第一話
「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」
レイモンド・チャンドラー『プレイバック』
春、それは新しい季節。
道を淡く染めるように桜の花びらが風に舞い上がり、希望や夢に向かって若者が全力で駆けだしていく、そんな美しい日々の始まり。
アパートの敷地内に足を踏み入れると、視界が一瞬、白く染まる。
そこかしこに日だまりのある通路を抜けた先で、こちらに気づいた大家さんと挨拶を交わす。
表札を見て、そこが自分の借りた部屋だと再確認。
受け取った鍵を差し込み、ひねり、期待に胸を膨らませてドアを開く。
「おはよー。今日からここに住む小林正司くんだね。よろしくねっ!」
新生活は、そんな言葉から始まった。
◆◇◆
「大家さん、これ、なんですか」
「これって……何かな」
後ろにいた大家さんに指し示したが、不思議そうな顔をされてしまった。
「すまないね。よく分からないんだが」
「こいつです。この女!」
ぼくの部屋の中央に陣取った、見覚えのない金の髪。
これから通う学校の制服を着ているから、何かのドッキリかと疑ったが大家さんの様子を見る限り違いそうだ。
青い瞳が印象的で、美少女と呼んで差し支えない容姿だった。
しかし、どう考えても不法侵入者である。
にこにこと、脳天気そうな笑顔を浮かべている。
靴を脱いだ大家さんはまっすぐ部屋に進み、一応ぐるりと一周。
目の前にいる彼女に気づいた様子もなく、怪訝そうに振り返った。
「小林君の言っている意味がよく分からないんだが」
「正司くーん。大家さんには見えてないみたいだよー」
ため息一つ、ぼくも部屋に足を踏み入れて、すぐさま手を伸ばした。
「どうしたんだい、いきなりピースして腕を突き出すなんて」
「ちょっと運動不足でして。それで大家さん。この部屋には幽霊が出るなんて話は無かったですよね」
「ちょっ。待って。目つぶしは怖い、怖い怖いっ! 対応がセメント過ぎるよっ!」
姿が見えないだけでなく、大家さんには声も聞こえていないらしい。
「聞いたことがないが。……もしかして、見えるのかな」
「顔だけは良さげな女の幽霊が。しかも岸月東の制服を着てますね」
大家さんの顔から困惑が薄れて、呆れが増えた。
「小林君。私と妻は君の味方だ。困ったことがあったら相談にのるよ。海外に向かったご両親からも、お願いされているし。だから大丈夫だ。何も心配することはないんだ」
「はあ、ありがとうございます?」
大家さんは渋い笑みを浮かべて、まっすぐ見つめてきた。
「うちのアパートに住む以上、君も私たちの家族みたいなものだ。つまらない遠慮なんかしなくていいんだ。分かったね」
大家さんは大きく頷いて、そのまま去った。追い掛ける気力はなかった。
「うちの子と親しくなれば現実に戻ってくるか……。しかし、天使みたいに可愛い可南子に近づけるのは……。悩ましいな。若者をまっとうな道に引き戻すには……」
原因である幽霊を睨んだ。
「が、がんばれ!」
てへ、と誤魔化すような笑顔を浮かべられた。
「ぼくの新生活が……希望に満ちあふれた、明るい日々の始まりが……」
「え、えーと。ほら、ほらほら。美少女だよー? こんなに可愛い美少女と同棲だよー? 嬉しいでしょ。嬉しいよね? 嬉しいに決まってるよね?」
「生き返ってから出直してこい!」
「ひどっ」
ぼくは悪い顔をした。
「オーケー分かった。じゃあお詫びに胸でも揉ませてもらおうか」
「え」
「大家さんからあらぬ誤解を受けてぼくは傷ついたんだ」
「ええと」
「心に傷を負ったんだ。だから揉ませろ」
「せ、セクハラだし!」
