第十一話 同居人の手料理
それは、初めて綾とデートをしたあの日から数日が経ち、八月に入ったある日のこと。
「ええと、鮭と、キャベツと、それから、にんにく……」
あの日から外に出かける回数を積極的に増やし、一緒に出かけるという行為のハードルを下げに下げ。
その効果もあって、僕と綾は今日、家から一駅分くらい離れているだけの距離にあるスーパーにやってきていた。
それも、あくまで食料品全般を買いに。
その理由は単純。
泊りがけで行く出張の仕事が父さんたちに入り、今日の夕飯と明日の朝食、そして昼食を自分たちで用意しなければならなくなったのだ。
夫婦とはいっても、二人は同じ会社の上司と部下。そりゃ、一緒に出張なんてこともあるだろう。
しかし、実際がそれだけじゃないのは、僕にだって容易に想像がつく。
だって、つい最近再婚したばかりである二人は新婚ホヤホヤで、家にはいつも僕と綾がいて。
その僕たちが年頃であり、二人のほうも最近、仕事が忙しくなってきていることを考えれば、父さんたちが家で『そういうこと』に及んでいる可能性はかなり低いと思われるわけで。
加えて、二人だって子持ちとはいえ、まだまだ若い方に入る。当然、我慢し続けるのは辛いものがあるだろう。
そのあたり、僕は理解があるほうだと思っている。なので、特になにも聞かずに父さんたちを送りだしたわけなのだが……。
送りだしてから、重大な事実に気がついてしまったのだ。
それはずばり、二人が家にいないということは、イコールで家の中には僕と綾しかいなくなる、ということ。
といっても、料理は綾ができるから心配ない。洗濯に関しても同様だ。というか、父さんとの二人暮らしが長かった僕にだって一通りのことはできる。父子過程で育った息子を舐めるなってなもんだ。
だから、問題はそこにあるわけではなくて。
――二人きり。
――綾と、二人きり。
――家で、綾と、二人きり。
――家で、先日デートをした綾と、二人きり。
――家で、デートをしたときに手を繋いだ綾と、二人きり。
――家で、デートをしたときに手を繋いだうえに、すでにキスをしたこともある綾と、二人きり。
――家で、デートをしたときに手を繋いだうえに、すでにキスをしたこともある綾と、夜に、二人きり。
……………………。
いや、もっと早く気づけよって話ではあるのだが……。
それにしても、父さんも義母さんも一体なにを考えているんだ。
今日から翌日の夕方まで、つき合っている男女をひとつ屋根の下に住まわせようとするとか。……いや、もちろん二人には僕たちの関係性を打ち明けていないわけだから、別におかしくもなんともない対応なのかもしれないけどさあ!
でもやっぱり、そう簡単に打ち明けられるものじゃないって! 戸籍上では僕と綾は一応、『姉弟』なんだから!
それに、だ。仮に僕たちがつき合っていなかったとしても。年頃の男女を置いて家を留守にするのは、やっぱり問題があると思う。
間違いが起こるかも、とか考えないのだろうか。……あ、もしかして、僕たちのこと、態度とかからすでに二人にバレてたり……? それでこの状況をお膳立てしてくれたんだったり……? いやいや、それこそまさか!
「……くん? どうしたの? 明くん?」
「へっ!?」
「さっきから、難しい顔して黙り込んでる」
「あー、それは……」
「それに、かと思えば突然赤くなったりもしてたし……」
家にいるときに比べると抑揚のない、けれど学園にいるときと比べれば少しだけ感情の篭もった声で綾が問いかけてきた。
小さく小首を傾げる仕草に、思わずドキリとする。……ああもう! 僕も本当に慣れないな!
