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バタフライ・エフェクト/Butterfly Effect  作者: 蒼春-Aoharu
第一章 幻想神域の異端者(イレギュラー)
8/12

第七話 二人の距離



「龍三……その焔は一体、何なのじゃ?」

 龍三の手を覆うように現れた青い焔。小雪がそれを見て、目を瞬かせながら不思議そうな顔をする。

 小雪の問いに、龍三は少しだけ言葉を詰まらせた。

「……実は、俺にもよくわかってないんだ」

 一度、自分の手元に視線を落とす。

 掌に灯る青い焔が、ゆらゆらと今も静かに揺れている。

「ガキの頃に、一度川で溺れて死にかけたことがあってさ。父方の実家の近くに翡翠川って呼ばれてる川があるんだけど。そこで足を滑らせて……そのまま流されちまって」 

 当時の記憶を辿るように、龍三はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「俺は三日間、生死の境を彷徨ってたみたいでさ。それで、目を覚ましたらこれが両手に宿ってたんだ」

 そう言って、もう片方の手に意識を向ける。

 次の瞬間、左手の掌にも、ふっと青い焔が灯った。

 左右の手に揺れる、二つの蒼い炎。

「なんと……」

 小雪は目を見開いたまま、その光景に見入っている。

「……それは、熱くないのか?」

「全く。触っても熱くないし、水につけても消えないし……紙切れ一枚燃やせない」

「ほう」

「ついでに言うと――本当はこれ、俺以外の人には今まで見えなかったんだ」

「……! じゃが、妾の目には確かに……」

「ああ。何故か小雪には見えてる」

 じっと小雪を見据える。

「なぁ、小雪……これが何かわからないか? 小雪が見えてるってことは、霊能力とか、そういう類の力なんじゃないかって思ってるんだけど……」

 僅かな期待を込めた問いだった。

 だが――

「……すまぬ」

 小雪は静かに首を横に振る。

「妾もそのような力は見たことがない。そもそも――龍三からは()()()()()()()()()()()()のじゃ」

「え?」

「霊能力というものは、霊力を糧として発現するもの。じゃが、お主の身体からは霊力の流れを全く感じ取れぬ。それどころか――その焔そのものに、霊力がまるで存在しておらぬのじゃ」

 じっと焔を見つめながら、小雪は続ける。

「むしろ……霊力とは別の理で、現象として成立しておるように見える。はっきり言って異様じゃ……」

「そ、そこまで言う?」

 龍三が思わずツッコミを入れる。

 予想していた答えとは違った。

 それでも龍三は、どこか納得したように小さく息を吐く。

「……でも、そっか」

 落ち着いた声だった。

 小雪が知らないのなら、本当に誰にも分らないかも知れない。

 そう思うと、不思議と諦めもついた。

「……龍三」

「ん?」

「少し、触れてもよいか?」

 恐る恐るといった様子で、小雪が聞いてくる。

「ああ、全然構わねぇよ」

 龍三は頷き、焔が灯った自分の手を小雪の前に差し出す。

 すると小雪もゆっくりと手を伸ばし、青い焔へと近づけていく。

 そして――指先が触れた。

「……」

 熱はない。だが、確かに”何か”に触れている感触があった。

 空気とも違う、しかし形を持たぬ何か。

 まるで火に手をかざした時のような、微かな熱気にも似たものが、指先に触れている。

「……これは……」

 小雪が僅かに目を細める。

 すると今度は、そっと両手で龍三の手を包み込んだ。

「……不思議じゃな。初めて見るはずなのに……どこか、懐かしい……」

「懐かしい……?」

 その言葉に、龍三が眉を潜める。

 だが小雪は、その問いにはすぐに答えず、ただ静かに手を重ねたままじっと青い焔を見つめていた。

 そして、僅かに間を置いてから、ゆっくりと顔を上げる。

 上目遣いのまま、ふと視線が絡む。

 ほんの一瞬。

 意識してしまうには、それだけで十分すぎた。

 そのまま小雪は、ふっと頬を緩めて、優しく微笑む。

「龍三の手は、暖かいな……」

「……っ!?」

 思いがけない言葉に、龍三の心臓が大きく跳ねた。

(どんな気持ちでその台詞を口にしてんの……!?)

