エピローグ
季節はすっかり夏に切り替わった。
青空は果てしなく、太陽はやたらと明るく、白い雲は静かに流れていく。
玄関を出たところで可南子ちゃんと顔を合わせた。
「おはよう。今日も可愛いね」
「おはようございます、お兄ちゃん。……うん、ありがと」
笑顔に曇りがある。
可南子ちゃんの方がぼくより先に口を開いた。
「メアリーさんのことは、いいの?」
「あの日々は夢みたいなものだった。そう考えてるよ」
可南子ちゃんは泣きそうなで手を挙げた。
ぱしん、と小さな音がした。
「年上の男に活を入れられるなら、可南子ちゃんも一人前の美少女だね。……だけど、相手に気を遣って叩くんじゃダメだよ。男ってのは痛くしないと懲りないもんだし」
はっとした可南子ちゃんは、申し訳なさそうに瞳を揺らした。
「わたし、もしかして、はやまった……?」
「いや。ありがとう、気合いは入ったよ」
「ご、ごめんなさいっ」
ぼくの言い回しが悪かったのだ。
感謝代わりに可南子ちゃんの頭を優しく撫でた。
「ぼくはそろそろ行くよ。可南子ちゃんも遅刻しないようにね」
「お兄ちゃん。頑張って……っ」
可南子ちゃんと別れ、陽炎さえ揺らめくアスファルトの上を足早に歩く。
校門あたりで、黒髪のポニーテールが揺れていた。
手を挙げ、挨拶した。
「おはようございます、さゆりさん」
「おはよう小林君。……ところで、知ってるかもしれないが」
言いかけて、さゆりさんは言葉を止めた。
「……いや、いい。なんであれ、後悔はしないようにな」
応援するような眼差しに見送られて、校舎に足を踏み入れた。
教室に入ると、妙にそわそわした空気が充満していた。
おはようと挨拶を交わしてから、雰囲気の理由をさなかさんに尋ねる。
「転校生よ、転校生。うちのクラスに転校生が来るって話」
「ちょっと違います。まあ、クラスに一人増えるのは間違いではないんですが」
横から口を出した相沢さんが、意味ありげに笑った。
「またあの自己紹介やります? 新しい仲間のために」
「しないしない。……委員長さ、あんときのこと、実は根に持ってるでしょ」
「そんなことはないですよー。ふふふふ」
教師が勢いよくドアを開け、入ってきた。
「ちと早いが、ホームルーム始めるぞ! さ、入ってきなさい。このクラスはちょっと騒がしいが……慣れるまでの辛抱だ。我慢してくれ」
「せんせーひどーい!」
「俺たち、こんなに明るくて楽しいクラス作りのために日々頑張ってるのに!」
「静かにしろ! さ、まずは自己紹介からだな」
彼女は開かれたままのドアから顔を出し、クラスの勢いに負けじと黒板の前に軽やかに足を進めた。
動きに沿って煌めくのは金色の髪、正面に向き直れば青い瞳がわずかに揺れる。
「みなさん初めまして、中谷メアリーと申します! これまで事故で入院していたのでぐったりばったり休学してましたが、このたび見事に復活しました! 心機一転、めいっぱい頑張りますので、これからよろしくお願いします!」
万雷の拍手で満たされた教室内。
その騒がしさを気にも留めず、彼女はまっすぐにぼくを見つめている。
ぼくも立ち上がって、彼女と視線を交わす。
クラスメイト一同から好奇の視線を一身に浴びながら、彼女はすたすたと歩いて近づいてくる。
いつの間にか取りだした文庫本を、ぼくの手に握らせてから、言った。
「はい、預かっていた本、返すね」
「確かに、返してもらいました」
一度本のタイトルに視線を落として、彼女は頬を膨らませた。
あの日、ぼくが入院中の暇つぶしに、と渡したのはチャンドラーの小説だった。
「面白かったけど。……ショージくんのいじわる」
