第三部「自由な男」
グライムが外に出ると、パットンが無言で立っていた。
「いつもああなのか?」
「そうはいかない。あんな事件が起こったんだ。彼女の心に不安があるってこと。つけ込むには十分だろう? 心の合鍵を渡すに十分な事件だ」
「女の口説き方を聞いてるわけではない」
「同じだ。文句言うなら、オレの足じゃなくて、聞き耳立てた自分の耳を切り取れ」
グライムが歩くと、パットンは無言でしばらく続いた。
石畳の上、人の流れに乗りながら、何かを整理するように。
「聞いていいか」とパットンが立ち止まった。
「どうぞ」
「菜宝屋は孤立している。古株の商人たちと仲が悪い。夜に荷馬車が動いている。それで足りるか」
「足りない」
グライムは短く答えた。パットンが少し眉を上げる。
「なぜだ?」
「肝心の証拠がない。夜に荷馬車が動いているというだけでは動けないだろ? 菜宝屋を問い詰めるには、もう一手必要だ。まあ山賊風に解決するなら、押しかけて終わりだ。でも、アンタは王子だろ?」
パットンが黙ってしまうと、グライムが変わりに続けた。
「そうだな……王子でも賊でもないなら……客だな」グライムはブツブツ口に出しながら通りの向こうに目をやった。「菜宝屋に直接行くか」
「何をする気だ」
「話をするだけだ。顔を見たい」
「それだけか」
「それだけだ。アンタは外で待ってろ」
パットンは少し考えてから、頷いた。
菜宝屋は、通りに面した間口の広い店だった。
軒先に薬草の束がいくつも吊るされ、乾いた草の匂いが漂っている。
新しい乾燥した植物の匂いは、繁盛している店の風体だった。
グライムが暖簾をくぐって中に入ると、棚に薬草や瓶が整然と並んでいた。
奥から出てきたのは、五十くらいの人間の男だった。
細面で、目が小さく、愛想のいい笑みを顔に貼り付けていた。
グライムも合わせるように口調と、表情を変えた。
「いらっしゃいませ。何かお探しで?」
「頭痛に効く薬草を探していまして。知り合いに菜宝屋を勧められたんですよ。最近じゃ、ここが一番効くって評判ですよ」
「ありがとうございます。こちらにいくつかございますよ」
男は棚の前に案内した。
グライムは瓶を手に取り、ラベルを眺めながら、さりげなく口を開いた。
「この辺りも最近物騒だって聞いたけど、大丈夫でしたか?」
「ええ、まあ……おかげさまで、うちは被害を受けていませんでしたが」男はそう言って、少し声のトーンを落とした。「ただ、昨夜は蔵の方を確認しに行ったら、どうも荒らされたようで」
「それは大変でしたね。何か盗まれましたか?」
「それが、品物がいくつか……。警備の兵士には届け出ましたが」
男はそこで言葉を切った。グライムは瓶を棚に戻しながら、男の顔を正面から見た。
目が、泳いでいた。
愛想のいい笑みの下で、何かを測っている目だった。
この客が何者か、どこまで知っているか、どう対処するか。そういうことを笑顔の裏で素早く計算している目だ。
グライムはその目を、これまでに何度も見たことがあった。
なので、深入りはせずに雑談として切り上げた。
「そうですか。早く解決するといいですね」
グライムはそれだけ言って、薬草を一束買って店を出た。
外で待っていたパットンが、無言で目を向けてくる。
「どうだった?」
「これは女に贈る花束としては最低だな」
グライムは手に持った乾燥した薬草の束を一瞥した。
「そうじゃないだろう……」
「シロじゃない」とグライムは静かに言った。「目が嘘をついてた。蔵の件を自分から話してきた。先手を打って、被害者のふりをしようとしてる」
「確信があるか?」
「ある。あとは動く場所と時間だ。今夜、品を動かす。昨日ゴブリンが捕まって、騒ぎが大きくなる前に逃がしたい。そういう焦りが顔に出てた。おそらくオレも、兵士の捜査だと疑われてるな。でも、そのおかげで確信になった」
「東の倉庫街か」
「そこが一番自然だ。この区画から離れて、名義も別にしてある。店主が直接動くかどうかはわからないが、番頭あたりが荷馬車を出す」
パットンはしばらく黙っていた。通りの向こうで、子どものゴブリンが荷を抱えて駆けていくのが見えた。
「今夜、張り込む」とパットンは言い、足早に歩いていった。
その後続きながら「今のが、オマエも来いって意味なら、伝わらないぞ――女にはな。それが伝わる男同士だけ。マリアと喧嘩しないのか? それで」
「黙ってろ」
「黙ってたら喋れって言うだろ」
「必要な時に必要なことだけを話せと言っているんだ」
