いバッチリって感じじゃないか!

 ああ、これはまたしても失敗したか? 失敗しちゃったのか!?

 もちろん、僕とのデートだからと、綾がおめかししてきてくれたのは嬉しい。嬉しいのだけど……。


 あ、よくよく考えてみたら、『おめかし』って言葉はなんか古いか?

 ここは『おしゃれ』って言うべき?

 いや、それ以上にもっとちゃんと、綾に言うべきことがあったりはしないか……?


「あの、明くん……。その、どうかな? おかしく……ない?」


 頬を染めながらそう問われ、ようやく口にするべき言葉に思い至る僕。


「う、うん。全然おかしくなんてっ……! その、お嬢さまみたいで綺麗っていうか、僕なんかで、本当に釣り合いとれてるのかなっていうか……」


 しかし、出てくる言葉はしどろもどろ。

 余裕がなくなってるのが、自分でもよくわかる。

 ああ、こんなんで今日、本当に大丈夫かなあ。初デートで彼女に愛想を尽かされるとか、そんなことになったら泣くに泣けないぞ。

 実際、小説やら恋愛ゲームやらだと、初デートの最後のほうでケンカするとか、よくあるし。まあ、それは仲直りイベントに繋げるための通過儀礼なわけだけど。

 けれど、ここはフィクションの世界ではなくて現実。ケンカしても、そのあと絶対に仲直りできるってわけじゃない。

 同様に、これをしたら絶対にアウトっていう行動も、実は存在しないんだって、段々とわかり始めてはきているのだけれど。


「お、お嬢さま……。そ、そんな育ちがいい人間じゃないよ、わたしは……」


 悶々としている僕に、おずおずと否定してくる綾。その顔が真っ赤なのは、暑さのせいだけではないだろう。

 きっと喜んでくれているはず、とちょっとだけ自分勝手に解釈し、僕は言葉を続ける。


「そんなことないって。本当、お嬢さまみたいだよ。ナンパされるのも当然っていうか……。少なくとも、僕にはそう思える」


「そ、そう……? んと、じゃあ、そうみえるよう、わたしもちょっと頑張ってみる」


「いやいや、自然にしていても、そうみえるんだって。わざわざ作る必要ない」


「あうぅ……。わたし、一体どうすれば……」


 心底困ったように綾が呟く。

 それに思わず、僕は吹きだしてしまった。


「ははっ。そのまま、自然にしていてくれればいいんだよ。いつもどおりの綾で、さ。……じゃあ、そろそろ出発しようか」


「う、うん。まずは……携帯ショップ。わからないことだらけだから、明くん、色々とよろしくね?」


「了解、任された。必要な書類はちゃんと昨日のうちにまとめて、こうして持ってきたから大丈夫。一度出なおすようなことには絶対ならないよ」


 言って、持ってきた布製のバッグを見せる。


「うん、信用してる」


 そして、二人一緒に並んで歩きだした。

 視線は自然と、左を歩く綾の手に向かってしまう。

 その……手を繋いだりとか、してもいいのかなって。そんなことをすぐ、考えてしまった。


 よく考えてみれば、おかしな話だ。

 僕たちは、すでに二回もキスをしていて。

 しかもそのうちの一回は……その、大人のキス、というやつで。

 なのに、まだ一度も、手を繋いだことがないっていうのだから。


 でも、キスをできたのだって、いつの間にかそういう雰囲気になっていたから、というのが正直なところだからなあ。

 手を繋ぐのだって、そういう、ムードとかを重視したほうがいいよな、やっぱり。

 なにより、がっついた男だって綾に思われるのだけは、絶対に嫌だし。嫌われる、嫌われないを別にして。


「綾、こっち。建物の影に入っていったほうが涼しいよ」


「うん。帽子は被ってるけど、わたしもあまり汗はかきたくないし、そっちのほうがいいかな」


 そんな他愛のないやりとりをしながら進んでいく。

 時間が経つにつれ、段々と緊張もほぐれ、軽口を叩ける余裕も生まれてきた。


「ほら、こっちこっち。ちょっと人通りは少ないけど、別に変なことをする気はないからさ」


「うん、そういう心配はしてないから大丈夫。でも、ちょっとくらいだったら……してもいいよ?」