 距離は近いまま、手は握られたまま。

 逃げ場のない状況で、そんなことを言われて平静でいられるはずもない。

 だが当の本人は、まるで無自覚といった様子で、ただ穏やかに微笑んでいるだけだった。

 今更ながら、龍三は思う。

 小雪はきっと天然だ。しかも、かなり質の悪いタイプの。

 その時だった。

 ガチャリ、と玄関のドアが開く音が響く。

「ただいまー」

 聞き覚えのある声が、リビングまで届いた。

 声の主は他でもない――桜華だ。

「……? 今のは?」

 小雪がきょとんとした顔で音のした方を見る。

 一方、龍三の背筋には冷たいものが走っていた。

「っ……!?」

 時計を確認するまでもない。まだ昼間だ。桜華が帰ってくるには早すぎる時間である。

 恐らく学校の短縮授業だろう。

 石化事件の影響で、自分の学校も今日はいつもより早く授業が終わっていたことを思い出す。

 それと同時に、この状況を桜華に見られるのは非常にまずいという事実に龍三は気づく。

 年頃の少女を家に上げている時点でアウトなのに、相手はよりにもよって巫女装束を着た女の子だ。それだけでも十分説明に困るというのに――今は至近距離で手を握り合っているという状態。

 そこだけを切り取れば、完全に誤解を招く構図だった。

 この状況を一言で説明しろと言われても無理だし、順を追って話そうにも前提が多すぎる。

 月から来ただの、霊能力だの――どこから話しても頭がおかしい奴認定される未来しか見えない。

 何より、桜華の予想よりも早い帰宅に、龍三はテンパって思考が空回りし、まともな判断ができなくなっていた。

「やっば……!?」

 考えるよりも先に、身体が動く。

「小雪、こっち!」

 龍三は小雪の手を引くようにして立ち上がる。

「た、龍三っ……? 何事じゃ急に……!?」

「いいから早く!」

 説明している余裕なんてない。

 半ば引きずるような形で自室へと駆け込んだ。

 勢いのまま襖を開け放ち、迷うことなく押し入れへ。

「悪い、後でちゃんと説明するから、一先ずここに入っててくれ!」

「こ、ここ……っ!?」

 事情も分からぬまま、小雪の身体が押し込まれる。

 その間にも、廊下を歩く足音がどんどん近づいてくる。

「お兄ちゃん? いないのー?」

 呑気な声とは裏腹に、確実にこちらへ向かってきている気配。

「本当にごめん、ちょっとの間だけだから!」

 そう言い残し、龍三は襖を閉めた。

 その直後。

「なんだいるんじゃん! いるなら返事してよ、龍兄ぃ?」

 部屋の入り口に、制服姿の桜華が朝起こしに来た時と同じポーズ(腰に手を当てた姿)で立っていた。

 じとっとした不満げな視線がそのまま龍三へ向けられる。

 龍三は押し入れに背中をぴたりと張り付けたまま、ぎこちない笑みを浮かべる。

「お、おかえり桜華。今日は帰るの早かったんだな……」

「ただいま。それお兄ちゃんが言う? 例の石化事件のせいで授業が短縮になったから、早く帰ってきたの」

「……お前んとこも同じ理由か。最近、物騒だもんな……」

「本当ね、これじゃあ夜にコンビニにも行けないよ」

 嫌になりますわー、と桜華が首を振りながら肩をすくめてみせる。

「あ、そうだ!」

「……?」

 すると、今度は何か思い出したようにはっと顔を上げた。

