第1話 目線の先の悪党
石造りの階段は、踏み込むたびに低く鳴った。
松明の火が壁を舐め、影が揺れる。
王子パットンは足音を殺そうとしなかった。いや、殺す気もなかった。
むしろ、一段ずつ苛立ちを踵に込めて降りていった。
地下牢の空気はひんやりと湿っており、鉄とカビの匂いが混ざっている。
王城の地下にあるとは思えない臭気だったが、もっとも、王城の地下に牢屋があること自体、表向きには存在しない事実なのだから、文句を言える筋合いでもなかった。
突き当たりの檻の前で、パットンは足を止めた。
格子の向こうで、男が壁に背を預けて座っていた。足を投げ出し、腕を組み、まるで昼寝でもしていたかのような格好で。
松明の光に照らされた顔は、困ったことに、少しも焦っていなかった。捕らわれているというのに、まるで我が家で客人を迎え入れる、そういう顔をしていた。
「グライム……どうやった。……言え」
パットンの声は低く、短く、問いというより命令に近かった。男――グライムは、薄く目を開けた。
「なんのことだ?」
飄々とした声だった。眠そうでもあり、少し退屈そうでもある。パットンはこの声が嫌いだった。正確には、この声に自分が苛立つことが嫌いだった。
「なんのことだ、ではない! なぜ王子妃がオマエのことを知っている。グライム!」
グライムは格子を一瞥した。さして興味もなさそうに言葉を紡いだ。
「オレは見ての通り牢屋だろ? 冒険者のオレをアンタが捕まえて、アンタが放り込んだ。そうだろう? パットン」
「山賊だろう」
「海にも出たぞ。なら、オレは海賊か?」
「賊で十分だ」
「そりゃないぜ、パットン」グライムは壁から背を離し、のんびりと伸びをした。関節が鳴る音がした。「俗物ってのは、アンタのことだ。犯罪者を牢に閉じ込め、利用しようとしてるんだからな」
「なんのことだ?」と一度とぼけようとしたパットンだが、彼の前では無意味だと言葉を変えた。「まだしてないだろう」
「でも、するんだろう? マリアが言ってたぞ」
パットンの顎が、わずかに動いた。
「王子妃の……名前まで」
「パットンって名前にあやかって、アンタが肉球ちゃんって呼ばれてることまで知ってる。少しは猫の肉球にでも顔面マッサージしてもらえ、そうすりゃその眉間のシワも伸びる。 そうだ! 獣人の良いマッサージの店があるんだ。今から一緒に行くか?」
沈黙。
松明が風も言葉もないのに揺れた。壁の影がゆらりと伸び、縮んだ。
グライムもまた、パットンが茶化し合いに乗らないのを悟ると、言葉を変えた。
「……言っとくけど、向こうからだ。向こうから、この牢屋まで会いに来たんぞ」
パットンは低く息を吐いた。苛立ちを押さえつけるように、歯の隙間から、薄く。
「それを聞いているんだ。どうやった」
「簡単だ」
グライムは立ち上がり、格子に近づいてきた。
変わらず飄々とした顔をしている。追い詰められた人間の顔ではない。
「ここの見張りは、アンタの精鋭だろ? パットン王子が命令すればすぐに従う。死ねって言えば死ぬだろうな。そうやって人を押し付けると、娯楽は消えていく。そしてな、娯楽に飢えてるやつほど、冒険者の夢物語に食いつくんだ。そして、この地下牢での見張りの立場でいうと、娯楽は犯罪だ。職務全うが遠ざかる。だが、一度手を汚せば、同じく手を汚したものでコミュニティが出来る。言っとくけど、本当に犯罪者呼ばわりしてるわけじゃないぞ」
「早く話せ。聞いてから首を落とす」
寄り道の多い会話に、なにか誘導されている気がして、パットンは苛立ちを押さえずにいいた。
「いいか?」グライムは格子に片手を添えた。「ここでオレが犯罪者ってまとめたのは、パットン。アンタと密な関係を持っているやつらのことだ。直属の数人の部下。話せないことは、外に出ず、そこに収まる。同じく娯楽に乏しい第三王子の王子妃が食いつくのも早かった。どうやら、誰かさんの態度で、秘密があるのはまるわかりだったらしいぞ。先に言っとくぞ、アンタ嘘つくの下手なんだよ。まぁ……。だからオレもアンタに捕まえられたんだけどな……。皮肉なもんだよな。それで入れられたのが、この内側からは絶対に開けることのできない魔法錠の地下牢だ」
パットンはしばらく黙っていた。
グライムの言葉を、頭の中で並べ替えながら。
見張りを取り込み、見張りを通じてマリアに話を届けた。
この地下牢は、彼の言う通り内側から開けることは絶対にできない。
