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幻想神域の零能力者(イレギュラー)  作者: 蒼春-Aoharu
第一章 バタフライ・エフェクト/Butterfly Effect
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第二十三話 胡蝶の夢



 暗い、暗い闇の中だった。

 龍三は目を瞑ったまま、重力から解放されたようにゆっくりと深い闇の底へ沈んでいく。

 四肢には力が入らず、動かすことすら叶わない。

 水の中にいるのか、それともただ暗闇の中を漂っているのか――今は、それすらも分からなかった。



 ……。

 …………。

 どれほどの時間が経っただろう。

 どこまでも続く暗闇の中をゆっくりと沈んでいた龍三は、重い瞼を開いた。

 視界に広がっていたのは、どこまでも続く真っ暗な空。

 その彼方を、青白い尾を引きながら無数の光が流れていく。

「……流星群?」

 空から雨のように降り注ぐそれを見て、龍三がなんとなしに呟いた――その瞬間だった。

 ドボンッ!

 全身を水面に叩きつけられたかのような衝撃が龍三を襲う。

 身体が大きく沈み込む。

 それと同時に、頭上を流れていた無数の星々が、次々と漆黒の水面へ落下してきた。


 青白い光を纏った流星が水面を突き破り、白い飛沫を撒き散らしながら沈んでいく。

 やがて、水中で弾けた光が四方八方へと広がり、果てのない闇を少しずつ照らし始めた。


 ひとつ、またひとつ。


 龍三の周囲を沈んでいく星々が、淡い光を放ち始める。

 それはまるで、水底に散らばる宝石のようだった。

 そのうちの一つが、ふわりと龍三の目の前を横切っていった。

「…………?」

 何気なくその光を目で追っていくと、星の輝きの中に何かが映り込んだ。

 見覚えのある街並み。

 青く澄み切った夏の空。

 そして、目の前をひらひらと横切る一匹の黒い揚羽蝶。


『……なんだってんだよ』


 聞き覚えのある声がした。

 蝶に誘われるように足を止めた少年が、怪訝そうに目の前の鳥居を見上げている。


 ――籠目神社。


 そこに映っていたのは、自分自身の姿だった。

 七月一日。あの日、あの場所で、小雪と出会う直前に見た光景。

 龍三は直感的に、自分は今、己の過去の記憶を見ているのだと悟る。

 そう理解したところで、別の星がゆっくりと傍らを通り過ぎた。

 淡い光が揺らめき、映し出される景色が移り変わる。


『妾の名は小雪、月詠小雪じゃ。月より参った、月の都の人である。どうぞよしなに』


 境内に響く、懐かしい声。

 紅白の巫女装束に身を包んだ銀髪の少女が、胸に手を添えて礼儀正しく自己紹介をしていた。

 ――小雪。

 籠目神社の鳥居から突然現れ、自分は月からやってきた月の民だと名乗った不思議な女の子。

 思えば、全てはこの籠目神社から始まった。

 しかもよくよく考えたら、小雪と出会ってまだ数日しか経っていないのだ。それなのに、随分と長い時間を一緒に過ごしてきたような気がする。

 妖魔との戦いに、突然始まった奇妙な共同生活。振り返れば、驚かされてばかりの日々だった。

 そんな感慨に浸っていると、また一つ星が輝いた。

 今度は、見覚えのない光景が浮かび上がる。


『小雪様、それはですね――ズバリ、恋の病にござります!』

『恋の病?』

『はい。小雪様は今、龍三殿に恋をしているのでござります!』

『わ、妾が……龍三に、恋を……』


 頬を真っ赤に染め、両手を胸に添える小雪。その向かいには、凛が嬉しそうに笑っていた。

 龍三はぼんやりとその光景を見つめる。

 こんな会話を、二人はしていたのか。

 自分の知らない場所で、小雪がどんな時間を過ごしていたのか。星々は、そんな記憶までも映し出しているらしい。

 さらに、もう一つ。

 記憶は止まらない。

 今度は――。


『狭霧の馬鹿者! 狭霧のことなど嫌いじゃ! もう顔も見とうない!!』

『月詠様!』


 怒鳴り声と共に、小雪が駆け出した。

 伸ばされた狭霧の手を振り切り、その場から逃げるように走り去っていく。


『小雪様! ……あっ、行ってしまわれました……』


 遠ざかる凛の声を背に、小雪は早朝の街を走り続けた。

 その姿がふっと消える。