平常心、平常心と心の中で自分に言い聞かせながら、軽く眼鏡の位置を直す。
そうしてからふと見れば、彼女の手には緑色の買い物カゴ。中にはキャベツ一玉やら鮭の切り身やら、あとごま油が一瓶やら。正直、女の子には重いんじゃないだろうか。
「……と、それ重くない? 僕が持つよ」
「え? ……あ」
返答を待たずに、買い物カゴをひったくるように自分の手へと。それから会話のすり替えにもなっていてくれたらいいなぁ、なんて思いながら綾の顔を横目で見る。
「……ありがと」
頬をわずかに赤く染めて、ともすれば吐息を漏らしただけともとれるような小さな声で呟く、無口なクール少女。いや、『一見は』無口でクールに『見える』『美』少女。
僕もつられて赤くなりながら、彼女から目線を逸らし、ちょっとだけぶっきらぼうに返す。
「……ああ、どういたしまして」
綾もこちらを見ることはせず、むしろ百八十度真逆の方向に視線を逸らしながら、手にしていたルーズリーフを自身の視界に収める。
「……えっと、あとはブラックペッパーに片栗粉、しょうゆにみりんにお酒、それとにんにく……あ、にんにくはもう買ったっけ?」
「ああ、入ってる入ってる。それと調味料は大体、義母さんが揃えてくれてると思うよ?」
「あ、そっか。じゃあ、そのあたりは買わないでよし、と。お母さんに感謝感謝。でもちょっとだけ、余計なお世話だったり」
「……な、なんで?」
「だって、明くんと一緒に買い物する時間、少しだけ減っちゃった」
「……っ!」
その言葉に思わず赤面してしまう。綾は基本的に恥ずかしがり屋なくせに、ときどき思いもかけない直球を投げてくる。そこが可愛いとも思うけれど、ちょっとだけ心臓に悪くて『勘弁!』と思ってしまうこともあったり。
それに、いくら彼女相手とはいえ、買い物客がたくさんいるスーパーの中で一人でニヤけている眼鏡男子なんてキモいだけ、とも思うし。
いまの言葉にどれだけの破壊力があったのかなんて気づいた風もなく、綾は落ちつきを取り戻した様子で店内を歩いていく。
それになんとなく負けた気がしたので、ちょっとだけ反撃を試みてみた。
「綾、買うものはそれで全部?」
バクバクとうるさい心臓の音を意識しないよう心がけながら、僕の左を歩く彼女の手の中にあるルーズリーフに視線を落とす。当然、綾の顔はすぐ目の前に。彼女の長い黒髪からもいい香りが漂ってくる。……うっ、少し頭がくらくらしてきた。
「えっ!? う、うん。こ、これで……全部、だと思う……」
それでも、どうやら効果はあったようだ。しかし、僕のほうのダメージもなかなかのものなので、まだ引き分けとはいえない。続けて、前回一緒に出かけたときに綾が『じっと見つめられると照れる』と言っていたのを思いだし、わざと綾の顔へと視線を移動。至近距離から彼女の瞳をじっと見つめる。いや、覗き込むといったほうが正しいだろうか。
「……あ、あぅ。そ、それは本当にダメ。照れるから、ダメ……」
これも効果抜群。綾のリアクションが家にいるときのそれに限りなく近づいている。
しかし、照れたのは僕も同じだ。というか、下手をしたらアクションを起こした僕のほうがより強く照れを覚えている可能性だってある。これじゃやっぱりイーブンとはいえない。
けれど、僕にできる反撃はそこまでだった。
本当は左手を差しだして――いや、ちょっとだけ強引に綾の右手をつかんで『恋人繋ぎ』するとかいう案も浮かんだのだけれど、それをするにはあまりにも人目が多すぎる。
ここまでの行為だって、知り合いに見つかったら言い訳できるか微妙な線だったのだ。これ以上はさすがに控えるべきだろう。
ましてや、こんなところで『頬に』であってもキスなんて。……まあ、僕の心臓が持ちそうにないのが一番の理由だったりするのだけれど。
結局、自分の起こすアクションにいちいちドキドキしているようでは、相手を負かすどころか引き分けにすら持ち込めないんだなぁ、なんて考えながら、僕は静かに顔を引いた。
勢いよく引いて綾に『嫌われてるのかも?』なんて誤解されるのは本意じゃないし、僕も余韻がほしかったのだ。まあ、つき合ってもいない男女だったら顔を近づけた段階で逆に嫌われているだろうが、僕と彼女の関係性だったら大丈夫だろう。大丈夫だと信じたい。……大丈夫、だよね?