好奇心旺盛なマリアの警戒心が薄まることも知っている。
あの男はそれを牢の中から、しかも音もなくやった。認めたくはなかった。だが、認めざるを得なかった。
「……オマエは」とパットンは心底まいったと言った風に額に手を当てた。「本当に面倒な男だな」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めていない」
ため息をひとつついてから、パットンは懐から折りたたまれた紙を取り出した。格子の隙間から無言で押し込む。
「読め」
グライムは受け取り、すぐに広げ、流し読みした。
「なるほど市場の窃盗か」
「三日で六件。同じ区画の別々の店だ。見張りを立てたが、犯人を取り押さえられていない」
「盗まれたものは?」
「食料が中心だ。乾物、塩漬け肉、干し果物。それと小さな金属細工がいくつか。換金しやすいもの」
グライムは紙を折り返した。何かを考えているようだった。目の焦点が、紙ではなくどこか別のものを見ている。
パットンは彼を急かさなかった。急かしても無駄だと知っていたからだ。
そして、それが正解だとでも言うように、グライムは口の端をにんまり吊り上げた。
「今、この王都に流れ込んでいる連中の話をしてやろうか?」
「聞こうか」
「南の方、ベリア地方で地震があっただろう。二ヶ月前。ゴブリンの集落がいくつか潰れた。ゴブリンってのは家族単位で動くから、集落ごと移動してくる。今の王都にはそういう流民が増えてる。小柄で、腹を空かせていて、知恵がある。あと、身体能力は低いが手先は器用だ」
「それと窃盗に何の関係がある」
「盗まれたものの高さを確認してみろ。棚の上の段ではなく、中段か下段のものばかり盗まれてるだろ。それと、店の出入り口以外の死角になる場所に、大人が通れないような隙間はあるか」
パットンはしばらく考えた。六件の報告書を頭の中に並べる。盗難品の棚の位置……言われてみれば、いずれも腰より低い段の品だった。天板の上には手が届いていない。
「……隙間については確認していない」
「確認してこい。それとひとつ聞くが、目撃者はいるか」
「複数の店員が、長い外套を着た人物を見ている。背格好は普通の成人ほど、と。顔は見えなかったと言っている」
グライムの口の端が、核心めいてほんの少し動いた。
「そうか。じゃあ答えは出てるな」と静かに言った。「二人一組だ。下の奴が物を取り、上の奴が外套の中に収める。外から見れば普通の成人に見える。逃げる時は低身長、隙を見て高身長に戻る。兵士はどっちを探す? ゴブリンはデカけりゃ、そこらにいる亜人と変わらねぇほど特徴がねぇだろ?」
パットンは一瞬止まった。
頭の中で絵が組み上がる。外套の下で肩車をした二人。下のゴブリンが外套の隙間から棚に手を伸ばして品を盗み、上のゴブリンが終始店員と話をして気を逸らす。店員は「不審な人物が来た」とは思っていない。ごく普通に買い物をしている客だと思って、ずっと顔を見ていた。
「……馬鹿な」
「ゴブリンは小柄だ。二人合わせて成人一人分くらいにはなるって言っただろ。腹が空いてりゃ、無茶もする」グライムは少し間を置いた。「憎めない連中だよ、正直な話。でも、やり方が悪い。オレならもっとでかいオークやオーガに化ける。そうすりゃ、小さなゴブリンを探そうだなんて思わねぇだろ?」
グライムの言葉を最後まで聞かず、パットンはすでに踵を返していた。
「今すぐ現場に行く」
「おいおい、首を落とすんじゃなかったのか」
「役に立つなら後でいい」
振り返らずにパットンは言った。
足音が遠ざかり、階段を上り、扉が閉まった。
その残響を耳に残しながら、グライムは格子にもたれ天井を仰いだ。
「民のためなら、即行動か……。やっぱり俗物だな」
誰に言うでもなく、呟いた。
その日の夕刻、パットンは報告を受けた。
件の区画の路地裏、荷物の搬入口と建物の隙間から、小柄な人物二名が確保された。
ゴブリン族の成人と、その連れの子どもだった。
二人合わせると、確かに外套を着せれば成人一人分ほどの高さになった。
品物の大半は、路地裏に掘られた小さな穴に隠されていた。手を付けられていたのは、食料品ばかりで、換金品はほぼ全量が回収された。
パットンは報告書を閉じ、窓の外を眺めてグライムとの会話を思い出していた。
「腹が空いていた、それだけのことだ」とグライムは言った。