 ひらひらと、地面に向けたままの右手を綾が振ってみせる。

 それはつまり、手を繋ぐのをオーケーしてくれているという意味で。

 けれど悲しいかな、こんな汗かきまくってる手じゃ嫌なんじゃないかな、とか考えているうちに、目的の携帯ショップに到着してしまう。


「……残念。ついちゃった」


 そうぽつりと漏らす彼女に、「じゃあ」と言ってみた。ものは試し、という感じで。


「手を繋ぎながら一緒に入ってみる、とかどう?」


「無理、無理。それはとっても恥ずかしい」


 うん、やっぱり拒否されたか。

 でも、それにホッとしている自分もいたりして。

 だって、もし彼女が応じようとしてくれた場合、僕のほうから『ごめんなさい。調子乗りました』と頭を下げるハメになりかねなかったから。


「生き返る~」


「ほわぁ~」


 中に入り、二人して心地よさに声を漏らす。

 携帯ショップは冷房がしっかりと効いていて、本当に気持ちがいい。もうここから出たくないとさえ思ってしまうほどだ。


「いらっしゃいませ~」


 遠くのカウンターのほうから、店員さんの声。

 カップルでやってくる客はそう珍しくないのか、特別、興味深そうな目を向けられるようなことはなかった。

 ホッとしたような、ちょっと残念なような、なんともいえない気分。


「さて、まずはどの携帯にするか、だけど」


 二〇〇五年七月現在、もっとも一般的なのは折りたたみ式の携帯電話だ。かくいう僕も、そのタイプを使っている。

 なので当然、綾にもそれから勧めることにした。


「このあたりの棚のものがお勧めかな。色もたくさんあるし、ものによっては本体価格が無料だし」


「あまりお金はかけないほうがいいよね。うんと……この棚にあるもので、色は……」


 手にとったのは、ピンク色の携帯。

 らしいといえばらしいし、意外といえばちょっと意外でもあった。

 彼女、白とか選びそうな気もしていたから。


「ちなみに、明くんは何色?」


 僕はズボンのポケットから自分の携帯を取りだし、


「僕は黒。シンプル・イズ・ザ・ベスト」


「シンプル・イズ・ザ・ベスト……。だったら、わたしもシンプルな白にしようかなあ。ああ、でもでも、ピンクも可愛くて捨てがたい……」


 棚の前に屈み込んで、うんうんとうなり始める綾。

 こういうことで悩んでる姿って初めて見るから、なんだかすごく微笑ましい気分になってしまう。彼女って、学園では基本、即断即決ってところがあるからなあ。


「明くん、機能性はどっちのほうが上かな?」


「う~ん、これ、どっちも同じ機種だからなあ。たぶん、優劣はないと思う。本当にただ、色が違うだけ。だから好みだけで決めちゃっていいんじゃないかな」


「ん~……。じゃあ、最後の手段」


 一瞬、表情を曇らせてから、彼女はピンク色の携帯を棚に戻し、「ど」と白い携帯電話を指差して。


「ち・ら・に・し・よ・う・か・な。て・ん・の・か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・りっ!」


 なんて、子供みたいなことをやり始めた。

 正直、なんかすごく無邪気で可愛らしい。


「うん、このピンクの携帯に決まり決まり」


 無事に決まったようでなによりだ。……けど、


「ところで、綾。その『天の神さまの言うとおり』って、二択だと絶対に『ど』で指差さなかったほうを選ぶようにできてるんだけど……そのことはもちろん、知ってたよね?」


「うぅ……知ってた。でも『シンプル・イズ・ザ・ベスト』の呪縛に抗うには、これくらいしか方法がなかったから……」


「いや、なにもそこまで『シンプル・イズ・ザ・ベスト』に捕らわれなくても……」


「だって、シンプルがベストなんだよ? わたしたち魔道士は可能な限りシンプルであることを好む生き物。それがベストだなんて言われたら、無視なんてできないよう……。だからこれは、わたしなりの抵抗。わたりなりのワガママ。わたしなりの言い訳」