 霊力の気配さえも拒絶して遮断し、透明になった身体で、小雪は息を切らしながら街を無我夢中で駆け抜けていく。


『はぁ……っ! はぁ……っ!』


 苦しい。胸が痛い。

 それでも、立ち止まる訳にはいかなかった。


『早く……早く、あの場より離れねば……っ!』


 脳裏をよぎるのは、昨夜、龍三と唇を重ねた瞬間に蘇った光景。

 それは、決して見知らぬ誰かの記憶などではなかった。

 自分自身が、確かに経験した出来事。

 忘れていたはずの、遠い過去の記憶だった。


『……このままでは、また、あの二人が死んでしまう……!』


 震える声が漏れた。

 思い出してしまったのだ。

 あの二人が、これからどのような結末を迎えるのかを。

 そして、自分がどれほど残酷な過ちを犯してしまったのかを。


『妾が、この手で……狭霧と凛を殺めてしまう……!』


 だから、逃げなければならない。

 あの二人から。そして、龍三からも。

 小雪は唇を噛み締め、なおも走り続けた。


 ――また、星が流れる。


 今度は何処かもわからない建物の陰だった。

 壁に背中を預け、小雪がずるずるとその場に座り込む。

 荒い息はなかなか収まらず、彼女は震える膝を抱えて顔を伏せた。


『……寂しい』


 ぽつりと、本音が零れ落ちる。


『龍三は今頃、どうしているのであろうか……』


 まだ、ベッドで寝ているのだろうか。

 それとも、もう目を覚まして、いつもの日常に戻っているのだろうか。

 小雪は膝を抱えたまま、ぼんやりと思考を巡らせた。


『孤独には、慣れたと思っておったのにな……』


 そっと、自分の身体を抱き締める。

 ふと脳裏に浮かんだのは、龍三や凛に抱き締められた時の記憶。

 凛の暖かな腕。

 そして――龍三の温もり。

 その腕に抱かれた時の、どうしようもない安心感。


『……人の温もりを、知ってしまったからかのう……』


 小雪は膝に深く顔を埋めた。

 じわりと、堰を切ったように目尻に涙が溢れ、衣類を濡らしていく。


『龍三に……会いたい……』


 その声は、今にも消えてしまいそうなほど小さかった。


「…………っ」


 その姿を見つめていた龍三は、息を呑んだ。

 膝を抱え、一人ぼっちでうずくまる小雪。

 手を伸ばしても届かない。

 そんな彼女を見ているだけで、胸が締め付けられた。


 すると、不意に周囲が暗くなる。

 小雪も異変に気づき、ゆっくりと顔を上げる。

 先ほどまで明るかった空が、少しずつその色を失い始めていた。


 ――皆既日食。


『……?』


 その瞬間、小雪が苦しげに顔を歪めた。


『うっ……』


 こめかみの奥がずきりと疼く。

 小雪は堪えきれず、片手で強く頭を押さえる。


『頭が、痛い……っ!』


 視界がぐらりと揺れ、堪らずその場に倒れ込む。


『なんじゃ……これは……!?』


 耳鳴りがする。

 頭の奥で、何かが激しく脈打つ。


『やめよ! 嫌じゃ! 嫌っ……うぅっ……うああああッ!』


 小雪が両手で頭を抱え、狂おしい悲鳴を上げた。


「小雪っ!!」


 その光景を見ていた龍三は叫び、思わず彼女へ向かって手を伸ばす。

 しかし、その指先が届くことはない。

 虚しく空を掴んだ直後、龍三の視界が真っ白に染まった。

 雷鳴のような轟音が響き、白い閃光が全てを呑み込んでいく。


 音が、弾けた。


 鼻をつく、何かが焼け焦げたような臭い。

 肌を叩く、激しい風。

 遠くから聞こえてくる、低い地響き。

 それらは初め、ひどく曖昧だった。

 だが、時間が経つにつれて、音も、匂いも、肌に触れる空気さえも、次第に鮮明になっていく。


 そして――。


「……っ!?」


 龍三は、ハッと目を見開いた。

 そこに広がっていたのは、世界の終わりだった。

 皆既日食によって闇に染まった漆黒の空を、無数の流星群が埋め尽くしている。青白い光を引きながら雨のように降り注ぐ星々が、地上のあらゆるものを蹂躙していた。


「あ……」


 龍三の目の前。

 鏡のような水面にそびえ立つ大鳥居。

 その頂に、一人の少女が佇んでいた。

 純白だった銀髪は、黒曜石のような漆黒へと染まり、背中には光の粒子で編み上げられた、巨大な蝶の翅が広がっている。

 かつての面影を残しながらも、そこにいるのは、もはや人の身を超えた圧倒的な存在だった。


「…………小雪」

 

