第13話 命令書は、未来を知っていた
第13話です。
まだ見つかっていなかったはずの証拠を知る、財務監察院の命令書。
リディアは使者を疑う前に、書類そのものを調べ始めます。
「その命令書は、いつ発行されたものですか?」
私の問いに、濃紺の外套を着た使者は答えた。
「五日前です」
広場に沈黙が落ちた。
五日前。
その時点では、私たちは月白草を見つけていない。
ルヴァン商会の採取人も捕らえていない。
採取指示書も、黒い薬液も、三年前の水路工事に関する古い帳面も発見していなかった。
それなのに、使者が持ってきた命令書には、それらの提出が求められている。
偶然で片づけるには、内容が具体的すぎる。
カイが私の前へ半歩出た。
「使者殿。その封書を、こちらへ」
声は短く、硬い。
使者は一瞬ためらったが、封書を差し出した。
「財務監察院からの正式な命令です。受領後、直ちに対象物を引き渡していただきます」
「直ちに、ですか」
私が聞くと、使者はうなずく。
「はい。証拠保全を優先せよ、と命じられております」
「受領書は?」
カイが尋ねた。
「用意しております」
「対象物の一覧は?」
「そちらもございます」
答えに迷いはない。
使者自身は、正式な仕事をしているつもりなのだろう。
年齢は二十代半ばほど。
短く整えた栗色の髪。
日に焼けた頬。
腰には剣があるが、兵士というより伝令官に近い。
疲労は隠せていない。
馬も汗に濡れている。
少なくとも、遠くから急いで来たという話は嘘ではなさそうだ。
私は使者の顔を見た。
「お名前を伺っても?」
「財務監察院伝令部所属、ラウル・ネインです」
「ラウル様。あなたを責めたいわけではありません」
使者の眉がわずかに動く。
「命令書の内容と発行の経緯を確かめたいのです。協力してくださるかしら」
「私は命令を届け、対象物を受領するよう命じられています。それ以上のことは……」
「分かる範囲で構いませんわ」
私はできるだけ声を柔らかくした。
(この人まで敵だと決めつけてはいけない。命令書が怪しいことと、運んだ人が怪しいことは別だわ)
今朝、私は自分の判断の早さを認めたばかりだ。
灰を加えた実験区画。
一日目の結果だけを見て、悪くないと判断した。
だが、翌朝には葉先が傷んでいた。
目の前の一つの結果だけで、全体を決めてはいけない。
それは、人を見る時も同じだ。
「まず、屋敷の中で確認しましょう」
私は言った。
「ここでは風があります。大切な書類を傷めるかもしれないわ」
ラウルは少し迷い、カイを見た。
カイが短くうなずく。
「武器は預からない。ただし、護衛をつける」
「承知しました」
村長が杖を鳴らした。
「わしも立ち会いますぞ。あとから年寄りの聞き間違いなどと言われては困りますのでな」
「村長は耳が遠いのではなかったの?」
「都合の悪い命令だけですな」
「便利な耳ね」
「長く生きる知恵でございます」
◇
屋敷の会議室に、命令書を置いた。
窓際の机。
光が斜めから当たり、紙の表面を確認しやすい。
私はすぐに封を切らず、まず外側を観察した。
厚い紙。
濃紺の封蝋。
中央には、天秤と目を組み合わせた財務監察院の紋章。
見た目は正式なものに見える。
カイが保管庫から、過去にレヴィン家へ送られた監察院の文書を一通持ってきた。
「五年前の監査通知です」
「比較しても?」
「そのために持ってきました」
私は二つの封蝋を並べた。
同じ天秤。
同じ目。
大きさも、ほとんど同じだ。
だが、古い文書の封蝋には、天秤の左側に小さな傷がある。
印章そのものについた傷だろう。
今回の封蝋にも、同じ傷があった。
「印章は本物の可能性が高いわ」
私が言うと、村長が顔をしかめた。
「では、監察院が本当に出したのですかな」
「印が本物だから、内容まで正しいとは限りません」
私は封蝋の縁を見た。
「正式な印章を使える人が作った。その可能性が高い、というだけです」
ラウルが不快そうに言った。
「監察院の印章を偽造したとお考えですか」
「まだ何も決めていませんわ」
私は彼を見る。
「だから確認しています」
カイが封書の裏側を示した。
「受付番号がない」
ラウルが答える。
「緊急命令の場合、外封には記さないことがあります」
「内側には?」
「記載されているはずです」