その言葉が、なぜか頭から離れなかった。
翌朝、パットンが地下牢の階段を降りると、グライムは昨日と同じ姿勢で壁にもたれていた。
まるで一晩中その姿勢でいたかのような、妙に落ち着いた座り方だった。
「捕まえたな。足音が軽やかだった」
「ああ」
「ゴブリンだったろ」
「……ああ」
パットンは格子の前に立ち、腕を組んだ。「換金品はまだ使われていなかった。なぜだと思う」
「売り方がわからなかったんだろう。盗んだはいいが、王都で物を換金する手段がなかった。だから後回しだ。腹が減れば、貴金属より飯が宝だからな」
「グライム、オマエの言い方だと、まるであいつらが被害者みたいだな」
「被害者ではないが、腹が減っていた。それだけだ。パットン王子……アンタだって腹は減るだろ? それだけだ」
グライムの言い方に、弁解も同情も含まれていなかった。ただ事実として、そう言った。
「もうひとつ事件があった」
グライムが目を細めて「ほう」と呟いた。
「昨日の区画と同じ通りで、昨夜、商家の蔵に侵入があった。こちらは別件だ。盗まれたのは高価な薬草と染料。換金すれば相当な額になる。目撃者はいない」
「同じ区画で、昨日に続けて……」グライムは少し前に体を傾けた。「タイミングが出来すぎているな」
「そう思うか」
「ゴブリンの件が表に出た直後だ。誰かが便乗したか、あるいは最初からゴブリンを囮にするつもりだったか……。余計な情報が多くて、必要な情報が少なすぎる」
パットンは短く息を吐いた。
「街に出てみないとわからない、と言うつもりか」
「言おうと思ってたところだ」
「……わかった」
その一言に、グライムの眉が驚きに少し上がった。
「いいのか?」
「条件がある。逃げようとしたら、その場で足を斬る。魔法の拘束具も着けてもらう。あと、私の見える範囲を離れるな」
「ずいぶん過保護だな。オレに惚れたのか? なら拘束具より、恋文の一つでも書けよ」
「犯罪者の扱いだ。書き上げるのは罪状だぞ」
「そうか。じゃあ行くか。ひねくれたラブレターをもらわねぇうちに」グライムは伸びをしながら立ち上がった。「久しぶりの外だ、楽しみだな」
「観光ではない」
「わかってる。でも楽しみは楽しみだ」
呑気なグライムを一度睨みつけると、パットンはその場を離れた。
「用意をし、後日また……迎えに来る」
数日後の昼。王都は、混沌としていた。
大通りには人間族に混じって、小柄なゴブリンが荷を背負って歩き、長身のエルフが露店を冷やかし、石肌のように鍛えられたドワーフが鍛冶の話で揉めている。
異種族の流入が増えてから久しいが、それでも毎年少しずつ、街の色が変わっていく。パットンには身分を隠しているので、どこかそわそわとした感触のある街並みに感じていたが、隣を歩くグライムは平然としていた。
むしろ楽しそうだった。
値段交渉で声を張り上げているドワーフを眺め、荷を背負って小走りするゴブリンを目で追い、通りの向こうまで見通すように視線を動かしている。
まるで好奇心に揺れる子供の瞳だ。
「ここの区画は三年前と変わったな」とグライムは商店の並びを眺めながら言った。「昔はドワーフの鍛冶屋が多かったが、今は薬草商と布屋が増えてる。南からの流民が自分たちの商売を持ち込んだんだろう。賢いな、両方国民の生活に根付くもんだ」
「この辺りに詳しいのか」
「以前に来たことがある。捕まる前の話だけどな」
「何をしていた……」
「冒険者」
「山賊だろう」
「おい、それはこの前も言っただろ。海にも――」
「賊で十分だ」
パットンは同じことを言わせるなとでもいうように、グライムの言葉に被せた。
それが気に食わないグライムは、露骨に表情を歪めた。
「アンタ、マリアに文句言われるだろ」
「そんなことまで聞いたのか!?」
「たった今な。その反応は答えを言ってるようなもんだ。本当に嘘下手なのな」
「もういい。無駄話をしてる暇はない」
パットンがグライムから距離を取ろうとしたが、すぐに肩を組まれ距離を縮めれた。
「おいおい、パーター。どこ行くつもりだ」
「誰だ? パーターとは」
「本名で行くつもりか? ヒーローごっこだって隠れてやってるだろ。バレるためにやってるわけじゃないんだろ」
「そうだ。だが、王族の名前というのは意味がある。おいそれと変えられるものではない。鎧に身を包むのとはわけが違う」
「わかったよ……。アンタの意見を尊重する」