 声が、掠れた。

 なぜ、こんなことになっているのか。

 なぜ、彼女があんな姿になっているのか。

 理由を考えようとしても、頭が上手く働かない。

 龍三はただ、目の前の光景を見つめることしかできなかった。


 その時、空を埋め尽くす流星群から、一筋の光が逸れた。

 青白い尾を引く星が、まるで意思を持つかのように、真っ直ぐこちらへ向かってくる。

 凄まじい速度だった。

 気づいた時には、もう遅い。

 ――避けろ。

 頭のどこかでそう叫ぶ声がしたが、身体は動かない。

 流星が、眼前へと迫る。


「龍三殿っ!」


 意識の外から飛び込んできた声に、ハッと我に返る。

 ――凛!

 そう認識した瞬間には、既に彼女がこちらに向かって飛び込んできていた。


「なっ――!?」


 横合いから身体を強く押し退けられ、龍三の視界が大きく傾く。

 直後、凄まじい光が目の前を通り過ぎた。

「凛――ッ!!」

 叫び声は、鼓膜を破らんばかりの轟音に一瞬で掻き消された。

 流星の光が彼女の身体を無慈悲に飲み込み、地面に着弾した瞬間、強烈な爆風が吹き荒れる。

「うわっ……!?」

 龍三の身体も木の葉のように軽々と後方へ吹き飛ばされ、激しく地面を転がる。

 そして、光が過ぎ去ったあと。

 そこに、凛の姿はもうなかった。

「…………え?」

 龍三は茫然と目を見開いた。

「凛……?」

 ほんの数秒前までそこに居たはずの少女が、もうどこにもいない。

「そん、な……嘘だろ? 凛っ……! 凛っ……!?」

 いくら周囲を見回しても、やはり彼女の姿は見当たらなかった。

 代わりに、流星が落ちた場所には、まるでウユニ塩湖を彷彿とさせる鏡のような水面が広がっていた。

 奇妙なことに、空は皆既日食によって太陽は闇に閉ざされ、真っ暗であるはずなのに――何故かその水面の中には、青く澄み切った空と、眩しく輝く太陽が写し出されている。

「…………」

 龍三はその水面の傍らに落ちているものに目が留まった。

 赤いマフラー。

 いつも凛が身に着けていたトレードマークの赤いマフラーが、ボロボロに破れた状態で、地面にボロ雑巾のように転がっていた。

「そんな……」

 凛が、死んだ。

 だが、それを受け入れられない自分がいる。

 ありえない。何かの間違いだ。そう思わずにはいられなくて、龍三は何度も首を振る。

 その時、右脚に焼けつくような激痛が走った。


「痛(い)っ……?! つ、ぐっ……!」


 何が起きたのかわからず、龍三は反射的に足元へ目を向けると――。


「…………は?」


 言葉を失った。

 右膝から先が、なくなっている。

 一瞬、頭が真っ白になる。しかし、状況を理解するよりも早く、再び凄まじい激痛が右脚に襲い掛かった。

「が、ああああッ!? あ、足が……足がぁぁ!?」

 龍三は苦悶の表情を浮かべ、堪らずその場にうずくまる。

 失われた右脚の断面から、鮮血がとめどなく溢れ出していた。

 歯を食いしばって痛みに耐えようとするが、あまりの激痛に身体が震える。


 その間にも、異変は続いていた。

 流星の落ちた場所に広がる、あの鏡のような水面。

 それが、まるで生き物のように地面を這いながら、じわじわとその領域を広げていたのだ。


「はぁ……っ、はぁ……っ!」


 龍三は荒い呼吸を繰り返しながら、痛む右脚を手で抑えつけた。

 指の隙間から血が滴り落ち、地面に赤い血溜まりを作る。

 やがて、水面が血溜まりに到達すると――次の瞬間、水面に触れた部分から血が消えた。

「…………!」

 水に溶けたわけではない。

 血そのものが、跡形もなく消滅したのだ。

 龍三は目を見開いた。

「……幻想神域(げんそうしんいき)」

 鏡のような水面の正体――それは、現世とは異なるもう一つの世界……幻想神域そのものだった。

 それが今、現世を浸食しているのだ。

「くっ……そ……!」

 龍三は両腕に力を込め、身体を後ろへ引きずった。

 だが、右脚を失った状態では、ほんの少し動いただけでも傷口に激痛が走る。

「ぐっ……ぁあああああああ!」

 それでも、止まるわけにはいかなかった。

 あれに触れれば、どうなるか。

 龍三はそれを、嫌というほど経験している。

 目の前で凛が消えたように。自分の右脚が跡形もなく失われたように。あの水面は、触れたものを善悪問わず、例外なくこの世界から消し去ってしまう。

「はぁ……はぁ……」

 地面を這いつくばり、少しでも水面から距離を取ろうとする。

 しかし、出血は止まらない。

 視界が狭まり、ひどい眩暈が頭を襲う。

 指先から、少しずつ感覚が失われていく。

「……くそ……っ」

 幻想神域が、すぐそこまで迫っていた。 

 あと数センチ。

 もう少し広がれば、龍三の身体に触れるだろうという距離。

 痛みに顔を歪めながら、龍三はぼんやりとそれを見つめていた。

(ああ)

 不思議と、もう恐怖は感じなかった。

(俺は……あれに呑み込まれて、ここで死ぬのか……)