おそるおそる盗み見ると、もう顔は離したし視線も逸らしたというのに、彼女は真っ赤になったままだった。これ、いつになったら収まるんだろう、なんて考え始め、少しだけ落ちつきを取り戻す僕。
今度は遠目に、改めて彼女の手にあるルーズリーフに視線を落とす。まあ、基本的に冷静な綾のことだから、買い忘れるなんてないだろうけど。
いや、しかしいまの状態だと、どうだろう? ……って、ん?
「そういえば、ブラックペッパーはなかったかもしれない」
綾からの返事はなし。というか、反応そのものがない。……あれ? もしかして僕、やりすぎた?
「おーい、綾~?」
反応なし。こりゃ、本当にやりすぎたか? 引き分けどころか僕の勝ちだったのか?
「綾さ~ん? 綾っち~?」
手を彼女の目の前で振りながら、色々な呼称で呼びかけてみる。が、反応はやはりない。……うわ、こりゃ本当にやりすぎたっぽい。足はちゃんと動いているけど、思考のほうがショートしてるっぽい。こうなったらこうなったで、意外と困るものなんだな……。
しょうがない。あんまりやりたくはないけれど、彼女がもっとも嫌がっている『禁句』を使うか。
「もしも~し、姉さ~ん?」
「――『姉さん』は駄目えぇぇぇぇぇぇっ!!」
見事、再起動を果たし、ビシッと僕を指差してくる綾。うむ、さすがは『禁句』。思考を瞬間冷却させる効果はどんな言葉よりも高かった。……でも、もうちょっと声は抑えてほしかったかなぁ、なんて思ってもみたり。
「悪い悪い。あまりにも反応がなかったものだから、つい」
右手を顔の前で立てて、ごめんのポーズ。綾はそれでも少し頬を膨らませて、
「だからって、『姉さん』って呼んでいいことにはならない」
「ごもっともで……」
これに関しては平身低頭、僕のほうが謝るしかなかった。絶対に言っちゃいけないからこその『禁句』なのだし。いくらやむを得なかったからといっても、それを理由に居直ろうとは思わない。もしも綾がいま、僕に『弟』として接してきたら、僕だってものすごく傷つくだろうから。
と、気づけば謝っているうちにブラックペッパーが置いてあるコーナーに到着していた。綾の表情もようやく苦笑程度のものに変わり、ほっと一安心。
もちろん、このことで嫌われると思うほど彼女への信頼がないわけじゃないけど、それでも綾の気分はできる限り害したくないわけで。……これって、普通の感情だよね? 尻に敷かれてるとか、そういうんじゃないよね?
「ん~っ……」
つま先を上げ、棚の最上段にあるブラックペッパーに手を伸ばす綾。しかし小柄な彼女では微妙に届かないらしく、一度、床にかかとをつけてから、再度――
「ほい」
つま先立ちになる前に、ひょいとブラックペッパーを棚から取る僕。
まったく、言ってくれればつま先立ちなんてさせずに僕が最初に取ったのに。まあ、そんな遠慮がちというか、控えめなところが綾らしいとも思うんだけどさ。
……あ、それとも僕のほうが気が利かなかったのか? 棚の位置が高いと気づいた段階で、彼女がつま先立ちをする前に僕が手を伸ばすべきだった? うわあ、失敗した。一生の、とはいかないまでも、本日最大の不覚だ。
ともあれ、これで少しは機嫌よくなってくれたかな? なんて我ながら甘いことを思いながら、買い物カゴにブラックペッパーを入れる僕。
「…………」
これで全部だ、とレジに向かって移動を開始しようとしたところで、なぜかぼーっとしている綾に気づく。……はて?
「綾? えっと、まだ怒ってたり、する……?」
うう、やっぱりこの程度で機嫌の回復を、なんて発想は甘かったか? 砂糖やチョコ並に甘かったのか……?