「知ってるか、幽霊に人権は無いんだ。勉強になったな?」
「いやー! わたしの初体験がこんなグダグダなんてイヤすぎるーっ!」
彼女の胸に手を伸ばしたが、予想通りすり抜けてしまった。別に貧乳すぎて揉めなかったわけではない。
「触れないのに揉めるわけねーだろ!」
「だ、騙したのね? こんなに純真なわたしを騙したのね?」
「やかましい! 美少女の幽霊なら、なんでもっとお淑やかそうな娘じゃないんだ! チェンジだ、チェンジ!」
「ひっどい言い方っ! わたしだってね、散々悩んで頑張って最初の一声を考えたのに! そんなに嫌わなくてもいいじゃない! わたしがもし幽霊じゃなかったらどうしてたのよ! 顔は好みなんでしょ!」
「口説いてたかもな」
「えっ」
「しかしお前は幽霊だ! ぼくのストライクゾーンから思いっきり外れてるんだよ! 分かったか、分かったなら出てけ!」
「だ、誰が出て行くもんですか。もし正司くんが別の場所に引っ越しても付いていってやるんだから!」
「地縛霊とかじゃないのかよっ! だったらなんでぼくの部屋に来たんだ!」
「ふんだ。教えてあげないっ」
言い争いは、およそ小一時間続いた。
◆◇◆
「……その、なんだ。小林君」
振り返ると、開け放たれたままのドアの向こうに大家さんがいた。
「今日は疲れただろう。ゆっくり休んだほうがいい。周りの部屋の住人には私から説明しておくから」
他の部屋から何人かが顔を出していた。
「大丈夫。大丈夫だよ」
「ち、違うんです!」
「小林君。大丈夫なんだよ。大丈夫だからね」
ぼくは肩を落とし、去りゆく大家さんを為す術もなく見送った。
元凶が言った。
「生きていればそういうこともあるって」
「幽霊は気楽だなチクショウ!」
しっし、と犬を追い払うようにして幽霊少女を向こうにやる。
意外と大人しく従って距離を取る彼女だった。
「で、そろそろ自己紹介してもいいかな?」
「どうぞ」
「わたしの名前は……えーと、た、田中? そう田中メアリーだよ!」
今えーとって言ったぞ。
偽名なのかと突っ込むと、メアリーさんは幽霊になる前の記憶は曖昧なのだと答えた。
田中はなんとなく思い浮かんだ名字だったらしい。
「その、幽霊なんだけど、正司くんの部屋でお世話になっても、いいかな」
「ダメです」
「どうしてダメなのか、理由を聞いてもいい?」
「ぼくが頷く理由がないから」
「……わたしの身体、好きにして、いいよ」
「触れねーだろうが!」
一瞬どきっとしたが、よく考えなくても交換条件になってないので却下。
さっきまでは見知らぬ幽霊だった。
今は名乗った美少女幽霊だ。
とりあえず口調を丁寧に直すことにする。
「じゃ、じゃあ! 朝、優しく起こしてあげる。正司くんだって美少女に優しく耳元で囁かれて起こしてもらいたいでしょ」
「目覚まし時計で充分です。次」
「ぐ。ダメか。なら……正司くんが寂しいときに話相手になってあげる」
一瞬だけ考えたが、首を横に振った。
「べ、勉強を教えてあげる!」
「ぼくより頭が良い自信があると」
「あははー……今のは無しで」
メアリーさんがむむむと考え込んだ。閃いた、と顔が明るくなった。
「えっちな小説を読み上げてあげる!」
「はい次ー」
「あえぎ声を上げる?」
鼻で笑ってやった。
「ぐむ。……そーだよね。処女のわたしがエロい声を出すって言ってもね……」
自分で口走ってから、メアリーさんは顔を真っ赤にした。
「あっ、ゴメン! 今の無し!」
聞かなかったことにしておく。
メアリーさんがたはは、と頬をかいた。
「この方向性は全部ダメだったりする、カナ?」
「ぼくが何をして欲しいのか、それを先に聞くべきだったと思いますが」