 諦めにも似た感情が、龍三の胸の内で静かに浮かび上がる。

 そして広がる水面が、龍三の身体に触れようとした――その時。

「――っ!?」

 突然、背後から襟首を掴まれた。

 直後、身体がふわりと宙に浮く。

「うわっ……!?」

 龍三は後方へと放り投げられ、数メートル離れた地面に転がった。

「がっ……あぁああっ……!」

 地面に叩きつけられた衝撃で、右足に再び激痛が走る。

 呻きながら顔を上げると、つい先ほどまで自分がいた場所に、一人の女性が立っていた。

 白銀の髪に、紫を基調とした和装に身を包んだ女性。

「……狭霧……?」

 狭霧は無言で、足元に落ちていた赤いマフラーを拾い上げた。

 泥に汚れたそれを、ほんの一瞬だけ見つめる。そして、何も言わずに自らの懐へそっとしまい込んだ。

「狭霧、凛が……」

 龍三の口から、掠れた声が漏れた。

 狭霧が静かに振り向く。

「凛が……俺を、庇って……っ」

 言葉を詰まらせる龍三を、狭霧は静かに見つめる。

 やがて、彼女は痛ましげに目を細めると、そっと声を和らげた。

「皆まで言わなくとも、わかっています」

「……っ」

「私の方こそ、月詠様からお二人の気を引くことに必死で、駆けつけるのが遅くなってしまった」

 狭霧は悔いるように目を伏せる。

「……申し訳ありません」

 龍三はそれ以上、何も言えなかった。いや、何も言えなくなってしまった。

 意識が朦朧としているせいもあるが、それ以上に、あの冷徹で機械のように感情を表に出さなかった狭霧が、後悔と自負の念をその顔に滲ませているのだ。

 そんな彼女の姿を見て、龍三はかける言葉を失った。

 狭霧が改めるように龍三へ向き直る。

「朝日奈龍三。貴方の言っていたことが真実ならば、この惨劇を止められるのは、もはや貴方しかおりません」

「…………っ」

 龍三は霞み始めた視界の中で狭霧を見上げた。

「貴方が話していた、繰り返される七日間。そして、世界の終焉……」

 狭霧が周囲へ目を向ける。

 鏡のような水面――幻想神域が、今も地面を飲み込みながら広がり続けている。

「俄かには信じ難い話しでしたが……少なくとも今、私たちの目の前で起きていることは、貴方の話しと一致しています」

 龍三は何かを言おうとした。

 だが、唇が僅かに動いただけで、声にはならなかった。

 狭霧はそんな龍三の様子を見て、また痛ましそうに目を細める。

「……随分と酷い有様ですね」

 失われた右脚。浅く、不規則な呼吸。

 狭霧は龍三の傍らへ歩み寄ると、その場に片膝をついた。

「本当なら、もっと安全な場所まで運んで差し上げたいところなのですが……」

 そう言って、彼女は空を見上げた。

 漆黒の空。

 そこには、幾千、幾万もの流星が降り注いでいる。

 遥か彼方の地平線で、巨大な閃光が走った。

 遅れて、五臓六腑を揺らすような凄まじい地響きが地を這って伝わってくる。

「この流星群の規模……恐らく、日本だけに留まらず、世界全土に及んでいます」

 狭霧は静かに視線を龍三へ戻した。

「もはや、この地上のどこにも、安全な場所など存在しないのでしょうね」

 龍三は答えられなかった。

 失われた右脚からは、今も命そのものである血が流れ続けている。

 意識はさらに朦朧とし、狭霧の声さえ、どこか遠くから聞こえてくるようだった。

 その時、狭霧が何かを感じ取ったように顔を上げる。

「……?」

 視線の先には、巨大な大鳥居の頂に佇む小雪が、ゆっくりと片手を天へと掲げていた。

 その手には、一本の細身の剣のようなものが握られている。

 意識が途切れかけている龍三には、それが何なのか判別がつかなかった。

 ただ、小雪がそれを構えた瞬間――周囲の空気が一変した。


 ――ドォンッ!! 