「わかってくれたか」
「行くぞ、肉球ちゃん」
「……パーターでいい」
パットンが煙に巻かれながら連れてこられたのは、猫の獣人が営むマッサージ店だった。
店の暖簾をくぐると、香草の甘い香りが漂ってきた。
奥に長い造りで、左右に仕切られた施術台がいくつか並んでいる。
薄布で仕切られただけの簡素な造りだったが、どの台も埋まっていた。
客層は実に様々で、荷運びの人間の男、疲れた顔の商人風の女、この地域じゃ見慣れない首の長い種族の老人が一人、気持ちよさそうに目を閉じている。
客層を見るだけでも、この城下町が輸出輸入の起点になっているのがわかった。
そして、二人を出迎えたのは、猫の女だった。
頭の上に丸みを帯びた耳が二つ、長い尻尾が床すれすれをゆっくり揺れている。
獣人族の中でも猫系は王都に多い。
愛想がよく、肉球がありながらも手先が器用で、何より昔から人間と関わっているので、人の体の構造を読むのがうまい。
施術師には向いていた。
「いらっしゃいませ。お二人ですか?」
「ああ、そうだ」
グライムが答えた。財布を出すより先に、にこやかに続ける。
「実はこの店、マリア様に勧められてきたんだ。肩がひどくてな。廊下で同僚の兵士と立ち話をしてたら、恐れ多くも話しかけてもらい、なんとここを紹介をしてもらったんだ」
女の耳がぴくりと動いた。
「マリア様の……! まあまあ!」
「まさか知り合いか? 王族と?」
「ええ、以前に何度かお忍びでいらしてくれて。それから、ずっと贔屓にしてもらってるんです。今では、ありがたくもマッサージの腕をお認めいただいて、お城へお呼びいただけるようになったのです」
「だそうだ」
グライムは横目を向けた。パットンが、そんなことまで話していたのかと、顔で言っていたからだ。
王子妃の部屋に来るマッサージ師が、まさかこんなところから出張に来ているだなんて思ってもいなかった。
同時に「肉球ちゃん」と王子妃に呼ばれていることを知られただけで、他も色々なことが、グライムに暴かれているような焦燥感に駆られた。
しかし、パットンは口には出さなかった。
ここで正体がバレるとややこしいことになるからだ。
二人は奥の台に通された。
仕切りの薄布を隔てて、グライムとパットンが並ぶ格好になる。
施術が始まってしばらく、グライムは天井を眺めながらぼーっとしていたが、やがていかにも世間話のように口を開いた。
「この辺りの区画、最近騒がしいんだって?」
「そうなんですよ」
施術師の女が答えた。手の動きは止まらない。
「三日ほど前から、市場で盗みがあって。うちも気をつけてくださいって回覧が来たくらいで」
「捕まったって聞いたけど」
「ゴブリンだったそうで。かわいそうに、とは思いますけど……あの辺りの商人さんたちは怒ってましたよ。中には、ゴブリンはみんな出ていけって言ってる人もいて」
「【菜宝屋】の主もそう言ってたか?」
一瞬、女の手が止まった。ほんの一瞬だったが、グライムは見逃さなかった。
「……菜宝屋さんは、その、あまり表立って騒ぐ方ではないので」
「野心家で腰を据えた割には、大人しい人なんだな。昔は菜宝屋なんて薬草商はなかったよな」
「ええ、まあ。そうは聞いてます」女の尻尾が、ゆっくりと一度だけ揺れた。「……この辺りの土地を、少しずつ買い増してるって話は聞きますけど。古株の商人さんたちが嫌がるのも、まあ、そういうことで」
「なるほど。金回りがいいんだな」
「さあ……それは」
女はそれ以上は言わなかった。
言わなかったが、言わないことが、グライムにとっての答えだった。
グライムは天井を見上げたまま、静かに整理した。
孤立している商人。騒ぎに乗じない、静かな被害者。土地を買い増せるほどの金回り。そして昨夜動いた荷馬車。
ゴブリンが捕まった翌日に、同じ区画で盗難届が出た。普通、盗まれた側は大騒ぎする。
蔵の中身を洗い出し、誰が入ったかを調べ、怒鳴り込んでくる。
それなのに菜宝屋は兵士に届け出ただけで、それ以上動いていない。被害者にしては、ずいぶん静かだ。
静かな理由は一つしかない。本当は、盗まれていないからだ。
ゴブリン騒ぎが起きた。街の目がそこに集まった。その隙に、自分の手で品を動かした。
盗難届は言い訳のためだ。品の行き先を「盗まれた」の一言で消せる。
古株と仲が悪く孤立した商人なら、余計な目も届きにくい。