「では、開けましょう」
私はラウルへ封書を戻した。
「受取人の前で、使者であるあなたが開封してください」
「私が?」
「あとで、私たちが封を破って内容を差し替えたと言われたくありませんもの」
ラウルは私を見つめた。
やがて、少しだけ表情を引き締める。
「分かりました」
彼は全員が見ている前で、封蝋を割った。
中から命令書を取り出す。
紙は二枚。
一枚目は、レヴィン領管理者カイ・レヴィン宛て。
北採石場および旧水路に関して、財務監察院が緊急調査を実施する。
現地で発見された文書、薬草資源の記録、処理液、採取道具などを、使者へ引き渡すこと。
二枚目は、受領対象物の一覧だった。
私は一行ずつ目で追った。
一、北採石場植物性副産物回収指示書 一通。
二、ルヴァン商会の封印が付された採取地図 一枚。
三、黒色植物処理液 三瓶。
四、月白草自生地および株数を記した現地記録 一冊。
五、レヴィン領旧水路工事に関する村側資材帳簿 一冊。
手が止まった。
「……株数まで書かれているわ」
カイが私の横から紙を見る。
「月白草、三株。別紙の受領予定一覧にあります」
村長が息をのむ。
ラウルも初めて、はっきりと表情を変えた。
「三株?」
「ええ」
私は受領一覧を彼へ向けた。
「月白草は、昨日の朝に発見しました。株数を確認したのも、その時です」
「しかし、この命令書は五日前に……」
「そうね」
(偶然ではない。誰かが、そこに三株残っていると最初から知っていた)
エドガーは月白草を見つけた時、三株あることをその場で確認した。
だが、ルヴァン商会はそれ以前から、旧自生地を探させていた。
もし商会が過去に株数を確認していたのなら、三株と知っていても不思議ではない。
しかし、旧水路の資材帳簿はどうだろう。
あの帳簿は、今朝カイが古い保管庫から見つけたものだ。
私たちですら、それまで存在を知らなかった。
それが受領対象に書かれている。
「ラウル様」
私は尋ねた。
「この一覧を、出発前に確認しましたか?」
「いいえ」
ラウルは首を振った。
「封書の内容を読む権限はありません。私は“レヴィン領で財務関係の証拠を受領せよ”とだけ説明を受けました」
「誰から?」
「監察院第三調査室の副室長、オルダス・ベイン殿です」
カイが短く聞く。
「直接か」
「はい」
「ほかに同席者は?」
「書記官が一人。名前は分かりません」
私は命令書の日付を見る。
五日前。
差出人欄。
財務監察院第三調査室。
副室長、オルダス・ベイン。
正式な署名もある。
「このオルダスという人物を知っている?」
私がカイへ尋ねると、彼は首を振った。
「名前だけなら。監察院で商会監査を担当している人物です」
「商会を調べる側なのね」
「表向きは」
村長が低く言った。
「泥棒を見張る者が、泥棒の荷物を先に知っておる。何とも頼もしい話ですな」
「村長」
「皮肉でございますぞ」
「分かっているわ」
私は命令書を光へ透かした。
紙の中に、薄い透かし模様がある。
監察院の紋章。
用紙も本物の可能性が高い。
印章も本物。
署名も正式な形式。
偽造というより、監察院内部の権限を使って作られた文書だ。
「使者殿」
カイがラウルへ向き直る。
「出発したのはいつだ」
「五日前の夕方です」
「途中で、この村から来た者と接触したか」
「いいえ。指定された中継所で馬を替えただけです」
「封書を開けた者は?」
「私の知る限り、いません。寝る時も鞄は体から離しておりません」
ラウルの声には誇りがあった。
伝令として、封書を守った。
その点は信じてもよさそうだ。
「命令書は、出発前からこの内容だった可能性が高いわ」
私は言った。
「つまり、五日前の時点で、監察院の誰かは、月白草が三株あることも、黒い処理液が三瓶あることも、古い資材帳簿が存在することも知っていた」
「黒い液は、エドガーの荷物から押収したものですね」
カイが言う。
「ええ。小瓶は四本あったわ。一つは現場で割れ、残りが三本」
部屋が静まった。
受領一覧には、三瓶とある。
割れることまで予測していたのではない。
おそらく最初から、持ち帰る予定の数が三瓶だった。
では、現場で割れた一瓶は何だったのか。
あるいは、エドガーが持っていた四瓶のうち、一瓶は使用する予定で、三瓶は回収される予定だった?