 雷が落ちたような重い破裂音と同時に、空気が大きく脈動する。

 さらに、彼女が持つ剣の周囲に、青白い稲妻にも似た光が激しく走った。


 いや、違う。

 雷が走っているのではない。

 何もないはずの空間そのものに、無数の亀裂が生じているのだ。


 剣の内側に秘められた莫大な力が、周囲ヘ溢れ出している。

 耐えきれなくなった空間が軋み、黒い亀裂が幾筋も走っては閉じた。

 亀裂の向こうには、何も見えない。

 ただ、そこにあるはずの景色が、無理やり引き裂かれていた。

「あれ、は……?」

 龍三の全身から、言いようのない恐怖が走る。

 彼女が何をしようとしているのかは分からない。

 ただ、あの剣が振るわれれば、取り返しのつかないことが起こる。それだけは確信できた。

「まずいですね……」

 狭霧の声が強張った。背後にいる龍三をちらりと見やる。

 どこへ逃げようと、もはや安全な場所などない。いずれは幻想神域に吞み込まれて、肉片すら残らず跡形もなく消えてしまうだろう。

 それでも、小雪が振りかざそうとしているあの一撃をまともに受ければ、龍三の命はない。

 ただ、いくら龍三が虫の息とはいえ、目の前で傷ついている人間を見捨てられるほど狭霧も薄情ではなかった。

 世界の終焉から逃れることはできなくても、せめて、今まさに迫っている脅威から彼を遠ざけることならできる。

 狭霧は決断した。

 彼女は龍三へ向き直ると、その背後へ向けて境刀(さかいとう)・國之狭霧(くにのさぎり)を振り抜いた。

 刃が空を割った瞬間、目の前の空間に半透明の境界が生じる。

 狭霧はそのまま龍三の身体を抱き上げた。

「狭霧、何を……」

「もしも来世があるのなら、なんて……猿田彦に聞かれていたら、きっと笑われていたでしょうね……」

 龍三は、彼女が自分をどこかへ飛ばそうとしているのだと悟った。

「ま、待てよ! 狭霧! お前はどうするんだ!?」

 その必死の呼びかけに対する返事は、自分を見つめる哀愁を帯びた瞳だった。

 次の瞬間、狭霧は龍三の身体を空間に生じている亀裂に向かって力強く放り投げる。

「狭霧――ッ!!?」

「朝日奈龍三」

 狭霧はこちらに背を向けて、迫り来る世界の終焉を見据えながら、いつもと変わらない落ちついた声で告げた。


「私たちの未来、貴方に託します」


 その言葉を最後に、龍三の身体が境界の向こうへと飲み込まれる。

「狭霧――ッ!!」

 伸ばした手は、届かない。

 直後、全てを消し去るほどの眩い閃光が、視界を埋め尽くした。

 音も、景色も、何もかもが白く塗り潰されていく。

 龍三の意識は、そこでぷつりと途絶えた。



 ♢


 …………。

 ……。


 沈んでいく。

 深く、深く。

 光を失った暗い水の底へ、龍三の身体がゆっくりと沈んでいく。

 音はなく、不思議と息苦しさもない。

 千切れた右脚の痛みさえ、今は感じなかった。

 手足を動かすこともなく、龍三はただ、どこまでも深い闇の中をゆりかごに揺られるように沈み続けていた。


 やがて――。

 閉じた瞼の向こうに、ぼんやりとした明るさが滲み始めた。

 光は次第に強まり、暗闇に沈んでいた意識を、少しずつ浮かび上がらせていく。

 眩しい。

 差し込む光に誘われるように、龍三の瞼がゆっくりと開いた。

「…………」

 視界の先には、どこまでも澄み渡る青空が広がっていた。

 抜けるような青い空に、真っ白な雲がゆったりと浮かんでいる。

