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♯ 3

 東京への引っ越しはそのほとんどが終えていた。

春に結婚する相手、神崎川翠のマンションにいたってはとっくに空で、彼自身はその生活自体を完全に東京へと移してしまっている。

 彼が早々に自分を残し、一人で東京に行ってしまったのは、単純に仕事が忙しいから。

 と、考えるのは、果たして傲慢だろうか、それともおめでたい楽観か。 

 紅にはどちらともつかなかった。

 彼がお腹の子どもの事を依然として良くは思っていない事は、痛いほど知っている。

 止んでいた暴力も、この妊娠が分かってから再び始まっていたし、自分を見る目も以前にまして寂しそうになってしまった。

 でも、この子を産むと決めた事が間違いだった、なんて思いたくはない。

 紅はヒールのない靴でその感触を確かめるように慎重に、町の風景をその目に焼きつけながら丁寧に道を辿っていた。

 産婦人科の帰り。

 この町での検診はたぶん、今日で最後になる。

 検診を受ける度に、主治医は子どもの大きさが通常よりも小さい事を気にかけていたが、食欲のなさはどうしようもなかった。

 赤ちゃんの為に、と思って出来るだけ栄養を口に運ぶのだが、一行に終わる兆しを見せないつわりと、もともとの食の細さが相まって、うまく食事が取れないのが実情だ。

 駄目なママね。あなたの為に、もっとしっかりしなきゃね。

 紅はまだ膨らみを見せない下腹部をそっと撫でながら、心の中で呟いた。

 どちらにしろ、卒業式までは彼はこの町には帰って来ない。暴力からこのお腹の子を守れる安堵感と、理屈じゃどうしようもない寂しさの狭間で、いつも立ち位置を見失いそうになる。のだが……。

 ふと、顔を上げた。

 目についたスイーツショップには、華やかで可愛らしい文字や装飾がふわふわと幸せそうに揺れているのが見えた。

 あぁ、もうすぐバレンタインね。

 思わず目を細める。

 彼はイベント事が嫌いで、二人の間でこういった行事を楽しんだ思い出はないが、去年、まだ映画部にいた頃は他の部員達と楽しく過ごした思い出ならまだ鮮明だった。

 その中にある、一人の顔が浮かんだ。

 胸の奥底に重いものを感じ、翠に対する感情と同じように、抗い難い火傷の様な痛みが走った。

 彼の気持ちは知っていた。でも、特別扱い、いや特別視することすらいけないような気がした。翠に対して、そしてなにより彼に対して。

 去年のバレンタインデー。彼は、皆と同じ包装のチョコレートを、それでも嬉しげに受け取ってくれた。実は中身は皆と少し違ったのだが、その事については気がつかれたかったのか、気がつかれずに済んで良かったのか、自分でもよくわからない。

 足を止め、店内に入る。

 冷たい外の空気に強張っていた頬が、店内の温もりでやんわりとかされていく。かじかんだ耳に、まろやかな旋律のオルゴールが微かに聞えた。

 一歩進み、ショーケースの中にならんだ小さなチョコレートを眺めた。

 まるで、幼い頃に宝物箱に集めた、あの、プラスチックでできたおもちゃのアクセサリーのようだ。

 もし、彼なら、どれを選ぶだろうか。

「バレンタイン用ですか?」

 店員に声をかけられ、紅ははっとして顔を上げた。

「あ、あの」

 たった今までそんなノリで品定めしていたくせに、それを形にされると急に気恥ずかしくなって、紅は言葉を詰まらせた。

 困ったように眉をよせ、泣きボクロの瞳を細める。

「お相手はどんな方ですか? 年齢によっても人気商品が違ってくるんですよ」

 人の良さそうな丸顔の女性店員は、親切心だろう、やや早口で紅の隣に立って、一緒に選ぶようなそぶりを見せた。

 相手は……そう言われて、紅はさらに顔を曇らせた。

 もちろん、彼の事を考えていたわけだが、その『彼』の指す所が当然のように婚約者の翠ではなく、自分でも意識しないうちに蒼汰にすり替わっていて、その事実に自分でも少し驚き戸惑ってしまったからだ。

 彼に関わるのはよそう。

 そう、決めたはずなのに。

 雪の日の夜、最後に交わした彼との会話が蘇る。

 気持ちには応えられない、そういう自分に、彼は、蒼汰はそれでも微笑んでくれた。強く温かな笑みで「俺、傷つきませんから」「何かあったら、絶対に呼んでくださいね」そう言ってくれた。自分が翠からの暴力を受けてもなお、翠から離れられない、そんな事情も何もかもを一切飲みこんで。

 いけないな。

 紅は頭を軽く振ると、店員の方を申し訳なさそうに見つめた。

「ごめんなさい。やっぱり、今日は」

 目の端にそのチョコレートが映ったのは、その時だった。

 思わず目を瞬きし、言葉を飲み込み、ショーケースの方に視線を滑らせる。

 そこには、ハムスターの形の、手のひらに載るほどの可愛らしいチョコレートが飾られていた。

 人形のように立体的で、瞳が愛らしい。向日葵の種を両手で持つものと、頬袋を膨らませたものの、二種類のチョコレートが並んでいた。ホワイトチョコとミルクチョコの二種類からできていて、縞模様が綺麗に入っている。

 店員が彼女の視線に気がつき、柔らかそうな頬を緩ませた。

「あ、これは今年の新作なんです。可愛いでしょ? なかなか人気なんですよ」

 心臓かことりと傾いた。

 ハムスター。そんな小さな命の中にも、彼との思い出が蘇る。

 携帯の待ち受け画面にもしている、そのハムスターの名前は確か蒼次郎だ。自分がいつだったか、幼いころに飼っていたハムスターを懐かしんでペットショップで立ち止まった時、彼が飼うからと言いだしたのだ。

 それから、時々、その蒼次郎の様子は、写真付きのメールで送られてきた。

 彼とを繋ぐ、細い、でも確かな温もりのある存在だ。

 気がつくと、紅はそのハムスターのチョコレートを一対購入して店を出ていた。

 店先で手の中の小さな包みを見つめる。

 どうしようかと、迷う。

 彼に渡そうか。それとも、このまま眠らせてしまおうか。

 どうして、買ってしまったのかしら。

 紅は小さく溜息をつくと、再び歩き出した。

 また、いつの間にか『彼』の指す所が蒼汰になっている事に気づきもせずに。

 バレンタインまであと1週間であった。

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