♯ 4
こう言うのは反則だよなぁ。
三宮はレポートに添えられたチョコレートを眺めて溜息をついた。
毎年、後期試験の成績の悪かった者に、三宮は追試験の代わりにレポートを提出するように言っていた。単に、追試を作るのが面倒というのもあるし、レポートを作成させる方が学生にとっても勉強になるだろうし、彼らの理解不足の点をこちらがすくい上げてやる事が出来ると言う目的もあった。
ただ、時期が時期なだけに、こういった賄ろまがいな事が横行してしまうのが困るのだ。
確かに、進級と春休みの有無がかかった後期試験。学生達が必死になるのもわからないでもないが、こちらも落としたくて考査するわけではない。できれば薄っぺらいレポートのやたらに高そうなバレンタインのチョコをつけるのは止めてほしかった。
「せめて、女子からなら素直に喜べるけどなぁ」
ぼやいてみたところで、お粗末なレポートの厚さは変化するはずもないが、ぼやかずにはいられなかった。
三宮の専門は理学部物理学科誘導電子学……つまり生徒の男女比はヤロウが圧倒的に多い。自然、レポートに添えられた可愛らしいチョコレートの差出人は、スカートを履いているはずもなく……。
「はぁ。心がひび割れそうだ。潤いを取り戻しに行かなくては」
そう独り言をつぶやきながら、冷めきったコーヒーを一口すすり、椅子から腰を浮かせた。
扉が鳴った。
中途半端な姿勢のまま返事をすると、
「すみません。芦屋です」
久しぶりに聞く女子の声だった。たしか、自分が顧問を務める映画部の1年だ。去年の学際で学園クイーンにも選ばれるほどの美人が、何ようだ?
三宮は下手な期待を端から抱く事もなくなってしまっている、自分の枯れ具合に苦笑しながら座り直した。
「失礼します」
「どうぞ。ちょうど部室に顔を出しに行こうと思っていた所だ」
「また、青をからかいにですか?」
「また、って、そんなに俺と園田の蜜月ぶりは有名か?」
「有名も何も、うちの部の名物になりつつありますよ」
打てばすぐに打ち返してくる言葉に棘がある。
それはこの美人の個性なので仕方ないとして、気になったのはその棘がいつもよりその鋭さを鈍らせている所だ。
そもそも、彼女がここを訪れるなんてことは初めてだし、何かあったのか?
三宮は気づかぬふりして芦屋スミレに席を進めると、彼女の為にコーヒーを淹れなおす為に立ちあがった。
勧めたソファに素直に座る気配が背中でする。次いで、静かな自分の研究室に溜息が零れた。
これは、たぶん、あれだ。恋の悩みだ。
そう囁く直観は、だてに長くやっていない教師生活の副産物だ。
「あの、先生」
「ん?」
芦屋スミレはさらに弱気の顔を覗かせると、コーヒーカップを手に振り返った三宮を見上げた。しっかり、恋する女子の顔で。
どうしてそんな顔、俺に見せるかなぁ。
と、三宮は苦笑いしそうになるのを堪える。
昔から、そう、学生時代から三宮は不思議と恋愛の相談役を引き受けることが多かった。それも、何故か女子からが多い。
別に、もてるわけでも、恋愛がうまいわけでもない。むしろ現在にいたってはバツイチの身で失敗者と言おうと思えば言えるような、中年のおやじだ。なのに、まぁ……。
ふと、もうすぐ結婚する教え子の事を思い浮かべる。
触れれば折れてしまいそうな女生徒と、そこにいるだけで存在感のあるカリスマな男子生徒の二人だ。
彼らの場合も自分は首を突っ込んでいる。まぁ、アイツらの場合は、こっちから突っ込んだようなもんかな。
思考が脱線しかけるのを修正し、三宮は芦屋の前にカップを置いた。
深刻ぶる綺麗なその顔を、苦味を孕んだ湯気がふわりと包みこんだ。
「どうした?」
硬く結ばれた唇が解きやすくなるように、誘い水を向けて見る。
芦屋はそれに返事するように小さくため息を落とした。
随分悩んでいるらしい事は一目で見て取れる。
充血した瞳に、膝の上で硬く結ばれた拳。顔も心なしか青ざめているような気がした。
これは、相当な悩みだな。
三宮はそう判断すると、自分のカップに口をつけながら彼女を観察した。
「先生、あの」
何か重大な事を明かすような重々しい口調だ。
ふと、芦屋の瞳が揺れた。涙、か? なんだ。何か、本当にあったのか?
三宮は歳の分だけ経験してきたあらゆる可能性、しかも悪い方のそれを頭にいくつも浮かべる。
ことと内容によったら、軽々しく扱えない。
「私」
「うん」
どんな悩みなんだ? 三宮は、出来るだけ相手に安心感を与えるように静かに頷くと、苦悩に震える女子生徒の告白を忍耐強く待った。
もう、好きにしてくれ。
三宮は目の前の芦屋スミレの悩みを聞いて、思わず脱力してソファに背を預けると天井を仰いだ。
言葉を口にしなかったのは、せめてもの彼女への思いやりであって、本心は呆れるを通して、投げ出したくなっていた。
「どう思います? 先生!」
詰め寄る彼女の表情はいたって真剣だ。学生がまましかけてくる悪戯の類には見えない。
三宮はその姿勢のまま彼女の方を見やると、小さく息をついた。
「どうって……」
好きにすれば?
