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第15話 水を止めろ――ただし、村の水ではない

第15話です。

地図から消された第七坑の地下から届いた、「開けるな」「水を止めろ」という声。

リディアたちは、閉ざされた入口を壊すのではなく、まず地下へ流れ込む水の正体を探します。

「水を……止めろ……!」


岩壁の向こうから聞こえた声が途切れた。


直後、足元の土が低く震えた。


ごご、と腹の底へ響くような音。


岩壁の隙間から吹き出していた冷たい風が、一瞬だけ強くなる。

鉄のような匂いに混じって、湿った土と、何かが腐ったような臭気が鼻を刺した。


兵の一人が剣を構えた。


「カイ様、入口を掘りますか!」


「待て」


カイの命令が飛ぶ。


短く、鋭い声だった。


兵たちは道具へ伸ばしかけた手を止める。


私は塞がれた岩壁を見つめた。


向こうには人がいる。


オスカーかもしれない。


今すぐ掘り出したい。

助けたい。


けれど、声ははっきりと言った。


開けるな。


(水を止めなければ、開けた瞬間に何かが起きるのね)


「誰も入口を崩さないで」


私は岩壁から一歩下がった。


「リディア様」


カイがこちらを見る。


「中に人がいます」


「分かっているわ」


「なら、急がなければ」


「だからこそ、急いで壊しては駄目なの」


私は地面へ視線を落とした。


岩壁の根元。


先ほどまで乾いていた土の一部が、ゆっくりと色を変えている。


黒く湿っていた。


「水が来ています」


カイが膝をつく。


「どこから?」


「まだ分からないわ。でも、地下の水位が上がっている可能性があります」


村長が杖で体を支えながら、青ざめた顔で岩壁を見た。


「もし坑道の中が水で満ちておるなら、入口を開ければ……」


「一気に流れ出します」


私は答えた。


「土砂も、黒い滓も、中にたまっている水も一緒に」


兵たちの顔がこわばった。


塞がれた坑道は、ただの穴ではない。


大量の水を抱えた袋のようになっているかもしれない。

その出口を無理に開けば、私たちだけでなく、斜面の下にある村まで巻き込む。


(助けたいから開ける。それで中の人も村人も流されたら、何の意味もないわ)


