プロローグ
「ショージくん。ねえ、ショージくんってば」
耳元に囁かれた声に振り返った途端、可愛い顔で視界は遮られた。
拗ねたように頬を膨らませているが、こんなに近くても吐息は感じられないし、女の子らしい体温だってまったく届いてくれない。
「もうっ、まーだ気にしてるの? あれを聞かれたくらい大丈夫だって。それともなに、わたしのことが信じられない?」
彼女は口を尖らせ、すこし拗ねたように目を伏せてくる。
学生でも借りられる安アパートには似合わない美少女っぷりで、かすかにウェーブがかった長めの髪が、きらきらと風もないのに細い肩にふわりと流れる。
容姿はすこぶる可愛らしく、健康そうな顔色に、透き通るような肌の白さ。
「信じられる要素がどこにあります?」
「ひどっ。添い寝だってしてあげるのに!」
「文句はぼくに触れるようになってからどうぞ」
「うう……いつかセクハラしてやるーっ」
ぼくも背が高い方ではないが、彼女はそれよりさらに若干小さめだ。
ふわふわの髪は明るいブロンドで、朝の光を浴びては隙あらば金色に煌めいている。
瞳は僅かに青みがかっていた。イタズラっぽい笑い方も可愛らしかった。
「ほらほらー……壁抜けー」
どう見ても美少女で、困ったことに透明でも半透明でもない。
ものに触れたり動かしたりは出来ないが、頑張れば壁を抜けることは出来るらしい。
「そこは壁じゃなくてぼくの身体だし。なに、映画のエイリアンの真似? というかこの体勢はちょっと……かなり恥ずかしいんだけど」
「あ、ゴメンね!」
服装はいつも変わらない。不思議なことに、毎日見る制服とまったく同じだ。
体つきこそスマートだが、やせっぽちという感じはしない。
声は優しげで、振る舞いに比べると落ち着いている。低くなく、高すぎず。
「ん、なに? ショージくん、わたしに惚れちゃった?」
「手を出せないからって好き勝手言わないでくださいね、メアリーさん」
彼女の名前はメアリーさん。
外国人としか思えない名前だが、本人曰くハーフだそうだ。
確かに言葉使いが外国で長く暮らしていた風ではなく、聞き慣れた日本語の、それも同年代の喋り方だった。
さて、こんなに可愛い女の子と同棲して冷静でいられたらその方がおかしい。
おかしいけれど、メアリーさんは幽霊なのだ。
見た目は生きている人間とまるで変わらないのに、どれだけ積極的に行動したくても、あんなことやこんなことは出来ない。
「この一方的な関係を何と呼べば良いんだろう。寄生?」
「えっ。見せつけてくるのに? 見られて嬉しいんじゃなかったんだ?」
「見せつける趣味はないです」
「だってショージくん、前にわたしがきゃーきゃー言ってたら服を脱ぎ捨てて」
笑顔で威嚇した。メアリーさんは目を逸らした。
「そ、そろそろ登校しないと! ほら、もう時間だよ!」
「分かってます」
じっと見た。いつもだったら目を瞑って唇のひとつも突き出してくるが、今日に限っては思いっきり目を逸らされた。
「今日は、今日こそは、来ないでくださいね?」
「う」
「メアリーさん。返事は」
「ハイっ」
返事だけは素直なことに満足し、ぼくは玄関のドアを押し開けるのだった。
「いってらっしゃーい!」
声に振り返ると、家賃の安いアパートの一室。そのドアからメアリーさんが笑顔でぶんぶん手を振って見送ってくれていた。
◆◇◆
それが起きたのは、つい昨日のことだった。
カリカリと解答用紙に書き込んでいる音に混じって、唸るような咳払い。それから教師の靴音がいやに大きく響き渡るなか、ひとり冷や汗をかいていた。
「はろはろー」
咄嗟に出かけた声を抑えた。
青い瞳が、机の先から、ぼくを見つめている。
「ショージくーん。無視しないでよー。ねえってば。あ、その答え間違ってるよ。それ、三番だから。ほらほら、早く直す!」
テスト中で返事も出来ない。こちとら真剣に考えているのだ。
「ふむふむ……あっちの子の解答見てきたよ。そこ、万葉集だって」
いや、だから。
「んー。暇だね。ひーまー。ショージくん、どうにかして」
なんとかやり過ごしているうちに終了のチャイムが鳴った。
解答用紙の回収が終わると教室後方のドアへ急いだ。
数人から声をかけられそうになったが、それどころではなかった。
階段を一息に駆け上がり、昼休みになったばかりで誰もいない屋上に辿り着く。
同じ速度でついてきたメアリーさんに向かって、我慢していた分の大声をぶつけた。
「帰ってください!」
「えー」
「えーじゃなくて。なんで学校に来てるんですか! メアリーさん幽霊ですよね。昼間っからふらふら出歩くってどうなんですか!」