土地を買い増されて借り手になった古株たちは、怪しいとは思っていても文句が言えない。
文句を言えない連中は、証拠がなければ追うこともできない。
そして、その証拠はお金の力によって消えることが多い。
その隙間に、ずっと金を流し込んでいたんだろう。
「この辺りで古くから店出してる人たちって、仲いいのか? 流民が増えてから、ちょっとギスギスしてるって話も聞くけど」
「うーん……どこもそれなりに、ですね。菜宝屋さんは五年前にいらしたから、古株ではないんですけど、うちよりは先輩で」女は少し声を落とした。「でも、もともといた商人さんたちとは、あまり仲良くないって話は聞きます。何かあったのか、詳しくは知らないんですけど」
「そうか」
グライムは目を閉じた。天井を見るのをやめて、考えるように。
「あのあたりの蔵って……夜に出入りする人、たまにいるよな」
今度は明確に、施術師の手が止まった。
「……それは」
「いや、オレもよく夜に出歩くから。気になっただけだ。おかしなことを聞いたなら忘れてくれ。マッサージ中はこうして雑談してないと、どうしても口説いちまうんだ。だって恋人以外で、こんなに触れ合うことってないだろ?」
グライムが食い気味に言うと、女はクスッと笑みをこぼした。
それが心の鍵を開けたかのように、尻尾が小さく揺れる。
考えているのか、それとも迷っているのか。その両方だ。
商人にとって、情報も売り物だ。それもお客は表ではなく裏に向けて。
グライムは当然そのことを知っているし、流儀を裏切らさせないように、雑談の一部として引き出しているのだ。
そして、女は「……夜に荷馬車が出るのを、見たことがある人はいるみたいです」とやっと言った。「うちのお客さんが、倉庫の方に用があって通ったら、って。でも、それが菜宝屋さんかどうかは」
「そんなことは聞いてない。だって……まだ、口説いていいのかどうか答えをもらってないから。そこから話は一歩も進んでない。次はキミが一歩踏み出す番だ」
グライムが女の肉球をそっと手で包み込むと、パットンの怒声が店に鳴り響いた。
「グライム! 出るぞ!」
「肉球ちゃん……今いいとこなのわからない? モテないからって僻むなよ」
「出るぞ!!」
「わかったよ……」グライムは立ち上がって出入り口に向かったが、一度踵を返し戻った。
「また来る。次はキミの名前を聞きに」
そして、毛だらけの猫の手の甲にキスをすると外へ出た。
グライムが外に出ると、パットンが無言で立っていた。
「いつもああなのか?」
「そうはいかない。あんな事件が起こったんだ。彼女の心に不安があるってこと。つけ込むには十分だろう? 心の合鍵を渡すに十分な事件だ」
「女の口説き方を聞いてるわけではない」
「同じだ。文句言うなら、オレの足じゃなくて、聞き耳立てた自分の耳を切り取れ」
グライムが歩くと、パットンは無言でしばらく続いた。
石畳の上、人の流れに乗りながら、何かを整理するように。
「聞いていいか」とパットンが立ち止まった。
「どうぞ」
「菜宝屋は孤立している。古株の商人たちと仲が悪い。夜に荷馬車が動いている。それで足りるか」
「足りない」
グライムは短く答えた。パットンが少し眉を上げる。
「なぜだ?」
「肝心の証拠がない。夜に荷馬車が動いているというだけでは動けないだろ? 菜宝屋を問い詰めるには、もう一手必要だ。まあ山賊風に解決するなら、押しかけて終わりだ。でも、アンタは王子だろ?」
パットンが黙ってしまうと、グライムが変わりに続けた。
「そうだな……王子でも賊でもないなら……客だな」グライムはブツブツ口に出しながら通りの向こうに目をやった。「菜宝屋に直接行くか」
「何をする気だ」
「話をするだけだ。顔を見たい」
「それだけか」
「それだけだ。アンタは外で待ってろ」
パットンは少し考えてから、頷いた。
菜宝屋は、通りに面した間口の広い店だった。
軒先に薬草の束がいくつも吊るされ、乾いた草の匂いが漂っている。
新しい乾燥した植物の匂いは、繁盛している店の風体だった。
グライムが暖簾をくぐって中に入ると、棚に薬草や瓶が整然と並んでいた。
奥から出てきたのは、五十くらいの人間の男だった。
細面で、目が小さく、愛想のいい笑みを顔に貼り付けていた。
グライムも合わせるように口調と、表情を変えた。
「いらっしゃいませ。何かお探しで?」
