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壁に耳有り、ショージにメアリー  作者: 三澤いづみ
第五章

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第一話

「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」

         レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』

  

 道路はひどい渋滞で、バスやタクシーでは遅すぎる。


 ぼくは全力で走った。

 メアリーさんもついてきた。

 あまり無理をして欲しくないけれど、家で待つよう説得しきれなかった。


 慌てているのか、焦っているのか、とにかく可南子ちゃんの声は震えていた。

 声に混じった不安や恐怖は本物で、何より焦燥は凄まじく、ぼくは急いで現場に向かった。


 可南子ちゃんは、さなかさんと一緒に百貨店でショッピングをしていたらしい。

 朝からいくつかの店を楽しく回っていたが、そこで火災が起きて、はぐれてしまったそうだ。


 場所は駅前の岸月百貨店。

 いつぞやエレベーターに女の子が閉じ込められた、来年取り壊される予定の店舗だった。


 可南子ちゃんの電話口の向こう側はあまりに騒がしく、なんとか張り上げている声を聞き取ることで精一杯だった。


「さなかさんが戻ってきてない、ってことだね?」

「うん……避難の誘導があったから、店員さんの指示に従って、六階の階段までは一緒に歩いてたんだけど……気がついたら姿が見えなくなってて。外に出ても、見つからないの。電話も通じなくて。だからお兄ちゃんに……っ」