「その石化事件のことで、さっき母さんからメールが来ててさ。暫くは龍兄ぃの家に泊めてもらいなーって」

「あ、ああ……わかった。母さん達にも了解って伝えといてくれ……」

「いえっさー!」

 敬礼しながら元気よく返事をする桜華。

 そして、その状態のまま――

「…………で?」

「……ん?」

「お兄ちゃんはそんなところで何やってんの?」

 桜華が不思議そうな顔で、逃げ場のない問いを投げかけてくる。

 龍三の背中に、じっとりとした汗が滲んだ。

「いや、ちょっとな。押し入れにしまってた本を探しててさ」

 我ながら苦し言い訳だと思いながらも、龍三は何とか平静を装う。

 しかし。

「……ほーん、怪しい」

 勘の鋭い桜華には逆効果だった。

 むしろ、余計に怪しまれてしまう。

 ……と、その時。

 ガタッ。

 大きな物音が、背中越しに響いた。

(あ……)

 その瞬間、龍三は内心で静かに終わりを悟った。

「今の音……やっぱりなんか隠してるでしょ?」

 桜華の目が、じっと龍三を射抜く。

「なーに隠してんの?」

 じり、と距離を詰められ、

「あっ……ちょっ」

 そのまま押し入れを開けられる。

 ――覚悟を決めるしかない。

 元々、桜華には小雪のことを説明するつもりではあったのだ。

 少し予定が早まっただけ。

 ちゃんと話せば桜華もわかってくれるはず。

 何から説明すればいいか、正直わからないけれど。

 ――だが。

「……あれ?」

 桜華が拍子抜けしたような声を漏らす。

「なんだ、何にもいないじゃん」

「え……?」

 龍三が目を見開いた。

「そんなはずは……っ! だって、さっきまでここに……」

 慌てて押し入れの中を覗き込む。

 しかし――

 そこには、確かに誰の姿もなかった。

「いない? なんで……?」

 意味が分からない。

 押し入れの中にいるはずの小雪が、忽然と姿を消している。

 まるで、神隠しにでもあったかのように。

「やっぱりなんか隠してたんじゃん……」

「どうなってんだ……?」

 訳が分からないまま、恐る恐る押し入れの中へ手を伸ばす。

 ――と、その時。

 ムニュッ。

「……?」

 何もないはずの虚空に指が触れた瞬間、柔らかな弾力が龍三の指先を押し返した。

 まるで空気の層がそこだけ密度を増したかのような、不思議な手応え。

 目には見えないが、そこには確かに”何か”が存在している。

「なんだ、これ……?」

 龍三は眉を潜めながら、今度は確かめるように軽く握った。

 次の瞬間。

「ど、何処を触っておるのじゃこのすけべ!」

 直後、不可視の衝撃が炸裂し、龍三の身体が後方へ吹き飛んだ。

 龍三は勢いよく後ろの本棚に激突し「ぶべっ」と情けない声を上げる。

「えぇ!? お兄ちゃん!? 大丈夫!?」

 桜華の悲鳴が響く。

 一方、押し入れの中では……。

 姿は見えないまま、小雪が慌てて胸元を押さえていた。

「まったく……」

 頬を赤らめ、困ったように息を吐く。

 その時。

「……?」

 するり、と一本の糸が垂れた。

 小さな蜘蛛が、静かに小雪の眼前へと降りてくる。

 それを見た瞬間。

「いやぁあああっ!?」

 先程までとは別人のような甲高い悲鳴を上げ、透明のままの小雪が一直線に押し入れから飛び出した。

 どんっ!!