私は岩壁に向かって声を上げた。


「中にいる方! 聞こえますか!」


返事はない。


「水をどこで止めればいいの!」


静寂。


兵たちも耳を澄ませる。


やがて、地中から弱い金属音が響いた。


かん。


間を置いて、もう一度。


かん。


二回。


「二回……」


村長がつぶやいた。


「何かの合図でしょうか」


カイが鎖を見た。


「坑道の鐘には、合図が決められていたはずです」


「覚えている人は?」


「村には、もう坑夫はほとんど残っていません」


村長が眉を寄せる。


「待ちなされ」


彼は目を閉じ、何かを思い出そうとしていた。


「昔、掘削長のメイソンが言っておりました。鐘一つは作業開始。二つは水。三つは崩落……だったような」


「先ほどは三回鳴りました」


「崩落の危険を知らせたのでしょうな」


「今の二回は、水がまだ来ているという意味かもしれないわ」


私は第七坑の古い地図を広げた。


夕暮れが迫り、紙の線が見えにくい。


兵が灯りを近づける。


第七坑は、山の内部を横切るように伸びている。

その上を、清水枝と呼ばれた古い水路が通っていた。


北側には採石場。


南側には村。


そして第七坑の一番奥に、小さな記号がある。


水滴のような印。


「これは何?」


カイが地図をのぞき込む。


「水抜き穴でしょう」


「坑道の水を外へ逃がすための?」


「おそらく」


私は指で線を追った。


水抜き穴は、坑道から南東へ延びている。


しかし、その先は途中で消えていた。


「この線、村のどこにつながるのかしら」


村長が地図を見て、目を細めた。


「南東なら、古い柳の丘ですな」


「柳?」


「昔、大きな柳が何本も生えておった場所です。水路が崩れてから、ほとんど枯れましたが」


私は顔を上げた。


柳。


水を好む植物。


地下水や湿った土がある場所に根を伸ばす。


「枯れた柳が、まだ残っていますか?」


「二本ほど。ですが、今は枝も半分死んでおりますぞ」


「案内してちょうだい」


「今からですかな?」


「今すぐよ」


私は地図を畳んだ。


「入口から水を出すのではなく、本来の水抜き穴を開けます」


カイが険しい顔をする。


「地図が正しければ、ですね」


「ええ。だから確かめるの」


「日が沈みます」


「地下の人も、日が昇るまで待てるとは限らないわ」


カイは一瞬、岩壁へ目を向けた。


それから兵たちへ命じる。


「四人はここに残れ。岩壁の変化を監視。鐘が鳴ったら回数と時刻を記録しろ。絶対に掘るな」


「承知しました!」


「残りは道具を持て。柳の丘へ行く」


村長が杖を鳴らした。


「年寄りを山中で走らせるとは、人使いの荒いお嬢様ですな」


「走らなくていいわ。でも、道を間違えないよう案内してください」


「仕方ありませんな。死にかけた村に追放令嬢が来てから、休む暇がありませんぞ」


「私も同じよ」


カイが横から言った。


「あなたは自分で休まないだけです」


「今は言い合っている場合ではないでしょう?」


「分かっています。だから歩いてください」


彼は私の少し前へ出た。


暗くなり始めた山道を、灯りを持つ兵たちが照らす。


その背中を追いながら、私は地図を胸へ押し当てた。


(お願い。地図どおりであって)


祈っている場合ではない。


見る。


考える。


確かめる。


それが、今できることだった。


◇


柳の丘は、村の東側にあった。


丘と呼ばれているが、高さはそれほどない。


昔は水辺だったのだろう。

緩やかな窪地の周囲に、大きな切り株がいくつも並んでいる。


残っている柳は二本。


どちらも幹の半分が黒く、枝の多くは折れていた。


けれど、完全には枯れていない。


細い枝の先に、小さな葉が残っている。


「この辺りです」


村長が息を整えながら言った。


「昔は、雨が降らなくても地面が湿っておりました。子どもが足を取られるほどでしたぞ」


「今は乾いていますね」


カイが周囲を見た。


地面は固く、表面には白い粉が浮いている。


北畑と似ている。


私は灯りを借り、二本の柳を見比べた。


右の柳。


葉は少ない。

枝は細い。

幹の北側に苔が残っている。


左の柳。


ほとんど枯れている。

だが、根元から細い芽が一本だけ伸びていた。


その芽は、丘の中央ではなく、東側へ傾いている。


植物は光を求めて傾くことがある。


しかし今は夕暮れ。

周囲に光を遮るものもない。


ならば、根が伸びている方向に影響されている可能性がある。


私は芽の傾きを指で示した。


「東へ進みましょう」


村長が眉を上げる。


「地図の水抜き穴は南東では?」


「根は、まっすぐ水抜き穴へ向かうとは限らないわ。水分が残っている土を追っているの」


カイが地面を見る。


「何を探せばいい?」


「柳以外の植物です。周りより葉が残っている草。苔。根が深い草。乾いているのに、色が濃いもの」


兵たちが灯りを低く掲げた。


地面を照らしながら、ゆっくり進む。


目立つものはない。


枯れ草。


石。


白い土。


けれど、少し先に細い草が一列に並んでいた。


偶然にしては、真っすぐすぎる。


「ここね」


私はしゃがみ込んだ。


「また草ですか」


村長が言う。


「草だから分かるのよ」


「人より草を信用なさる」


「草は嘘をつきませんもの」


(人間は、地図から水路を消せる。でも、土の湿り方までは消せない)