「頭痛に効く薬草を探していまして。知り合いに菜宝屋を勧められたんですよ。最近じゃ、ここが一番効くって評判ですよ」
「ありがとうございます。こちらにいくつかございますよ」
男は棚の前に案内した。
グライムは瓶を手に取り、ラベルを眺めながら、さりげなく口を開いた。
「この辺りも最近物騒だって聞いたけど、大丈夫でしたか?」
「ええ、まあ……おかげさまで、うちは被害を受けていませんでしたが」男はそう言って、少し声のトーンを落とした。「ただ、昨夜は蔵の方を確認しに行ったら、どうも荒らされたようで」
「それは大変でしたね。何か盗まれましたか?」
「それが、品物がいくつか……。警備の兵士には届け出ましたが」
男はそこで言葉を切った。グライムは瓶を棚に戻しながら、男の顔を正面から見た。
目が、泳いでいた。
愛想のいい笑みの下で、何かを測っている目だった。
この客が何者か、どこまで知っているか、どう対処するか。そういうことを笑顔の裏で素早く計算している目だ。
グライムはその目を、これまでに何度も見たことがあった。
なので、深入りはせずに雑談として切り上げた。
「そうですか。早く解決するといいですね」
グライムはそれだけ言って、薬草を一束買って店を出た。
外で待っていたパットンが、無言で目を向けてくる。
「どうだった?」
「これは女に贈る花束としては最低だな」
グライムは手に持った乾燥した薬草の束を一瞥した。
「そうじゃないだろう……」
「シロじゃない」とグライムは静かに言った。「目が嘘をついてた。蔵の件を自分から話してきた。先手を打って、被害者のふりをしようとしてる」
「確信があるか?」
「ある。あとは動く場所と時間だ。今夜、品を動かす。昨日ゴブリンが捕まって、騒ぎが大きくなる前に逃がしたい。そういう焦りが顔に出てた。おそらくオレも、兵士の捜査だと疑われてるな。でも、そのおかげで確信になった」
「東の倉庫街か」
「そこが一番自然だ。この区画から離れて、名義も別にしてある。店主が直接動くかどうかはわからないが、番頭あたりが荷馬車を出す」
パットンはしばらく黙っていた。通りの向こうで、子どものゴブリンが荷を抱えて駆けていくのが見えた。
「今夜、張り込む」とパットンは言い、足早に歩いていった。
その後続きながら「今のが、オマエも来いって意味なら、伝わらないぞ――女にはな。それが伝わる男同士だけ。マリアと喧嘩しないのか? それで」
「黙ってろ」
「黙ってたら喋れって言うだろ」
「必要な時に必要なことだけを話せと言っているんだ」
「言葉ってのはいつも必要なもんだろ。王子なのにそんこともわからねぇとはな。民が嘆くわけだ。国に言葉が届かねぇってな」
二人は似たような話しを続けながら、いつしか日は沈んでいった。
夜の倉庫街は、昼間とは別の街のように静まり返っていた。
石造りの倉庫が通りに沿って並び、どの扉も閉まっている。街灯の間隔が広く、影の部分が多い。
昼間の喧騒が嘘のように、聞こえるのは遠くに流れる川の水音と、どこかで鳴く夜鳥の声だけだった。
パットンとグライムは、菜宝屋が名義を持つとされる倉庫の向かいの路地に身を潜めていた。
パットンの忠実な部下が三名、少し離れた場所で待機している。
「来るかな」とグライムが低く言った。
「来る」パットンは確信を持って答えた。「あの男の目を見たのはオマエだろう。オマエがそう言ったんだ」
「そうだったな。あまりに暇で……。小悪党は行動が遅くて困る……」
グライムはあくびをすると、路地の壁に背を預け、暗い通りを眺めた。
星が出ていた。王都の夜空は明かりで霞みがちだが、今夜は珍しく澄んでいる。
「なあ、パットン」
「何だ」
「ゴブリンの親子は今どうなってる」
「……取り調べを受けている。盗みは事実だから、処罰は免れない。ただ、情状については考慮する」
「そうか」
「オマエが気にするとは思わなかった」
「気にしてるわけじゃない」グライムは星を見上げたまま言った。「ただ、利用された側が一番割を食うのは、どこでも同じだなと思っただけだ。なぁ、もしも今回オレが――いや止めておこう」
グライムがいいさすのを、パットンは何も言わなかった。
そのとき、通りの奥から馬の蹄の音が聞こえてきた。
低く、ゆっくりと。荷を積んだ馬車が、灯りを絞って進んでくる。御者台に座っているのは、昼間に店で見た番頭の男だった。荷台には布をかぶせた荷が積まれている。