「ぐへぇっ!?」

 立ち上がろうとしていた龍三の胸に、頭から突っ込む。

 再び本棚に背中をぶつけ、今度は頭の上に数冊の本がばさばさと降ってきた。

「こ、今度はなに!?」

「龍三! 蜘蛛、蜘蛛じゃ! 蜘蛛がおる!!」

 半ば泣きつくようにしがみついてくる小雪。

 龍三は痛みに顔をしかめながらも、見えないその身体を優しく抱き留めた。

「お、落ち着け……」

「え? えぇ……? なに、何なの……?」

 状況が理解できない桜華は完全に固まっていた。

 そして――

 すう、と。

 空気が解けるように、透明だった輪郭が浮かび上がる。

 やがて――龍三の腕の中に、一人の少女の姿が現れた。

 巫女装束に身を包んだ小雪が、龍三の首にしがみつくようにして、ぎゅっと身体を寄せている。

 どうやら小雪は蜘蛛が大の苦手らしい。

 普段の落ち着いた様子からは想像もつかない程、露骨な怯え方だった。

「だ、大丈夫だって。もういないから」

「……ほ、本当か?」

「ああ」

 ゆっくりと、落ち着かせるように言い聞かせる。

 その言葉に、ようやく少しだけ力が抜けたのか、小雪は龍三にしがみついたまま、恐る恐る振り返った。

「あ……」

 視線が、ぴたりと止まる。

 その先には――

 茫然と立ち尽くす、桜華の姿。

 桜華もまた、小雪の存在をはっきりと認識し、ぱちくりと目を瞬かせていた。

 数秒の沈黙。互いに固まったまま、ただ見つめ合う。

 そして――

「……誰ぇえええっ!?」

 桜華の驚愕の声が、龍三の狭い寝室に響き渡った。




 数分後。

 場所はリビングへと移り。

 龍三と小雪は何故か揃って正座させられていた。

 その正面では、桜華が腕組みをして仁王立ちしている。


 ――そして。

 

