第三話
翌日のことだ。
テスト期間も終わり、晴れやかな気分になるはずのぼくは、憂鬱な気分をこれでもかと醸し出しながら登校したのだった。
「おはよー……って小林くん、どうしたのよ」
大谷さんが優しい微笑みを浮かべて、ぼくを気遣ってくれた。
「おはよう大谷さん。いや、ちょっとね」
「気になるわ。ちょっと、なにかしら」
「いや、だから」
「教えて欲しいのよ」
いたわりに満ちた声だった。
穏やかで優しげな笑みに釣られた。
「その、さゆりさんのところで失敗しちゃって」
「小林くん詳しく聞かせて。きっと八木先輩にフられたんだと思って優しくしてあげたらなによ失敗って。もしかしてベッドの上で――」
ぺし、と相沢さんがさりげなく近づいて、頬の紅い大谷さんの頭をはたいた。
「セクハラ禁止ね」
「で、でも」
「さなかちゃん」
大谷さんはしゅんとした。
捨てられた子犬のような、つぶらな瞳だった。
「そういう関係じゃないから安心してくれていいよ」
大谷さんはぱあっと笑顔を花開かせた。
幸せに満ちた、ここまでの会話がなければ惚れてしまいそうな笑みだった。
「そうよね。小林くんと八木先輩が恋人とか夫婦とか愛人とかになるはずがないわ。なれるはずもないし、なっていいはずがないし、なるべきでもないわ!」
相沢さんは特に何も言わなかった。
もしかしなくてもそこの認識は同じなのか。
大谷さんは興奮したまま、早口気味に言った。
「だから小林くんは八木先輩と関係を深めようだなんてすっぱり諦めてあ――」
「小林君!」
教室のドアが良い音を立てて開き、ぼくの名が大声で呼ばれた。
制服姿のさゆりさんだった。向けられた清冽な眼差しにうろたえるしかなかった。
大谷さんが唖然とし、ぼくとさゆりさんとを交互に見つめている。
さゆりさんは席まで足早に近づいてきて、ぼくの肩をがしりと掴んだ。そして、じっと目を覗き込んできた。
一瞬だけ躊躇して、それから言った。
「昨日はすまなかった」
「……ぼくも、なんだか迷惑を掛けたような感じで」
「いいや、君に責任はない。私が頼んことから始まったんだ。君に何もかも任せたりせず、私から率先して動かなければなかった。母のことも……」
「気にしてませんから」
「……話をしたい。身勝手は承知しているが、時間を取ってもらえないだろうか」
「いいですよ」
「ありがとう。放課後の方がいいかな」
「部活動はいいんですか」
「君と話す方がよっぽど重要だ。顧問には休むと伝えておく」
さゆりさんは本当にほっとしたように表情を和らげ、去っていった。
興味津々の様子でクラス中が耳をそばだてている気配を感じた。
さっきまでとは違う意味で、気が重かった。
◆◇◆
さゆりさんの去ったあと、クラスは平時の静けさを取り戻したかに見えた。
「母って、八木先輩が言ってたわね。つまり……家に行って、ご両親に紹介されて、交際を許さないって追い返された?」
「かもね」
「だけど八木先輩は小林くんを諦めきれなくて禁断の恋の行方は手に手を取り合っての駆け落ちに行かざるを得ない?」
「その可能性は否定できないけど」
「なんて、こと」
ぼくの隣で好き勝手に妄想の翼を広げる二人。
否定したいが、先ほどの会話と昨日の出来事を思い返すと確かにそう見えなくもない。
「小林くん!」
大谷さんが詰め寄ってきた。
少し丸い顔は、どこか緊張した様子だった。
綺麗どころに迫られている構図だが、妙な誤解に端を発しているのはいかがなものか。
「ダメよ! 駆け落ちなんて誰も幸せになれないわ! だからもっと分相応な相手を探すべきなのよ! ……たとえば、そうね、あ――」
「小林君! すまない、またも待ち合わせ場所を決めていなかった。この教室で待っていてくれるなら、私が迎えに行くが。それでもいいだろうか」