グライムが音もなく立ち上がり、パットンの腕に軽く触れた。
「来た」
パットンはすでに動いていた。
部下への合図は短く、指を二本立てるだけ。三人がそれぞれの位置から動き始めるのを確認しながら、パットンは路地を出た。
「止まれ」
声は低かったが、夜の静寂の中ではっきりと通った。
番頭が手綱を引く。馬が止まり、荷馬車が軋んだ音を立てた。
「こ、これは……」
「降りろ」
番頭は逃げようとした。手綱を引き直し、馬を走らせようとした。
しかしその前に、グライムが馬車の側面を回り込んで馬の頭の前に立ちふさがっていた。手を広げ、落ち着いた声で馬に話しかけると、馬がひたりと止まった。
「動物は怒鳴っても動かない。落ち着いて話しかけるほうが早い。焦って馬の腹を蹴れば、馬に振り落とされるぞ」
グライムはそう言いながら、番頭を見上げた。
「降りろよ。荷物も、逃げ場もない。菜宝屋の旦那はもうじき別の場所で話を聞かれてる。アンタが黙ってても、どのみち全部出る」
番頭の顔が歪んだ。怒りか、恐怖か、あるいはその両方か。
しかし、体から力が抜けていくのが遠目にもわかった。ゆっくりと御者台から降りてくると、パットンの部下が彼の両脇を固めた。
「荷を確認しろ」とパットンが部下に指示した。布がめくられ、積まれていた荷が露わになる。盗まれたとされる薬草の束、染料の瓶、そして帳簿らしき冊子が数冊。
「これで十分だ」パットンは静かに言った。「連行しろ」
部下が番頭を引き立てていく。荷馬車も押収される。あっという間に、通りは静かになった。
グライムは馬の首を軽く叩いてから、手を離した。馬がぶるりと鼻を鳴らす。
「馬は無実だからな。労ってやれ」
誰に言うでもなく呟いてから、グライムはパットンの方を振り返った。
「終わったな」
「ああ」
パットンは荷馬車が連れていかれる方向を見ていた。
その横顔は、昼間の硬さとは少し違った。何かを噛み締めているような、そういう顔だった。
「菜宝屋は?」
「店主は別の者が押さえに行っている。おそらく今頃、話を聞かれているはずだ」
「帳簿があれば密輸の全体が見える。ゴブリンたちが蔵の裏で何を見ていたか、これで証明できる」
「そうだな」
グライムは伸びをしながら、夜空を見上げた。星がまだ出ていた。
「帰るぞ」とパットンは言った。
「ああ。今夜からオレはまた牢生活か?」
「当然だ」
「だろうな」
グライムはそう言って、パットンの後ろをついて歩き始めた。
夜風が通りを抜け、干した薬草の匂いをどこかから運んできた。
まるで今日という日を体現したかのような、爽快で複雑な香りだった。
夜が更けてから、パットンはマリアの私室を訪ねた。
優しいノックの音が響く。
「いいか? マリア」
「ええ、どうぞ」
扉を開けると、マリアは刺繍をしていた。
彼女はパットンが入ってくるのを見て、針を置いた。
「お帰りなさい。無事だったのね」
「ああ」
パットンは椅子を引いて腰を下ろした。しばらく何も言わなかった。
マリアも何も言わずに、語りだすのを静かに待っていた。彼の表情がとても満足にシワを伸ばしているから、急かすのは勿体ないと思っていた。
部屋の隅で蝋燭が揺れ、刺繍の枠が柔らかく光っている。
「グライムという男だが」とパットンはやっと口を開いた。「……使えた。それだけだ」
「そう」マリアは少し微笑んだ。「今日は、随分詳しく話してくれるのね」
パットンは眉を寄せた。
「詳しく話したか?」
「百の言葉を話すより、伝わることがあるのよ。嘘だと思うなら鏡の前に立ってみるといいわ」
「なぜグライムと会っていたことを、私に言わなかった。あんな危険な地下牢まで降りて……」
「だって、あなたが隠すんだもの。それに、あの地下牢はこのお城で一番安全な場所ですよ。犯罪者が一番安全なんて、皮肉ね」
マリアは自分の言葉にくすくす笑った。
「アイツは犯罪者だぞ。いや……」
パットンは口を閉じた。その犯罪者に力を借りて、国を守らせたのは自分だからだ。
そんな彼の胸中を見透かしたように、マリアは刺繍を手に取り、また針を動かし始めた。
「面白い人ね、グライムって」
「面倒な男だ……」
「ええ」マリアは針を進めながら、どこか遠くを見るような目をした。「でも、あなたが面倒だと言う人は、だいたい、面白い人よ」
パットンは何も言わなかった。窓の外で、夜風が街路樹を揺らした。
翌日。