 龍三はこれまでの出来事を、要点を絞りながらできる限り誤解のないように桜華に説明した。

 小雪の名前や、彼女が月からやってきたこと。霊能力のこと。

 行く当てもなく途方に暮れていたところを保護したこと。

 途中、何度か「いや、俺も全部は理解してねぇんだけど」と言った弁明を挟みつつ、どうにか一通り話し終えた。

 リビングに静寂が落ちる。

 桜華は腕を組んだまま、暫く何も言わなかった。

 視線は真っ直ぐ龍三――ではなく、その隣にいる小雪へと向けられている。

 値踏みするような、冷静な目。

「ふーん。月からやってきた、ねぇ……」

「……」

 小雪も桜華の視線を真正面から受け、僅かに身を固くする。

 これまでの堂々とした態度は鳴りを潜め、どう応じるべきか計りかねている様子だった。

「にわかには信じ難し……」

 桜華は腕を組んだまま、片手を顎に添える。

 視線を落とし、小雪を観察するようにじっと見据えた。

 まあ、信じられないのも無理はない。

 いきなり月からやってきましたと言われて、はいそうですかと受け入れられる人間なんてこの世にはいないだろう。

 実際、自分だってついさっきまで同じ反応をしていたのだから。

「……つまり、小雪ちゃんは宇宙人ってこと?」

「……?」

 桜華の言っている意味が分からないのか、小雪が小首を傾げてみせる。

「まあ、言い得て妙というか、なんというか……」

 龍三は曖昧に頷きつつ、小雪を一瞥してから桜華へ視線を戻した。

「ふーん」

 興味があるのかないのか判別しづらい、平坦な声が桜華の口から漏れる。

「……それで? さっき透明になってたあれが、霊能力? ……だっけ?」

 霊能力――龍三の口から聞かされて尚、いまいちピンと来ていない様子の声音だった。

 その問いに対して、小雪は迷いなく頷く。

「うむ」

「……」

 そのあまりにもあっさりとした肯定に、桜華の思考が一瞬だけ止まる。

 理解が追い付かず、言葉が出て来ない。

 やがて。

「はぁ……なんなの、もう……。わけわかんないんですけど……」

 深く溜め息を吐きながら、桜華はそのまま額に手を当てた。

 指先で軽く抑えるようにして、(こうべ)を垂れる。

 そのやり取りを隣で聞いていた龍三が、僅かに身を乗り出す。

「……あの透明になるのも、拒絶能力の応用なのか?」

「うむ。これは妾が月の都で暇を持て余しておった折に、偶然編み出したものじゃ」

 さらりと言ってのける小雪。

「原理はついては、妾自身もよくわかっておらぬが……光を拒絶することにより、結果として姿が見えなくなるようじゃ」

 そう言った次の瞬間。すう、と。まるで空気に溶けるように、小雪の輪郭が揺らぎ始めた。

 色が抜けるように。

 存在そのものが薄れていくように。

 やがて、小雪の姿は完全に視界から消えた。

 だが、確かにそこに居る気配だけは残っている。

「……ッ!」

「……うそ」

 龍三の息を呑む声と桜華の戸惑いの声が、ほぼ同時に重なる。

 二人は揃って、何もない空間を見つめたまま――茫然と立ち尽くしていた。

 すると、再びすう、と空気が揺らぐ。

 水面に波紋が広がるように、何もなかったはずの場所に輪郭が滲み、

 やがて。

 さっきまで座っていた場所に、小雪の姿が現れた。

「なんてこと……」

 立て続けに起こる、理解の範疇を超えた出来事の数々。

 二度目の透明化を見て、ついに処理しきれなくなったのか、桜華はそのままソファへと倒れ込んだ。

「……一先(ひとま)ず、小雪ちゃんが普通の人じゃないってことはわかった……」

 天井を見上げながら、ぐったりとした声で呟く。

「それで、桜華に相談なんだけど……」

「……なに」

 視線は天井のまま。

 返事だけが力無く返ってくる。

「小雪のやつ、まだ月に帰れないみたいでさ」

 言いながら、小雪の方へちらりと視線を向ける。

 龍三の視線を感じ取った小雪は、正座したまま僅かに龍三の方を向いた。

「だから、月に帰る目処が立つまで……しばらくの間、家に泊めてやれないかなと思ってて」

 言い終えてから、桜華の反応を伺う。

 数秒の沈黙のあと、桜華がゆっくりと上半身を起こした。

「……まあ、そもそもここ、お兄ちゃんの家だし」

 どこか力の抜けた口調で、ぽつりと呟く。

「私も押しかけで来てる身だから、とやかく言える立場じゃないけど……」

 一拍置いて、小雪へ視線を向ける。

「いいんじゃない? だって、帰りたくても帰れないんでしょ? なら仕方ないよ……」

 そう言って小さく息を吐き、ほんの一瞬だけ目を伏せる。

 そして、気持ちを切り替えるように軽く顔を上げ――

「だからまあ、とりあえず――ようこそ、朝日奈家へ!」




 その夜。

 風呂を終え、桜華から借りた寝間着に着替えた小雪は、どこか落ち着かない様子を見せていたが――それでも次第に打ち解けていった。

 食事の時も、寝る前も。

 桜華は何かと世話を焼き、小雪もそれを素直に受け入れている。

 まるで、本当に妹が一人増えたみたいに。

 流石、母親譲りのコミュ力お化けだ。

 文句を言いながらも、桜華はなんだかんだで面倒見がいい。

 昔から変わらない性格に、龍三は少しだけ安堵するのだった。

 

 深夜。

 龍三はふと目を覚ます。

(……トイレ)