「そして綾はピンクを選ぶ、と。……いいんじゃないかな、それだってピンク一色でものすごくシンプルだし」


「あっ……! うんっ!!」


 元気よくうなずき、立ちあがる。

 それにしても、今日の綾はいつもよりテンションが高いな。

 これはこれで可愛らしいし、元気があるのはいいことだしで、もちろん大歓迎だけど。

 でも、もうちょっと落ちついたほうがいいんじゃないかな、とか思ってもみたり。……あ、棚に頭ぶつけた。

 まったく、人が思ったそばから……。


「いたたたた……」


「綾、ちょっとはしゃぎすぎだって。大丈夫、携帯は逃げないから」


「売り切れたりもしない?」


「しないしない。……たぶん」


「たぶん……!?」 


「あ、いやほら、実際のところはわからないからさ、僕にも。というわけで、カウンターに行こう」


「うん。行こう行こう」


 綾の頭をさすりながら、一緒にカウンターへと移動。

 店員さんに説明を受けながら、料金プランを決めたり、必要書類に名前を書いていったりする。


「堀、口……綾、と」


 心なしか、少し頬を赤らめながら、そう書き終える綾。

 そう、彼女の姓はもう『深山』ではなく『堀口』だ。

 同居初日の夜、夕食の場で義母さんは『入籍とかは夏休みに入ってから』と言っていたが、なるほど、その言葉に嘘はなかった。

 けど、夏休みに入ってすぐ、入籍と養子縁組を完了させてしまうのもどうなのだろう。

 夏休み前から僕が彼女のことを『綾』と呼ぶようになっていたから、それで問題なしと判断したのかもしれないけど、それでも、なんだかなあ。


 ちなみに、僕も名前を訊かれる場面があり、


「お兄さまですか?」


 などと言われてしまった。僕はもちろん「いえ、弟です。同い年ですけど」と返したのだけれど、それにちょっとだけ綾が頬を膨らませたりもしてしまったり。

 まあ、彼女の気持ちもわからなくはない。僕だって本当は『彼氏ですか?』と訊かれたかったのだから。

 でも苗字が同じで、実際に戸籍上は姉弟になってしまったのだから、こればっかりは間違われようがない。

 もちろん、名前の提示を要求されない店に行けば、ちゃんと恋人と思ってもらえるだろうけど。


 そうして携帯の初期設定などをしてもらう間の待ち時間を、二人、奥のほうにあったソファーでダラダラしながらやり過ごし。

 紙袋に入れて渡された携帯電話を綾が受けとり、二人一緒に店を出る。


「ぐあ、油断してたぁ……」


「うわ、暑いね……」


 空から降り注いでくるのは、容赦のない真夏の直射日光。

 これは帽子を被っている綾にもキツいだろう。僕は僕で日除け対策なんて微塵もしていないわけだから、もう本当に溶けてしまいそう。

 一瞬にして、体力と気力を根こそぎ奪われる感覚。


「とりあえず避難しよう、あそこの日陰に」


「うん。明くん、頑張って」


 綾からの励ましを受け、全力でダッシュ。

 日陰に飛び込んだところで、ようやく少しだけ活力が戻ってきた。

 あとから飛び込んできた綾に笑顔で告げる。


「さて、と。そろそろいい時間だし、どこかでお昼にしようか。レストラン……は無理だけど、ファミレスくらいになら入れるし」


「うん、わたしも気楽に入れるところのほうがいい」


「助かります。ここでブーイング飛ばされたら、どうしようもなくなっちゃうから」


「飛ばさないよ~」


 そうして、二人で笑いあいながら歩きだした。

 時刻はちょうど午後一時。

 携帯電話を買うという目的は果たしたけど、夕方まで時間はまだたっぷりある。

 そもそも、綾になにかプレゼントするっていう、もうひとつの目的だってまだ残ってるし。

 だから、僕たちのデートはまだまだ始まったばかり。


 とりあえず、ファミレスで涼みながら昼食をとって、それから綾と一緒にウインドウショッピングといこう。

 そこで彼女が、なにかを欲しそうなそぶりをみせてくれれば儲けもの。

 仮になかなか見つからなくても、そうやって探して回る時間もきっと楽しいはず。

 だって、いま僕は綾といて、信じられないくらいに楽しいのだから。


 そう、綾のほうも同じくらい楽しめているのかなって心配になってしまうくらい、僕は楽しい時間を過ごせている。

 だから今度は、僕のほうがお返しをする番だ。

 このデートが彼女にとって、とびっきりのいい思い出になるように。

本当なら、この第九話で終わらせる予定だったデート話、終わらせることができませんでした。

というわけで、今回は実質『前編』、次回は『後編』となります。

でも次回はちょっとばかり短くなってしまうかも……?

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