形見の大鍋
「ねえ、リュカ! 大変、本当に大変なことが起きちゃったの!」
王都の片隅にある小さな魔道具工房の裏手。メルはエプロン姿のまま、愛用している大きな鉄製のパエリア鍋を抱え、息を切らせて飛び出してきた。
「どうした、メル。魔物の襲撃か? それともまた試作中の魔道具が爆発したか?」
裏庭で剣の手入れをしていた幼馴染みのリュカは、メルのただ事ではない様子に、一瞬でギルドの一流冒険者らしい鋭い目つきになる。いつでも彼女の前に飛び出せるよう、無意識に重心を下げてメルを自分の背後に庇った。
「違うの、そっちじゃないの! ほら、これを見て!」
メルが涙目で差し出したのは、彼女の宝物である大鍋だった。見れば、底のほうが真っ黒に焦げ付いてしまっている。
「……鍋が焦げたのか?」
「そうなの! 新しい魔導コンロの火力を調整しようとしたら、魔力が暴走しちゃって……。この鍋、おじいちゃんから譲り受けた大切なものなのに、普通に洗っても魔法で汚れを落とそうとしても、全然綺麗にならないのよ……!」
ガックリと肩を落とすメル。そんな彼女の頭の上に、ふかふかした白い毛並みを持つ小さな魔法生物――ポポが、やれやれと首を振りながら飛び乗った。
「メル、だから言ったの。メルの雑な魔力コントロールで最新の魔導コンロをいじっちゃダメだって、ポポは何度も忠告したの」
「うう、ポポ、ごめんなさい……。でも、この鍋がないと、私、リュカに美味しいパエリアを作ってあげられない……」
シクシクと泣き真似をするメルを見て、それまで警戒モードだったリュカの表情が一気に崩れた。
(……メルのパエリアが、食べられない……?)
それはリュカにとって、世界滅亡の危機に匹敵する大事件だった。
普段はクールで、ギルドでは「隙のない凄腕前衛」と恐れられているリュカだが、メルの手料理(特に、あの旨味がたっぷり染み込んだパエリア)の前では、ただの熱烈なファンになってしまう。おまけに、物心ついた時からメルを一途に想い続けている彼は、彼女の涙に世界一弱い。
「……待て、メル。その焦げ、完全に魔力が炭化して固着してるな。普通の手段じゃ落ちないが、方法がないわけじゃない」
「本当!?」
パッと顔を輝かせ、リュカの服の裾をぎゅっと掴んで見上げるメル。距離が近い。リュカは内心の動揺を隠すように、わざとフッと口元を歪めて、ギルドの依頼書が束ねられた紙切れをポケットから取り出した。
「ああ。ちょうど今日、ギルドの偏屈な常連の魔道具職人から、名指しで奇妙な依頼が入ったんだ。未開の地『霧降の渓谷』の奥深くに眠る、特殊な魔力を弾く砂――通称『研磨の星砂』を取ってきてほしい、とな」
「研磨の星砂……! ああ、それならどんなに強固に焦げ付いた魔力汚れも、傷一つつけずに削り落とせるって本で読んだことがあるわ!」
「だろう? 依頼報酬も良いが、何よりその星砂の副産物は、採取した冒険者が自由に持ち帰っていい契約になっている」
リュカはメルの頭を優しく、しかしどこか独占欲を込めるようにポンポンと叩いた。
「お前の大鍋は、俺が絶対に元通りにしてやる。だから、そんな顔をするな。……それに」
「それに?」
「『霧降の渓谷』の近くには、確か珍しい汽水域の魔魚や、最高の出汁が出るキノコが自生しているはずだ」
リュカの言葉に、メルの目がらんらんと輝き出す。
「それって……最高のパエリアの具材じゃない!」
「決まりだな。ギルドには俺がこの依頼を受けると伝えてくる。メル、旅の支度をしておけ」
「うん! ありがとう、リュカ! 早速リュカの大好きな具材をたくさん用意して待ってるね!」
嬉しそうに工房へ駆け戻っていくメル。その小さな背中を見送りながら、リュカはふっと、周囲には決して見せない、少し意地の悪い、だけど深い愛着の滲む笑みを浮かべた。
「やれやれ、相変わらずメルのことになると行動が早いの。リュカ、顔が完全に『メルを独り占めできる旅が始まって嬉しい』って書いてあるの」
「うるさいぞ、ポポ。……未開の地は危険が多い。俺が四六時中、隣で守ってやる大義名分ができただけだ」
「それを世間では『過保護』とか『下心』って言うの。まあ、美味しいパエリアが食べられるなら、ポポはどっちでもいいの」
ポポは呆れたように小さく鳴くと、メルの後を追って工房へと消えていった。
残されたリュカは、大切そうに剣の柄を握り直す。
幼馴染みの距離から、もう一歩。今回の旅で、彼女の心を完全に捕まえきってみせる――そんな小さな野心を胸に、リュカは静かに歩き出した。
こうして、幼馴染み2人と1匹の、美味しくてちょっぴり過保護な冒険の旅が幕を開けたのだった。