ぼくは、どんな表情をするべきかと迷い、努めて冷静さを装った。
「ぴったりだと思ったので」
「ホントにいじわるだよね」
ひとつ、ふたつ、なんとも言えない間が空いて。
「ただいま」
「お帰りなさい、メアリーさん」
答えると、彼女は笑顔になった。
ざわついていた教室が静まりかえる。
「ところで壁に耳ありって言葉、知ってます?」
耳をそばだてたクラスメイトたちが固唾を飲んで見守っている。
大谷さんだけは拗ねて顔を背けていたが。
メアリーさんは胸を張った。
「続く言葉も知ってるよ! ショージにメアリー! ほら、お似合いでしょ?」
見間違いようもなく、ぼくの知っているメアリーさんだった。
一方、教室はにわかに騒がしくなった。
「クラスのアイドル魔王さなかちゃんに恐るべきライバルが!?」
「ううう、羨ましいよう。告白したいよう、それ以上にされたいよう……!」
「この惨状を見て、どうして誰もツッコミを入れないのっ!」
女子の多くは、悲鳴とも嬌声ともつかない声で盛り上がっている。
「俺……もうダメかもしれない。あんな甘酸っぱい青春が本当にあるなんて」
「へへっ、悪いな。実はオレ、隣のクラスの娘と来週デートするんだ」
「あ、でも俺も最近、幼なじみと良い感じだぜ。なんか妙に可愛くて……」
男子の多くが、ぼくを見て腕まくりをしたり指をポキポキ鳴らしていた。
「なんてこった! 今こそ委員長に立ち上がっていただきたい! 委員長!」
すっくと立ち上がり、相沢さんが教室を見回すと、一瞬で教室が静寂を取り戻した。
「諸君! モテたくば、異性の前で格好良いところを見せたまえ!」
フッ、と笑う相沢さんの言葉には説得力があった。
言葉が行き渡ったところで、相沢さんは眼鏡を外し、髪の編み下げをそっと解いた。
そして、とても楽しげに微笑んで、こう告げた。
「私も好きです、小林君のこと。ああ見えて格好良いところがいっぱいあるんです。……以前エレベータに閉じ込められたとき、私も助けられましたし、他にも……。ふふっ」
ぼくの驚きと裏腹に、メアリーさんは、どこか嬉しそうにうんうん頷いていた。
静寂は消え去り、一挙に再燃した騒がしさは先ほどの比ではなかった。
「ちょ、ちょっとよしみちゃん! 聞いてない、聞いてないわよ!」
「ライバル宣言するなら今かと思いまして!」
「ええええええ!?」
「というわけでメアリーさん、これからよろしくお願いしますね」
「えへへー! こちらこそ! でも、ショージくんは渡さないからねっ!」
「って、なんで二人はいきなり笑顔でがっちり握手してるのよーっ!」
事態の推移を見守っていた担任が肩をすくめて、呆れ混じりの低い声で言った。
「お前ら、はしゃぎすぎ。喧しいから全員廊下に立ってろ。ただし静かにな」
ぼくたちは廊下に立たされ、ずらりと横に並んでいる。
すごい光景だった。
他のクラスもホームルームの時間になっていて、この静かな廊下を歩く生徒の姿はどこにもいない。
相沢さんとさなかさんは、にこやかにお互いを牽制し合っている。
隣に並んだメアリーさんの手を握りしめた。
すべすべとした手のひらだった。
メアリーさんは少し驚いたようだ。けれど、そっと握り返してくれた。
見慣れた金色に輝く髪がふわりと揺れて、ほのかにシャンプーが香った。青い瞳は、少しだけ潤んでいた。
体温と、やわらかさ、そしてメアリーさんの息づかいを感じた。
「また、好きになってもいいんだよね」
ぼくにしか聞こえない声で、メアリーさんが言った。
それに対する返事は、とっくに決まっていた。
これにて物語は一応の完結です。彼らの話にお付き合いいただきありがとうございました。