細い草の列は、丘の斜面を斜めに下っている。


手で触れず、棒で土の表面を押した。


周囲より柔らかい。


さらに棒を差し込む。


十数センチほど入ったところで、急に抵抗がなくなった。


小さな空洞がある。


「地下に溝があります」


カイが兵へ命じる。


「周囲から少しずつ掘れ。真上を強く叩くな」


兵たちは鍬と小さな鋤を使い、草の列の横から土を外し始めた。


土は表面だけが硬い。


その下から、黒く湿った層が現れる。


さらに掘ると、平らな石が出てきた。


一枚。


二枚。


石は人の手で並べられている。


「水路の蓋ですな」


村長が低く言った。


カイが石の隙間へ灯りを近づける。


中は暗い。


だが、かすかな水音がした。


ちょろちょろ、ではない。


奥で何かが押し合うような、重い音。


「詰まっています」


私は石の隙間から漂う匂いを嗅いだ。


湿った土。


腐った葉。


そして赤茶けた水の鉄臭さ。


「この先で、水がせき止められているわ」


「蓋を外しますか」


兵が聞く。


私はすぐに首を振った。


「一度に外さないで。水圧がかかっているかもしれません」


「では、どうする」


カイが尋ねる。


「流れの下側から開けます」


私は地図を広げた。


水抜き穴の先は、丘を通って古い排水池へつながっていたはずだ。


排水池は今、畑として使われている。


「この水路の出口を先に探す必要があります」


村長が顔をしかめる。


「時間がかかりますぞ」


「今ここを開けて水が噴き出せば、もっと時間を失うわ」


「中の者が持つかどうか……」


「分かっています」


私は村長を見る。


「でも、焦って全員を危険にさらすわけにはいかないの」


(また、きつく聞こえたかもしれない。でも、今は急ぐことと雑に動くことを混同してはいけない)


カイが地図を指した。


「出口は、この丘の下か」


「古い排水池の北側ね」


村長が杖をついた。


「今は豆畑になっております」


「豆畑?」


私は顔を上げた。


「そこの豆は育っていますか?」


「ほかよりは多少ましですな。毎年、北側だけ背が高くなると聞いております」


「決まりだわ」


私は立ち上がった。


「水路の出口は、豆畑の北側にあります」


カイが兵二人へ指示する。


「先行して確認しろ。土を掘るな。豆の育ちが違う場所を探せ」


兵たちは丘を下っていった。


私は残った兵たちとともに、石蓋の上を調べる。


ところどころに、白い固まりが詰め込まれていた。


石灰に似た粉。


三年前の資材帳簿に記されていた、白粉の樽。


「この水路も、人為的に塞がれています」


カイが白い固まりを布越しに取った。


「自然に埋まっただけではない?」


「ええ。石の隙間へ押し込んで固めているわ」


村長の目が険しくなる。


「水抜き穴を塞ぎ、第七坑へ水をためた?」


「最初からためるつもりだったかは分からない。でも、結果的にはそうなっています」


「なぜ、そんなことを」


「地下に埋めたものを、水と一緒に外へ出したくなかったのかもしれない」


黒い滓。


赤茶けた泥。


採石場の下へ埋められたもの。


もし水抜き路が開いていれば、それらを通った水が村側へ流れ、異常が早く発覚する。


だから水抜き穴を塞いだ。


だが、水は消えない。


逃げ場をなくし、第七坑の中へたまっていった。


そして今、何かのきっかけで水位が限界へ近づいている。


(地下の人は、それを知っている。だから入口を開けるなと言ったのね)