パットンが地下牢の階段を降りてきた時、その後ろに小柄な二つの影があった。先の事件で捕まったゴブリン族の成人と、子どもだった。
グライムは格子の向こうからそれを見て、わずかに目を細めた。
「……それは」
「面会だ」とパットンは言った。「ずいぶんオマエがが気にしていたからな」
グライムはしばらく黙った。それから、格子に近づいた。
ゴブリンの成人と目が合う。彼は一瞬身を縮めたが、グライムが軽く顎をしゃくった。落ち着け、という合図のように。
「無事だったか」とグライムが言った。
「ああ」とゴブリンは答えた。
子どもがグライムをじっと見ていた。格子の隙間から細い腕を伸ばし、グライムの指先に触れた。
グライムは何も言わずに、その手を軽く握り返した。
パットンはそのぎこちない彼らの言動を黙って見ていたが、やがて口を開いた。
「菜宝屋の件での証言は正式な記録に残した」とパットンは言った。「盗みは事実だが、今回の件での協力と、菜宝屋に利用されたという情状を考慮した。過去の軽犯罪も含めて、処分はなしだ」
ゴブリンがパットンを見た。すぐには言葉が出てこないようだった。
「……なんで」とやっと言った。「オレたちは盗みをした。本当のことだ」
「本当のことだ」とパットンは繰り返した。「だが、腹が減っていた。それだけのことだ。礼ならそこの男に言え」
グライムが格子の向こうで、わずかに目を細めた。自分が昨夜言った言葉が、そのまま返ってきたからだ。
パットンはそちらを一切見なかった。
ゴブリンはしばらく黙ってから、深く頭を下げた。子どもも、つられるように頭を下げた。言葉はなかった。それで十分だった。
「……では、私はここで」とパットンは言った。「オマエたちだけで話すこともあるだろう」
グライムが少し目を上げた。パットンはすでに踵を返していた。気を利かせているのか、それとも照れ隠しなのか、どちらとも取れる背中だった。足音が遠ざかり、階段を上り、扉が閉まった。
地下牢に、三人だけが残った。
しばらく沈黙が続いた。
子どもが退屈にゴブリンの袖を引くと、彼はグライムを見た。
それまでの神妙だった顔が、少しずつ別の表情に変わっていく。
それは、古い知り合い同士で会話する時のくだけた顔だ。
そう、グライムとゴブリンの三人は、名前も知り合う中だった。
「グライム、どうなってる! オレら親子が捕まるなんて、作戦になかっただろ」
低い声だった。怒りとも呆れともつかない、そういう声だった。
「声を落とせよボンド……。聞こえるだろ。パットン王子にバレたら、帳消しも帳消しになるぞ。あそこまで融通が利かないなんて思わなかったんだ」
「子どもまで巻き込んで」
「それは悪かった……本当に。でも、チャンスは二度は来ないんだ……わかるだろう?」
グライムは格子に額をくっつけるようにして、子どもと目線を合わせた。子どもはしばらくグライムを見てから、ぷいと顔を逸らした。怒っているらしかった。
「……悪かったよ、グレッチェン。許してくれ。オマエらの軽犯罪の記録を消して、オレがここを出る活躍を見せるにはどうしても必要だったんだ。ここを出たら、また一緒に遊べるだろ? オレたち友達じゃないか……本当にごめんよ」
グライムはもう一度言った。今度は子どものグレッチェンに向けて。
グレッチェンはしばらく無視していたが、やがてまた格子に近づいてきて、グライムの指をつかんだ。
許した、ということらしかった。
これでボンドもグライムを許すしかなくなった。
「――で」とボンドが言った。「手がかりは見つかったのか? オマエの本命の【探し物】のは」
「少しな。尻尾の先の毛みたいなもんだけどな。外に出た時に見つけた……」
「次はどうする」
「とりあえず牢を出る。またアンタたちに頼むことになるかもしれない」グライムはボンドを見た。「嫌か」
ボンドは少し考えてから、鼻を鳴らした。
「無罪にしてもらった借りがある。だけどな……あんま無茶を言うなよ……。無罪を願ってグライムに手を貸したのは、新たな罪を重ねるためじゃない。人生をやり直すためだ」
「そうか……」グライムは格子にもたれ、天井を仰いだ。「助かる」
「やめろよ。言葉の裏を読むのを……」
グレッチェンが格子の隙間からグライムの指を離さないまま、欠伸をした。
長い一日だった。二日分くらいの長さがあった。
グライムは天井を見上げながら、小さく呟いた。
「まあ……悪くない王子だ」




