第1話 無能令嬢、枯れた土地を見て笑う
無能と呼ばれた令嬢の中身は、元植物博士。
剣でも聖女魔法でもなく、土と草と観察眼で、枯れた辺境を少しずつ変えていく物語です。
「リディア・フォルスティア。お前との婚約を、今日この場で破棄する」
王都の大広間に、エリオット王子の声が響いた。
磨き上げられた大理石の床。
壁際に並ぶ貴族たち。
天井から吊るされた水晶灯。
どれもこれも、まぶしいほど豪華だった。
その中心で、私は静かに立っていた。
いや、正確には、立たされていた。
周囲から向けられる視線は冷たい。
哀れみ。嘲笑。好奇心。
そのどれもが、私の肌に細い針のように刺さってくる。
「理由を、お聞かせいただけますか」
私の口から出た声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
エリオット王子は、少しだけ眉をひそめた。
泣き崩れると思っていたのかもしれない。
あるいは、許しを乞うと思っていたのかもしれない。
けれど私は泣かなかった。
泣くには、少しだけ状況が馬鹿馬鹿しすぎた。
「理由など明白だ。お前の魔法はあまりにも無力だ」
エリオット王子は、私を見下ろすように言った。
「草木を少し元気にするだけの植物魔法。王家に嫁ぐ者として、あまりにも役に立たない。聖女ミリアのように人を癒やすこともできず、魔導士のように敵を討つこともできない」
大広間の端で、誰かが小さく笑った。
「植物魔法など、庭師にでも任せておけばいい」
その言葉に、私はほんの少しだけ目を細めた。
庭師。
草木。
役に立たない。
この世界の人たちは、ずいぶん簡単に植物を見下すらしい。
前世の私、森下芽衣が聞いたら、研究室のホワイトボードいっぱいに反論を書き始めていただろう。
植物がなければ、人は息もできない。
土を守るのも、食べ物を作るのも、薬のもとになる成分を蓄えるのも、すべて植物だ。
人間が偉そうに立っていられるのは、足元で黙って働く根と葉のおかげなのに。
けれど、ここでそれを語っても仕方がない。
長い説明は、相手を納得させるとは限らない。
むしろ、聞く気のない人間には、短い結果の方がよく効く。
だから私は、ただ一礼した。
「承知いたしました」
大広間がざわついた。
エリオット王子も、わずかに目を見開いた。
「……ずいぶん潔いな」
「王子殿下のお考えは分かりましたので」
本当は、少しも分かっていない。
けれど、この場で言い返しても、私に得はない。
今の私は、伯爵家の令嬢リディア・フォルスティア。
そして中身は、二十九歳で実験事故に巻き込まれて死んだ植物生理学者だ。
貴族社会の駆け引きは得意ではない。
社交界の微笑みも苦手だ。
だが、観察することだけはできる。
エリオット王子の隣に立つ聖女ミリアは、困ったように視線を伏せていた。
彼女に悪意はなさそうだった。
ただ、何も言わない。
周囲の貴族たちは、すでにこの断罪劇を楽しんでいる。
私の味方はいない。
なるほど。
この環境では、発芽しない。
種が悪いのではない。
土が悪い。
「リディア、お前には王都を離れてもらう」
王子が告げた。
「レヴィン辺境領だ。あの枯れた土地なら、お前の植物魔法も多少は役に立つかもしれない」
また笑い声が起きた。
レヴィン辺境領。
聞き覚えはあった。
王国の北東にある、数年前から作物が育たなくなった土地。
井戸水は苦く、畑は白くひび割れ、村人は減り続けている。
王都では、あそこは呪われた土地だと言われている。
私は、顔を上げた。
「分かりました。行きます」
その瞬間、王子は満足げにうなずいた。
自分が勝ったと思ったのだろう。
けれど、私は違うことを考えていた。
枯れた土地。
白くひび割れた畑。
苦い井戸水。
作物が育たない。
呪いと決めつけるには、少しだけ情報が具体的すぎる。
白い土。
苦い水。
生育不良。
頭の奥で、前世の研究ノートが勝手に開いていく。
塩害。
排水不良。
水脈の変化。
根の呼吸障害。
土壌微生物の崩壊。
私は思わず、口元を押さえた。
笑いそうになったからだ。
もちろん、この場で笑うのはよくない。
婚約破棄され、追放される令嬢が笑えば、周囲は不気味に思うだろう。
それでも、胸の奥に小さな熱が灯った。
研究室で、初めて未知の反応を見つけた時の感覚に似ていた。
怖い。
不安だ。
この先どうなるか分からない。
でも。
知りたい。
その土地を、この目で見たい。
◇
レヴィン辺境領に着いたのは、王都を出てから七日目の夕方だった。
馬車の窓から見えた景色は、想像以上に荒れていた。
畑だったはずの場所には、背の低い枯れ草がまばらに残っているだけ。
地面はところどころ白く粉を吹き、風が吹くたびに細かな砂が舞った。
遠くの木々は葉の色が薄く、枝先から弱っている。
私は馬車の中で、無意識に息を止めていた。
「ひどいでしょう」
向かいに座っていた若い騎士が、低い声で言った。
彼の名は、カイ・レヴィン。
この辺境領の領主家の血筋で、今は病床の父に代わって領地を管理しているらしい。
黒髪に灰色の瞳。
年は二十代半ばほど。
整った顔立ちだが、目つきは鋭い。
王都から送られてきた私を、まったく歓迎していないことは明らかだった。
「三年前から畑が駄目になりました。井戸水も悪くなった。祈祷師も魔導士も呼びましたが、誰も原因を突き止められない」
「呪いだと?」
「ええ。王都ではそう言われています」