丘の下から兵の声が上がった。


「カイ様! 見つけました!」


私たちは豆畑へ急いだ。


◇


豆畑の北端だけ、確かに様子が違っていた。


畑の大半では、豆の葉は小さく、色も薄い。


しかし北端の一列だけ、茎が太く、葉の色が濃い。


完全に元気とは言えない。


それでも、ほかの場所よりは明らかに水分を得ている。


兵が地面を指した。


「ここに石が並んでいます」


土の下から、古い石組みの端が見えていた。


丘で見つけた水路と同じ幅。


出口だ。


「周囲の人を下がらせて」


私は言った。


「どのくらい?」


カイが尋ねる。


「少なくとも畑の外まで。水が強ければ、泥も一緒に出ます」


カイが兵へ命じ、周囲を空けさせる。


村人たちが灯りを持って集まり始めていた。


何が起きているのか、不安そうに見ている。


セリナも村長の後ろにいた。


「セリナ、どうしてここへ?」


「村長さんが一人で山へ行ったって聞いて……」


「わしは一人ではありませんぞ」


「杖を持って山を登ったら、十分心配です」


セリナは息を切らしながら答えた。


村長が何か言い返そうとする。


「二人とも、今は離れていてちょうだい」


私は強めに言った。


セリナがすぐにうなずく。


「はい」


村長は不満そうだったが、村人たちと一緒に後ろへ下がった。


出口の石には、やはり白い固まりが詰められていた。


すべて外せば危険だ。


「一番下の隙間から、小さく開けます」


「俺がやる」


カイが道具を取った。


「兵に任せて」


「水が出た時、判断できる者が近くにいた方がいい」


「それなら私が――」


「あなたは下がる」


「カイ様」


「水の状態を見る役目がある。流されたら困る」


言い方は硬い。


でも、正しい。


私は少し下がった。


「無理に固まりを割らないで。端から削って」


「分かりました」


カイが短い金属具を白い固まりの端へ差し込む。


少しずつ削る。


兵が横で石を支える。


ぱらり。


白い粉が落ちる。


小さな穴が開いた。


最初に出てきたのは風だった。


湿った冷気。


次に、黒い水が一滴。


ぽたり。


土へ落ちた。


さらに一滴。


二滴。


やがて、細い線になって流れ始める。


「赤くない?」


セリナが後ろからつぶやいた。


水は暗い。


灯りに透かすと、赤茶色ではなく、灰黒色に見える。


私は用意した木の器を、水の下へ置いた。


直接触れない。


匂いを確認する。


鉄臭さ。


腐ったような臭い。


さらに、石を焼いた後のような刺激。


「採石場の水より濃いわ」


カイが穴を見た。


「広げますか」


「少しだけ」


穴を指二本分ほどまで広げる。


流れが強くなった。


ごぼ、と奥で空気が動く。


泥と一緒に、黒い粒がいくつも転がり出た。


四株目の月白草の鉢に入っていたものと同じ。


「黒い滓です」


私は器の中を見た。


「第七坑の中に、かなりたまっている」


村人たちがざわつく。


「これが地下に?」


「ずっと村のそばにあったのか?」


「水に混ざっていたってことか?」


不安が広がる。


私は立ち上がり、村人たちへ向き直った。


「まだ、井戸水と同じものだと決めつけないでください」


声を少し強める。


「この水は飲まない。触らない。畑にも入れない。まず古い排水池の中へ流し、土へ広がらないよう囲います」


(怖がるのは当然。でも、怖さだけで動けば、誰かが水路を全部壊しかねない)


「村長。昔の排水池はどこまでですか?」


村長が杖で畑の先を示した。


「豆畑の向こう、石垣で囲まれた窪地です。今は使っておりません」


「そこまで溝を作ります」


カイが即座に兵へ命じる。


「鍬を持て。水路から排水池まで、浅い溝を掘る。村人は灯りと石を運んでくれ。水には触れるな」


村人たちは一瞬ためらった。


その中から、畑の男が一歩出る。


「俺が掘る」


次に、別の男。


「石を持ってくる」


「古い板が倉庫にある。水を畑から離すのに使えるぞ」


次々と声が上がる。


村長が杖を鳴らした。


「聞いたな! 水へ手を入れるな! 働くなら、リディア様とカイ様の指示どおりになされ!」


村人たちが動き始めた。


誰も命令を待っているだけではない。


自分で道具を取りに走り、役目を探している。


(少し前まで、何をしても無駄だと思っていた人たちが)


胸の奥が熱くなる。


けれど、今は感傷に浸っている場合ではない。


「セリナ」


「はい!」


「記録をお願い。水を出し始めた時刻。流れの色。黒い粒が出た量。鐘の音が聞こえたら回数も」


「分かりました」


セリナは木片と炭を取り出した。


「村長、一緒に見てください」


「また、わしですか」


「村長は疑うのが得意でしょう?」


「褒め言葉には聞こえませんな」


「大事な役目です」


村長は鼻を鳴らし、セリナの横へ立った。


「では、書き間違いがないか見てやりましょう」


「線が曲がってるって文句を言わないでくださいね」


「曲がっておれば言いますぞ」


二人の声を背に、私は水路へ戻る。


流れは少しずつ強くなっていた。


だが、まだ一気に噴き出すほどではない。


「穴を広げすぎないで」


私はカイへ言った。


「この流れを保って、坑内の水圧を少しずつ下げます」


「どの程度で安全になる?」


「分からないわ」


私は正直に答えた。


「鐘の合図と、岩壁から染み出す水の変化を見るしかない」


カイがこちらを見る。


「入口側へ戻る必要がありますね」


「ええ。でも、ここを無人にはできない」


「二手に分けます。俺が入口へ行く」


「私も行くわ」


「あなたはここに」


「水の色と黒い滓は、ここにいる人へ伝えれば記録できる。でも地下の声を聞いて、状態を判断するには――」


「あなたである必要は?」


「あります」


私はカイを見つめた。


「四株目の月白草の根が、どの層を避けていたか。第七坑の水が、どこを通っているか。地面の植物の変化を見ながら戻る必要があるわ」


(本当は、中の人が気になる。それだけでもある。でも、それだけでは行かせてもらえないでしょうね)


