第九話 真の名前は雨中に消えて
──ライデン様──
己がそう呼ばれなくなってどれ程の時間が経ったのか……。
そんなくだらない事が笑い話として己の中で処理できてしまうほどに、ライデンにとっては気持ちの整理が出来ていた頃だった。
場所はノーラッドの町外れにある宿屋の一室。
その窓際にある机で酒の入ったコップを傾け、祝杯を上げていた。
祝杯の理由は他でもない。
この日はライデンにとっての特別な日。
無能冒険者の烙印を押されたライデンが、ようやく一流冒険者の足元であると言える、Cランクに昇格した記念日だった。
それは、ライデンがめでたく齢三十を過ぎて尚、純潔を守り続けている事と同義であったが。
思い起こせば、ここに至るまでのライデンの人生は思い出したくもない出来事ばかりだったように思う。
子爵家の次男として生まれ、何不自由なく育った幼少期。
武門の子として期待されていたにも関わらず、武の才能が全く無い事を理由に居ない人間のように扱われた少年期。
何も与えられず、何も持たされずに家を放り出された青年期。
そして、生きる為に飛び込んだ冒険者としての生活は、これまでの生活が“恵まれていた”と思える程であった。
居なかった人間として扱われていたとは言え、紛れもない人間であった貴族時代と違い、冒険者時代のライデンの存在価値など、道端に生える雑草の方がまだ価値があるのではないかと思ってしまうほどだったのだから。
しかし、それもようやく報われた。
それが、自分の力ではなく、【女神の祝福】によるものだったとしても、ライデンはCランクという形になる資格を得た事で、ようやく自分が“人間”になる事が出来たと実感できたのだ。
これがライデンでなかったとしても祝杯の一つも上げただろう。
それなのに……だ。
「ライデン様」
折角の祝いの席で思い出したくもない過去に想いを馳せてしまった元凶。
その存在をその声と呼び方で現実に引き戻されたライデンは、机の上にコップを置くと少々困ったような笑みを浮かべながら部屋のベッドの上へと目を向ける。
そこにいたのは白いローブを身に纏って膝を畳むようにして座っている幼い少女。
いや、幼く見えるだけで実は彼女の年齢が自分と5歳しか離れていない事をライデンはよく知っていた。
それもそのはずで、彼女はライデンが放逐されるまでの期間、同じ屋根の下で暮らした仲だったのだから。
とはいえ、別に兄弟や親戚というわけではなく、様々な事情でライデンの家に贈られてきた他家の息女だという話だった。
詳しい話はライデンは聞いていなかったけれど、仮にも貴族のお嬢様が、幼い美空で半ば丁稚待遇で他家に出された時点で訳ありなのは子供であったライデンにだってわかる。
最も、その理由は幼かった本人の口からあっさりと教えて貰う事が出来たのだが。
彼女は亜人だったのだ。
貴族のバカ息子がふざけ半分で孕ませた小人族の子供。
本来であれば生きることさえ許されない存在であっただろう。
しかし、いかに下級の貴族とは言え、息子の汚点を世に示すのは憚られたのであろう。とりあえず物心つくまで育てた後、名目上はライデンの婚約者として、ライデンの家に連れてこられたのだが、実態は報酬のない奉公人。
一応はライデンの婚約者であったので、ライデンと共に過ごす事は許されたが、自由など殆どなかっただろう。
それでも、彼女はライデンと共にいる時はよく笑ってくれたものだった。幼い頃はまだしも、居ない者扱いされ始めた少年期において、ライデンは彼女に随分と救われたのを覚えていた。
「アメリア」
ライデンは彼女の名前を口にする。
小人族の血を引くが故に少女にしか見えない白い髪の女──アメリアは、呼ばれた事で一瞬嬉しそうな表情を見せるも、直ぐに口元を引き締めて本人的には淡々としている……と思っている口調で話す。
「そんなお顔をされてもダメですよ。ライデン様。先ほどお話したように、次期ご当主であったトール様が病でお亡くなりになりました。現ご当主であらせられるゼノン様のお子はお二人しかおらず、トール様にもお世継ぎがいなかった事から、ライデン様は至急家に戻り、家督相続の準備をせよ。と、ゼノン様からのお言葉です」
ライデンは腕を組み、口には出さずに「酒が不味くなる話だ」と思いつつも、一応は考える。
が、そもそもが気の入らない内容の話だ。直ぐに脳内で白旗を上げる。
「……父上の言い分はわかった。で、お前の本音はどうなんだ」
ライデンの言葉にまさか自分の事を言われるとは思わなかったのか、アメリアは少し驚いたように両目を瞬かせたが、直ぐにニッコリと微笑んだ。
「私はライデン様の婚約者です。すぐにでもお家に帰ってもらって、祝言を挙げたい……そう考えるのが自然ですよ?」
「……成る程。今回俺を呼び戻す事に対する父上からお前への報酬がそれか」
「はて? 何の話なのか……」
とぼけるように目を逸らしたアメリアに呆れながらも、ライデンは黒く塗りつぶされた窓の外を見やる。