 理由は単純だった。

 眠気の残る頭のまま、のそりと身体を起こす。

 この家の間取りは、もう家に染みついている。

 わざわざ電気を付けなくてもどこに何があるかなんて見なくてもわかる。

 龍三と桜華の部屋は壁を挟んで隣同士。

 そして――小雪は今夜、桜華の部屋で敷き布団を借りて寝ている。

 静かに部屋を出て、足音を忍ばせながら廊下を進む。

 用を足し、軽く息を吐いたあと。

 そのまま自室へ戻ろうとして――

 ふと、足を止めた。

 リビングの方から、淡い光が差し込んでいる。

「……?」

 カーテンが僅かに揺れ、その隙間から零れるのは、柔らかな月明かり。

 その奥に、人影が見えた。

 ベランダに誰か立っている。

 桜華は一度寝たら梃子(てこ)でも起きない。朝日奈家の常識だ。なので、この時点で桜華の可能性はない。

 となれば、必然的に残るのは――

「……小雪?」

 眉を顰めながら、見知った少女の名前を呟く。

 ベランダに立つその後ろ姿は、どこか現実離れしていた。

 夜風に揺れる銀の髪が、月光を受けて淡く輝いている。

 まるで光そのものを織り込んだかのように、細い髪の一筋一筋がほのかに煌めき、闇の中に溶けては浮かび上がる。

 静かな夜の中に、一人だけ切り取られた別の景色があるみたいだった。

 ベランダの戸を開ける。

 夜風が、ひやりと頬を撫でた。

「小雪、そんなところでなにしてんだ?」

「龍三……」

 振り返った小雪は、どこか落ち着いた表情をしていた。

「……眠れなくてな。少し、ここで涼んでおった」

 そう言って、再び視線を空へ戻す。

 三日月が、静かに夜空に浮かんでいる。

「地上より眺める月は……こんなにも綺麗なのじゃな」

「そっか、小雪はずっと月に住んでたから、見たことないんだっけ」

「うむ」

 龍三もその隣に立ち、同じ空を見上げる。

「満月の夜とか、もっとすごいぞ」

「そうなのか?」

「ああ。夜なのにめちゃくちゃ明るくてさ、思わず息を呑むくらい綺麗で……」

「……ほう」

 感心したように、小雪は目を細める。

「地上では、そのように見えておるのか……」

 しばし、静かな時間が流れた。

 虫の音と、遠くを走る車の音だけが、微かに耳に届く。

「なぁ」

 ふと、龍三が口を開く。

「月から、この星ってどんな風に見えてるんだ? やっぱ青いのか?」

「うむ」

 小雪は僅かに微笑んだ。

 夜空を見上げたまま、静かに言葉を紡ぐ。

「青くて綺麗じゃぞ。まるで……暗闇に浮かぶ青い宝石のようでな。白い雲がゆっくりと流れていて、場所によって色も違うのじゃ」

「……へぇ」

「しかも、常に同じではない。雲が動き、光が移ろい……少し目を離すだけで、違う表情になる」

 ふっと、小さく微笑む。

「まるで、生きておるかのようであろう?」

「確かに……」

「遠くから見れば、この星は美しい」

 小雪は、静かに言葉を続ける。

「……じゃが」

 一瞬だけ、視線を落とした。

「地上は穢れに満ちておる故、月の民はこの星を忌み嫌っておる」

「……」

 龍三は何も言わず、その横顔を見つめる。

「それでも妾は――」

 すると今度は、龍三の方へゆっくりと振り向いて。

「そんなこの星が、どうしても嫌いにはなれぬのじゃ」

 その言葉を聞いた瞬間。

 ――不意に。

 胸の奥がざわついた。

「……っ?」

 龍三は僅かに眉を潜める。

 今の言葉。

 どこかで――

 と、その時だった。

(――あれ?)

 突然、龍三の視界が二重に重なったように見え、軽く眩暈を覚える。

(まただ、また……この感じ――!?)

 龍三が眉を潜め、心の中で呟く。脈が一つ跳ね、息が詰まりそうになる。

 それは、朝から何度も繰り返し感じている、理屈では説明のつかないあの”引き戻されるような感覚”――既視感(デジャヴ)だった。

 自分でも理由はわからないが、龍三はこの時――なぜか同じやり取りを以前にも一度、どこかで経験したことがあるような、そんな言いようのない懐かしさを感じていた。

 それはまるで、長い夢の続きの一部をふと思い出したかのようでありながら、それでいて決定的な部分だけが霧の向こうに隠れているような感覚。しかも、思い出そうとすればするほど、その霧はさらに深く立ち込め、掴みかけた記憶の輪郭は解けるように遠のいていくのである。

