耳障りのいいこと。心の栄養?
やあみんな。
りせた。だよ。
元気にしてる?
心の栄養足りてるかな?
筆者は全然足りてないぜー!
……まぁ、それはどうでもいいか。
でさ。
ふと、思ったことがあるんだ。
よくさ、心を温めるための言葉——って、あるじゃない。
詩集とか、そんなやつ。
あれ、耳障りがいいというか。なんというか。
優しい言葉……とか、名乗ってるよね。
もちろん、見てみたりしたこともあるけども。
実践してみたこともあるけども。
全く腑に落ちない感じなんだよなー。
なんでだろうなーって、考えた。
てかさ。
そもそも、優しいって、なんだろうね? って話だよな。
欲しいものを与える……ということだろうか。
相手を慮る……ということだろうか。
寄り添う……ということだろうか。
気遣う……ということだろうか。
献身……だろうか。
そんな感じの文脈で使われている気がするんだけど、どうだろか。
と、いうことはだ。
不特定多数に向けられた、優しい言葉——とやらは、優しくないと思うんだよね。
なぜなら。
本なら本の。Webならモニターの。
向こう側にしか、その作者はいない。
誰に届けるとも想定していない、大勢に向けて放った言葉であるからだ。
つまり。特定の個人に、寄り添ってはいないよな。慮ってもいない。気遣ってもいない。献身的でもない。
欲しいものを与えるということには、たまたま合致することもあるかもしれないが。別に、読者個人のことを考えた言葉ではない。
発したその言葉に、何の責任も負わないもの。誠実さの欠片もないものだ。
『ありのままでいいんだよ』
という言葉なんて、ひどいものだ。
そんなこと、あるわけないのに。
社会でそんなことをすれば、煙たがられたり、最悪捕まったりするだろう。全員が『ありのまま』になった社会を想像してみたらいい。弱肉強食の、無法地帯だろうに。ヒャッハーで、ひでぶだぞ。
現に、筆者は昔、チンピラだったのだが。
そんな輩にも、『ありのままでいいんだよ』と、届くんだぞ?
当たり前に、そんなことはなかった。暴言と暴力と軋轢を生んだぞ。
そんなのは例外?
いや、違う。
不特定多数に向けて放った言葉は、誰が受け取るのか分からないんだ。
その言葉を受け取る人間を見もしないで、そんな言葉を放つとか、無責任にも程があるという話なのだ。
いいように解釈できてしまう言葉は、個人間のやり取りと、大勢への言葉と、使い分けるべきだと思うのだ。
ひとは、弱い。
それは、精神を保つ力であれ、理性を保つ力であれ、だ。
こんなものを売るのは、その弱さにつけ込んだ、汚い商売でしかない。
筆者には、そう思えてしかたない。
本当に浸透してしまったら、世の中はどんどん酷くなる恐れすらある。
『南無阿弥陀仏と唱えれば、極楽浄土に逝ける』みたいなことだ。戦乱の歴史だろう。
だからこそ、耳障りがいいだけの言葉の蔓延は、避けたほうがいいと思うのだ。
"優しい言葉"は、一定の効果があるように思えるかもしれないが。
日々に、苦しんでいるそのひとに、まやかしの快感だけを与えているに過ぎない。
耳障りのいい言葉を、心の栄養だと受け取って、翌日には社会で傷付いて……では、不毛だろう。
対処療法的というよりも。むしろ、麻薬のようなものだ。タチが悪い。悪循環だ。
依存性も高いし、効果すら短いからな。魔法の言葉なんかじゃない。麻薬の言葉だ。
もちろん、言論の自由はある。
だからこうして、筆者も自由に述べているわけだが。
麻薬の言葉は、優しい言葉だと世間では思われているようだが。
筆者的には、本当の優しさは、誠実であることの上に立っていると思うのだ。
誠実さとは、誤魔化さないことだ。
現実は、痛い。
それはおそらく、人類史は、ずっとそうだ。
その時代その時代で、どう適応するかが、苦楽に作用すると思う。
その最適解に近いものを提示する。
または、優しさを示したい側が、ここまではする、これは無理。と、きちんと相手に伝える。
こういうことではないだろうか。
カウンセラーとかの技術って、こういう誠実さがあると思う。
でもそれは、対面だから使える技だ。
不特定多数に向けた、一方的な発言は、同じ言葉だったとしても、途端に中身が空洞化してしまう。
そこに相手は、いないのだから。
少なくとも、診察もせずに薬だけ売る医者なんかいないだろう。
全員コレ飲んどきゃ治るぜ! なんていう万能薬なんて、ないだろう。
"優しい言葉"を万能薬として堂々と使う輩は、解ってやっている詐欺師的思考か。言葉への誠実さが足りない、責任感のない人間か。どちらかだろうな。
優しさで、善意で、不特定多数に向けての言葉は、紡がないだろう。思慮に欠けるからな。
本当に、そこに優しさがあるのなら。
ちゃんとひとりひとりに向き合って、ひとりひとりに最適な形で届けなくてはいけないだろ。
言葉は、本来コミュニケーションツールなんだから。
扱いが、軽すぎる。雑すぎる。
傲慢で怠慢で欺瞞でしかない。
ああ、でも。
宗教の勧誘のような側面も、あるのかもしれないな。
善意の悪事。そんなこともあるか。
だが、そうだとしても、相手のことをやはり見ていない。自己都合でしかないな。
……と、まぁこんなことを考えたわけだが。
一言補足しておくと。筆者は"優しさ"を否定しているわけではないのだ。
むしろ、本当の意味で優しくされるのは、大歓迎である。つーか、してくれ。優しくしてくれ。
……まぁ、それはいいか。
それに、商売上——納得出来る優しさも、ちゃんとある。
ちなみに、バファ〇ンではない。
やはり、不特定多数に優しさを届けたいなら、物語形式にするのがベストだろうと思う。
そこには、きちんとした文脈があり、しっかりとした背景や、理由が存在するからだ。
優しい物語を書けるひとは、すげーよな。尊敬に値するよ。
ああいう、道徳心を育てる……というか、心の奥深くの栄養になるものは、素晴らしい。
筆者も、そんな創作物を観たり読んだりしては、涙している。
結構スッキリする。
やはり、能動的に摂取するほうが、効果もありそうだ。
しかしながら。筆者は、そういうものを書くの、結構苦手かもしれない。
そういうシーンのある物語、書いたことあるけど、あんまり人気なかったもんなー。
まぁ、残念ながら、向き不向きはあるけども。
ひとりの物書きとして、読者さんには誠実でいたいなぁと思った次第。
……と、いうわけで。
たまには、かなり真面目に書いてみましたよっと。
まぁ、筆者は社会的弱者なのでね。
弱者から搾り取ろうとする系のビジネスモデルとか、思考誘導系とか、あんまり好きじゃないのよね。
だから、騙されるひとが、ひとりでも減ればいいなーって、思ってね。
それだけの話さー。
さてと。
優しい物語でも見に行くかなー。