しかし、その心配は杞憂に終わった。綾は「う、ううん……」と首を横に振り、
「ただ、やっぱり……背、高いなぁって……」
なんて、どこか呆けた様子で呟いた。
「高い? 僕が? いやいや、僕はどちらかというと低いほうなんだけど……」
謙遜でもなんでもない。僕の身長は百六十二センチ。同じ学年の平均身長を大きく下回っている。そりゃ、百五十にすら届かない綾からすれば、相対的に高いってことにはなるんだろうけど。
「なんか、いいなって思っちゃった……」
そう言ってはにかむ綾。……うぐ、まずい。ここはスーパーの中なのに、人目が多いのに、自宅からはそこそこ遠いといってもご近所さんの目がゼロというわけでもないのに、目の前の少女を抱きしめたくてたまらなくなってしまった。
それほどまでに、そのはにかんだ表情はやばかった。頬がまたしても赤くなっているのもやばかった。
正直、理性とかをすべてふっ飛ばしていいのなら、
『うおぉぉぉぉーっ! 綾ぁぁぁぁっ! 可愛すぎるうぅぅぅぅぅーーっ!!』
なんて雄叫びを上げて、思いっきりハグしてしまいたい。いや、それどころか――
「さ、行こう?」
「あ、ああ……」
お、おおお、落ちつけ、落ちつけ僕。そして静まれ、僕の感情。クールに、クールになるんだ。
それは綾のやるような魔術による暗示でもなんでもないのだけれど、僕は昂ぶってしまった心を落ちつけようと、眼鏡のブリッジ部分を中指で少しだけ上に持ち上げた。
当然、それだけで落ちつけるわけじゃないけど、この行動は周囲から『あの人はがっついた男じゃない』という目で見られやすくなるため、こちらとしても『そういう行動はとらないようにしないと』という気持ちになってくる。自然、ほんの少しだけ落ちつくことができるのだ。
……なにより、こんなところで抱きついたりなんかして、綾に拒否とかされたらショックで立ち直れなくなりかねないし。
「……よし、落ちついた」
軽く深呼吸をし、歩きだしながら呟く僕。
うん、煩悩なんて頭の中にはひとつもない。ひとつもないぞ。
そんなことを頭の中で自分に言い聞かせつつ。
「うん?」
またしても小首を傾げて僕を見上げてくる綾。……正直、その上目遣いはやばい。
けれど、たったいま落ちついたばかりなのだ。心の中はともかく、綾に見える範囲内では、あくまでも冷静にふるまわねば。
「いや、なんでもない」
でも、やっぱり抑えきれないものはあって、綾を愛おしく思う気持ちに任せて、彼女の髪をくしゃっとやる。ちょっとだけ、文句言われるんじゃないかな、とか思ったりもしたけど、そのときはそのときだ。これくらいなら、怒ったとしてもちょっとだけで済むに違いない。
「……ぁ」
「どうしたの?」
「えっ……、あ!? な、なんでもないっ……」
一体、なんだというのだろう? 綾は顔どころか耳まで真っ赤にして、少し早足でレジへと向かっていく。
買い物カゴを持っているのは僕なのだから、綾だけ先にレジに行ったって仕方ないだろうに。それとも、僕から距離をとりたくなるくらい嫌だったのだろうか? あの『髪クシャ』。……でも、嫌がってるようには感じられないし。
綾の背を遠目に眺めながら、そんなことを思う僕。
……まあ、いいか。左隣が空いてしまったのが少しだけ寂しいけど、あまり拘束するのもよくないだろうし。
そんなこんなで、綾に少し遅れてレジに辿りつき、
「お願いします」
カゴを置いて会計を済ませてもらう。
手持ちぶさたになったところで、ちょっとだけ周囲を見渡してみると、いつものことながらやけに横柄な態度の客の姿が気になった。
僕自身、こことは別のスーパーで働いたことがあるから思うことなのかもしれないけど、ああいう態度はちょっといただけない。
店員からすればお客さまは神さまだ。それはまったくそのとおり。客がいなければ商品を仕入れても回転せず、返品やら廃棄やらで赤字ばかりになっていき、最後には潰れてしまう。それを救ってくれるのがお客さまなのだ。だから、店員はそういう認識を持って働くべきだと思っている。