「あ、はい」
「それだけだ。ではまた」
颯爽と去っていった。
入れ替わるように担任の教師が入ってきた。
何かを言いかけた大谷さんが、口を半開きにして真っ白に燃え尽きていた。
こっそりため息を吐いた。
◆◇◆
放課後、教室に来たさゆりさんと一緒に学校を出た。
校門から出ると、揺らめくような青空が広がっていた。
下校する生徒の姿もまばらで、ぼくたちはそこに紛れ、大通りへと向かった。
「うちの家は……止めておこうか。君の家はどうだろう」
ぼくの視線に気づいてか、さゆりさんはすぐ否定した。
「メアリーと君の愛の巣に、私がお邪魔するのもおかしな話か。となると喫茶店かな。……お詫びも兼ねて私に奢らせてほしい」
「いや、メアリーさんとはそういうのじゃないです」
「分かってる」
ポニーテールの揺れ方はちゃんと力強かった。
歩き方がしっかりしている。
さゆりさんは疲労していたが、暗い表情ではなかった。
入り組んだ路地の中程に、喫茶店とだけ書かれた看板が見えていた。
「ここだ」
店内は静かな雰囲気で、奥の席に通された。
陽気な音楽が流れている。
席を挟んでさゆりさんと一対一となった。
「日替わりのケーキセットがオススメだな。今日は……」
「紅茶とモンブランのセットになっておりますお客様! ご注文がお決まりになりましたらお呼びくださいませっ」
ウェイトレスがすっと近づいてきて、メニューを差し出してきた。
「遠慮しないで好きなものを頼んでくれ」
さゆりさんに促され、とりあえず薦められたケーキセットを選んだ。
何とも言えない空気がぼくたちのあいだを満たしていた。
◆◇◆
モンブランと紅茶が運ばれてきた。
とりあえず一口だけ食べた。
「何から話したものか……そうだな。まず、あれからどうなったのかについて」
口火を切ったのはさゆりさんだった。
「母に泣かれて、叫ばれて、叱られて、それから夜明けまでずっと話し続けたよ。……わざわざ来てもらったのに、君に迷惑を掛けてしまった。改めて謝らせて欲しい」
さゆりさんは手をテーブルにつけて、深々と頭を下げた。
しばらく何も言えなかった。
許す、と口にするのも変な気がした。
「気にしないでください。怒ってもいませんし」
さゆりさんは、もう一度すまないと口にして、それから静かに話を続けた。
「アカネさんは去ったよ。あの後、アカネさんが夢に出て来たんだ。それで色々と聞くことができた」
疑問顔のぼくに、説明を重ねてくれた。
「これまでは出来なかったらしい。幽霊にもルールがあるんだろう。……アカネさんは私が心配だったそうだ。いや、正確には私と母の関係を気に掛けていたらしい。ただ黙って退去するだけでは、しこりが残ることになると考えた」
なるほどとしか言いようがない。
「……母は、可愛げのない私を放任していたとばかり思っていた。だが、泣き叫んでいた母の言葉を思い返すに、どう付き合って良いのか分からなかったそうだ。幽霊に対して嫌悪感を抱いていたのも、私が心配でどうにかしないとと必死だったから」
なるほどなるほど。
「アカネさんは言っていたよ。昔の自分にそっくりだと。すれ違いを続けて、苦しい想いを抱え続けてきたと。母と娘が距離を置いていては悲しいから。慣れないオシャレをさせたのも、母に対し、私から距離を縮めるのに都合が良かったからだそうだ」
さゆりさんは語り続けた。
ぼくは聞き役として仕事を全うした。
「母の中で小林君は……私が幽霊騒ぎで弱っているところにつけ込んだ、身体目当ての悪い虫になっている。無理を言って、私が頼んだと説明したが信じてくれなくてな。アカネさんが言うには、君は全部承知の上であの発言をしたと言われたが……事実だろうか」
