人間
近頃、人間というものを考える機会が、やたらと増えた。
原因を考えるとするなら……創作活動もそうだが、就活の件も大いに関係があるのだろうな。
しかし、どうにも思考の癖というものは、そうそう変わることはないらしい。おそらく他者にしてみれば、心底どうでもいいことばかりを考えているのだろう。
実に滑稽。不毛である……と言わざるを得ない。
だが、そういう性分なのだ。
隠すことは出来ても、消すことは出来ない。変えられない以上、上手く付き合っていくしかないのだ。
だからこそ。このエッセイ集が、やたらと続いてしまったのだろうな。
さて。
話は変わるが。
近年、熊害が問題になっていると思う。
色々なひとが襲われ、被害に遭っているようだ。
街にまでやってくる、丸腰の人間ではとても勝ち目のない生き物。そんなものと対峙するなど、恐ろしい話である。御免こうむりたいものだ。
筆者は、以前働いていたところで、精肉作業をしていたことがある。
その頃、セリ市にも参加したことがあった。
そこは、屠殺場兼市場だった。
セリ終わりの時間、プラットフォームで、トラックに枝肉を積んでもらっていると……。
家畜——生きた牛や豚が、運ばれてくる。畜産農家で、大事に大事に育てられた家畜たちである。専用のトラックの荷台から覗く彼らの瞳は、クリクリと黒目がちで、非常に愛くるしい——可愛らしい感じだった。
自分たちのその後を……想像出来ているのかどうかは分からないが。彼らは暴れるでもなく、大人しく荷台に繋がれていた。そして、順番に降ろされ、歩かされるのだ。その、最期に向かって。
一日ほど経つと。
彼らは天井から、枝肉として吊られることになる。
頭を落とされ、皮を剥がれ、内臓を綺麗に抜かれ、縦半分に割られた姿で……だ。
しっかりと冷却され、冷たく硬くなった、『物体』となり果てた、ソレ。
ガラガラと滑車の音を響かせながら、奥から運ばれてくる。
中身を見やすいその状態は、肉の良し悪しを判断しやすい。
セリの権利を持つ多数の人間たちが、ソレを囲み、まじまじと見詰めながらボタンを押すのだ。
そんな光景を、あなたは知っているだろうか。
それが、人間というものだ。
それが、人間の所業だ。
それが、人間の生業だ。
それが、人間の社会だ。
場当たり的に襲って喰うわけではない。
組織的に、分業をして、薄めるのだ。
薄まった認識は、捨て去るということも、殺すということも、簡単に出来るようにする。
そして。
気軽に、『共存』などと宣うことすら能うのだ。
実に、傲慢である。
それが、人間というものだ。
共存だというなら、喰うか喰われるかの世界だ。それでいいなら、そうしたらいいのだ。そう言い放った者だけでやればいい。
棲み分けをしようなど、現実が見えていないと言わざるを得ない。熊を殺すなというならば、その者が熊の餌になればいいのだ。安全な高みから、気持ちよくご高説を振りかざしても、人間社会には迷惑なだけだ。
殺すことが、悪だというなら。
生きるということは、殺すことだ。
生きているものは、全て悪ということになる。
命を繋ぐことは、悪なのか?
悪を滅ぼそうというなら、生命は全て滅ばなければいけなくなる。
熊は、ただ、飢えているだけだ。そして、栄養価の高い、狩りやすい餌を見付けただけなのだ。
そこに、善悪などという人間の概念が介在する余地などないのだ。
人間は、自分が死なないために工夫をした。
それはやがて、社会となっていった。
人間は、その社会で、人間同士で殺し合いながらも、その数を増やしていった。
『人間同士の殺し合いは、なるべくやめよう』
そんな考え方が、次第に出来上がったからだ。
社会は、安全に生きやすくなった。
『全部自分でやるのは大変だ』
得意不得意から始まったのだろうか。
分業となったことで、社会は複雑化しながら、発展していった。
あまりにもその状態が、自然になったことで、薄まる。忘れる。
そして、時々思い出したかのように、狂ったように叫ぶ者が出る。
生き物を殺すな。肉を喰うな。魚を喰うな……。
死体の上に道を築いて生きている身の上で、好き勝手宣うのだ。
だが。それが、人間というものだ。
そう。
みんな、勝手なのだ。
それが、人間というものなのだ。
だから、『謙虚に生きよう』ということすら。
『感謝を忘れないようにしよう』ということすら。
ただの自己満足であり、勝手なことなのだ。
あなたは、『人間』ですか?
筆者は……そんな『人間』です。