カイは私の顔をしばらく見た。


「走れますか」


「走らないわ。転んだら余計に遅くなるもの」


「正しい判断です」


「少しは信用してくれた?」


「少しだけです」


「十分だわ」


◇


第七坑の排気口へ戻ると、岩壁の前に残っていた兵が駆け寄ってきた。


「カイ様! 鐘が二度、三回鳴りました!」


「順番は?」


「二回、少し間を置いて三回です」


水。


崩落。


水の流入が続き、崩落が近づいている。


私は岩壁の根元を見る。


湿った範囲は先ほどより広がっている。


だが、水が勢いよく染み出しているわけではない。


「水抜き穴を開けました!」


私は岩壁へ向かって叫んだ。


「聞こえますか! 水を逃がし始めています!」


返事はない。


私は鎖を二回引いた。


かん。


かん。


水。


こちらが合図を理解したことを伝えられるかもしれない。


しばらく待つ。


地下から、鐘が一度鳴った。


かん。


村長が言っていた通りなら、作業開始。


あるいは、了解という意味かもしれない。


「聞こえている」


カイが低く言った。


「中の人は、まだ意識があります」


安堵するには早い。


それでも、胸の中の固まりが少しだけ緩む。


その時。


岩壁の一部から、ぱらぱらと小石が落ちた。


兵が身構える。


私はカイの外套をつかんだ。


「下がって!」


全員が数歩離れる。


岩壁の内側から、鈍い衝撃音がした。


どん。


一度。


どん。


二度。


誰かが岩を叩いている。


そして、細い隙間から声が聞こえた。


「……どの……くらい……」


「水の量ですか!」


私は叫ぶ。


「水抜き路を指二本分だけ開けました! 黒い水と滓が出ています!」


しばらく沈黙。


「……もっと……」


「もっと開けるの?」


「……まだ……水が……膝まで……」


膝まで。


完全に水没してはいない。


だが、水位は上がっている。


「ほかに人はいますか!」


返事が途切れる。


耳を澄ます。


「……一人……だ……」


男の声。


弱い。


けれど、はっきりしてきた。


「あなたはオスカーですか!」


長い沈黙。


そして。


「……リディア……様……?」


私の名前が返ってきた。


間違いない。


屋敷管理人オスカーだ。


カイが岩壁へ近づきかける。


「オスカー! なぜ中にいる!」


「……話は……あとで……」


苦しそうな息。


「第七坑の……奥が……崩れた……黒い山が……水をせき止めている……」


黒い山。


埋められた滓の山だろう。


「水抜き穴だけで足りますか!」


「……足りない……北の流れを……止めろ……」


北。


採石場側。


赤茶けた水が入ってくる方向だ。


私たちは古い水抜き穴を開けた。


でも、上流からの流入を止めなければ、水は減らない。


「北のどこを止めるの!」


返事はない。


「オスカー!」


地下で、何かが崩れる大きな音がした。


どどど、と岩壁全体が震える。


私は思わず一歩出る。


カイが腕を伸ばし、私を後ろへ押し戻した。


「近づくな!」


岩壁の隙間から、赤茶けた水が勢いよく噴き出した。


細い流れだが、先ほどまでとは明らかに違う。


水位が上がっている。


「リディア様」


カイが私を見る。


「北の流れは、昨日見た採石場の染み出し水か」


「たぶん違うわ」


私は地図を開いた。


第七坑の北側。


採石場のさらに上。


そこに、小さな四角が描かれている。


文字は薄い。


北部調整槽。


「これです」


「調整槽?」


「水量を調整するための池か貯水槽よ。採石場へ流れ込む水を一時的にためていたのかもしれない」


「今も水が入っている?」


「第七坑へ水が来ているなら、どこかで流路がつながっています」


カイは兵へ向き直った。


「北部調整槽へ行く」


私は地図を握り直した。


「待って」


「何ですか」


「“水を止めろ”という言葉だけで、全部せき止めては駄目よ」


カイの眉が寄る。


「なぜ」


「水を急に止めれば、別の場所へあふれるかもしれない。村の井戸や北水路へ圧力が逃げたら、もっと被害が広がるわ」


「では、どうする」


「第七坑へ入る流れだけを切り替えるの」


「可能ですか」


「調整槽が残っていれば」


私は地図の周囲を指でなぞった。


調整槽からは二本の線が出ている。


一本は第七坑。


もう一本は、山の西側を通って旧河川へ流れる放水路。


「水を止めるのではなく、道を変えます」


(人は問題を塞ごうとする。でも、水は塞げば別の場所へ行く。必要なのは、逃げ道だわ)


