第1話 熱病から目覚めた瞬間、知らないはずの幼馴染の笑顔に心を奪われて人類滅亡の使命を即サボった件
黒崎零、28歳。
ブラック企業の契約社員。毎日終電近くまで残業し、満員電車に揺られながら他人の幸せをSNSで匿名毒づくだけの陰キャだった。
「はあ……世の中なんてクソだよな。 幸せそうな奴はみんな偽物。俺みたいな底辺が、一番正しいんだ」
心の中で何度も繰り返した言葉。
本当は、ただ普通に可愛い子と笑って過ごすような、のんびりした日常に強く憧れていた。
でも、そんな陽キャみたいな人生は、自分には一生縁がないと完全に諦めきっていた。
その日も、いつものように疲れ果てて帰宅途中の満員電車で、突然激しい胸の痛みに襲われた。
な、なんだこれ?やばい……!!
倒れこむと、周りの乗客が、わっと散る。
心筋梗塞!?
視界が暗くなっていく。
おい、誰か、誰か助けてよ……
誰も助けてくれねえ……
クソっ!クソっ!死ぬ!
こんなんで死ぬ……
♢
気がつくと真っ暗闇の中にいた。
「なんだ……ここ?」
胸の痛みはない。
俺、死んだのか。
あんなんで……。
あんなのが俺の人生……。
「……ふははは。なかなか面白い魂だ」
暗闇の中で、低く重い声が響いた。 巨大な影のような存在。
全身が委縮するような威圧感。
理屈抜きに恐怖を感じる。
「な、なんだよ?ば、化け物?ここって地獄?」
「地獄ではない。世界の狭間だ。見るがいい」
暗闇の中に、いくつも小窓のようなものが浮かび上がる。
その向こうにはたくさんの世界が広がっていた。
なんだこれ?並行世界ってやつ?
「あれを見ろ」
一つの窓が大きくなる。
「あそこにはおまえを見捨てたような奴らが幸せに暮らしている」
「あ、あんたは?」
「魔を統べる者。魔王。どの世界でもそう呼ばれる」
それが俺と魔王の出会いだった。
「お前のような捻くれた人間の魂は、久しぶりに気に入った。太古の戦いで絶命した我が軍最強の勇者、アシェルの残留魔力を与えてやろう。お前との相性は抜群だ。この世界をぶっ潰せ」
「この世界……。どんなところだ?」
「おまえがいた世界では、所謂『剣と魔法の世界』というやつだ。あとは自分で確かめながら楽しめ。そして壊せ。 神の忌々しい結界をすり抜け、内側から人類を地獄に叩き落とすのだ」
俺は一瞬、呆けたようにその言葉を聞いた。
だが、次の瞬間、胸の奥底に長年溜まっていた黒い感情が一気に爆発した。
「は? マジで? 俺が最強になって、幸せぶってる連中を全部ぶっ壊せるってことか……? ……最高じゃん! やってやるよ、魔王様!」
ワクワクする。こんな感じは生きていて味わったことがない。
「ん~。よく言った。期待しているぞ。これがおまえが転生する体だ」
窓の向こうに、ベッドで寝ている青白い少年の顔が映った。
「この小僧はレイン・ヴァルディス。16歳、辺境準男爵ヴァルディス家の三男だ。間もなく死ぬ。この体におまえの魂を押し込んでやる。後は好きに暴れろ」
「おお!まかしとけよ!」
ノリノリで拳を握った瞬間、魂が強く引きずり込まれる感覚がした。
♢
目が覚めた。
体が軽い。 高熱が嘘のように引いている。 レイン・ヴァルディスの体で、ゆっくりと上体を起こした。
「……ここが異世界か。」
新しい体を動かしてみる。指先から溢れるような膨大な魔力の感覚。 魔王が与えた最強クラスの残留魔力。これが俺のものになった。
「よし……これで最強だ。 さあ、これから人類を地獄に叩き落としてやるぜ! まずはこの村から始めて——」
心の中で高揚が頂点に達した、その瞬間だった。
部屋の扉が、そっと開いた。
「……レインくん……?」
柔らかい栗色の長い髪が、朝の柔らかな光にふわっと輝いている。 大きな薄緑色の瞳が、心配そうにこちらを見つめていた。 笑うと頰に小さなえくぼができる、可憐な少女。
俺の記憶には一切ない女の子だった。
「熱が……本当に下がったのね……! ずっと……ずっと心配してたの。レインくんが死んじゃうんじゃないかって……」
少女は迷うことなくベッドに駆け寄り、零の手を両手で優しく包み込んだ。
その手は温かくて柔らかく、少し震えていた。
俺の心臓が、どくんと大きく鳴った。
今度は心筋梗塞じゃない。
頭の中で、何かがバキッと音を立てて折れる感覚がした。
『なんだこの……可愛さ…… こんな笑顔、こんな優しい声…… 俺、ずっと欲しかったんじゃねえか……? 普通に、こんな子と笑って過ごす毎日…… それが、俺の本当の望みだったんじゃ……』
魔王の声が、遠くで響く。
『人類を滅ぼせ』
『……は? そんなもん、どうでもいいわ』
一瞬でスイッチが切り替わった。
人類滅亡の使命? そんな大それたことより、今この子の温かい手と笑顔の方が、百万倍大事だ。
彼女は俺の手を握ったまま、瞳を潤ませて柔らかく微笑んだ。
「レインくん……目が覚めて、本当に……本当に嬉しい…… これからは、もっと一緒にいましょうね? お母さんにも、ルークとミアにも、ちゃんと報告しないと……」
「あ、あの。君は?」
「えっ……。私がわからない?」
わからないに決まってる。
「な、なんか頭が痛くて、混乱してて」
とっさに誤魔化す。
「セシリアよ。わかる?」
セシリア。
この子はセシリアっていうのか。
なんか甘くて爽やかで、いい響きだ。
「何日も熱病に犯されていたものね……。でも大丈夫。ずっと私がいるから」
セシリアが俺の手を握る。
温かくて、指は細い。
その温もりに、俺は初めてこの体で素直に微笑み返した。
「……ああ。 俺も一緒にいたいよ、セシリア」
心の中で、静かに誓った。
魔王の命令は、後回しだ。
怖いけど、まずは、この子ともっと……普通に話してみたい。
セシリアはまだ俺の手を離さず、照れくさそうに笑った。
「レインくん、なんか……今日、いつもと違う。 熱病の後遺症かな? でも、明るくなったみたいで……嬉しいよ。」
レインは内心で苦笑した。
(熱病の後遺症、か……まあ、それでいいか。 この子の笑顔を見てるだけで、使命とか、前の世界のこととか人類とか、どうでもよくなってきたんだからな。)
窓の外から、村の朝の穏やかな音が聞こえてくる。 鳥のさえずり、遠くの畑仕事の声、風に揺れる木々の音。
ここが、これからの俺の日常になる。
セシリアのそばにいたい。
それが俺の新しい人生だと思うと、少しだけ、悪い気はしなかった。




