第三部「腹が減っていた、それだけのこと」
夜が更けてから、パットンはマリアの私室を訪ねた。
優しいノックの音が響く。
「いいか? マリア」
「ええ、どうぞ」
扉を開けると、マリアは刺繍をしていた。
彼女はパットンが入ってくるのを見て、針を置いた。
「お帰りなさい。無事だったのね」
「ああ」
パットンは椅子を引いて腰を下ろした。しばらく何も言わなかった。
マリアも何も言わずに、語りだすのを静かに待っていた。彼の表情がとても満足にシワを伸ばしているから、急かすのは勿体ないと思っていた。
部屋の隅で蝋燭が揺れ、刺繍の枠が柔らかく光っている。
「グライムという男だが」とパットンはやっと口を開いた。「……使えた。それだけだ」
「そう」マリアは少し微笑んだ。「今日は、随分詳しく話してくれるのね」
パットンは眉を寄せた。
「詳しく話したか?」
「百の言葉を話すより、伝わることがあるのよ。嘘だと思うなら鏡の前に立ってみるといいわ」
「なぜグライムと会っていたことを言わなかった。あんな危険な地下牢まで降りて」
「だって、あなたも隠すんだもの。それに、あの地下牢はこのお城で一番安全な場所ですよ。犯罪者が一番安全なんて、皮肉ね」
マリアは自分の言葉にくすくす笑った。
「アイツは犯罪者だぞ。いや……」
パットンは口を閉じた。その犯罪者に力を借りて、国を守らせたのは自分だからだ。
そんな彼の胸中を見透かしたように、マリアは刺繍を手に取り、また針を動かし始めた。
「面白い人ね、グライムって」
「面倒な男だ……」
「ええ」マリアは針を進めながら、どこか遠くを見るような目をした。「でも、あなたが面倒だと言う人は、だいたい、面白い人よ」
パットンは何も言わなかった。窓の外で、夜風が街路樹を揺らした。
翌日。
パットンが地下牢の階段を降りてきた時、その後ろに小柄な二つの影があった。ゴブリン族の成人と、子どもだった。
グライムは格子の向こうからそれを見て、わずかに目を細めた。
「……それは」
「面会だ」とパットンは言った。「ずいぶんオマエがが気にしていたからな」
グライムはしばらく黙った。それから、格子に近づいた。
ゴブリンの成人と目が合う。彼は一瞬身を縮めたが、グライムが軽く顎をしゃくった。落ち着け、という合図のように。
「無事だったか」とグライムが言った。
「ああ」とゴブリンは答えた。
子どもがグライムをじっと見ていた。格子の隙間から細い腕を伸ばし、グライムの指先に触れた。
グライムは何も言わずに、その手を軽く握り返した。
パットンはそのぎこちない彼らの言動を黙って見ていたが、やがて口を開いた。
「菜宝屋の件での証言は正式な記録に残した」とパットンは言った。「盗みは事実だが、今回の件での協力と、菜宝屋に利用されたという情状を考慮した。過去の軽犯罪も含めて、処分はなしだ」
ゴブリンがパットンを見た。すぐには言葉が出てこないようだった。
「……なんで」とやっと言った。「オレたちは盗みをした。本当のことだ」
「本当のことだ」とパットンは繰り返した。「だが、腹が減っていた。それだけのことだ。礼ならそこの男に言え」
グライムが格子の向こうで、わずかに目を細めた。自分が昨夜言った言葉が、そのまま返ってきたからだ。
パットンはそちらを一切見なかった。
ゴブリンはしばらく黙ってから、深く頭を下げた。子どもも、つられるように頭を下げた。言葉はなかった。それで十分だった。
「……では、オレはここで」とパットンは言った。「オマエたちで話せることもあるだろう」
グライムが少し目を上げた。パットンはすでに踵を返していた。気を利かせているのか、それとも照れ隠しなのか、どちらとも取れる背中だった。足音が遠ざかり、階段を上り、扉が閉まった。
地下牢に、三人だけが残った。
しばらく沈黙が続いた。
子どもが退屈にゴブリンの袖を引くと、彼はグライムを見た。
それまでの神妙だった顔が、少しずつ別の表情に変わっていく。
それは、古い知り合い同士で会話する時のくだけた顔だ。
そう、グライムとゴブリンの三人は、名前も知り合う中だった。
「グライム、どうなってる! オレら捕まるなんて、作戦になかっただろ」
低い声だった。怒りとも呆れともつかない、そういう声だった。
「声を落とせよボンド……。聞こえるだろ。パットン王子にバレたら、帳消しも帳消しになるぞ。あそこまで融通が利かないなんて思わなかったんだ」
「子どもまで巻き込んで」
「それは悪かった……本当に。でも、チャンスは二度は来ないんだ……わかるだろう?」
グライムは格子に額をくっつけるようにして、子どもと目線を合わせた。子どもはしばらくグライムを見てから、ぷいと顔を逸らした。怒っているらしかった。
「……悪かったよ、グレッチェン。許してくれ。オマエらの軽犯罪の記録を消して、オレがここを出るにはどうしても必要だったんだ。ここを出たら、また一緒に遊べるだろ? オレたち友達じゃないか……本当にごめんよ」
グライムはもう一度言った。今度は子どものグレッチェンに向けて。
グレッチェンはしばらく無視していたが、やがてまた格子に近づいてきて、グライムの指をつかんだ。
許した、ということらしかった。
これでボンドもグライムを許すしかなくなった。
「――で」とボンドが言った。「手がかりは見つかったのか? オマエの本命の【探し物】のは」
「少しな。尻尾の先の毛みたいなもんだけどな。出た時に見つけた……」
「次はどうする」
「とりあえず牢を出る。またアンタたちに頼むことになるかもしれない」グライムはボンドを見た。「嫌か」
ボンドは少し考えてから、鼻を鳴らした。
「無実にしてもらった借りがある。あんま無茶を言うなよ。無実になったのは、新たな罪を重ねるためじゃない。人生をやり直すためだ」
「そうか……」グライムは格子にもたれ、天井を仰いだ。「助かる」
「やめろよ……。言葉の裏の感情を読むのは」
ボンドがまた厄介事を頼まれると肩を落とす隣では、グレッチェンが格子の隙間からグライムの指を離さないまま、欠伸をした。
長い一日だった。二日分くらいの長さがあった。
グライムは天井を見上げながら、小さく呟いた。
「まあ……悪くない王子だ」