 そのはるか上空には、太陽が燦々と輝いていた。

「……ここ、は……?」

 周囲を見回した後、足元へ目を落とす。

 そこには薄く水が張っていた。

 鏡のように滑らかな水面が、頭上の青空も、白い雲も、太陽さえも、そのまま映し出している。

 見上げても、見下ろしても、どこまで続く青い空。

 空と水面の境界すら分からない程、果てしなく広がる蒼穹。

 まるで、空の真ん中に取り残されてしまったかのようだった。


 鏡のような水面に映っていた景色と、今、目の前に広がる光景が重なる。

 ――ここは、幻想神域の中だ。

 そう理解するまでに、数秒の時間を要した。

 だが、そこで新たな疑問が浮かぶ。

 幻想神域に触れたものは、跡形もなく消滅していたはずだ。現に、自分の右脚も水面に触れたことで失われた。

 それなのに、なぜ自分はこうしてここに立っていられるのだろう。

 一体、自分の身に何が起きているのか。

 答えを見つけようと思考を巡らせていた矢先、不意に聞こえた声が、その思考を断ち切った。

「……っ、うぅ……ひっく……」

 誰かが泣いている。

 龍三は声のする方へ顔を向けた。

 少し離れた場所に、一人の少女がうずくまっている。

 その少女は紅白の巫女装束に身を包み、長い黒(・)髪(・)を水面へと垂らしていた。

 両膝を抱え、肩を震わせながら泣いている。

「うっ……ひぐっ……うぅ……っ」

 まるで幼い子供のように、しゃくりを上げながら。

 何度も手の甲で涙を拭っては、それでも溢れてくる涙を止められずにいた。

 やがて、少女が僅かに顔を上げる。

「…………あ」

 龍三は、その顔から目が離せなくなった。

 涙に塗れた、あどけない顔持ち。透き通るような白い肌。深い海を思わせる紺碧の瞳。

 髪の色こそ、あの美しい銀色から黒曜石のような漆黒へと変わっていたが、それ以外は何も変わっていない。

 見間違えるはずがなかった。

「……小雪……?」

 そこにいたのは、月詠小雪だった。

「小雪っ!」

 龍三が声を張り上げて彼女の名を呼ぶ。

 しかし、小雪は気づかない。

「くそっ! なんで……!」

 龍三は思わず、目の前の小雪へ向かって手を伸ばす。

 だが――。

「…………え?」

 そこで、異変に気づいた。


 自(・)分(・)の(・)手(・)が(・)、透(・)け(・)て(・)い(・)る(・)。


 差し伸べた指の向こうに、青空を映し出した水面が見えていた。

 龍三は慌てて、もう片方の手を確かめる。

 どちらも同じだった。しかも手だけはない、よく見ると身体そのものが半透明になっている。

「な……なんだよ、これ……」

 戸惑いながら、自分の胸元へ目を落とす。

 そこには、青い焔が燃えていた。

 半透明の身体の中心。ちょうど心臓のあるあたりで、小さない焔が揺らめている。

「破魔の焔?」

 龍三はそれが、直感的に破魔の焔だと気づいた。


「どうなってんだ……? 俺は確か、幻想神域に吞み込まれて、死んだはずじゃ……?」


 自分の置かれている状況が理解できず、龍三が眉を顰める。

 その時。

「……妾の、せいじゃ……」

「……っ!」

 小雪の声に、龍三は顔を上げる。

「全部……全部、妾のせいで……っ」

 彼女は顔を伏せたまま、嗚咽交じりに言葉を絞り出していた。

「妾が……皆を……殺めてしもうた……」

 その声は、今にも消えてしまいそうなほど弱弱しい。

「凛も……狭霧も……桜華も…………龍三まで…………っ!」