しかし、その一方で、店がなければ買い物ができないというのも、また事実。バイトのとき、僕はつくづくそう感じた。
お金を貰っている立場だったから、当時は口が裂けてもそんなことは言わなかったけど、いまなら言える。客は店員にもう少しだけ感謝するべきだ、と。
結局のところ、店員は『買ってくれてありがとう』、客は『売ってくれてありがとう』。
その気持ちをお互いが持ち続けていられれば、きっと両方ともが気持ちよく同じ時間を共有できると思うのだ。
だから、会計が終わって商品を受け取るとき、僕は必ず、
「――円、ちょうどいただきます。ありがとうございます」
「ありがとうございます」
そう締めるようにしている。たとえかみ合っていなくとも、それが一番率直に感謝の気持ちを伝えられる言葉なのだと信じて。
もっとも、綾や孝広、桜井には『珍しい』とか『変わってる』とか言われているけど。
それに、
「お気をつけて!」
それでも、感謝の気持ちが伝われば、こんな風に弾んだ声をかけてくれることもあるんだ。もちろん、店員の性別に関係なく。
人との『つながり』を感じられる瞬間。いつもどこかで孤独を覚えている心が、ほんのちょっとだけ温まる瞬間。たったこれだけのことでそんな瞬間を得られるのだから、やっぱりやって損はないことなんだと僕は思う。
商品をカゴからレジ袋に移し変え、僕と綾はスーパーを出る。
「うわ、意外と重いな」
重いものなんて、基本、キャベツとごま油くらいのものだろうに、思わずそんな呟きを漏らしてしまう僕。文系だけど、もうちょっと体力や腕力、持久力をつけるべきか? いざってとき、綾に格好悪いところは見せたくないし。
「わたしが持とうか?」
「いやいや、それはさすがに」
男としてのプライドにヒビが入るとでも申しましょうか。
「じゃあ、片方ずつ持つ、とかは?」
「う~ん……」
悪くない案だとは思うけど、同じ手を貸してくれるんだったら別のところに、なんて左手をぷらぷらさせてみる僕。
それだけで綾は察してくれたらしい。
まずは自分たちを見知っている人間が近くにいないか確認してから、次に周囲の目にちょっとだけ恥じらいをみせてから、それからちょっとだけ間を空けて右手を差しだしてきてくれた。
「家の近くまで行ったら離さないといけないけど……それでも、いい?」
「もちろんもちろん!」
そんなの嫌だ、なんて言うわけがない。つい最近なったばかりとはいえ、僕たちは周囲からすればやっぱり姉弟だ。彼女のためらいは至極当然のこと。
ただ、出来れば『恋人繋ぎ』で、なんて風には思ってしまった。そうすれば、無限の力が湧いてくるに違いない。この荷物を家まで持って帰るなんて苦にならないほどの。……でもまあ、それはさすがに欲張りすぎか。
「……じゃあ」
綾の掌が僕のそれにそっと重ねられる。やわらかい手の感触。正直、それだけで無限の力が湧いてくるかのようだった。
「…………」
と、無言のままで彼女は指先を僕の指に絡ませてきた。いや、絡ませてきてくれた。
「――えへへっ……」
「……っ!」
ちょっ! こ、これはまずい! これはやばい! ただ単に手を繋いだだけでも――いや、手と手が触れ合っただけでも充分だったのに、本当に『恋人繋ぎ』をされたら、力の湧きすぎであふれ出してしまうんじゃないかってくらいになってしまった!
つまり、その、そういったあふれ出しそうな感情は別のところ――すなわち、下半身に向かっていってしまい……。
うう、まずい。本当にまずい。だって、あそこが勃ってしまっている。えっちぃことなんてなにひとつしていないはずなのに、たったこれだけのことで反応してしまっている。綾に隠しとおせるかなぁ。いやいや、隠しとおさねば!
……しかし、なんだ。手を繋いだだけでこれだというのに、夜に家で二人きりなんて、僕、耐えられるのか?