 胸の奥にじんわりと広がる懐かしさと、理由のわからぬ焦りが入り混じり、龍三は思わず息を呑んだ。

「……? どうかしたか?」

 その時、龍三の異変に気づいた小雪が小首を傾げ、心配そうに様子を伺ってくる。

 その仕草さえも、既視感を誘った。

「え? ああ、いや……」

 龍三はごくりと唾を飲み込み、戸惑いを隠すように頭をかく。

 反射的に否定するが、言葉の先が続かない。

「?」

 じっと固まっている龍三に、小雪はますます不思議そうに小首を傾げる。

 なんでもないと、そう言いたいのに何故か喉の奥から声が出ない。

 そして――

「……あのさ、」

「うむ?」

「変なこと聞くようだけど……俺達って昔、どこかで会ったことある?」

 代わりに出たのは、自分でも何を言っているんだろうと本気で疑うような言葉だった。だが、考えるよりも先に口が動いてしまったのだ。

 平静を装っているが内心穏やかではなく、自分の発言を振り返り、恥ずかしさと後悔のあまり頭を抱えて地面をゴロゴロ転がって悶絶している内なる龍三がいた。

 案の定、小雪も目をパチパチと瞬かせ困惑している様子だった。

「はて、面妖なことを言うのう。龍三と顔を合わせるのは今日が初めてのはず、じゃが……」

 小雪は怪訝そうに眉を寄せるが、その瞳に微かな揺らぎが走った。

 龍三の言葉に、彼女自身も説明のつかない引っかかりを覚えたのだろう。

「だ、だよな……! そうだよな……! 悪い、本当に変なこと聞いちまった。最近色々あって、それで疲れてんのかも……は、はははっ。今のは忘れてくれ……」

 龍三が苦笑いしながら慌てて取り繕う。しかし取り繕えば取り繕うほど、挙動不審が逆に目立つ。

 小雪はそんな龍三の様子を黙って見つめていたが――やがて、瞬きを一度。

「……ふむ」

 そう小さく呟くと、小雪は腕を組み、細い指を唇に添えて考え込むようなしぐさを見せた。

 ――やがて。

 小雪は静かに口を開く。

「今の話しじゃが、思いのほか、気のせいではないのかもしれぬ……」

「え?」

「実を言うとな、妾もお主の言葉に妙な引っ掛かりを覚えてのう」

 淡々とした口調なのに、その横顔はどこか遠いものを見ているようで、

「しかし、それが何なのかは妾にもわからぬ。ただ――」

 そして小雪は視線を戻し、真っ直ぐに龍三を見据えた。

「いずれ答えは見つかろう。今は深く考えずとも良い……」

 小雪のその言葉は、焦燥感に駆られていた龍三の心を宥めるような優しさがあった。

 それのおかげもあってか、さっきまでの既視感や緊張も波が引くように静まっていく。

「そ、そう……だな。なんか悪い。変に気を遣わせちまって……」

「そんなことはない。龍三とここで出会ったこともただの偶然ではなく、何かの巡り合わせと妾は思う。この出会いを偶然という言葉で片付けるには勿体ない。この(えにし)、お互い大切にしようぞ……」