カイが短くうなずいた。


「案内を」


「地図のとおりなら、ここから北西」


「行くぞ」


「カイ様」


「今度は何ですか」


「オスカーへ伝えて」


私は岩壁を見る。


「助けるから、持ちこたえて、と」


カイは一瞬黙った。


それから岩壁へ向かって、低く、よく通る声で言った。


「オスカー。聞こえるか」


返事はない。


「水の流れを変える。必ず戻る」


かすかに。


本当にかすかに。


地下から鐘が一度鳴った。


かん。


◇


北部調整槽は、採石場の上にある森の中へ隠れていた。


正確には、隠されていた。


木々と土で覆われ、地上から見れば浅い窪地にしか見えない。


しかし、周囲の植物は明らかに違っていた。


窪地の中央にだけ、水辺の草が生えている。


周りの木は弱っているのに、その草だけは葉が太い。


「水が下にあります」


私は草の生える範囲を指した。


カイが兵たちへ命じる。


「縁から掘れ」


土を外すと、古い石壁が現れた。


さらに、錆びた鉄の取っ手。


その下には、二方向へ水を分けるための水門があった。


一方は第七坑。


もう一方は西の放水路。


しかし、水門は第七坑側へ固定されている。


太い鉄鎖と、白く固まった粉。


「また、白粉です」


私は言った。


三年前。


王都の業者は、清水枝を塞ぎ、水抜き路を塞ぎ、さらに調整槽の水門まで第七坑側へ固定した。


偶然ではない。


「誰かが、第七坑へ水が流れ続けるようにした」


カイの声が冷える。


「そして、逃げ道をすべて塞いだ」


「ええ」


(地下に捨てたものを洗い流すため? それとも、水の中へ沈めて隠すため?)


目的はまだ分からない。


でも、村を枯らした仕組みは見え始めている。


兵たちが鉄鎖を切ろうとする。


だが、錆びついて動かない。


「刃が入りません!」


カイが剣を抜いた。


「下がれ」


「カイ様、剣を傷めます」


「今は剣より人命だ」


彼は鉄鎖の弱い箇所を見定め、一撃を入れた。


甲高い音。


火花。


鎖は切れない。


「もう一度」


「待ってちょうだい」


私は水門の根元を見た。


鉄鎖だけではない。


白い固まりが歯車へ入り込み、動きを止めている。


「鎖を切っても、水門は動かないわ。先に固まりを外します」


私は布を巻いた道具で、白い固まりを少し削った。


硬い。


石のように固まっている。


「水をかけるのは?」


兵が尋ねる。


「急にかけると、内部で膨らんだり崩れたりする可能性があるわ。少しずつ削って」


全員で作業する。


削る。


外す。


また削る。


時間が過ぎる。


地下のオスカーは持つのか。


水抜き路から、どれだけ水が出ているのか。


焦りで手元が乱れそうになる。


(落ち着いて。急ぐ時ほど、順番を守って)


最後の固まりが外れる。


鉄鎖の根元が見えた。


腐食している。


カイが剣を振るう。


一撃。


今度は鎖が切れた。


水門の取っ手を兵三人で引く。


動かない。


もう一人加わる。


ぎぎ、と錆びた音がした。


「もう少しです!」


カイも取っ手をつかむ。


「リディア様、離れていろ!」


「分かっているわ!」


五人が力を込める。


鉄が悲鳴を上げる。


そして。


ごん。


水門が動いた。


直後、地下から巨大な水音が響いた。


ごおおおお――。


窪地の下を、何かが走り抜ける。


第七坑へ向かっていた水が、西の放水路へ流れを変えたのだ。


森の西側から、枯れ葉と泥を押し流す音が聞こえる。


「放水路を確認!」


兵が走る。


私は水門の動きを見た。


完全に西へ切り替わっている。


第七坑側の流れは、細くなっていく。


「止まった……?」


カイが尋ねる。


「第七坑へ入る水は、かなり減ったはずよ」


(お願い。間に合って)


