第7話 もう忘れない
「思い出しましたか」
小春の声は、食卓の空気を静かに裂いた。
大きな声ではない。
責めるような響きでもない。
ただ、最初から答えを知っている人間が、確認のためだけに投げたような声だった。
俺は振り返れなかった。
箸を持つ手が止まっている。口の中には、まだ美月が作った甘い卵焼きの味が残っていた。昔、俺が好きだと言った味。俺が忘れて、彼女が覚えていた味。
そして今、俺の頭の中には、六年前のバス停が鮮明に浮かんでいる。
小春から預かった青いビー玉。
帰ってくる時に返すと約束した、あの小さな宝物。
俺はそれを、どうした?
都会の新しい家へ着いた日、たしか机の引き出しに入れた。
最初の数日は、学校へ行く前に何度も見た。
慣れない制服、知らない教室、聞き慣れない方言のない会話。すべてが落ち着かなくて、そのたびにビー玉を握った。
でも、そのうち見なくなった。
新しい友達ができた。
部活に入った。
中間テストがあった。
スマホを持つようになった。
高校受験が近づいた。
引っ越しの段ボールから出し忘れたまま、どこかの収納に紛れた。
なくしたわけじゃない。
そう言いたかった。
けれど、それを今ここで口にしたところで、何の免罪にもならないことくらいはわかっていた。
なくしていないことと、大切にしていたことは違う。
たぶん、彼女たちはその違いに敏感すぎるほど敏感なのだ。
「……覚えてる」
俺はようやく、それだけ言った。
声が自分でも情けないくらい掠れていた。
小春は、俺の斜め後ろで少しだけ首を傾けた気配を見せた。
「どこにありますか」
逃げ道のない質問だった。
俺は麦茶のグラスを見つめる。透明なガラスの向こうで、氷が溶けかけている。からん、と小さな音が鳴った。その音が、六年前の縁側で聞いた音と重なった。
「……たぶん、実家のどこかにある」
言った瞬間、自分で自分を殴りたくなった。
たぶん。
どこか。
約束の品に使っていい言葉ではなかった。
美月の手が、膝の上でぎゅっと握られるのが見えた。凛花は麦茶のグラスを口元に運んだまま止まっている。小春は、何も言わない。
沈黙が長かった。
夏の居間は明るい。
窓の外では、庭の朝顔が風に揺れている。
台所からは美月の母親が食器を片づける音がする。
どこにでもある田舎の午後だ。
なのに俺は、裁判所の被告席にでも座らされている気分だった。
「そうですか」
小春はようやく言った。
その声は変わらず平坦だった。
だからこそ、余計にきつかった。
「悠真お兄さんにとっては、そういうものだったんですね」
「違う」
反射的に言っていた。
小春がこちらを見る。
俺はようやく振り返った。
茶色い髪。
感情の読めない瞳。
昔より少し大人びた顔。
でも、その奥にいたのは、六年前のバス停でビー玉を差し出してきた小さな女の子だった。
「違うんだ。大事じゃなかったわけじゃない。ただ……」
ただ、なんだ。
忙しかった。
忘れていた。
気まずかった。
帰るタイミングを逃した。
連絡先も知らなかった。
言い訳は山ほどある。
でも、そのどれもが小春の目の前では薄く見えた。
「ただ、俺は……ちゃんと持っていられなかった」
口にした瞬間、胸の奥が沈んだ。
それが一番近い気がした。
ビー玉だけじゃない。
約束も、思い出も、三人の泣き顔も、俺は全部、ちゃんと持っていられなかった。
捨てたわけじゃない。
忘れたかったわけでもない。
でも、持ち続ける努力をしなかった。
それは、待っていた側からすれば、ほとんど同じことなのかもしれない。
小春は俺を見つめたまま、ゆっくり瞬きをした。
「では、これから持っていてください」
「え?」
小春はポケットから何かを取り出した。
それは、小さな巾着だった。
古い布で作られていて、口の部分が何度も結び直された跡で少しほつれている。
小春はその紐を解き、中から一つのビー玉を出した。
青い筋の入った、透明なビー玉。
俺の呼吸が止まった。
「……なんで」
「これは、同じものです」
小春は淡々と言った。
「悠真お兄さんに渡したものと、同じ日に買いました。二つありました。一つは悠真お兄さんに。もう一つは、私が持っていました」