「言葉ってのはいつも必要なもんだろ。王子なのにそんこともわからねぇとはな。民が嘆くわけだ。国に言葉が届かねぇってな」
二人は似たような話しを続けながら、いつしか日は沈んでいった。
夜の倉庫街は、昼間とは別の街のように静まり返っていた。
石造りの倉庫が通りに沿って並び、どの扉も閉まっている。街灯の間隔が広く、影の部分が多い。
昼間の喧騒が嘘のように、聞こえるのは遠くに流れる川の水音と、どこかで鳴く夜鳥の声だけだった。
パットンとグライムは、菜宝屋が名義を持つとされる倉庫の向かいの路地に身を潜めていた。
パットンの忠実な部下が三名、少し離れた場所で待機している。
「来るかな」とグライムが低く言った。
「来る」パットンは確信を持って答えた。「あの男の目を見たのはオマエだろう。オマエがそう言ったんだ」
「そうだったな。あまりに暇で……。小悪党は行動が遅くて困る……」
グライムはあくびをすると、路地の壁に背を預け、暗い通りを眺めた。
星が出ていた。王都の夜空は明かりで霞みがちだが、今夜は珍しく澄んでいる。
「なあ、パットン」
「何だ」
「ゴブリンの親子は今どうなってる」
「……取り調べを受けている。盗みは事実だから、処罰は免れない。ただ、情状については考慮する」
「そうか」
「オマエが気にするとは思わなかった」
「気にしてるわけじゃない」グライムは星を見上げたまま言った。「ただ、利用された側が一番割を食うのは、どこでも同じだなと思っただけだ。なぁ、もしも今回オレが――いや止めておこう」
グライムがいいさすのを、パットンは何も言わなかった。
そのとき、通りの奥から馬の蹄の音が聞こえてきた。
低く、ゆっくりと。荷を積んだ馬車が、灯りを絞って進んでくる。御者台に座っているのは、昼間に店で見た番頭の男だった。荷台には布をかぶせた荷が積まれている。
グライムが音もなく立ち上がり、パットンの腕に軽く触れた。
「来た」
パットンはすでに動いていた。
部下への合図は短く、指を二本立てるだけ。三人がそれぞれの位置から動き始めるのを確認しながら、パットンは路地を出た。
「止まれ」
声は低かったが、夜の静寂の中ではっきりと通った。
番頭が手綱を引く。馬が止まり、荷馬車が軋んだ音を立てた。
「こ、これは……」
「降りろ」
番頭は逃げようとした。手綱を引き直し、馬を走らせようとした。
しかしその前に、グライムが馬車の側面を回り込んで馬の頭の前に立ちふさがっていた。手を広げ、落ち着いた声で馬に話しかけると、馬がひたりと止まった。
「動物は怒鳴っても動かない。落ち着いて話しかけるほうが早い。焦って馬の腹を蹴れば、馬に振り落とされるぞ」
グライムはそう言いながら、番頭を見上げた。
「降りろよ。荷物も、逃げ場もない。菜宝屋の旦那はもうじき別の場所で話を聞かれてる。アンタが黙ってても、どのみち全部出る」
番頭の顔が歪んだ。怒りか、恐怖か、あるいはその両方か。
しかし、体から力が抜けていくのが遠目にもわかった。ゆっくりと御者台から降りてくると、パットンの部下が彼の両脇を固めた。
「荷を確認しろ」とパットンが部下に指示した。布がめくられ、積まれていた荷が露わになる。盗まれたとされる薬草の束、染料の瓶、そして帳簿らしき冊子が数冊。
「これで十分だ」パットンは静かに言った。「連行しろ」
部下が番頭を引き立てていく。荷馬車も押収される。あっという間に、通りは静かになった。
グライムは馬の首を軽く叩いてから、手を離した。馬がぶるりと鼻を鳴らす。
「馬は無実だからな。労ってやれ」
誰に言うでもなく呟いてから、グライムはパットンの方を振り返った。
「終わったな」
「ああ」
パットンは荷馬車が連れていかれる方向を見ていた。
その横顔は、昼間の硬さとは少し違った。何かを噛み締めているような、そういう顔だった。
「菜宝屋は?」
「店主は別の者が押さえに行っている。おそらく今頃、話を聞かれているはずだ」
「帳簿があれば密輸の全体が見える。ゴブリンたちが蔵の裏で何を見ていたか、これで証明できる」
「そうだな」
グライムは伸びをしながら、夜空を見上げた。星がまだ出ていた。
「帰るぞ」とパットンは言った。
「ああ。今夜からオレはまた牢生活か?」
「当然だ」
「だろうな」
グライムはそう言って、パットンの後ろをついて歩き始めた。
夜風が通りを抜け、干した薬草の匂いをどこかから運んできた。
まるで今日という日を体現したかのような、爽快で複雑な香りだった。