「あ。……教えてほしいなー」
「そーですねー。家事とかしてもらえると嬉しいですねー」
ものに触れないというのは確認済みだが。
「うう、正司くん、いじわるだ」
「そもそも幽霊に何か出来るなんて期待してませんし。一人暮らしをする予定のぼくに、考えを翻すだけのメリットを提示してください」
メアリーさんは視線を彷徨わせて、ぼくの顔色を窺っている。
「な、ならさ。……正司くん、わたしを好きになってもいいよ?」
好きになってもいい。
よく考えなくても、すごい言葉だ。
メアリーさんをじっと見つめ、大げさに咳払いを一度した。
「慎重に選考を進めてまいりましたが、残念ながらご希望に添えない結果となりました。今後ますますのご活躍とご健康をお祈り申し上げます」
「やめてやめて胸が痛いからそれ!」
再度、嘆息した。
「どこがメリットなんですか。どちらかと言うとデメリットだと思うんですが」
「真顔でそれはひどいよー。絶対後悔するよ? 訂正するなら今のうちだよ?」
うーん、としばらく考え、メアリーさんが口を開いた。
「わたしは正司くんが好きだよ。で、正司くんもわたしを好きになれば両想い。両想いってことは恋人になれるし、恋人なら同棲したっておかしくない。ほら簡単でしょ」
「今日初めて会った幽霊に好きと言われても怖いだけです。そもそもぼく、名乗った覚えもありませんし」
「あ……」
メアリーさんは泣きそうな顔をして、それから後ろを向いた。
しばらく経って向き直ったメアリーさんは、小さく笑顔を見せた。
「あはは。嘘泣きでしたーっ」
確かに涙のあとは見えなかった。眼が赤くなったりもしていなかった。
ぼくには幽霊が涙を流せるとは思えなかった。
思えなかったが、こう告げた。
「分かりました。しばらくはあの部屋に住んでいてもいいです」
「うん、うん。……やっぱり思った通りだ。正司くんは優しいね!」
「基本的には部屋の片隅で邪魔にならないよう静かにすること。それと、外で話しかけられても世間体があるのでスルーすると思います。あと、ぼくにもプライベートがあるので、外に出てろと言ったときは素直に従って散歩でもしてきてください」
「あれ、なにか想像していた同棲生活と違うよーな……?」
「大家さん他数名から受けた誤解、誰のせいだと?」
「は、はい。わたしのせいです。すべてわたしが悪いんです。だからその目は」
「何か?」
「いえ、なんでもありませんですはいっ」
「ああ、それと。知ってるみたいですけど、ぼくは小林ショージです。正司って響きが好きじゃないんで、次からショージって呼ぶなら、多少は譲歩してあげなくもありません」
メアリーさんはごくり、と喉を鳴らした。猫か。
口の中で確かめ、甘い飴を舌先で転がすように、ぼくの名前を繰り返した。
「ショウジじゃなくて……ショージくん、って?」
「はい」
「そっか。うん、分かった。ショージくん、ショージくん、ショージくん! よおっし、ちゃんと覚えたよ。今度は絶対間違えないからね、ショージくんっ!」
「そういえばぼくの名前はどこで?」
「えっと……ひみつ!」
「ほう」
「そ、そんな顔しても言わないもんっ」
「表札に書いてあるので秘密でも何でもないですけど」
「あ!」
ばつの悪い顔をするメアリーさん。
「それで見たわけじゃないとすると、いったいどこで」
「そっか、やっぱりショージくんは女の子の秘密を暴きたいの? そんなにわたしのことが気になるんだ? えへへ、ちょっと嬉しいかも」
「いえべつに」
「そこは気にしてよっ!」
こうしてぼくとメアリーさんの、なんと表現すればいいのか分からない、不思議な同居生活が始まったのだった。