(指示を出した側は、エドガーが何を持ち、何を使うかまで知っていたのね)
私は一覧の続きを見た。
六、現地記録作成者リディア・フォルスティアによる観察記録一式。
指先が止まる。
「私のノートまで対象なの?」
カイが紙を取った。
「一式、とだけ書かれている」
「土、水、薬草、村人の聞き取り。全部という意味でしょうね」
村長が顔を険しくする。
「村の苦しさまで、持っていくおつもりですかな」
私は答えなかった。
記録を奪い、監察院で保管する。
表向きは証拠保全。
けれど、返却されなければ?
都合の悪い内容が失われれば?
原本を奪われれば、こちらの言葉は“写しにすぎない”と軽く扱われるかもしれない。
(ベルトラムと同じだわ。調べると言いながら、最初に原本を欲しがる)
そして、最後の行。
七、現地記録作成者本人の王都同行。
私は文字を見つめた。
「同行?」
ラウルが私の手元をのぞき込み、顔色を変えた。
「そのような命令は聞いておりません」
「でも、ここに書かれているわ」
「私は証拠物を受領するようにしか……」
「同行は任意ですか?」
カイが尋ねる。
私は記載を読む。
“事情聴取および専門的知見の確認のため、現地記録作成者リディア・フォルスティアを使者同行の上、王都財務監察院へ出頭させること。”
任意とは書かれていない。
拒否した場合についても書かれていない。
曖昧だ。
けれど、相手が強く解釈すれば、命令として扱える。
カイの表情が冷たくなる。
「認めない」
即答だった。
「まだ、私が行くとは言っていないわ」
「言わせません」
「カイ様」
「証拠の原本を求め、次に記録作成者を王都へ連れていく。目的が調査とは限らない」
短い言葉だった。
しかし、その奥には明確な警戒がある。
私は命令書を見つめた。
王都。
婚約を破棄され、無能と笑われた場所。
そして今度は、証拠と一緒に私を呼び戻そうとしている。
(怖いわね。でも、怖いからといって、すぐに拒絶するだけでは情報を失う)
「行くかどうかは、あとで判断します」
「判断する必要はありません」
カイの声が強くなる。
私は彼を見る。
「カイ様。怒ってくれるのはありがたいわ。でも、今は命令書の目的を確かめる方が先よ」
「王都へ行けば、何をされるか分からない」
「ここにいても、何もされない保証はないでしょう?」
「それでも――」
「二人とも」
村長が杖を強く鳴らした。
「夫婦げんかのようなものは、命令書を片づけてからになされ」
「違います」
カイが即座に言う。
「違うわ」
私も答える。
村長は口元を曲げた。
「声だけは揃っておりますな」
ラウルが居心地悪そうに視線を伏せた。
少しだけ空気が緩む。
私は息を整えた。
「ラウル様。対象物を受領する際の受領書を見せてください」
「こちらです」
ラウルは革鞄から、別の書類束を取り出した。
何も書かれていない受領書だと思っていた。
しかし、それもすでに記入されていた。
受領品目。
採取指示書。
地図。
黒色処理液三瓶。
月白草記録。
旧水路工事資材帳簿。
リディア・フォルスティア観察記録一式。
一番下には、さらに一行あった。
受領後、現地に残る写しおよび関連記録は、情報混乱防止のため廃棄確認を行うこと。
「廃棄確認……」
ラウルの声が震えた。
「私は、そのような説明を受けていません」
私は彼を見る。
先ほどまでの使命感に満ちた顔ではない。
自分が何を運ばされてきたのか、初めて理解した顔だった。
「写しまで消すつもりなのね」
カイが受領書を握りしめる。
「証拠保全ではない。証拠の独占だ」
村長が鼻を鳴らした。
「独占とは、ずいぶん上品な言い方ですな。わしには証拠隠しに見えますぞ」
「ええ」
私は静かにうなずいた。
今回は、村長を止めなかった。
原本を回収する。
写しを廃棄させる。
