一話 家ごと転移
「…………は?」
朝。光を遮っていた分厚いカーテンを勢いよく引き開けた瞬間、俺――森田和樹の思考は、完全に停止した。
窓の向こうに広がっていたのは、見慣れた街並みではなかった。
見渡す限りの深い森。
いつもなら見えるはずの向かいの家も、車が行き交う道路も、整然と並ぶ電柱すら存在しない。あるのは、天を突くほどの巨木と、人の気配など微塵も感じさせない不気味な原生林だけだ。
「な、なんだよ……これ……」
まだ夢の中にいるのかと思い、激しく目をこすり、痛いくらいに頬をつねってみる。じんと熱い痛みが走る。
もう一度、恐る恐る窓の外を見た。
景色は何一つ変わらない。
「そうか! ドッキリだな!? 窓の外にリアルな背景幕でも張ってあるんだろ! いやぁ、最近のCGやVR技術は本当に凄いなあ、ハハハ!」
必至に現実逃避を決め込み、汗ばんだ手で勢いよくサッシを開け放つ。
その瞬間、むわっとした湿った空気が部屋へ流れ込んできた。
鼻をつく濃厚な土と草木の青臭い匂い。遠くから響く、鳥とも獣ともつかない耳慣れない鳴き声。そして、空に浮かぶ巨大な惑星。
五感が容赦なく冷酷な現実を突きつけてくる。
――これは、夢でもドッキリでもない。
「~~っ! 父さん! 母さん! 姉ちゃん! 明日香! 誰かいないのか!?」
父の書斎、母の寝室、姉の部屋、妹の部屋。トイレや風呂場、押し入れの中に至るまで、家中のすべてのドアを片端から開けて回った。
結果は全敗。
母さんの化粧台には倒れたコスメボトルから甘い香りの液が滴り、姉ちゃんのベッドには誰かが今まで横たわっていたような人型のシワが残されていた。妹の部屋には、脱ぎ散らかされた制服とスマホが床に転がっていた(これに関してはいつもの光景だが)。
鍵が掛かっていたトイレに一縷の望みを託し、指の爪で解錠してみるも、中はもぬけの殻。おそらく、誰かが使用しているタイミングで転移が起きたのだ。
つい昨日の夜まで、家族五人で食卓を囲んでいた。社会人3年目、そろそろ一人暮らしでもしようかななんて呑気に考えていた25歳の俺の、くだらないことで笑い合っていた日常が、跡形もなく消え去っている。
残されたのは俺一人だけ。
「嘘だろ……家族全員、消えちまったのかよ……」
静まり返ったリビングで、俺は力なくソファに崩れ落ちた。
この見知らぬ異世界で急に一人ぼっち。食料が尽きれば餓死するし、あの森から凶悪なモンスターでも襲ってくればひとたまりもない。それに地球育ちの一般人にサバイバル知識なんてあるはずがない。詰んでいる。
「せめてネットが使えればなぁ……」
ズボンに入れていたスマホを取り出す。持ち歩くクセはこんな時でも抜けないらしい。何とはなしに画面を点け、右上のアイコンへ視線を走らせた。
アンテナ、バリ5。
「電波あるんかい!」
い、いや、落ち着け俺。ここは素直に喜ぶところだ。家ごと転移なんていう大異常事態が発生してる時点で、地球の常識が通用しないのはわかってるだろ。
「いいじゃないか、未知の原生林に電波が通っていたって。今やエベレストの山頂でだって通信ができる時代だ。通話できたところで警察や消防がここまで助けに来られるかはさておき、自分に都合のいい異変ならいくらでも受け入れてやる!」
一息にまくしたてて、強引に自分を納得させる。
「警察……いや、まずは家族か」
藁にもすがる思いで通話アプリを開き、家族の番号を片っ端からタップした。
父さん。母さん。姉ちゃん。明日香。
誰でもいい、頼むから繋がってくれ!