ちゃんと理性を保って、襲ったりとかせずにいられるのだろうか……。
ああ、ものすご~く不安になってきた。いい意味でも、悪い意味でも、ドキドキが止まらない。
心臓は一生のうちに脈打つ回数が決まってるとかいう説があるけど、あれってデマだよね? もしデマじゃなかったら、僕は絶対に今日、短い生涯を終えることになってしまうぞ……。
ジュージューという音がリビングまで聞こえてくる。
一緒に、すでに炒められ終えている鮭とキャベツ、そしていま炒めている最中のにんにくのいい匂いもここまで届いてきた。……いやまあ、にんにくの匂いを『いい匂いだ』と感じるかどうかは人それぞれだろうけど、僕はにんにく、好物だし。
誤解のないように述べておくけど、僕が黙ってテーブルについているのは、メニューは出来上がってのお楽しみということにしてほしい、という綾の頼みによるものであって、手伝うのが面倒だからとか、そういう理由からじゃない。
というか、正直言うと、僕もキッチンには入りたかった。というのも、綾と一緒に暮らすようになるまで、この家で料理をしてきたのは主に僕だったからだ。自然、料理のいい匂いが漂ってくると体がウズウズしてしまう。悲しきかな、条件反射。
もちろん義母さんが作ってくれた料理は、いままで人の手料理というものを食べる機会の少なかった僕には、キラキラと輝いて見えたものだけれど、それとこれとは別というか。
それに、単純に綾の料理をしている姿が見たいというのもある。だって、自分の好きな女の子がエプロンをして自分のために料理をしてくれているのだ。これは男の夢のひとつといえるだろう。嬉しくないわけがない。
ただ、一緒に作りたいなって気持ちもあるわけで。だって、恋人との共同作業って感じがしていいじゃないか。そりゃ、こうして待っている時間も幸せではあるけれど。
ああ、そうか。デートのときに綾が先に待ち合わせ場所に行っていた理由が実感できた気がする。こういう時間に、綾も幸せを感じたかったんだ。……現実には、ナンパされて台無しになってしまったけれど。
そんなことを考えているうちに出来上がったのか、綾が空の皿をいくつも重ねて姿を現した。
残念ながらというべきか、エプロンはすでに外されていて、いまの彼女は白いブラウスに眺めの丈のデニムスカートという、いつもどおりの出で立ちだった。
それはともかく、これくらいならいいだろうと許可を取って、食器を並べたり、ご飯を器に盛ったりする。
そうして。
「は~い。今日は甘~いキャベツの鮭ムニエル、にんにく醤油づけで~す」
二人で席につくと同時、普段よりもテンションの高い声で綾がそう告げた。
そのテンションの高さといったら、学園にいるときとは天と地ほどの差があった。先日、家に来たときの孝広じゃないけど、学園での綾しか知らない人間からしてみれば、本当に同一人物かと疑ってしまうほどだろう。実際、『は~い』なんて僕でも初めて聞いたし。
二人で「いただきます」と声を唱和させ、思い思いに料理を口に運ぶ。綾はキャベツから、僕はにんにくからだ。
ちなみに、肉類と野菜類を一緒に食べるときは、まず一口でも野菜類を食べてから肉類に進んだほうが健康にはいいらしい。今日は肉類がないので、本当に余談なのだけれど。
それでもいつものクセで、ついつい鮭を食べるのはあとに回してしまう僕。よって、次に口にしたのは当然、よく炒められたキャベツで――
「うま……っ!」
それしか言葉が出てこなかった。人間、本当に美味しいものを食べると、感想を言葉にして表現できなくなるものだ。なので、
「ほ、本当に美味しい……?」
「ん~~~~っ!!」
少し自信なさげに訊いてきた綾にも、奇声ともとれるような声しか返せなかった。首をぶんぶんと縦に振りながらのことなので、こちらの気持ちはちゃんと伝わるだろうけど。
その証拠に、綾は心底安堵したように息を漏らした。
「よかった……。美味しくないって言われたら、どうしようかと……」
キャベツを口に含んだそのままで、今度はぶんぶんと首を横に振る。
もう言葉は出せるのだけれど、食べ物を口に含んだままで話すのは行儀が悪いし、なにより、言葉にしなくても伝わるんだっていうのがあまりにも心地よく感じられ、ついつい口を開くのが惜しく感じられてしまったのだ。
それに、言ってはなんだが、仮にまずくてもこの状況でまずいという男はいないと思う。……いや、それとも、まずいと思ったときにはやんわりと指摘して、美味しい料理を作れるようにサポートしてあげるのが彼氏の役目なのだろうか?