「だって寂しかったし」
儚げな表情に一瞬みとれた。メアリーさんの向こう側に青空が見えていた。
屋上のフェンス越しに、いくつもの白い雲が流れていく。
四階建ての屋上からは岸月市が一望でき、とても穏やかな景色だった。
「ぼくにも生活ってものがあるんです」
「わたしにもあるよ」
「具体的には」
「ショージくんを朝から晩まで見守るという崇高なお仕事が!」
肩をすくめて、鼻で笑う。
メアリーさんは唇を尖らせた。
「なにその反応! わたしみたいな可愛い女の子を侍らせておいて! 何日か前なんて寝転がったままわたしのパンツ見ようとしたくせに!」
「パンツの件は事故ですし、謝ったじゃないですか! っていうか、ぼくの部屋に勝手に住み着いてるだけでしょうが! メアリーさんが出ていってもぼくは困らないんです!」
メアリーさんは目を伏せた。悲しげな様子に、ぼくも言い過ぎたことを謝ろうとして、
「ふむ。騒がしいが、君……君たちは、何をしている?」
聞き覚えのない声だった。
見れば声の主が着ているのは女子の制服ではなく、なぜか上下のジャージで、胸とポニーテールが揺れていた。
顔、とくに目鼻立ちははっきりとしている。
背も高く、顔立ちは整っていて、可愛いより格好良いと表現すべきかもしれない。
首も、腰も、立ち方からすらっと痩せていて、しかも組んだ腕のおかげもあって胸の大きさがいっそう強調されていた。
どこか眠たそうだが、真剣な顔で、その硬質な視線はぼくを捉えている。
彼女は向こう側のベンチに座っていたか、横になっていたようだ。
ちょうど死角で、今まで目に入らない位置だった。
「私は三年の八木さゆり。ちょっと話したいが、いいかな」
声と同時に、するりと身を寄せてくる。
距離が近すぎる。離れようとするが、
「待ってくれ。君と話がしたいだけなんだ」
しっかり腕を掴まれては逃げられない。綺麗な、しかも胸が大きな先輩に、切実そうに耳元で囁かれている。
「や、八木さん」
「さゆりでいい」
「いえ。恐れ多くて」
「さゆりでいい」
「八木さゆりさん。その」
「さゆり」
逃げられそうになかった。
覚悟を決めて、目を合わせた。
「さ、さゆりさん」
先ほどから口を挟まないメアリーさんだったが、ほっぺたを膨らませていた。
なんだか修羅場っぽい気もしたが、きっと気のせいだ。
「ようやく笑顔になったな。……まずは君の名前を教えて欲しい」
「小林正司です。ショウジは、正しいに司ると書きます。でも名前で呼ぶときは、ショージってカタカナっぽくしてくれるとありがたいです」
「障子紙の障子とか、会社の商事とか、そう聞こえるのはイヤということかな」
「そんなとこです」
「では、小林君と呼ぼうか」
一呼吸置いて、さゆりさんは言った。
「――幽霊を見ることが出来る君に、ひとつ頼みがある。ああ、もちろん言いふらしたりしない。話を聞いた上で断られるのなら、それも仕方ない。だが、せめて話だけでも聞いてもらえないだろうか」
逃げたくなったのは、これが理由だった。顔を覆いたくなった。
メアリーさんは幽霊だ。そして、何故か、ぼくにしか見えない。
「話はこのあと……いや、君にとっては急な話だ。テストもあるし明日にすべきか」
ぼくは頷いた。
「また明日だ。小林君」
屋上から去るさゆりさんを見送り、その場に立ち尽くした。
「ショージくん。お人好しもほどほどにした方がいいよー?」
からかうような言葉に、ため息で返した。
気の利いた言葉は思いつかなかった。
「え、えーと。パンツ見る?」
「やめておきます」
メアリーさんがスカートの裾を持ち上げたが、鉄の意志で断った。
「さっきはすみませんでした。言い過ぎました」
「う、うん。わたしもごめん」
謝りながらスカートをひらひら弄んでいる。見えそうで見えない。
「遊んでますよね」
「うん」
初夏の風が吹く。
爽やかで鮮やかな青空が広がっている。
その抜けるような明るい空を見上げながら、ぼくはくすぐったい気持ちで少し前のことを思い出していた。
登場人物紹介など
小林正司………主人公。チャンドラー作品を愛読している
メアリー…………金髪碧眼の美少女で同居人。ハーフ
相沢良美……委員長オブ委員長。中学時代は生徒会長
大谷最中……ツンデレ系クラスメイト。結構ノリが良い
八木小百合……三年生の先輩。多くの後輩に慕われている
アカネ…………古くから存在している不思議な幽霊
大家……………主人公の住むアパートの経営者。親バカ
美里可南子……大家さんの一人娘。人見知りしがち
ギムレット……ジンとローズ社製ライム・ジュースを半分ずつ、他には何も入れない