 小さな手が、巫女装束の胸元をぎゅっと握り締める。

「妾は……こんなこと、望んでなど……っ」

 言葉が途切れた。

 堪えきれなくなったように、小雪は再び顔を覆った。

「うぅ……あぁぁ……っ!」

 静まり返った世界に、少女の嗚咽だけが響き渡る。

「…………小雪」

 その様子を見ていた龍三は、痛ましげに顔を歪めた。

 見ていられなかった。

 いつも背伸びして、姫巫女らしく気丈に振る舞っていたあの少女が、今は一人で膝を抱え、子供のように泣きじゃくっている。

 失った仲間たちの名前を呼び、自分の死を嘆いてくれる彼女を、どうしても放っておけなかった。

 龍三はもう一度、小雪へ向かって手を伸ばした。

 叶うなら、すぐにでも傍へ行って、その小さな肩を抱き寄せたい。

 お前のせいじゃないと。大丈夫だと。もう泣かなくていいと。

 そう伝えてやりたかった。

 けれど、半透明な手は虚しく宙を彷徨うだけだった。

 さっきから、身体も動かしているはずなのに、いくら足を踏み出しても小雪との距離は一向に縮まらない。

 まるで無限の空間が二人の間に横たわっているかのように、全く近づくことが出来なかった。

「……っ、なんでなんだよ……!」

 どうして届かない。

 こんなにも近くにいるというのに。

「小雪ッ!!」

 堪えきれず、龍三は彼女の名を叫んだ。

「…………え?」

 小雪の華奢な肩が、ぴくりと震える。

 涙に塗れた顔をゆっくりと上げ、虚空を見つめる。

「……龍三?」

「……っ!」

 聞こえたのか。

 今、確かに自分の声が小雪に届いた。

 龍三は思わず身を乗り出す。

「小雪! 俺だ! 俺はここにいる!」

 必死に龍三が呼びかける。

 だが、小雪の視線は彷徨ったままで、龍三の姿を捉えてはいなかった。

 小雪は恐る恐る立ち上がると、縋るような眼差しで辺りを見回し始めた。

「……龍三? ……そこにおるのか?」

「ああ、俺はここにいる! ここだ!」

 龍三は声を張り上げる。

 しかし、小雪には聞こえていないようだった。

「龍三……? おるのなら、返事をしておくれ……!」

「まさか……聞こえてないのか? なんで!? さっきは聞こえたのに!?」

 龍三がもどかしそうに歯噛みする。

 一方、小雪は何度も辺りを見回していた。

「龍三……どこじゃ……?」

 小雪の声が震え始める。

「頼む……返事をしてくれ……」

 その瞳に、再び大粒の涙が溜まっていく。

「龍三……っ」

 やがて、堪えきれなくなったように、小雪は泣きながらその名を呼び始めた。

「龍三……っ! 龍三ぃ……!」

 小雪は涙を拭うことも忘れ、必死に辺りを見回している。

 その姿は、まるで母親とはぐれてしまった幼い迷子のようだった。

 張り詰めていた緊張の糸が切れたように、やがて、小雪の膝が崩れ落ちる。

 ぱしゃり、小さな水音が響く。

 そのまま両手を水面に付き、俯いてしまう。

「そうか、ついに……幻聴まで聞こえるようになってしもうたか……」

「……小雪」

「妾も、いよいよおかしくなってしまったようじゃ」

 自重するように笑う。

 けれどその頬には、今も絶え間なく涙が伝っていた。


「……会いたい……」


 消え入るような声が、水面に落ちた。


「龍三に……会いたい……」


 龍三は、もう何も言えなかった。

 ただ、目の前で泣き崩れる少女を、胸を締め付けられる想いで見つめることしかできなかった。


「龍三との出会いを……もう一度、やり直したい……」

 