ほんの少しだけ、男子の永遠の命題のひとつに思考を巡らせ、しかし、綾の料理は自分のそれよりも遥かに美味しいのだから、そんなことを考える必要はないのだと思い至る。
そもそも綾の料理の腕前は、前に弁当を作ってくれたときに証明済みだし。
いや、あのときは『綾が自分のために弁当を作ってれた』という感動と、『感想言わなきゃ』って焦りばかりが先行してしまって、味なんて全然わからなかったのだけれど。……あ、今度、料理教えてもらおうかな。
それにしても箸が進む。
もちろん、酒やみりんを加えたタレがいいというのもあるだろう。僕は料理にアルコール類を使うなんてことをしなかったため、そういった部分がとても新鮮に感じられるんだと思うし。
でも僕が思うに、それはほんの些細な違いであって、晩ご飯をこんなに美味しく感じるのは、綾が僕のために作ってくれたという事実と、弁当のときとは違って、緊張が一切ないというのが大きいんじゃないだろうか。
あのときは、黙々と食べるなんて失礼だと感じて、一口食べるごとに感想を言おうとしていたから。
でも、そうしなくてもいいんだって、なんとなく思った。
この場の空気が、黙って食事を続けていても、穏やかなままであってくれるから。
「――おかわり!」
勢いよく、茶碗を綾に差しだす。彼女は食べるのを中断して「うん」と笑顔で受け取ってくれた。
自分でよそるべきなのかな、なんて考えは微塵も浮かんでこなかった。
そうしていいのだと、いまは作ってくれた綾にすべて任せてしまっていいのだと、そう思えた。
――ああ、そうか。だから綾は僕に手伝わせようとしなかったのか。一から十までを自分がすれば、その中に『おかわりをよそる』も含まれるから。
もちろん食器を並べるのは手伝ったわけだし、いつだってこんなふうに綾に甘えてばかりじゃいけないっていうのもわかっている。
僕が料理を作って、綾にふるまう機会を設けるのも大事なことなんだって。
だって、好きな人に手料理を作ってもらうのは、こんなに嬉しくて、心が温まることなんだから。
「はい、どうぞ」
「ありがと」
ご飯山盛りの茶碗を受け取り、食事を再開。
夢中になって食べ続けていると、しばらくして、先に食事を終えた綾がじっと笑顔でこちらを見つめているのに気づいた。
「ん? な、なに?」
ちょっとだけ気恥ずかしさを覚えながらも、それ以上にその行為の意味が気になって、尋ねてみる。
「ううん、特には。ただ、美味しそうに食べるなぁって」
そう言って、「ふふっ……」と心底嬉しそうに微笑を浮かべる。その表情に心臓がバクンと跳ね、思わずしどろもどろになってしまった。
「そ、そりゃあね。実際に美味しいし。――でも、そんなに美味しそうに食べてるように見えた?」
「うん、すごく。会話よりもなによりも優先してるって感じで。……ちょっとだけ、子供っぽくて可愛いって思っちゃった」
「うっ……、それは褒められているのか貶されているのか、微妙な感じだな……」
「褒めてるつもりだよ。これでも」
「そ、そうなんだ。……それと、ごめん。会話をなおざりにしちゃって」
ぺこり、と箸を加えたままで頭を下げる。これで嫌われるとは思わないまでも、ちょっとばかり面白くない気分にはさせちゃったかもしれないし。
しかし、綾はくすくすと上品に笑って、
「謝ることないよ。作った甲斐ある」
そのあとに「いつもそれだったら、ちょっとだけ嫌かもしれないけど」とつけ加えられたので、一応、今度は笑顔で「ごめん、気をつける」と返しておいた。ずっと箸を加えたままなのはご愛嬌だ。綾のご飯が美味しいのが悪い。
それからも、綾に見つめられながらだというのに、和やかに食事は進み。
食後のお茶を飲んでいるところで、ついつい口が滑ったというか、決定的な一言を僕は口にしてしまった。
「それにしても、なにを考えているのやら、うちの親たちは。年頃の男女だけを残して家を空けるなんて」
「あー、うん……。そう、だね……」
「間違いでも起こったらどうするんだ、か……」
「…………」
頬を真っ赤にし、顔を伏せる綾。
僕は顔を伏せこそしなかったものの、それでも顔がとんでもなく熱くなっていた。
……そうだった。
あまりにも二人でいるのが自然な空気が流れていたから、不覚にも忘れかけていたが、いま、この家には僕と綾しかいないんだった。
――二人で過ごす時間があまりにも自然で、心地よいものだったから。
そんな理由で『二人っきり』なんて状況を忘れるだなんて、なんて間抜け。
あるいは、綾のほうはずっとそれを意識して過ごしていたかもしれないのに。
「ほ、本当、なにを考えているんだろう、な……」
「う、うん……」
綾には伝わらなかったかもしれないが、今度の問いかけは父さんたちに向けてのものではない。僕と、綾に向けたものだった。
一体、僕はなにを考えているのだろう。ここから、なにをしたいと思っているのだろう。
一体、綾はなにを考えているのだろう。ここから、なにをしたいと思っているのだろう。
もしも、二人のそれが一致するとしたら、そのときは……。
そのときは……?