記録作成者を王都へ連れていく。
そこまで揃えば、目的は明らかに見える。
けれど。
(見えることと、証明できることは違う。ここで怒りに任せて使者を拘束すれば、こちらが監察妨害にされる)
私はラウルへ尋ねた。
「あなたは、この受領書に基づいて、私たちの写しを廃棄するつもりでしたか?」
「いいえ!」
ラウルはすぐに首を振った。
「私は知りませんでした。証拠を受け取り、受領書へ署名をいただくようにと。それだけです」
「受領書は封じられていなかったのでしょう?」
「鞄の内側に入っていました。対象物を確認する時に開けるよう命じられて……」
ラウルは唇を噛んだ。
「私は、何も知らずに証拠を消す手伝いをするところだったのですか」
その言葉には、本物の動揺があった。
私は彼を責める気にはなれなかった。
「まだ、何も消していませんわ」
ラウルが顔を上げる。
「でも……」
「知らなかったことと、知ったあとで何をするかは別です」
私は受領書を指した。
「あなたは今、この内容を見ました。ここからどうするかを選べます」
(知らなかったでは済まない。でも、知らなかった人へ最初から罪を背負わせても、問題の根は見つからない)
ラウルはしばらく黙った。
やがて、ゆっくりと姿勢を正した。
「命令書と受領書に不審な内容があることを、伝令記録に残します」
「そんなことをすれば、あなたの立場が危うくなりますぞ」
村長が言う。
ラウルの顔が強張る。
「承知しています」
声は震えていた。
それでも、言葉は崩れなかった。
「ですが、伝令部の役目は、命令を正確に届け、受領の経緯を正確に残すことです。見なかったことにはできません」
私は少しだけ表情を緩めた。
「ありがとうございます」
「まだ、あなた方を全面的に信用したわけではありません」
「それでいいの」
私は答えた。
「信じる前に、記録してください」
ラウルは小さくうなずいた。
◇
命令書の原本は、その場で写した。
ラウルの伝令番号。
到着時刻。
開封時の立会人。
命令書の内容。
受領予定一覧。
写しの廃棄指示。
私への王都同行命令。
すべてを記録する。
ラウル自身も、伝令記録帳へ書き込んだ。
カイが尋ねる。
「証拠物は渡さない。それで戻れるのか」
「拒否された場合は、理由を記録して帰還するよう定められています」
「罰則は?」
「私にはありません。ただし、レヴィン領側が監察命令に従わなかったと報告されます」
村長が顔をしかめた。
「従えば証拠を消され、従わねば逆らったことにされる。よくできた仕組みですな」
「だから、拒否ではなく条件を出します」
私は言った。
カイがこちらを見る。
「条件?」
「原本は渡しません。でも、立会人の署名をつけた写しを一部、ラウル様に渡します」
「危険です」
「何も渡さなければ、こちらが隠していると主張されるわ」
「写しを渡しても、都合よく使われる」
「だから、同じものを別経路で送ります」
私は机の上に新しい紙を置いた。
「財務監察院の第一調査室、王国司法局、レヴィン領の上位管轄領。それぞれに、命令書と受領書の写しも添えて送ります」
ラウルが目を見開く。
「監察院内の別部署にも?」
「ええ。第三調査室だけへ渡すのは危険ですもの」
「しかし、部外文書を勝手に……」
「私は監察院の内部文書を手に入れたのではありません。私宛てに出された命令書と、私の記録を受領するための書類です。関係者へ事実を知らせます」
(正しい手続きかは分からない。でも、黙って一つの部署に握らせるよりはましだわ)
カイはしばらく私を見た。
「王都へ行く件は?」
「今は拒否します」
カイの眉間がわずかに緩む。
「今は、ですか」
「安全な事情聴取の場所と、立会人と、帰還の保証が提示されるまでは行かないわ」
「永久に行かなくていい」
「そこは今決めることではないでしょう?」