カイが兵へ命じる。


「排気口へ戻る!」


◇


排気口へ戻る途中、豆畑から伝令の兵が駆けてきた。


「カイ様!」


「水抜き路は?」


「流れが弱くなっています! 最初は黒い水でしたが、今は少し赤茶色が薄くなりました!」


入る水が減り、たまっていた水が外へ出始めた。


悪くない変化だ。


「鐘は?」


「先ほど、一度だけ鳴りました!」


私は胸の前で手を握った。


オスカーはまだ生きている。


岩壁へ着くと、根元から染み出す水は明らかに減っていた。


地面の震えも収まっている。


カイが鎖を二回引いた。


かん。


かん。


地下から、すぐに一度。


かん。


「オスカー!」


私は岩壁へ呼びかけた。


「第七坑へ入る水を止めました! 水位は下がっていますか!」


耳を澄ませる。


「……少し……」


弱い声。


でも、先ほどより近い。


「歩けますか!」


「……足を……痛めた……」


「入口まで来られる?」


「……無理だ……奥が……崩れている……」


助けるには、やはり入口を開けなければならない。


だが、今度は水圧が下がっている。


「今なら、開けても?」


カイが尋ねる。


私は岩壁の湿りを確認した。


水の染みは増えていない。


隙間から出る風も、先ほどより弱い。


それでも、一気に崩すのは危険だ。


「上からではなく、横の隙間を広げます」


私は岩壁の右側を指した。


草が細く一列に生えていた場所。


下に空洞があり、土の厚さが比較的薄い。


「人一人が通れる穴だけ。支えを入れながら掘って」


カイがうなずく。


「坑道経験者は?」


「連れてきました!」


兵の後ろから、年配の男が二人現れた。


かつて採石場で働いていた者たちだ。


一人が岩壁を叩き、音を確かめる。


「右は古い木枠が残っている。左を崩すよりましだ」


もう一人が言う。


「ただし、上の岩が浮いてる。先に支柱を入れねえと落ちるぞ」


作業が始まった。


木材を組む。


土を少しずつ外す。


石を一つずつ抜く。


夜は深くなっていた。


村人たちは交代しながら灯りを持ち、道具を運ぶ。


セリナは震える手で記録を続けている。


村長は疲れているはずなのに、座ろうとしない。


私は岩壁の前から離れられなかった。


(オスカーは、何を知っていたの? なぜ一人で第七坑へ入ったの?)


聞きたいことは山ほどある。


でも今は、生きて出てきてもらうことが先だ。


やがて、兵が拳ほどの穴を開けた。


中から湿った空気が流れ出す。


灯りを近づける。


暗い坑道。


木の梁。


その向こうに、岩と黒い滓の山が見えた。


「オスカー!」


カイが呼ぶ。


「……ここだ……」


右奥から声。


穴を少しずつ広げる。


肩が通る程度。


先に坑道経験者の男が入る。


縄を腰へ結び、灯りを持つ。


「足元に水がある! だが、膝より下だ!」


もう一人が続く。


カイも入ろうとする。


私は彼の外套をつかんだ。


「気をつけて」


カイが振り返る。


「あなたは入らないでください」


「分かっているわ」


「本当に?」


「今はね」


「今後もです」


「オスカーが出てから相談しましょう」


「相談しません」


そう言って、カイは穴の中へ入った。


しばらくして、坑道の奥から声が聞こえた。


「いた!」


「意識はある!」


「脚が岩に挟まれている!」


村人たちの間に緊張が走る。


縄が追加で運び込まれる。


木材。


てこ。


数人が穴の前で待機する。


私は何もできない自分の手を、強く握った。


(今は待つことが仕事。邪魔をしないことも、助けることの一つだわ)