どの発言であろうか。
考えて、水を一口飲んで、記憶を辿る。
さゆりさんは非常に言いにくそうに口ごもり、ぼくの顔を見つめた。
「『お母さん、さゆりさんとぼくは――』と言っただろう?」
付き合う許可を求めるでも、結婚の報告でもない、でもそれらしく聞こえる言葉。
嘘を吐かずに状況に一石を投じるための、ぼくらしい賢しい言い回しだった。
「今日も母が玄関まで見送りに来て、私を心配してくれてな。なだめるのが大変だったんだ。……アカネさんから伝言がある。『坊やなんて言って悪かったわ。あなたはたいしたものよ』だそうだ。やはり君は私と母のために悪い男のフリをしてくれたのか」
買いかぶりだ。
否定しておくべきだろうと口を開こうとして、
「これからは母と頑張って話すことにするよ。私に可愛げがないとか、そういうのは言い訳だったと気づいたんだ。近づけば、踏み込めば、ぶつかることもある。でも、恐れすぎて、互いが見えなくなるよりはずっと良い。アカネさんも、小林君もそれを教えてくれた。……私も負けていられないな」
さゆりさんの笑みに、ぼくは言葉を飲み込んだ。
誰が困るわけでもない。
さゆりさんの母親から目の敵にされ、ぼくに悪い男という印象がつくだけだ。
ぼくがさゆりさんと本当に付き合うだとか、これ以降も親しくなるという未来があるのなら話は別だが、そんな感触はつゆほどにもない。
だからいい。
これでいいのだ。
「さゆりさん。モンブラン、美味しいですよ」
「そうだな。いただくか」
……だからせめて、このデートのようなものだけは楽しもう。
◆◇◆
それからスイーツを食べつつ、さゆりさんと色々な話をした。
あとは男の意地だ。
気にしているさゆりさんを、なんとか楽しませることに終始した。我ながら案外上手くいったと思う。
幸い、話のネタなら無数にあった。
入学式直後の自己紹介事件や、ノリが良すぎて困るクラスメイト連中について語るだけでもすぐウケが取れる。
濃いクラスメイト揃いでいつも騒動には事欠かない。
場が暖まった頃を見計らい、メアリーさんとぼくとの間に起きた丁丁発止のやり取りを混ぜれば、真面目な顔のさゆりさんも、笑いすぎて目に涙を浮かべるくらいだった。
時間を忘れ、夕方近くになるまで、随分と長く話していた。
楽しい気分のまま、二人並んで喫茶店から出た。
会計時、やはりぼくが出すべきだと思ったが、お礼とお詫びも兼ねているからと、支払いの負担はさゆりさんに押し切られてしまった。
まさかポニーテールで目くらましなんか仕掛けてくるとは思わなかった。あの勝ち誇るような尻尾の動きに、ぼくはそれ以上意地を張るのを止めた。
結構、さゆりさんは子供っぽいひとだと思う。
別れ際、まっすぐに見つめられた。
「なんです、そんな情熱的な顔をして。ま、まさか!」
さゆりさんは真顔で口を開いた。
「君のことは好ましいと思っている。……もちろん得難い友人としてだが」
最後、にやりと笑った。鮮やかな肩すかしだった。
「本気で想われれば応えるのは吝かではないが、君にその気が無い。違うかな?」
何も言えなかった。
夕陽が真っ赤に輝いている。
流れてきた小さな雲が、オレンジと紫の合間で強く燃えているようだった。
「ありがとう、小林君。頼んだアカネさんについてもそうだし、母と素直な気持ちで話せたのも君のおかげだ。まだ解くべき誤解も残っているし、すぐに昔のような関係に戻れるわけではないが、これからは私の方から歩み寄りたいと思っている。だから、君も」
さゆりさんはぼくの頬を軽く突いて、微笑んだ。
「素直な気持ちを伝えられるよう、頑張れ」
さゆりさんの遠ざかってゆく後ろ姿を見送りながら、この場にメアリーさんがいなくて良かったと、少しだけ思った。