外では雨が降り始めたのか、幾つもの水滴が窓を叩き、小さな雫を作り出していた。
「……今まで散々無能扱いしておいて、ようやく冒険者として活躍しだしたと思った矢先にこれか……」
「ライデン様。お考えを変えましょう。今までの苦難は今日この時。ゼノン様の後を継ぐ為の試練だった……そう考えましょうよ」
「その考え方だとまるで俺が当主になりたかったように聞こえるな。言っておくが、俺は生まれてこの方父上の後を継いで当主になりたいなどと思った事はただの一度もない」
「知っています。知っていますとも。でも、もしもあのままライデン様が家を出ないであの家で無為に過ごしてこの時を迎えたならば、私と結婚することは出来なかったんですよ?」
「それこそ、俺がお前と結婚したいかのように聞こえるな。言っておくが、俺は生まれてこの方……」
「……生まれてこの方……何ですか?」
問い詰めるようなアメリアの言葉に、ライデンは思わず口を噤む。
別にアメリアの事が嫌いなわけではない。寧ろ、好ましくは思っているだろう。そうでなければ、幼少期の頃にあれほど共にいたりはしなかった。
ただ、実家から“捨てられた”少女と、同じように捨てられた筈の自分の結婚に対して、どうしてもイメージがわかなかったというのが答えだった。
それを誤魔化すためだったのだろう。
ただ、照れくさかっただけだったのかもしれない。
いや、先ほどしてしまった失言を無かった事にしたかっただけだったか。
理由は今でもわからない。
ただ、この時にしてしまった本当の意味での失言をライデンは生涯忘れる事はないだろう。
「……たしか、小人族というのは、魔術にかなり長けた種族だそうじゃないか」
「? それが何か?」
アメリアが亜人だという話は、2人の間では特に“禁句”というほどでは無かった。
現に、アメリアもライデンの言葉に首を傾げただけで不快な素振りは見せなかったのだから。
そんな彼女の様子が一変したのは、その直後の事だった。
「今のお前の望みが俺との結婚なら、一番の邪魔者は兄上だよな。兄上が死ななければお前は今でもあの家で奴隷同然の扱いをされていたのだろう? “家を追い出された出来損ないの婚約者”。さぞかし不当な扱いを受けていたはずだ。兄上に子供がいなかったのなら尚更だ。その状況ならば、兄上一人いなくなるだけで──」
ライデンの言葉を途中で切り裂いたのは机の上に置いておいた酒の入ったコップだった。
パーン!! と、とても木製とは思えない派手な音と共に中身を散らす。
最も、ぶちまけられた中身がライデンの身を濡らす事は無かった。理由は飛び散った酒がライデンに届く前に燃え尽きたからだ。
「…………私が…………私が魔術を使って、トール様を病に見せかけて殺したと……?」
今まで聞いたことのないような低く、暗い声がアメリアの口からこぼれ落ちた時に、ライデンはようやく己の失言を悟る。
しかし、既に悟っただけではどうにもならない領域にアメリアは踏み込んでしまっていた。
「ライデン様はっ! 私が人を殺したとっ! 私を人殺しだとっ!」
「ま、待てっ! 落ち着け──」
「離してっ!!」
ベッドから飛び降り、裸足のままでライデンに詰め寄ってきたアメリアの足元にあったコップの破片を踏ませまいと押し返しただけだった。
だが、それだけの行為で既にアメリアの中ではライデンに拒絶されたという現実を見せられた思いだった。
だから、アメリはライデンの手を振り払い、涙で濡れた目を向けると、虚ろな顔でとんでも無い事を口にする。
「……今、この街には女性ばかりを狙う切り裂き魔が現れるそうですね」
それはぞっとするような声だったが、アメリアの口にしている内容はライデンのよく知る内容だった。
何故なら、Cランクに上がったライデンが、“次に受けようと思っていた依頼”だったのだから。
「……ライデン様が言うような“凄腕の亜人の魔術師”ならば簡単に殺せるような相手なのでしょう。でも、きっと、そうではない女性なら殺されてしまうのでしょうね。だから──」
一歩、一歩。後ずさりするようにライデンから距離を取りながら、アメリアは言葉を続ける。
「──だから、私は、殺される事で私自身の潔白を証明します」
「馬鹿な! アメリア! お前は何を言って──」
「それがっ!!」
ライデンの言い訳をアメリアは許さない。
大声でライデンの言葉を遮り、それでいて小さな頃ですら見せた事のない本気の泣き顔をライデンに向けて──
「それがライデン様ののぞみなのでしょう!?」
──すぐ後ろにまで近づいていたドアを後ろ手で開けると、そのまま、裸足のままで部屋を飛び出してしまった。
「アメリアッ!!」
後を追うようにライデンも駆ける。
廊下を抜け、驚いている店主や他の宿泊客を尻目に宿の外に飛び出したライデンの体に、いよいよ激しさを増した雨が降り注ぐ。
──この日を境に、永遠の少女たる小人族の女の時間は文字通り“止まった”。
己の真の名と、街の一部の消失を代償として──