『ツー……ツー……ツー……』
だが、どこへかけても発信音すら鳴らず、虚しく切断音だけが響く。まるで、電波だけが存在していて、その先にあるはずの世界が消えてしまっているようだった。
「ならネットは!?」
ブラウザアプリを起動し、ニュースサイトの更新ボタンをタップする。どうせ通信エラーの画面が出るだろうと落胆しかけた――その時だった。
ピコンッ。
「……え?」
軽快な通知音とともに画面が切り替わり、見慣れた大手ニュースサイトのトップページが表示された。
「こっちは繋がんのかよ!?」
良くも悪くも裏切りの連続に情緒がおかしくなりながら、試しに動画配信サイトを開いてみる。
サクサク動く。検索欄に『サバイバル 基礎』『野外 毒草 見分け方』と打ち込むと、大量の解説記事や動画が一瞬でヒットした。
「勝った! サバイバル知識も娯楽も検索し放題じゃないか! てか助けを呼べる!」
思わずガッツポーズを決めた俺だったが、SNSを開いて救助要請を書き込もうとしたところで、首を傾げた。
いくら投稿ボタンを押してもエラーになり、ニュースサイトを何度更新してもタイムラインの時間が一向に動かない。表示されているのはすべて、今朝までにアップロードされた過去の記事や動画だった。
現在地のGPS計測も不能。
どうやら、双方向の通信や最新の更新は無理で、転移前の地球のインターネットという巨大なデータベースだけがローカルで繋がっている状態のようだ。
つまり、外部へ助けを求めたり、地球の『今』を知ることはできない。
「ま、情報が得られるだけでもマシか。もしかしたら神様が調整中でそのうち使えるようになるかもしれないし」
画面の中の地球に少しだけ未練を残しつつも、俺は大きく息を吐き出した。
一方通行とはいえ、サバイバル知識を調べることもできれば、暇つぶしに動画を見ることもできる。十分だ。
――ぐぅうううううううう。
その時、静寂を切り裂いて俺のお腹が盛大に鳴った。極度の緊張がほぐれたせいか、強烈な空腹感が襲ってくる。そういえば起きてから何も食べていない。
「ふぅ、安心したら腹が減ったな。まずは朝飯にするか」
俺はスマホをポケットに押し込み、キッチンへと向かった。
(待てよ……電気がないなら、冷蔵庫の中身を早く処分しないと全滅するんじゃ……)
そんな不安を抱きながらキッチン足を踏み入れた瞬間、聞き慣れたブーンという低い稼働音が耳に届いた。
「ま、まさか……」
半信半疑のまま、パチッと壁の照明スイッチを押してみる。
パッ――。
「え、つくの!?」
まぶしい光がキッチンを照らし出す。水道の蛇口を捻ると、ジャザーッと勢いよく透明な水が流れ出た。ガスコンロのつまみを回せば青い炎が力強く揺らめく。
恐る恐る蛇口から流れる水を手にすくい、舐めてみる。
癖のない、いつもの冷たくて美味しい水道水だ。
「電気、水道、ガス、ネット、全部生きてるッ!!」
電波どころの話ではない。家中のインフラというインフラが、何事もなかったかのように完璧に稼働していた。
冷蔵庫を開けると、そこに広がっていたのは、家族五人分の生活を支えるために蓄えられていた圧倒的な食料の山。
一番上の段には、昨日母さんが奮発して買ってきた特売の黒毛和牛パック。ドアポケットには1リットルの牛乳が二本と、お茶のペットボトル。卵ケースには綺麗な卵が十個。野菜室にはみずみずしいキャベツ、ネギ、トマトなどなど。冷凍室には氷と冷凍食品がぎっしり詰まっている。
さらに食品庫にはカップ麺の買い置きが二箱、箱入りのレトルトカレー、パスタ麺、缶詰、そして米が数十キロ。
「これだけの量があれば、俺一人なら一カ月……いや、節約すれば二カ月はいけるか?」
何はともあれ、まずは生ものからだ。冷蔵庫も万能ではない。賞味期限が危なさそうな卵や肉から順番に片付けていこう。冷凍食品や缶詰、パスタは最後の切り札だ。
冷蔵庫の冷気を肌に感じながら食材を検分し、頭の中でこれからの献立を組み立てていく。
「というわけで本日の朝食はオムレツに決定!」
卵と牛乳を取り出し、フライパンに火をつけた。
カンカンと軽快な音を立ててボウルで卵と牛乳を溶きほぐす。フライパンにバターを滑らせると、香ばしい匂いが立ち上る。溶き卵を一気に流し込んで手早く菜箸を動かし、包み込んだら、トロトロ半熟オムレツの完成。
お皿に盛りつけ、ケチャップで『あんぜん』と文字を描いてからテーブルに運ぶ。
「いただきまーす」
スプーンで端を小さくすくい、パクリ。ふわふわとした卵の優しい甘みと、バターの豊かなコクが口いっぱいに広がる。美味い。
「さーて、それじゃあサバイバルのお勉強しますかね」
片手でスプーンを動かしながら、俺はもう片方の手でスマホを取り出した。
こんな状況だけど……いや、こんな状況だからこそ、少しワクワクしている自分もいた。