 まだ百貨店の中にいるんじゃないか。

 途中で何かあったんじゃないか。

 近くで叫んでいる店員にも探してほしいと懇願したのだという。


「でも、ちゃんと避難誘導はしたって、全員が非常階段に来たことをワンフロアごとに確認したって……だから」

「ぼくが、もうすぐ着く。だから可南子ちゃん。絶対に自分が探しに行こうだなんて考えちゃダメだよ」


 不安がっている可南子ちゃんにそれだけ伝えて、走る速度を上げた。



◆◇◆



 岸月百貨店の前に辿り着いた。

 さほど広くない道を埋め尽くすように大量の人が溢れている。

 混乱は収まる気配が無く、黒山のような人だかりに怒号が乱れ飛ぶ。


 救急車も消防車もまだ来ていないようだ。

 避難客が大量にいた。

 建物からは次から次に黒い煙が噴き出していた。


 すみません、うちの子を見ませんでしたか。誰か、うちの子を。


 三十過ぎの女性が蒼白になって叫んでいる。他にも友人の名前を大声で呼ぶ男性。

 結構な人数が大声を挙げている。


 人混みをかき分けて、心配そうに建物を見上げる可南子ちゃんに声を掛けた。

 黒っぽいフリル付きの服にスカートは長めだったが、その膝から血が流れていた。


「お兄ちゃん」


 ぼくの顔を見て、わずかに安堵した様子だった。

 視線がふくらはぎに向いていることを察知すると、可南子ちゃんはなんでもないと口にした。


「ただの擦り傷だから。それよりさなかさん、まだ見つからないの……っ!」


 建物から噴き出す煙の勢いは、わずかに増していた。

 さなかさんの携帯電話の番号を可南子ちゃんから教えてもらった。


 ぼくも試してみたが通話状態にならない。

 何かあったのは間違いない。


 ようやく追いついてきたメアリーさんは、肩で息をしていた。

 ぼくの視線で、可南子ちゃんもメアリーさんがそばにいることに気づいた。


 時間が惜しかった。

 情報も足りなかった。

 さなかさんがどういう状態なのか。それを調べる方法を、ぼくは知っていた。


 アカネさんから話を聞く前だったなら、すぐさまメアリーさんに頼んでいた。

 壁抜けでもなんでもして、さなかさんの居場所を探して様子を見てきてくださいと。


 ぼくは拳を握りしめた。


「メアリーさん」

「……うん」


 さっきの話の続きと気づいても、メアリーさんは理由を尋ねてこなかった。


「アカネさんの話によれば、メアリーさんはまだ生きてます」


 ぼくは全部正直に伝えた。


 まだ死んでいないことを。

 半年しか猶予がないことを。

 そして無理をすれば、何らかの形で消耗をすれば、その猶予すら一気に減っていくことを。


「無理をしなければ、きっと生き返れるはずです。でも……」

「ショージくん! そこでためらっちゃダメじゃない!」


 言いよどんだ瞬間、メアリーさんから、びしっと指を突きつけられた。

 覚悟を決めて、ぼくは言った。


「さなかさんを助けに行きたい。命掛けですが、ぼくと一緒に来てくれますか」

「もちろん!」

「本当に、いいんですか」

「逆の立場なら、置いていかれたい?」


 返事は決まっていた。

 いま動かなかったら一生悔やんでも悔やみきれない。


 ぼくが憧れたハードボイルドは、こういうとき絶対にやり抜くと決めた男だ。

 そのために歯を食いしばって進み続ける人間なんだ。

 ただ、そう信じた。



 可南子ちゃんは泣きそうな顔をしたが、連絡が付き次第大家さんに来てもらうこと、そして危なくないよう離れた場所で待っていることを、この場で約束してもらった。


 岸月百貨店の表側は混乱の極みだが、店員が懸命に避難誘導している。

 そこで裏口、荷物の搬入口へと急いだ。

 表に比べれば混雑は少ない。

 それでも野次馬が近づかないよう関係者たちが目を光らせている。


 従業員用の出入り口は開いたままだ。

 他のルートを探すよりはマシだろうが、そこも数人が遠巻きに見守っている。


 いきなり建物の上階で爆発が起きて、その場所に大勢の目が向く。


「今よ!」


 どんなに大声でも、他のひとには聞こえない声。

 ぼくははっと我に返り、この隙に、開いたままの扉から中へとこっそり潜り込んだ。


 従業員用通路から階段を昇った。

 途中、手洗いを見つけてハンカチと服を濡らす。


 可南子ちゃんの話によれば、六階から降りる途中で姿を見失ったらしい。


「じゃ、まずは上を目指しましょ。煙が充満してたら、わたしが先行するから」


 煙はメアリーさんをすり抜けるため、ぼくよりは安全のはずだ。

 だが、それで消耗しないとは限らない。


 ぼくは頭を下げるより、感謝の言葉を伝えた。

 メアリーさんは照れ隠しのように一息で階段を駆け上った。


「さなかさん! いたら返事をしてください! さなかさん!」


 見落としの可能性は捨てきれないが、三階にはいないようだ。

 こうしている間に煙が少しずつ天上付近に溜まってゆく。


「次!」


 辿り着いた四階に足を進めると、熱気と黒い煙が吹き付けてきた。


「さなかさん! いませんか! さなかさん……っ!」


 全体に火の手が回っていた。

 ぼくたちのいる方向へと熱風が吹き込んでくる。


 スプリンクラーは結構な量の撒水を行っているが、消火には至っていない。

 臭いは凄まじく、煙の色は禍々しい。


 ハンカチを口に当て、煙を吸わないように姿勢を低くしておく。

 少し待ったが返事はない。

 五階に向かおうとして、足を止めさせられた。


「何か、聞こえる?」


 さなかさんの声ではないが、無視も出来ない。


「……見てくる!」


 止める暇もなく、メアリーさんが炎揺らめく四階へと駆け込んでいった。


 走ったからか、それとも火が何らかの負担を与えるのか、メアリーさんはいつかの青ざめた表情に似た、疲れた様子を垣間見せた。


「子供! 子供がいて、大谷さんもそこにいた!」


 指し示された方へ、ぼくは急いだ。


 行く先々が火に囲まれている。

 スプリンクラーの放水で濡れているため、いきなり服が燃えることはないが、やはり怖いことには変わりない。

 途中、目についた消火器を確保した。

 思ったよりも重い。


 炎の壁が道を塞いでいた。ここまで来ると、はっきりとした泣き声が聞こえる。


 消化器のピンを抜いて、白い薬剤を噴射する。

 炎の勢いが若干弱まった。

 空になった消火器を放り投げ、息を止めて駆け抜けた。

 運良くズボンに燃え移らなかった。


 見つけた。


 商品棚の列のあいだで、さなかさんは意識を失っていた。

 彼女の隣で半ズボンの子供が泣いていた。

 聞こえたのはこの子の声だった。


 さなかさんは逃げる途中、一人きりの子供を目にした。

 この子を助けようと四階に留まったが何かが起きて気絶した。

 そう推測した。


 ぼくの姿に気づいて子供が泣き止んだ。

 さなかさんを背負い、この子に聞いた。


「きみ、動けるかな?」


 鼻水だらけの顔をぐしゃぐしゃにしつつ、その子は頷いた。


「そのおねーちゃんがっ……たすけてくれてっ……」

「事情は後で聞くから。まずはあっちに逃げよう」


 せめて自信たっぷりに、まるっきり平気な顔で、ぼくが燃え盛る通路を指さした。

 これでも火の手が比較的薄い方向だった。


 すでに業火に取り囲まれている。

 膨れあがった黒煙が視界を閉ざしていた。

 見慣れたフロアにもかかわらず、ルートは記憶を頼りにするしかなかった。


「怖いかな」


 当たり前だ。

 言葉を失って震えるその子に、ぼくは笑いかけた。


「正直、ぼくも怖い。すっごく怖い」


 その子は、ぼくの顔を見上げた。

 ぼくはさなかさんを背負ったまま、その子の頭にぽんと手を置いた。

 それから撫でてやる。

 多少力強く。ぐりぐりと。


「熱くても怖くても今は突っ切るんだ。見えづらいけど、あっちに階段がある。さ、このハンカチを口に当てて」

「に、にーちゃんはどうするの?」

「大丈夫」


 実は全然大丈夫ではないけれど、せいぜい格好付けておく。

 炎の向こう側から、メアリーさんが身振り手振りで逃げ道を教えてくれていた。

 ぼくはそれを信じるだけだった。



 さなかさんは気を失ったままだ。

 とにかく階段に到着しないことには。


「じゃあ……行くよ!」


 商品棚の隙間という小さな安全圏から抜け出して、膝くらいの高さの炎がおぞましく渦巻いている正面に向かって、二人で同時に駆け出す。


 ぼくたちが離れた瞬間、凄まじい音がした。

 爆発が起きた。

 激しい炎が追い掛けてくるようだった。振り返る暇はない。額から流れてくる汗を拭う余裕もなく、ひたすら走る。

 熱い。


 熱い!