 彼女の願いが世界に響いた、その瞬間だった。

 小雪が何かに気づき、ゆっくりと顔を上げる。

 何もなかったはずの空間。

 二人の距離を阻んでいた境界の真ん中に、一基の赤い鳥居が立っていた。

 まるで、初めからそこに存在していたかのように。

「……?」

 小雪は驚いたように目を見開いた。

 龍三もまた、突然目の前に現れた鳥居を茫然と見つめていた。

「鳥居……?」

 それは、ちょうど二人の間に割って入るように立っていた。

 龍三の目の前には鳥居の入り口がある。そして、赤い柱に挟まれた空間の向こうには、涙に塗れた顔で座り込んでいる小雪の姿があった。

 まるで鳥居を挟んで、二人が真っ直ぐに向かい合っているかのように――。


 そのとき、龍三は自分の足元に霧が漂い始めていることに気づく。

「なっ……なんだ、これ……!?」

 白い霧は瞬く間に濃さを増し、足首から膝へ、腰へと這い上がってくる。

 龍三は慌てて辺りを見回した。

 目の前に立つ朱色の鳥居も、その向こうにいる小雪の姿も、白い帳の中へと霞んでいく。

 次の瞬間――ふっと、足元の感覚が消えた。

「え……?」

 踏みしめていたはずの水面が忽然と失われる。

 重力から解放された身体が傾き、次いで、内臓がせり上がるような浮遊感に襲われた。

「うわぁあああっ!?」

 龍三の身体が、真っ逆さまに落下していく。

 それでも彼は、必死に手を伸ばした。


「小雪――ッ!!」


 ♢


「……っ!?」

 小雪が、驚いて顔を上げる。

 今、確かに聞こえた。

 鳥居の向こうから、聞き間違えるはずのない……彼の声が。

「……龍三?」

 小雪は涙を袖で拭い、再び鳥居を見つめる。

「龍三……! そこにおるのか!?」

 返事はない。

 それでも小雪は立ち上がり、震える脚で鳥居へ近づいた。

「龍三っ――!!」


 その呼びかけに答えるように、龍三の声が響く。


『待ってろ! 必ず助ける!』


「……っ!」


『必ず助けに行くから! ――だから!!』


 今度は、はっきりと聞こえた。

 幻聴などではない。

 小雪は鳥居を見つめたまま息を呑んだ。


 一方、暗闇へと落ちていく龍三は、手を伸ばすことすらままならないまま叫んでいた。

 届くかどうかなど、分からない。

 それでも、叫ばずにはいられなかった。

 小雪の願いに、自らの魂を重ね合わせるように。


 ――お前をもう、ひとりぼっちになんかさせない!!


 その声もまた、深い霧の中へと飲み込まれていった。 


 ♢


「この鳥居を潜れば……また、龍三に合えるのか?」


 小雪は鳥居を見上げ、静かに呟いた。

 やがて視線を落とし、鳥居の入り口を見据える。

 胸元で両手を合わせ、祈るようにぎゅっと握り締める。

 そして一度だけ目を瞑り、深く息を吸い込む。


「……龍三……」


 縋るようにその名を口にしながら、意を決して小雪は鳥居の下へと足を踏み出した。

 鳥居を潜り抜けた瞬間、眩い光が彼女を包み込む。


「……うっ……こ、これは?」


 急速に身体から力が抜けていく。

 辛うじて保っていた意識が、深い眠りへと引き込まれていった。

 同時に、長い黒髪が、毛先からゆっくりと色を失い始める。

 漆黒の髪から、白銀の髪へ。

 腰まである銀髪の先には、いつの間にか赤い髪紐が結ばれていた。

「たつ……み……」

 最後にもう一度だけ、彼の名を呼ぶ。

 そのまま小雪の意識は、深い眠りへと沈んでいった。


 ♢ ♢ ♢


 七月一日。

 夏の陽光が降り注ぐ、籠目神社。

 蝉しぐれに包まれた境内。

 その朱色の鳥居の中央で、何もないはずの空間が、不意に水面のように揺らめいた。

 まるで、見えない膜が張られているかのように。

 

 そして――。

 

 揺らめく空間の中から、紅白の衣をまとった少女が、ふわりと押し出されるように姿を現した。

 銀糸を溶かしたような長い銀髪が、夏の陽光を受けて眩しく煌めく。


「――え?」


 意識を失った少女の身体は、そのままゆっくりと前方へ傾いていき――。

 その倒れ込む先には、一人の少年が茫然と立ち尽くしていた。


「えぇぇッ!?」


 静かな境内に、少年の素っ頓狂な叫び声が響き渡った。




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