長い時間に感じた。


実際には、それほどではなかったのかもしれない。


やがて、穴の奥から声が上がる。


「出すぞ!」


最初に、担架代わりの板が見えた。


その上に男が横たわっている。


痩せた顔。


灰色の髪。


泥と血に汚れた服。


屋敷管理人オスカーだった。


意識はある。


けれど、右脚は不自然な方向へ曲がり、額には深い傷がある。


私はすぐに駆け寄った。


「オスカー」


彼の瞼がゆっくり開く。


「……リディア……様……」


「話さなくていいわ。まず傷を見ます」


「……水……止まりましたか」


「第七坑への流れは変えました。水抜き路も開けたわ」


オスカーの口元が、わずかに緩む。


「よかった……」


「よくありません」


私は彼の手首へ指を当てた。


脈は速い。


体は冷えている。


出血もある。


「こんな場所へ一人で入って、脚まで折って。あとで全部説明してちょうだい」


「……怒って……おられますか」


「ええ。とても」


(生きていてくれたから、怒れるのよ)


私は外套を脱ぎ、オスカーの体へかけた。


「でも、今は生きることだけ考えて」


オスカーはかすかにうなずいた。


村人たちが彼を運び始める。


その時、オスカーが弱い力で私の袖をつかんだ。


「リディア様……」


「何?」


「第七坑の……奥を……見ては……なりません……」


「紙にもそう書いていたわね」


「水が引けば……見える……」


オスカーの目に、恐怖が浮かんだ。


「黒い滓の下に……箱がある……」


「箱?」


「王都の印が……ついた……鉄の箱……」


カイが足を止める。


村長もこちらを見る。


オスカーの声は、さらに細くなる。


「三年前……埋めたのは……廃棄物だけではない……」


「何を埋めたの?」


オスカーは答えようとした。


しかし、意識が遠のき、目を閉じた。


「オスカー!」


「気を失っただけです」


私は脈を確認した。


弱いが、ある。


「村へ運んで。体を冷やさないで。脚は動かさないよう固定してちょうだい」


村人たちが担架を持ち上げる。


オスカーは助かった。


少なくとも、今は。


私は穴の奥を見た。


灯りの届かない第七坑。


黒い滓の山。


その下に埋められた、王都の印がついた鉄の箱。


水の流れを変え、清水を塞ぎ、村の土地を枯らしてまで隠されたもの。


カイが穴の前に立った。


「今夜は入りません」


「分かっているわ」


「意外に素直ですね」


「水も完全には引いていないし、坑道も不安定だもの」


私は暗闇を見つめた。


「それに、開ける準備が必要です」


「鉄の箱を?」


「ええ」


(何が入っているか分からない。だからこそ、触れる前に調べなければ)


村長が杖をつき、疲れた声で言った。


「ようやく一人助けたと思えば、次は王都の箱ですか」


「この土地は、本当に休ませてくれませんね」


「あなたも休もうとなさらんでしょう」


「今夜は休みますわ」


カイが私を見る。


「本当に?」


「少しは信用してちょうだい」


「実績がありません」


「ひどいわね」


「事実です」


セリナが木片を抱えたまま、ほっとしたように笑った。


その笑顔の向こうで、夜が少しずつ薄くなり始めている。


遠くの空が青く変わる。


長い夜だった。


地下の水は止まった。


オスカーも助け出した。


けれど、第七坑の奥には、まだ人の手で埋められた秘密が残っている。


私はノートを開いた。


震える指で、今日の最後の記録を書く。


第七坑。


北部調整槽より流入。

水門を西側放水路へ切り替え。

旧水抜き路を再開通。

管理人オスカー救出。


その下へ、新しい一行を加える。


黒い滓の下に、王都印の鉄箱あり。


(呪いではない)


私は改めて思った。


この土地を枯らしたのは、正体のない魔法ではない。


誰かが流れを変えた。


誰かが水を塞いだ。


誰かが、見られては困るものを地下へ埋めた。


ならば。


治せる。


そして、責任を逃がしてはいけない。


私は第七坑の暗い入口を見つめた。


「次は、あなたが何を隠しているのか調べるわ」


地下から返事はない。


ただ、水滴が一つ。


黒い滓の上へ落ちた。


第15話を読んでくださり、ありがとうございます。

今回は、リディアたちが第七坑を直接開ける前に、塞がれていた旧水抜き路と北部調整槽を発見しました。地下への水の流れを変え、管理人オスカーの救出には成功しましたが、彼の口から新たな事実が語られます。


第七坑の黒い滓の下には、“王都の印がついた鉄の箱”が埋められていました。


次回は、負傷したオスカーの証言と、三年前に地下へ埋められた鉄箱の正体へ迫ります。


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