 歯を食いしばって走る。

 先導していたメアリーさんが強く叫んだ。


「停まって!」


 あの子にメアリーさんの声は聞こえない。


 ぼくは前に飛び込み、その子の腕を掴んだ。

 驚いた顔。

 そして道の先を消し飛ばすように横から爆炎が膨れあがった。

 荒れ狂う火炎の壁が目の前に立ちはだかった。


 ぼくはさなかさんごと横に倒れた。直撃は免れたが、髪の毛を炙るような焦熱が前方から吹き付けてくる。


「……こ、こばやしくん?」


 今の衝撃で、さなかさんも目を覚ました。

 二、三回、目を瞬かせたあと、前後左右に烈火が噴き出している絶望的な状況を把握して、さあっと顔から血の気が引いていった。


「ははは、助けに来たよ。こんな状態だけど」


 やけくそ気味ではあるが、笑顔は笑顔だ。


「どうして」

「ぼくは、ハードボイルドな男だからね」


 こんなときでも普段通りに。

 こんなときだからこそ、いつものノリで。

 無理にでも笑っていると、余裕があるような気がしてくる。

 本当にハードボイルドな男は、そんなことを口にしないなんて分かってる。


 さなかさんに笑顔とも泣き顔ともつかない複雑な顔をされた。

 それから隣にしっかりと立つ子供の姿を見て、良かったと安堵した。


「あと十メートルで階段なんだけど……これはキツイかな」


 声だけは明るくしておいた。

 さっきとは炎の勢いが違い過ぎる。

 流石に、自分の背丈と同じ高さの火柱に突っ込めとは言えなかった。


 逃げ道など無いと言うように、灼熱の壁も後ろからどんどん迫ってくる。

 空気が熱い。

 すべてが焼けている。


 当たり前だが、ぼくは諦めていなかった。

 火の手はすぐそこまで迫っている。

 まだ焼け死んでいないのが不可解なくらいだ。


 奇跡なんてあるのだろうか。


 ……きっと、ある。


 この世には不思議なことが存在している。ぼくはメアリーさんを知っている。

 そうだ、そのメアリーさんはどこに行った?


「ショージくん……っ!」


 ぼくが気づいたその瞬間、声が聞こえた。

 メアリーさんは炎の中にいた。

 火炎に包まれていても燃えることのない、触れられぬ身体で。


「なんとか、できるかも! さっきから……少し、試してたの」


 顔色は悪い。

 アカネさんの来た日のように。

 あるいはもっとひどい顔色だった。


 疲弊しきった様子。肩で息をしている。

 いつ焼け死んでもおかしくない状況のぼくたちが未だに大きな火傷ひとつせず、この場で立っていられる理由。


 無理をして。

 猶予を。残り時間を。凄まじい勢いで消耗をしながら。


「メアリーさん。それは!」


 ぼくの悲鳴じみた叫び声。

 いきなりのことに子供は驚いて、さなかさんは呆然と、血の気の引いたぼくを見ていた。


「実は、ね。アカネさんとしてた話、ぜんぶ聞いてたんだ。タヌキ寝入りだった」


 悪戯っぽく笑って、メアリーさんは胸を張った。


「手伝うって、言ったよ。だからショージくん」

「ごめん……」

「言葉が違うでしょっ! ほら、ちゃんと言ってよ!」

「ありがとう。お願い、メアリーさん」

「うん! 任せて!」


 合図をしたら全力で走るよう二人に指示した。

 さなかさんだけでなく、あの子も素直に頷いてくれた。


「さん」


 メアリーさんが、目を閉じ、集中している。


「に」


 ぼくたちは、駆け出す姿勢を取る。


「いち」


 今まで逸らされていた炎の波が、ついに、背後から襲いかかってくる。


「走れ!」


 一瞬の差。

 その間隙を縫って、ぼくたちは恐ろしい火の海へと飛び込んだ。



 荒れ狂う火焔を踏みしめ、まっすぐ駆け抜けてゆく。

 燃やし尽くそうと腕を伸ばしてくる巨大な炎は、ぼくたちを包み込む透明な光によって遮断されていた。


 メアリーさんの必死な顔と、すべてを灰と化す赤い輝きとが、ぼくの視界を後ろに流れていった。

 三人で階段まで辿り着き、転がり落ちるようにして駆け下りた。


 足はパンパンで、とっくに体力は限界だった。

 それでも二人を連れて一階の正面入り口へと辿り着くことが出来た。


 すでに消火活動が始まっていた。目に飛び込んできたのは、消防車と防火服。

 そして怒号と誰かの泣き顔。


 最後にメアリーさんの姿が見えた。

 無事、一緒に脱出してくれたらしい。


 助かった。

 助けられた。


 そのあとのことは、よく覚えていない。

 

 

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