「……!」

 満月のような笑顔を向けられ、龍三は不覚にもドキッとしてしまう。

 正直、反応に困る。女性への耐性があまりない龍三にとって、こういう時どんな顔をして、どんな言葉を返せばいいかわからない。

 そのまま数秒、気まずい沈黙が流れ――

 たまらず龍三はふいと視線を外した。

 逃げるように――夜空へ。

「つ、月が綺麗ですね……」

「?」

 突然の話題変換に、小雪が小さく首を傾げる。

 けれどすぐに、その意図を深く問うこともなく――龍三につられるように同じ空を見上げる。

「そうじゃのう……このまま、時が止まればよいのに」

「……」

 その言葉を聞いて、龍三が思わず小雪の方を振り向いた。すると、小雪もまた同じようにこちらへ顔を向ける。

 ふと、視線が重なる。

 月明かりを受けた瞳が、静かに揺れている。

 何かを言おうとして、言葉が出ない。

 喉の奥で止まったまま、代わりに呼吸だけが浅くなる。

 その、ほんの一瞬の静寂の中で。

 小雪の身体が僅かに――本当に僅かに、こちらへ傾いた。

 それに引き寄せられるように、龍三もまた、そっと身を寄せる。

 見つめ合ったまま、距離がゆっくりと縮まっていく。

 夜の音が遠ざかり、世界には二人だけが取り残されたような感覚。

 意図したわけではない。

 しかし、気が付いた時には、息がかかるほど二人の顔の距離は縮まっていて――

 そして、唇が触れ合いそうになる――その瞬間。

 静寂を破るように、龍三の寝室からスマホの着信音が鳴り響いた。

「――っ」

 ハッとしたように同時に顔を逸らす二人。

「あっ……わ、悪い!」

「い、いや……妾の方こそ……」

 互いに視線を合わせられないまま、ぎこちない言葉だけが交わされる。

 龍三の頬は火が点いたように熱くなり、小雪もまた目を泳がせながら無意識に手の甲を自分の唇に押し当てていた。

 その仕草が、かえって今の出来事を鮮明に思い出させる。

 気まずい空気のまま、龍三は踵を返す。

「電話だ、ちょっと出てくる」

「……うむ」

 短く頷く声を背に、龍三は寝室へと戻っていく。

 そしてベランダに一人残された小雪は、暫くその場で立ち尽くしたまま、動けずにいた。

 やがて、そっと両手を重ねて自分の胸元へ押し当てる。

(わ、妾は今、一体何を……!)

 自分でもはっきりとわかるくらいに胸の鼓動が高鳴っている。

 あれは――

 ただの成り行きだったのか。

 それとも。

 ほんのわずかにでも、望んでしまっていたのか。

「……っ」

 考えれば考えるほど、余計に意識してしまう。

 気がつけば、指先で自分の唇をなぞっていた。

 触れそうだった、あの一瞬の熱を確かめるように。

 夜風が頬を撫でる。

 けれど、一度浮かんでしまった熱は、簡単には消えてくれそうにない。

 

 寝室に戻った龍三もまた、内心では激しく動揺していた。

(な、何やってんだ俺はぁああ……っ!)

 さっきの光景が頭から離れない。

 どくん、どくん、と。

 未だに胸がうるさいくらいに脈打っている。

 落ち着く気配なんてまるでない。

(今、小雪と……キスしそうに……)

 その直後、龍三の脳裏に先ほどの光景が鮮やかに蘇る。

 すぐ目の前にあった、小雪の顔。

 月明かりに照らされたその表情は、童顔ながらもどこか浮世離れしていて――

 とろん、と。

 熱を帯びたように潤んだ眼差しが、静かに揺れていた。

 頬はほんのりと赤く染まり、僅かに開いた唇から、微かな甘い吐息が零れる。

 あの瞬間の小雪からは、まるで拒む気配を感じなかった。

 それどころか、ただ身を委ねるように。

 その瞬間を、受け入れてしまいそうな顔で。

 あと少しで、触れてしまいそうな距離で。

 小雪が、じっとこちらを見つめていた。

 そこで、龍三はハッと我に返る。

(い、いかんいかん! 落ち着け俺……っ!)

 一度、大きく息を吸い込む。

 ゆっくりと吐き出して、無理やり気持ちを落ち着かせる。

 ――今は、それどころじゃない。

 鳴り続ける着信音が、現実へと引き戻してくる。

「……ったく、誰だよ、こんな時間に」

 ぼやきながら、スマホの画面を見る。

 表示されていた名前に、思わず眉を潜めた。

「……えっ?」

 そこに映っていたのは――

 担任教師の綾咲叶江の名前だった。



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