「決めて構いません」
「カイ様」
「譲りません」
村長がまた杖を鳴らした。
「続きはあとになされ」
「村長、楽しんでいないかしら」
「気のせいですな」
ラウルは私たちのやり取りを見て、少しだけ困ったように息を吐いた。
◇
午後、ラウルへ渡す写しを封じた。
封は三つ。
一つ目。
監察院命令書への回答。
原本提出を保留。
理由は、受領後の写し廃棄指示があり、証拠保全に疑義があるため。
二つ目。
押収した証拠の写し。
採取指示書。
採取地図。
黒色処理液一覧。
旧水路資材帳簿の該当部分。
三つ目。
ラウル立会いのもとで確認した、命令書および受領書の記録。
ラウルは受け取ると、深く頭を下げた。
「確かに受領しました」
「途中で封を開ける予定は?」
カイが尋ねる。
「ありません。監察院伝令部へ直接持ち帰ります」
「第三調査室ではなく?」
「まず伝令部へ帰還記録を提出します。規定上、そうなっています」
「その記録をオルダス副室長に先に渡すな」
「それは……」
ラウルは迷った。
「命令系統があります」
「では、伝令部長へ同時に提出してください」
私が言った。
「あなた一人で抱えない方がいいわ」
ラウルは私を見る。
その目には、恐れがあった。
王都へ戻れば、自分が運んだ命令書について説明を求められる。
命令へ疑問を持ったことも知られるだろう。
「怖いですか?」
私が聞くと、ラウルは少し苦い顔をした。
「伝令は、質問をしないことが美徳だと教えられてきました」
「そう」
「ですが、何も知らなければ正しく運べると思っていた。今は……知らないまま運ぶことも、誰かを傷つけるのだと分かりました」
私は静かにうなずいた。
「知らないことは、罪ではないわ」
ラウルが顔を上げる。
「でも、分からないまま決めつけたり、知ったあとで目を閉じたりするのは危険です」
それは、私自身へも言っている言葉だった。
灰の実験。
使者への疑い。
監察院への疑い。
全部を一つにまとめて敵と呼べば、簡単だ。
でも、ラウルのような人もいる。
命令に従っていただけの人。
知ったあとに、記録を残そうとする人。
敵と仕組みを分けなければならない。
「ラウル様。無事に王都へ戻ってください」
「ありがとうございます」
「それから、一つお願いがあります」
「何でしょう」
「出発前に、命令書を渡した書記官の顔を思い出せる範囲で描写してください。名前が分からなくても、年齢、髪、声、利き手、服装。何でも構いません」
ラウルは少し驚いた。
「書記官まで疑うのですか」
「疑うのではなく、記録するの」
私は微笑んだ。
「誰が命令書を作り、誰が封を押し、誰があなたへ渡したのか。順番が必要ですわ」
「……分かりました」
ラウルは伝令記録帳を開いた。
三十代ほど。
灰色の髪。
右手で書類を渡した。
左の袖口に、黒い染み。
声は低い。
薬草のような甘い匂い。
私のペンが止まった。
「甘い匂い?」
「はい。監察院の建物には似合わない、強い香りでした」
ベルトラムの香水。
エドガーの荷物。
ルヴァン商会の薬品。
同じものとは限らない。
でも、記録する価値はある。
「ほかには?」
ラウルは目を閉じて考えた。
「指に、黒い石の指輪をしていました。蔓のような模様があったと思います」
村長が低くうなる。
カイが、押収した黒い封蝋を机へ置いた。
二本の蔓。
中央に杯。
ラウルはそれを見た瞬間、顔色を失った。
「この模様です」
部屋の空気が冷えた。
「間違いありませんか?」
私は尋ねた。
「中央の形までは覚えていません。ですが、蔓の絡み方は同じです」
監察院の書記官が、ルヴァン商会と同じ意匠の指輪をしていた。
偶然かもしれない。
商会と取引があるだけかもしれない。
けれど、命令書の内容と合わせれば、無関係とは考えにくい。
