第三話
行動する時は来た。
ちゃんとした服装を心がけて、あのあとすぐに家を出た。
病院に着くと受付で名前を伝え、メアリーさんの病室に向かった。
エレベーターに乗って、八階で降りる。
静かで白い世界がそこにはあった。
やわらかな清潔さに満ちて、現実から切り離されたように真っ白だった。
何人かの患者とすれ違った。
病室の名札を、一個ずつ確認しながら進んでいく。
中谷メアリー。
一番奥に、その個室はあった。
丸椅子に腰掛けた中年女性と目が合った。
「……こんにちは」
「こんにちは。あの……病室をお間違えではありませんか?」
ベッドに横たわっている彼女の顔を確認して、はっきりと答えた。
「いえ。メアリーさんのお見舞いに来ました」
「……そうですか。うちの娘のために。それは……ありがとう」
一瞬訝しげな顔をされたが、不審に思うのは当然だ。ぼくは名乗った。
「小林正司と言います。娘さんとは……同じ高校になる、予定だったものです。こちらに入院していると最近になって知りまして、慌てて駆けつけた次第です」
ぼくが制服姿だったことも功を奏し、彼女から警戒の色が薄れた。
お見舞いの品を手渡した。
途中で買った、箱入りのお菓子だった。
「それはご丁寧に。それで、その、小林さんは娘とはどのようなご関係で?」
「初めて顔を合わせたのは推薦入試のときですね」
メアリーさんから聞いた話と合わせて、それらしく語った。
「もっと早く来られれば良かったんですが……遅れまして、申し訳ないです」
彼女はぼくの顔をまじまじと見て、絶句していた。
不思議に思っていると、
「ご、ごめんなさいね、驚いてしまって。……いえね、この子、ハーフでしょ。それで……中学時代は、あんまり他の子となじめなかったみたいなの」
メアリーさんの母はそこまで口にして、途端に相好を崩した。
「だから高校生活はとても楽しみにしていたみたいなんだけど……もしかして小林さんにお会いするのを楽しみにしていたのかしら。ああ、そうね。推薦入試の後……ああ、きっとそうなんだわ! うちの娘、中学生のころも浮いた話のひとつも無かったようだし」
「そこまでは……」
適当に誤魔化した。
メアリーさんは顔を赤くして、さっきから黙っている。
「……あ、あらあら、私だけで盛り上がっちゃったわ。ごめんなさいね。あ、ちょっと花瓶の水を替えてこないと。小林さん、私、少し席を外しますね」
気を回されたらしかった。彼女は十分ほどで帰ってくるだろう。
病室から遠ざかる足音が充分離れた頃に、口を開いた。
「メアリーさん。どうぞ」
「どうぞ、って。もう少し言い方ってものがあると思うんだけど」
「なら、ロマンチックな言葉でも付けますか」
「やっぱいい。ショージくん、……後は任せるから」
ぼくの目の前で、二人のメアリーさんが重なろうとする。
メアリーさんは勢いを付けて、そのまま自分の身体に飛び込んだ。
メアリーさんは眠っている本体に重なることは重なるけれど、それだけだ。
戻っていくという感じではない。
三分ほど経って、ため息を吐いた。
アカネさんの予想が間違っていたのか。それとも何か足りないのか。
色々と考えているうち、つい閃いてしまった。縁を繋ぎ合わせる。
アカネさんの言葉を思い返しながら、その方法に行き着いた。
触れられない。それが理由だ。
本体であるメアリーさんは、ただ眠っているようにしか見えない。それに重なって不安そうな瞳がぼくを見つめてくる。
眠っている顔と、起きている顔。
そのどちらもがメアリーさんだった。
そっと唇を合わせた。
柔らかな感触のあと、メアリーさんは目を丸くした。
「ショージくん、またね」
「……待ってます」
彼女は目を閉じた。
言葉にあったのは、嬉しさと寂しさが丁度半分ずつだった。
優しい光となって、そのまま眠っている彼女に吸い込まれていった。
やがて光がすっかり収まると、寝ぼけたようなメアリーさんが、あくびをする。
目をこすり、伸びをして、なんだか眩しそうに目を開ける。
まだ夢の続きを見ているような、茫洋とした表情だった。
「おはようございます、メアリーさん」
「お、おはよう? あれ? 君って」
反射的に返事したが、不思議そうに目を瞬かせている。
「しばらく待っていたら、お母さんが戻ってきます。それまで出歩かないように。もしくはナースコールのボタンを押して、看護師さんを呼んでください。身体が弱ってるので、下手に一人で立つと転びます」
それだけ告げると、制服の内ポケットから一冊の文庫本を取りだして、直接渡さずサイドテーブルに置いた。
「入院中の暇つぶしにでも、どうぞ」
「う、うん」
お見舞いの品とは別に持ってきたものだ。
本のタイトルをちらりと見て、メアリーさんは首をかしげたが、突き返してきたりはしなかった。
「ぼくはこれで帰ります。……お大事に」
返事を待たずに背中を向けて、ぼくはそのまま病室から出た。
「う、うん。え、なんで……いや、そもそもここって? なんか病院みたい。そっか、病院だ。おかしいな。あ、わたし、事故に遭って……でも、あれ? どうして」
困惑した声が聞こえてきたが、ぼくは足を止めなかった。
そのまま病院から飛び出すと、強い陽射しが不意に目に入った。
頭上に広がる空の青はどこまでも鮮やかだった。
ぼやけた雲の切れ間から、真っ白な光が燦々と降り注いでいた。
ぼくの目の前は、歩くべき帰り道は、きらきらと輝いていた。
その途方もない明るさが眩しくて、目に痛いくらい眩しくて、ただ無性に寂しかった。




