▶時の紳士
【 何度も念押しするようですが、注意事項 ↓ 】
※本作は1860年代のドイツおよびプロイセンを着想の根源としておりますが、
史実の再現を主な目的とした作品ではありません。
作中には歴史的事実とは異なる描写、
独自の文化・技術・制度・地理設定、年代・出来事の改変などが含まれます。
また、物語の舞台となる国家や都市は実在とは異なる架空の存在です。
歴史創作・フィクション作品としてお楽しみいただけますと幸いです。
まあつまり、
「 ・プロイセン王国をモチーフとした架空世界の物語。
・史実とは異なる独自解釈を含む。
・歴史再現作品ではない。 」
ってことです。
「は、はい......です......?」
ゲルダルートは思わず背筋を伸ばした。
知らない人間.....いや、人間かも分からない、謎の人物。
それも、どこか普通ではない雰囲気を纏った相手に、
急に話しかけられたのだから当然だろう。
男は.......、いや、そもそも男なのだろうか。
とにかく、目の前の相手に対して不確定要素が多すぎている。
ゲルダルートはその目の前に居る者を、
ひとまず、「時の紳士」と仮に定義することにした。
「時の紳士」というネーミングの理由。
それは至って単純明快。
「いつ現れたのか分からない」からだ。
ゲルダルートは元々、向かいの席が空席だったことを確認している。
先ほどまで、そこには誰もいなかったはずだ。
しかし、気づいた時には座っていたし、
まるで最初から座っているといった雰囲気を醸し出しているのだが。
ならば、正確な時間はいつから?
普通なら、
隣の車両から来た、トイレから戻った、乗車してきた
などの説明がや説明がつくはずだ。
第一に、ゲルダルートは機械を見る目が鋭く、
周囲の変化にも敏感である。
その彼女が、「いつ座ったのか全く分からない」
という不可思議な現象に遭遇している。
だからこそ、彼女の感覚では「現れた」ようにしか見えない。
つまり、時間の流れのどこかを飛び越えて現れたように感じられるわけだ。
これらが、時の紳士と名付けた理由の一端である。
そう、一端だ。あくまでも一端に過ぎない。
長々と説明したが、定義づけた本人のゲルダルートは、
慌てているような、怖がっているような表情をしている。
そんな情緒不安定ともとれる表情を見て、
時の紳士はふっと柔らかく微笑んだ。
その笑みは紳士的で、どこか悲しげですらあるが、
時の紳士本人が何を思い、何を考えているかは読み取りにくい。
白銀のベールに包まれたような、幻想的な、不思議な、神秘的な
表情と佇まいを合わせて、時の紳士に関する謎は更に加速していく。
「なら、次の駅で降りるといい。そうすれば、君は帰れるだろう。」
「つ、次の駅......?で、でも......村までは、ここから三駅以上あるのです......」
ゲルダルートは思わず口に出してしまった。
当然の疑問だった。
むしろ、次で降りれば、その駅から
向かうべき故郷から遠ざかってしまうのは、
ゲルダルートの事前に集めた情報によれば既に確定している。
しかし、時の紳士は首を横に振らなかった。
ただ、落ち着いた声でゆっくりと言葉を重ねた。
「本当に帰りたい場所に帰る方法は、必ずしも"線路の先"だけではないだろう。世界、次元、時間、時代......。他にも色々あるのだが、それらを飛び越えた先に、君がまだ知らない道があるんだよ。」
「知らない......道......?」
ゲルダルートは困惑した。
村へ向かう鉄路は全て地図を読んで、頭に叩き込んだので
この周辺の鉄路は網羅しているつもりだ。
機械に強い彼女は、蒸気機関車の構造も路線図も読み込める。
だからこそ、父の修理仕事を手伝いながら覚えてきた知識が、
頭の中で"次で降りたら遠回りだ"と告げている。
だが、時の紳士の言葉は、妙に重く深かった。
嘘を言っているようにはどうしても見えない。
むしろ.....彼だけが、この世界の摂理の"真実"を知っているような雰囲気。
「選ぶのは君だ。降りるか、降りないか。ただ......迷ったなら思い出すといい。君が本当に帰りたい場所はどこかを。」
ぎぃっと車輪が大きく揺れ、車体がぎしりと軋んだ。
汽笛が鳴り響き、次の駅が近いことを告げている。
ゲルダルートはぎゅっと胸元に手を置いた。
父が待つ家、温かい鍛冶場、みんなの声。
だからこそ、ふと胸の奥で、小さな不安がうずめき始めたのだ。
(......どうして、この人は色々と知っている風に話して居るのでしょうか......?)