カイは窓の外を見た。
「ここに送られたことを恨むなら、王都を恨んでください。我々には、あなたを慰める余裕はありません」
まっすぐな言葉だった。
冷たいが、飾りがない。
私は嫌いではなかった。
「慰めは不要です」
そう答えると、カイは意外そうにこちらを見た。
「では、何が必要ですか」
「土を見せてください」
「……土?」
「はい。畑の土と、井戸水。それから、ここで最後まで育った作物があれば見たいです」
カイは黙った。
その表情には、明らかな困惑が浮かんでいる。
無理もない。
追放されてきた令嬢が、到着早々に土を見せろと言い出したのだ。
普通なら、部屋や食事や湯浴みを求めるところだろう。
けれど、今の私には、ふかふかの寝台より土の方が大事だった。
馬車が村の入り口で止まる。
私は御者が扉を開けるより先に、外へ出た。
乾いた風が頬を打つ。
けれど、その中に微かな匂いがあった。
枯れ草。
乾いた土。
そして、ほんの少しだけ混じる、嫌な苦み。
私はしゃがみ込み、地面に指を伸ばした。
白い粉を吹いた土を、指先でこする。
乾いている。
けれど、ただ乾いているだけではない。
指に残るざらつきが、妙に重い。
土を少し舐める――ことは、さすがにやめた。
前世の研究者としても、そこまで雑な確認は推奨できない。
代わりに、布に包んで少量を取る。
「何をしているんですか」
カイの声が、背後から飛んできた。
「診ています」
「土を?」
「はい」
村人たちが遠巻きにこちらを見ている。
その視線には、期待よりも疲れが濃かった。
また王都から誰かが来た。
どうせ何も変わらない。
そんな諦めが、空気の中に沈んでいる。
私は近くに生えていた草を見た。
葉の先が焼けるように茶色くなっている。
根元は細く、茎は硬い。
けれど、完全には死んでいない。
強い草だ。
この環境でも残っている。
つまり、この土地にはまだ耐えている植物がある。
ならば、終わっていない。
「カイ様」
私は立ち上がった。
「一番悪くなった畑はどこですか」
「……村の北側です。ですが、見ても意味はありません。そこはもう何を植えても育たない」
「見ないと分かりません」
「祈祷師も同じことを言いました」
「私は祈祷師ではありません」
カイの眉が動いた。
少しだけ、空気が張りつめる。
私はそれ以上言わず、北側の畑へ歩いた。
畑と呼ぶには、あまりにも寂しい場所だった。
土は白く、ひび割れている。
畝の形は崩れ、ところどころに枯れた麦の茎が残っていた。
その根元を掘り返すと、根が浅い。
深く伸びる前に、何かに拒まれたような形をしている。
私は膝をついた。
胸の奥が、静かに熱くなる。
見えてきた。
この土地は、ただ枯れているのではない。
水が悪い。
土が硬い。
塩が上がっている。
根が呼吸できていない。
たぶん、地下の水の流れも変わっている。
「呪いではありません」
気づけば、そう口にしていた。
背後で、村人たちがざわついた。
カイが一歩近づく。
「何ですって?」
私は、白く粉を吹いた土を指で示した。
「この畑は呪われているのではありません。土が疲れ切って、水を抱えられなくなっている。井戸水の異変も、おそらく関係しています」
「そんなことが、見ただけで分かるのですか」
「全部は分かりません。だから確かめます」
私は畑の隅に生えていた小さな草を見た。
誰にも気にされない、踏まれかけた草。
けれど葉色は、この畑の中ではまだ濃い。
私はそっと、その葉に触れた。
緑脈視。
意識を集中させると、視界の中で草の輪郭が淡く揺れた。
弱っている。
けれど、耐えている。
根は浅いが、生きている。
水を嫌がっているのではない。
水の中に混じる何かを嫌がっている。
頭の奥が少し痛んだ。
この力を使うと、体の水分が持っていかれるような感覚がある。
長くは使えない。
でも、十分だった。
私は立ち上がり、カイと村人たちを振り返った。
「治せます」
誰も声を出さなかった。
信じられないのだろう。
王都から来た無能令嬢。
植物魔法しか使えない役立たず。
婚約破棄され、追放された女。
そんな私が、枯れた土地を治せると言ったのだから。
カイが低い声で尋ねた。
「本気で言っているのですか」
「はい」
私はうなずいた。
「ただし、一晩で緑の楽園にはなりません。必要なのは祈りではなく、観察と実験と、少しの時間です」
「実験……?」
「まずは小さく試します。畑全部を救う前に、手のひらほどの土で正しいか確かめる。それで結果が出たら、広げます」
カイはまだ疑っている顔をしていた。
でも、完全に拒絶はしなかった。
それでいい。
最初から信じてもらう必要はない。
研究も同じだ。
仮説は、結果で黙らせる。
私はもう一度、白く乾いた畑を見渡した。
王都の人々は、ここを呪われた土地と呼んだ。
エリオット王子は、私を役立たずとしてここへ捨てた。
けれど、私には違って見える。
ここは終わった土地ではない。
まだ、やり直せる土地だ。
私は小さく息を吐いた。
そして、誰にも聞こえないくらいの声でつぶやく。
「……面白い」
枯れた畑の端で、乾いた風が吹いた。
その風の中に、かすかに緑の匂いがした気がした。
第1話を読んでくださり、ありがとうございます。
リディアの強さは、一撃で敵を倒す力ではなく、誰も見ていない土や草の変化に気づく力です。
次回は、枯れた土地の正体を探るため、リディアが最初の小さな実験を始めます。