「オルダス副室長本人ではないのですね」
カイが聞く。
「違います。副室長は指輪をしていませんでした。命令を口頭で説明したのは副室長ですが、封書を用意し、私へ手渡したのはその書記官です」
「命令書の内容を、副室長は読んでいた?」
「私には分かりません」
根が二つに分かれた。
オルダス副室長が内容を承知していたのか。
書記官が命令書へ何かを加えたのか。
あるいは、二人とも同じ側なのか。
(また、決めつけたくなる材料が増えた。でも、まだ足りないわ)
ラウルが不安そうに言った。
「私は王都へ戻らない方がよいのでしょうか」
カイが答えるより先に、私は首を振った。
「戻ってください」
「しかし」
「戻らなければ、あなたは封書を持ち逃げした伝令になります。ここに残る方が、相手に理由を与えるわ」
「では、戻れば安全だと?」
「いいえ」
私は正直に答えた。
ラウルの顔がこわばる。
「安全とは言えません。でも、あなたが帰還記録を正式に残し、複数の人へ同じ報告をすれば、簡単には消せなくなる」
(安心させるための嘘は言わない。でも、助かる道は探す)
「王都へ戻ったら、一人で第三調査室へ行かないで。伝令部長と同僚の前で封書を提出してください。受領者の名前と時刻も残して」
「分かりました」
「それから、何かあればレヴィン領へ知らせて。伝令以外の方法でも構いません」
ラウルは深くうなずいた。
「必ず」
◇
ラウルが村を出たあと、私は命令書の写しを見つめていた。
五日前。
月白草三株。
黒色処理液三瓶。
旧水路資材帳簿。
私の観察記録。
まだ発見していないものが、正確に並んでいる。
予言ではない。
誰かが最初から知っていたのだ。
つまり。
「証拠は、偶然残ったものではないのかもしれない」
私が言うと、カイがこちらを見る。
「どういう意味ですか」
「私たちは、エドガーの荷物から指示書と黒い液を見つけた。古い保管庫から資材帳簿を見つけた」
「ええ」
「でも、監察院はそれを事前に回収対象として知っていた」
村長が目を細める。
「最初から、回収する段取りだった?」
「そうかもしれません」
私は指示書の写しと命令書を並べた。
「エドガーたちは、月白草を回収し、清水を塞ぐ。作業後、使った道具や指示書を監察院側が回収する。村には何も残さない」
カイの顔が険しくなる。
「では、エドガーが捕まる可能性まで想定していた?」
「いいえ」
私は首を振った。
「捕まるのではなく、作業後に証拠を引き渡す予定だったのかもしれないわ。黒い液は三瓶残す。地図と指示書も回収する。月白草の位置記録も持ち帰る」
「古い資材帳簿は?」
「商会側が、昔からその帳簿の存在を知っていたのかもしれない」
村長が低く言った。
「受領印の頁を切り取った者が、帳面そのものは残した」
「ええ。すべて持ち去ると、村が気づく可能性がある。必要な頁だけ消して、帳面は価値のない古い記録に見せた」
(そして、今回の処理が終わったあと、帳面ごと回収するつもりだった)
偶然、私たちが先に見つけた。
本当に、ただそれだけなのか。
胸の奥に、別の違和感が生まれる。
「カイ様。保管庫で帳面はどこにありました?」
「古い水利記録の箱です。底の方に」
「誰でも見つけられる?」
「量が多い。目的を持って探さなければ難しいでしょう」
「箱に、最近動かした跡は?」
カイは少し考えた。
「埃が薄い場所がありました」
「誰かが、先に探していた?」
「可能性はある」
部屋の空気が、さらに重くなる。
外から来た不審者だけではない。
誰かが屋敷の保管庫へ入った可能性がある。
「鍵は?」
「私と、屋敷の管理人が持っています」
「管理人は?」
「今朝から姿が見えません」
カイの声が低くなった。
私は顔を上げた。
「名前は?」
「オスカー。先代の頃から、書類と倉庫の管理をしていた男です」