「あの.....」
問いかけようと顔を上げたが、向かい側の席は空だった。
まるで最初から誰も座っていなかったかのように。
その時だっただろうか。
遂に、押し込めていたはずの異変がどっと流れ始めたのは。
突如、車輪の音が低く唸り、外の景色は明るいはずの色を失い、
刹那、煤を塗り込めたような深い暗さへと沈んでいく。
がくんっ。
列車が明らかに不自然なくらいに大きく揺れ、
窓の外を見つめる視界が断ち切られた。
闇。
唐突な、逃げ場のない黒、黒、黒。
科学や魔法の力が作った「限りなく黒い物」というのは存在するが、
完全なる漆黒を現時点で、この世界では編み出されていない。
理論的には作り出せないはずなのだが、
この周囲の暗さは異常と感じるくらいに完璧な黒だった。
トンネルに入ったのだと理解するより早く、
窓の外は完全な虚無と漆黒に覆われた。
外界から遮断され、世界は列車の内部だけに圧縮されたかのように。
灯りと呼べる物は、
天井に吊られた、ぼんやりと辺りを照らす心細いガスランプだけ。
だが、その光も、どこか弱々しくなり始めて来て、
揺れるたびに影を歪ませていた。
「......え?」
ゲルダルートの喉から、かすれた声が零れ落ちた。
消えている。人の気配そのものが。
耳鳴りがするほどの深い静寂。
先ほどまで充満していたはずの遠いざわめき。
話し声、笑い声、本のページをめくる音、誰かの息遣い。
それら全てが、最初から存在しなかったかのように抹消されていた。
ゲルダルートは慌てて立ち上がり、車内を見回した。
誰もいない。
人で埋まっていたはずの周囲の座席は、
荷物も人の影もなく、いつの間にか全て空席になっていた。
空気が、酷く重い。
まるで体中が深海の底に沈められたような、
感じた事もない息苦しい冷たさ。
「ど、どうして......?さっきまで......」
声が震えていることに気づいた。
その震えは車内に吸い込まれ、
余韻を残さずふっと消えてしまった。
その時。
闇が揺れたような気がした。
窓の外から見える、周囲の暗闇はトンネルの所為ではない。
ゲルダルートが
その異変に気づいた瞬間だった。
「黒」は"染み"のように広がり、
窓の外だけでなく、
車内の隅からもどろどろと
滲み出してくる。
座席の下、通路の影、
ランプの光が届かない場所。
そして、その闇の移動と共に、
重たい眠気が、ゲルダルートの喉元に
じっくりと無慈悲にも絡みついてきた気がした。
「っ......ね、眠い......?」
瞼が急に重くなったような気がした。
何かから一気に引きずり下ろされるような、そんな感覚。
おかしい。
眠くなる理由なんて、どこにもない。
駅に来る前に宿屋で8時間も睡眠を取っていたはず。
ならば、何かの「薬」の副作用が引き起こした
幻覚なような物なのだろうか。
そのような真相を考えている暇など、
ゲルダルートの中に存在してなかった。
身体が思い通りに動かないので、
それをどうにかしようとするので
精一杯だったからだ。
ゲルダルートは必死に
力を振り絞ってから、
座席の肘掛けに必死にしがみついた。
指先に力を込めても、
感覚が鈍く、布の感触すら遠い。
「ね、寝ないです......!絶対......寝ないのです......!」
頬を叩く。
痛みはあるのに、思うように意識が浮上してこなかった。
これは、意図的なのだろうか。
はたまた.....いや、今はそんな事を考えている暇がない。
ゲルダルートは冷静になれずに焦り続けていた。
ガスランプの光が、段々とぼんやりと滲み始めた。
揺れが、まるで子守歌のように感じられる。
視界の端から、黒が溢れ出し、
ゆっくりと、確実に、世界を塗り潰していく。
「う......こんなところで......寝たら......」
言葉が途中で途切れていく。
瞼が閉じかけるたび、暗闇の奥で、
何かが"待っている"気配がした。
そして、息が次第に浅くなるのが感じて、
ゲルダルートは心底怖かった。
心の臓が、大きく、耳元で鳴り響き続けている。
その時。
闇の中から楽しそうな、軽い声が聞こえた。
「あーあァ。」
恐らく、男の声だった。
何処かで、聞いた事のある声。
なのに、言葉が鮮明に聞こえない。
元からこのような声だったのかもしれないし、
ゲルダルートの聴力が、
少しずつ機能しなくなり始めていた兆候かもしれない。
しかし少なくとも先程の「時の紳士」ではない。
それだけはゲルダルートの鈍り始めて来た頭でも理解できていた。
すぐ後ろ、肩越しに囁くような距離でも分かる、含み笑い。
残念そうでいて、どこか愉快そうな響き。
しかし、ゲルダルートにとっては不愉快この上ない。
「ばーカ。だから言っていただろウ。」
声がすぐ後ろから耳にかかってきた。
「アイツは"次の駅で降りろ"ってなァ。」
アイツ、というのは恐らく「時の紳士」の事だろう。
となると、この声の人物は「時の紳士」について
少なからず知っているという事も同時に分かってくる。
(誰だろう.......?多分、あの人だろうけど.......)
ゲルダルートは声の正体を探るために振り向こうとした。
だが、首すら動かない。
闇が逃げ道を塞ぎ始めていた。
どれだけ逃げても迫ってくる。
怖い。
怖い。でも、
眠気が全てに勝った気がした。
勝ってしまった気がした。
ゲルダルートが意識を失う前に最後に感じたのは、
列車の遠い振動と、闇が覆い被さる感触。
そして。
ゲルダルートは誰かの嘲笑を背に受けたまま、
静かに意識を手放した。
溺れていった。
あの「時の紳士」はこの運命を想定していたのだろうか。
いや、訂正しよう。疑問形ではない。
あの「時の紳士」はこの運命を想定していたのだ。




