第一話
「私は知っている。マーロウはなんでも知っている、どうしたらまっとうに暮らせるかということ以外はね」
レイモンド・チャンドラー『高い窓』
さゆりさんの件から数日後、不意打ち気味に大谷さんからこう聞かれた。
「つまり、八木先輩とは何もなかったのね」
「そうそう。ちょっとしたことを相談されて、それを手伝っただけだし」
大谷さんは、ぼくの答えに表情を翳らせた。
「小林くん、もしかして落ち込んでる?」
「そんなことは」
口ごもり、少し考えた。
結果的に上手く行っただけで、あれはアカネさんの手のひらの上で踊っただけだった。
「ご、ごめんね」
気を遣われてしまった。
「元気出してよ、あたしで良ければ話相手になってあげるから! その、いつもの小林くんの方が良いし。なんかここ数日ちょっと大人しいっていうか、物足りないっていうか、えと、あたし何言ってんだろ……えっと」
「ありがとう。心配してくれて」
「そそそ、そんなんじゃないわよ!」
なんだか慌てる大谷さんを、通りがかった委員長が見て、笑っていた。
◆◇◆
大谷さんと初めて会ったのは高校に入学してからだ。
入学式の後、慣れない制服を着て、ぼくらはこの教室を訪れた。
ついに高校デビューだ。
このあと自己紹介がある可能性は極めて高いが、それを待っていては出遅れてしまう。
周囲を見回し、誰よりも不安そうにしていた彼女に近づいた。
「おはよう」
「お、おはようございます……」
帰ってきたのは小さな声だった。
「ちょっと自己紹介の練習台になってくれない?」
不安げな顔は、不審げな顔にレベルアップした。
「えっと、それはどういう……」
「ぼくが自己紹介をする。YOUも自己紹介をする。それだけ。ね、簡単でしょ?」
「なんでユーだけ英語なのよ」
「ぼくの名前は小林ショージ。漢字はこう……小さい林を正しく司ると書くんだ」
不審げな顔は、不愉快そうな顔にクラスアップした。
彼女は嘆息した。
眼差しは冷たかった。
声はいっそ凍り付くようだった。
「小さい林を正しく司る男子、略して小さい男ね」
「ぼくのどこが小さいって言うんだ!」
「セクハラ禁止です!」
横から真面目そうな女子に大声で叱咤された。
三つ編みに眼鏡、そして口調と三拍子揃っており、溢れ出る熟練委員長の雰囲気に打ちのめされた。
「分かったよごめんなさい委員長」
「いや、何も決まっていないし、私はまだ委員長ではないのだけれど」
「すみません委員長!」
「う、ぐ……い、いえ。委員長は後ほどクラスの総意で決めるはずですから」
その物言いがすでに委員長っぽいのだ。
「ちなみにお名前は何と申すのでしょうか委員長!」
「だから私はまだ委員長ではありません! ……名前は相沢よしみです」
「分かりました相沢委員長!」
いつの間にか、周囲のクラスメイトたちの視線も集まっていた。
委員長! 委員長!
誰からともなく委員長コールが沸き上がった。
「まさか……あ、あなたはこの展開を狙っていたというのっ?」
「ふはははは。君がいけないのだよ相沢委員長! ぼくの邪魔をするものにはみな委員長になってもらおう!」
「高校デビューと同時にいつも委員長を任される空気を変えたかったのに!」
「あ、やっぱりそういう性格なんだ」
「あなたのせいで私の緻密な計画が崩れてしまったじゃないですか……っ!」
ぼくはハードボイルドな男だから、彼女の悲痛な声を聞いても斟酌しなかった。
「ぼ、ぼくのせいじゃあ、ないっ。あんたが、あんたが悪いんだ! そんな委員長っぽい格好をしているから! そ、そうじゃなければぼくだって……ぼくだって!」
動揺している声に聞こえるのは気のせいだ。
気のせいである。
「あなたのせいよ! あなたが! あなたが全部悪いの……!」
相沢さんもわりとノリノリで流れに乗ってきた。
「ね、ねえ」
自己紹介の途中で割り込まれた彼女は、困惑した様子だった。
「委員長! まさかすべては彼女の仕業だったのでは!」
「そ、そんな……! 信じてたのに! あなたのこと、私は信じてたのにっ!」
ぼくと相沢さんが投げかけた期待に、名も知らぬ彼女は見事に応えてくれた。
悪役っぽい高笑いをして、甲高い声を上げて、勢いよく机の上に飛び乗った。
どう考えても無茶ぶりだったが、これがまた実に絵になっていた。
「そうよ! すべてはあたしの手のひらの上だったのよ! 相沢さんが委員長になったのも! 小林くんが色々小さい男なのも! あは……あはははははははッ!」
「これは魔王……」
「魔王だ! 魔王が出たぞ!」
教室中のあちこちから、
魔王!
魔王!