村長が眉を寄せる。
「オスカー殿なら、三年前の工事の時も屋敷におりましたな」
「家は?」
「屋敷の裏手です」
カイはすぐに立ち上がった。
「確認する」
私も立とうとした。
「あなたはここに」
「行くわ」
「危険かもしれない」
「だからこそ、帳簿や植物に関係するものがあれば確認が必要でしょう?」
「兵を連れていきます」
「私も連れていってちょうだい」
カイは私をにらむように見た。
私は視線をそらさなかった。
(無茶をしたいわけじゃない。でも、ここで待つだけでは見落とすものがある)
「あなたの後ろから出ないわ」
「勝手に触らない」
「ええ」
「魔法も使わない」
「必要がなければ」
「必要でも先に言う」
「分かったわ」
村長が杖を鳴らした。
「交渉成立ですな」
カイは深く息を吐いた。
「護衛を二人つけます」
屋敷の裏手へ向かう。
管理人オスカーの家は、扉が半分開いていた。
呼びかけても返事はない。
室内に争った跡はなかった。
食卓には、朝食の途中らしい硬いパン。
椅子には上着。
暖炉には、まだ薄い熱が残っている。
急に出ていったように見える。
机の上には、黒い蝋が一滴。
蔓と杯の印はない。
ただの蝋かもしれない。
私は部屋を見渡した。
壁際に、小さな鉢があった。
中には枯れた植物。
葉は黒ずみ、根元の土には赤茶色の筋がある。
私は近づき、足を止めた。
「これは……」
「何ですか」
カイが聞く。
「月白草の苗かもしれないわ」
花はない。
葉もほとんど枯れている。
それでも、中心に残った白い葉脈は、月白草とよく似ていた。
鉢の横には、小さな紙片が落ちている。
カイが布越しに拾う。
そこには、震えた文字で一行だけ書かれていた。
> 白花は三株ではない。四株目は、まだ生きている。
私は枯れかけた鉢を見た。
森で見つけた三株。
そして、ここに運ばれた四株目。
誰が採ったのか。
オスカーは、商会の協力者なのか。
それとも、月白草を守るために一株だけ移したのか。
紙の裏側にも文字があった。
> リディア様へ。
> 採石場の下を調べてはならない。
> 水ではないものが、埋められている。
背中を冷たいものが走った。
カイも黙って紙を見ている。
村長が低くつぶやいた。
「水ではないもの、ですか」
赤茶けた水。
塞がれた清水。
夜間に運ばれた積荷不明の荷車。
採石場へ運び込まれた白い粉。
そして、地下に埋められた何か。
(オスカーは、何を知っているの?)
私は鉢の前にしゃがんだ。
月白草らしき苗は、ほとんど枯れている。
けれど、中心の小さな芽だけに、わずかな緑が残っていた。
完全には死んでいない。
「この株を屋敷へ運びます」
私は言った。
「まだ助かるのか」
カイが尋ねる。
「分からないわ」
私は芽を見つめた。
「でも、生きているなら試します」
そして、紙片をノートへ挟んだ。
監察院の命令書。
消えた管理人。
四株目の月白草。
採石場の地下に埋められた何か。
土の下にある根は、さらに深い場所へ続いている。
それでも。
見つけてしまった以上、止まるつもりはなかった。
(調べるなと言われると、余計に調べたくなるのよね。……研究者の悪い癖だわ)
私は枯れかけた月白草の鉢を、両手でそっと持ち上げた。
次に守るべきものは、三株ではない。
四株目。
そして、この土地の下に埋められた、まだ名前のない真実だった。
第13話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、財務監察院の命令書と受領書を確認し、証拠の原本だけでなく写しやリディア本人まで回収しようとしていたことが判明しました。
さらに、姿を消した屋敷管理人オスカーの部屋から、四株目の月白草と「採石場の下には、水ではないものが埋められている」という警告が見つかります。