「ね、ねえ、知ってる?」
先に口を開いたのは、綾だった。
耳まで――いや、目に見える肌すべてを真っ赤にして、必死に言葉を紡いでいく。
「に、に……、にんにくって、せ、精力が、つ、つくんだって……。あ、あと……実はなにげに、キャベツも……」
そこまで言って、黙り込む。
精一杯、さりげなさを装って口にしたのであろう、唐突さを覚えるほどの彼女の言葉。そして、その裏にある意味に気づけないほど、僕は鈍感ではないわけで。
思えば綾は、スーパーでちゃんとにんにくを買ったか、やたらと気にしていた気がした。
なにげないふうを装っていたけど、きっと、彼女は彼女なりに今夜のことを考えていたのだろう。
「だ、だから……」
だったら、これ以上のことを彼女の口から言わせてはいけない。
そう思うのに、緊張で言葉が出てこなかった。人は、緊張しすぎても言葉が上手く出てこなくなる生き物だから。
「その……」
尻すぼみに消えていく、綾の声。
これ以上言わせてはいけないと思っているのに、僕は一言も言葉を発せない。
意気地なしだ、と自分でも思う。
なにをやっているんだ、と自分で自分に憤る。
一言でいい。たった一言、口にできれば……!
「間違いなんか、じゃ……ない、よ、ね……?」
どこかすがるような綾の口調と、潤んだ瞳。
情けないことだけど、その言葉を聞くまで、僕は行動に移ることができなかった。
恥ずかしがり屋で、内気で、控えめな綾にそこまで言わせないと、僕は行動に移ることができなかった。
僕から言わないと、と思っていたことを、ほとんどすべて言わせないと、僕は行動に移ることができなかった。
――ああ、それほどまでに、僕は綾に嫌われたくなかったのか。
自分から迫ったとき、拒否されるのが怖かった。
僕が綾とつき合うことにしたのは、綾が僕に告白してきたからだ。
その一生懸命さに心を動かされて、僕はそれを受けた。
だから心のどこかでは、もしもこれが恋心じゃなかったらどうしよう、といつも思っていた。
愛情じゃなくて、欲望で綾を求めてしまわないかと心配だった。
けれど。
嫌われるのが、これほどまでに怖く感じるほど、綾と離れたくないと、ずっと一緒にいたいと、僕は思っていたのか――。
それを自覚した瞬間、怖いなんて気持ちは吹き飛んでしまった。
胸に残るのは、そこまで言ってくれた綾への愛しさと。
そこまで言わせてしまった自分への罪悪感だけ。
だから、ここからは僕が言わないと。
男として、とかではなく。
綾の恋人として。
だって、綾がここまで想ってくれているのだから。
「――大丈夫。間違いなんかじゃ、ないから」
そう言って。
ようやく僕は席を立ち、座ったままの綾を後ろからそっと抱きしめた――。
ようやくここまで来たって感じです。
でも次は、18禁版の原稿からどれくらい削ったものか、という問題が。
すべてを省略してすっ飛ばす、というわけにはいかないんですよね。
心理描写をかなり多くしてしまって、必要不可欠な回になってしまったから……。