と委員長のときと同じ、あるいはもっと勢いのあるシュプレヒコールがわき起こった。
流れが出来たことを見届けて、ぼくはその場に倒れ伏した。
「あ……あとのことは……頼んだ、ぞ……委員長……がくっ」
「ああ、悲しいけれど私もここまで……! 私のあとを任せられるひとは……」
振り返った相沢さんは、これまで騒ぎに無関心と見えた女子に呼びかけた。
「今野さん、あとは頼みます……ばたり」
名を呼ばれた文学少女風の娘は、すっと立ち上がり、その場で膝からくずおれた。
「了解。……しかし何たること、私も力を使い果たしてしまった」
相沢さんに続き、矢尽き刀折れた風の、実に見事な倒れ方だった。
「無念。和田君、あとよろしく。がくり」
倒れたまま今野さんがもごもごと発声した。
思いも寄らぬ熱演だった。
これに触発された眼鏡の男子が椅子を蹴倒し、周囲のクラスメイトたちを爽やかに鼓舞した。
「魔王に対抗するためには、僕の力だけでは足りない……! だから、右の佐藤君! 左の佐藤君! 左斜め後方の佐藤君! そして衝撃の押尾君!」
「おう!」
「任せとけ!」
「俺たちなら!」
「ここにいるぜッ!」
彼らも誰かの名を呼んだ。
そして力尽きて倒れた。
まるでドミノ倒しだった。
次から次へとクラスメイトがバタバタと前に後ろに倒れてゆく。
男子女子を問わず、一人、また一人と名乗りながら床に崩れ、最後に立っていたのは彼女だけだった。
ぼくと相沢さんの悪ノリに合わせてくれた彼女は、まだ名乗っていない。
「最後に聞かせて欲しい……あなたの名前は……?」
ゆったりと教室中を見回し、皆を見下ろしながら、彼女は高らかに名乗った。
「あたしは大谷さなか。そう、あなたたちの希望を打ち砕いた魔王よ……!」
魔王の名はクラスに響き渡った。
そして浮かべた不適な笑みと楽しげな高笑いは、皆の記憶に永遠に刻み込まれることとなった。
死闘の末の空気のなか、机上に立ち尽くす彼女の声は、まさに迫真だった。
「勝者はいつも虚しいわね……」
◆◇◆
見回した先は死屍累々。
ぼくは内面から滲み出るハードボイルドな雰囲気だけでやっていけるのか不安だった。
濃すぎる。
倒れ伏したまま大谷さんの顔を見た。
視線が合って、大きなため息ひとつ。
それから小さく微笑まれもした。
不意に廊下から靴の音が響いた。
ぼくたちは素早かった。
一瞬で、逆回しのビデオのように全員が席に戻った。
誰もがお互いの顔を見合わせ、視線で称え合った。
何かをやり遂げた達成感で一杯だった。
教室のドアが良い音を立てて開く。
「待たせたな、俺が担任の山本だ。今から自己紹介をするぞ! 一番の相沢から……」
「委員長! 委員長!」
「委員長、そのお下げはヌンチャクになるって本当ですか!」
「眼鏡ビームが出せるって聞きました!」
拍手喝采と、膨れあがった委員長コール。
担任が唖然としていた。
「おいお前ら……なんだこのテンションは……」
「諸君! 私が相沢よしみです! 好きな言葉は誠意と友情。嫌いなことはセクハラ。私の前でセクハラ発言した場合、それなりの対処をしますのでよろしくお願いします! なお、小林君には後ほどお話があります。休み時間にでも出頭するように」
以降もネタと真面目との入り交じった、和気藹々、もしくは限界を見極めようと狙い澄ました二度目の自己紹介が続いた。
ぼく?
ハードボイルド路線で語ったら爆笑されたよ。
チャンドラーから借りた台詞が拙かったんだろうか。
大谷さんの魔王コールよりも盛り上がってしまった。
最後まで熱狂は収まることなく、三十数名の自己紹介は大盛況のまま終了した。
「あー……まあ、なんでこんなに熱気があるんだか分からんが、悪いことじゃないから気にしないことにする。じゃあ席替えな。今は名前順だが、男子の列と女子の列に分けて、それから場所決めを……そうだな。委員長、やってくれ」
「先生。私、まだ委員長に決まったわけではないんですが」
「え?」
誰もが不思議な顔をした。
◆◇◆
相沢さんが席替えの方法について意見を募るが、なかなか決まらない。
「おい小林! なんでハードボイルドなんて不可能な路線に挑戦しやがった!」
「やっぱりトレンチコートが無いとダメだったのか」
「そこじゃねえよ!」
いま突っ込んだのは担任教師だった。
あーと唸ってがしがしと頭をかいた。
「お前に必要だったのはトレンチコートじゃない。……余裕と、沈黙だ」
担任は、それだけ言うとカツカツと靴音を響かせて、教壇へと戻っていった。
背中から醸し出される風格がすごかった。
まさに男の背中だった。
「先生がハードボイルドしてどうするんですか!」
「つーか超格好良かった……」
「山本せんせー。こっち向いてー!」
ハードボイルド対決の脇で席替えについての議論は紛糾していた。後ろが良い。
ドアの近くが良い。あの子の隣が良い。みな無責任に好き勝手言っている。
「委員長、クジでもなんでもいいから新しい席順の決め方を選んでくれ。他の連中の意見を聞いていたらいくら時間があっても足りん」
「委員長は確定なんですね……うう。分かりました」
相沢さんはノートのページを破り、即席のあみだくじを作り上げた。
ぼくの隣に大谷さんが座ることが決まった。
席に着いてすぐ、ぼくから話しかけた。
「いや、悪かったね。あんな大事になるとは思ってなかったんだ」
「いいわよ。気にしてないから」
さすがに魔王呼ばわりまで行くのは想定外だった。
「気に障ったなら謝るよ。ごめん」
「気にしてないって言ってるでしょ」
「なら、いいんだけど」
「……小さい男って言ったのは撤回するわ」
ぼそり、と大谷さんが呟いた。え、と聞き返した。
「なんでもないわ。席も隣同士になったし、これからよろしく。小林くん」
「うん、よろしく」
大谷さんは表情を和らげていた。
不安の見えない、ただ楽しげな笑みだった。
ぼくのハードボイルドはどっかに立ち消えてしまった。
が、それで女の子の笑顔が得られるなら悪くない。
そう思った。