再び口をこじ開けそうになる言葉を飲み込む。
芦屋スミレは膝の上で組んだ手に力を込め、独り言のように早口でまくし立てた。
「本当に、本当に青の事はもう何とも思っていないんです。今は春日と付き合ってるし、もちろん、春日にだってチョコレートをあげるつもりです。でも、やっぱり青にあげないっていうのもおかしな気はするし」
「つまり、園田にチョコレートをやりたいが、彼氏である春日の手前気が引けると、そういうことだね?」
「はい」
涙目で頷く。
三宮には、こんな事をなぜ人生の一大事のように悩むのか、いまいちどころかまるで理解できなかった。
そう、とうてい若い女子の気持ちなんか、バツイチの中年おやじから遠くかけ離れたところにあるのだから、わからなくて当然だ。まだ、自分の苦手分野だった心理学や政治学を理解しろと言われる方が、可能性は見出せそうな気がする。
だいたいが、勘違いされがちだが、自分は根っからの理系人間だ。事象には必ず原因があり、結果がついてくる。そんな信念に近い思考回路の持ち主だ。
答えのない、もしくは多岐にわたるものに関してはてんで弱く疎い。というか、街角で出会えば二の句も告げずに「ごめんなさい」と頭をさげて180度方向転換し尻尾を巻いて逃げたくなるような、そんな分野だ。
頼むから、こういった問題を持ち込まないでくれよ。
三宮は白髪の混じった短い髪をガシガシとかきむしると、ようやく体勢を前景に構え、溜息の代わりにコーヒーを流し込んだ。
苦味が喉を通過し、胃に落ちた時だった。ふと、思いつき、三宮はそれを口にする。
「なら、別に部員全員に配ればいいじゃないか。それなら、春日も芦屋が園田にチョコをやった所で気にしないんじゃないか?」
行き当たりばったりに適当に答えた割に、名案な気がした。
これなら、うん、ごく自然だし、彼女の願いを二つとも叶えられる。
しかし、恋する若い女子の答えはこれまたバツイチ中年の予想を覆した。
「そんなの、嫌です」
「はぁ?」
「どうして、私がどうでもいい男子の為に何かしてやらなきゃならないんですか」
芦屋スミレはさっきのしおらしさはどこへやら、今度はいつもの強気な顔でこちらを睨み返していた。その迫力に三宮は不本意にもやや気圧されながら、苦笑いする。
「あ、いや。木を隠すなら、森にというだろ。園田をその他大勢の中に紛らわせたら」
「青は特別なんです! だから、あげたいんです! 先生、全く分かってない!」
あぁ、わからないよ。だから、相談相手をちゃんと選んでくれ。
どうして自分が30歳近くも年下の生徒から叱られなければならないのか、頭痛を感じながら、三宮はとりあえず「すまん」と小声で謝った。
「ちゃんと考えてくださいね。こっちは真剣なんですから」
「はぁ」
これは困ったことになったぞ。
チラリ、芦屋スミレを見る。彼女はまるで、もしこれで自分の恋愛にケチがついたら、あんたを訴えるとでも言わんばかりの剣幕でこちらを半ば睨みつけていた。美人なだけに迫力がある。何と言っても、目、だ。大きく快活な瞳は力があって、誰かに似ている。
あ、そうだ、別れたかみさんだ。彼女も目が大きく力があり、それは魅力的でもあったが、同時に凶器でもあった。
「先生! ちゃんと考えてます?」
「あ、はいはい」
つい苦手分野から逃げようと働く思考が脱線してしまい、三宮は頭を下げた。
頼む、誰でもいい、この窮地から救ってくれ。
そう溜息をついた。
ドアが鳴った。
「スミマセン。三宮教授、いますか?」
神の救いだ!
普段、まったく非科学的な事は信じない理学部の教授は、思わず破顔すると立ち上がった。
「います! います! どうぞ!」
「失礼します」
訝しみながらドアを振り返る芦屋スミレの背後で、神が降臨され……ると、思ったのは甘かった。
そこから顔をのぞかせたのは
「あ、桃先輩」
西宮桃。
またもや恋する女子生徒の登場だ。
しかも、かっちりしっかりさっきの芦屋と同じ、恋に悩む乙女の顔をしている。
三宮は思わず力なくソファにへたり込んでしまった。
いったい全体、なんなのだ。
「あ、芦屋さん」
顔を見合わせる映画部の恋愛少女ツートップを前に、三宮は夜逃げしたくなった。いや、今は夜ではないのだが……とにかく、逃げ出したくなった。
神はこれ以上の試練を俺に与えるのか、私は無力です、人のしかも若い女子の恋愛相談なんてできません。そう嘆きかけた時だった。
再びドアが鳴る。
「ハイ!」
今度こそ、救世主の登場か?
三宮は顔を跳ね上げた。萎えかけた心が少し生気を取り戻す。
もう、この際、神だろうが仏だろうが救世主だろうが、何でもいい。どうしようもないレポートにわいろのチョコレートを添えたむっさい男子学生だって構わない。
とにかく、この状況から逃げ出す道を開けてくれる奴。来てくれ! 頼む! 頼むから!
こんなに願ったのは、娘の出産の無事を祈る時以来だと言わんほどの期待と祈りを込め、ドアを見つめた。
ドアが開く。
そして、現れたのは。
「あの、お久しぶり……あら」
中津紅。
三宮は呆然とした。
嘘だろ。この期に及んで、よりによって、ややこしい恋愛の大御所の登場だ。
しかも、やはり、かっちりしっかり、そしてばっちり恋に悩む乙女の顔を、彼女もしている。
一体今日は何の日だ? 厄日か? 天中殺か? それとも何かの罰が当たったのか?
この世に神も仏もないや。
やっぱり、俺は化学に身を捧げるぞ。
三宮はそう、心の中で固く誓うと、顔を見合わせる恋する乙女三人に、こう声をかけたのだった。
「で、俺にどうしろと?」
バレンタインまで、あと3日であった。