知らなかった。
小春が二つ持っていたなんて、俺は知らなかった。
小春はそのビー玉を、座卓の上に置いた。
ころり、と小さな音を立てて転がり、俺の箸のそばで止まる。
「六年間、持っていました」
その一言は、どんな罵倒より重かった。
俺は青いビー玉を見つめる。
ただのガラス玉だ。
子供の小遣いで買える、安っぽい玩具だ。
なのに今の俺には、拾い上げることすら怖かった。
触れた瞬間、六年分の重さが手のひらに戻ってくる気がした。
凛花が小さく舌打ちした。
「小春、そういう出し方すんの、ずるい」
「ずるいですか」
「ずるいでしょ。そんなの見せられたら、悠真が何も言えなくなるじゃん」
「言わせたいわけではありません」
「じゃあ何よ」
「持たせたいだけです」
小春は俺から目を逸らさない。
「今度は、なくさないように」
背筋が冷えた。
言葉だけなら可愛いものだ。
昔の約束をもう一度やり直したい。そう受け取ることもできる。
けれど、小春の声には甘さがなかった。
それは願いというより、静かな決定に近かった。
美月がそっと俺の袖を掴む。
「悠真兄ちゃん」
「……ん?」
「私も、あるよ」
何が、とは聞けなかった。
美月は席を立ち、居間の棚の引き出しを開けた。そこから小さな箱を取り出してくる。白い箱。リボンがかかっていて、やけに丁寧に保管されている。
美月はその箱を開けた。
中には、色褪せた絆創膏の包み紙が入っていた。
俺は言葉を失った。
「覚えてる? 私が川で転んだ時、悠真兄ちゃんが貼ってくれたやつ」
「……それを、ずっと?」
「うん」
美月は恥ずかしそうに笑った。
普通なら可愛い思い出話だ。
けれど、箱の中で丁寧に保存されたそれは、どこか祈りの道具みたいにも見えた。
「貼ってくれた絆創膏は、はがれちゃったから。包み紙だけ」
美月はそう言って、俺の隣に戻ってくる。
袖を掴む指が、ほんの少し震えていた。
「悠真兄ちゃんがいなくなってから、寂しくなったら見てたの。これを見ると、ちゃんと覚えていられるから」
覚えていられる。
その言葉が、胸に刺さった。
俺は忘れていった。
彼女たちは、忘れないためのものを増やしていった。
凛花が顔を背ける。
「……二人とも重すぎ」
「凛花ちゃんは?」
「ない」
即答だった。
あまりに早すぎて、逆に怪しい。
美月がじっと凛花を見る。
小春も見る。
俺も、つい見てしまう。
凛花はしばらく黙っていたが、やがて観念したように制服のポケットへ手を入れた。
「見るなよ」
「もう見てる」
「悠真、あとで殴る」
凛花が取り出したのは、古びた絆創膏だった。
未使用品ではない。
台紙に貼り直され、透明な袋に入れられている。
俺はそれに見覚えがあった。
六年前、川で転んだ凛花の膝に貼ったもの。
「……まさか」
「違うから」
「いや、まだ何も言ってない」
「これは、その、偶然残ってただけ」
「偶然、六年間?」
「うるさい」
凛花は耳まで赤くしていた。
けれど、その手は絆創膏を離さなかった。
俺は笑えばよかったのかもしれない。
ラブコメなら、ここは照れ隠しにツッコミを入れて、凛花が怒って、場を明るくする場面だ。
でも、笑えなかった。
三人が差し出してきたものは、どれも小さかった。
ビー玉。
包み紙。
絆創膏。
子供の宝物としても、安っぽいものばかりだ。
けれど、それを六年間持ち続けた時間だけが、どうしようもなく重かった。
俺の知らない夏が、そこに詰まっていた。
俺がいない町で、三人がそれぞれ何を思っていたのか。
どれだけ待って、どれだけ諦めて、どれだけ諦めきれなかったのか。
その全部を想像することはできない。
でも、想像しようとしただけで息が苦しくなった。
「……ごめん」
また、その言葉しか出てこなかった。
凛花が小さく眉を寄せる。
「さっきから、そればっか」
「だよな」
「謝ってほしかったわけじゃないし」
凛花は絆創膏を握りしめたまま、ぼそりと言った。
「帰ってきてほしかっただけだし」
美月が俺の袖を掴む力を強める。
小春が座卓の上のビー玉を、俺の方へ少し押した。
俺はその青いビー玉を、ゆっくり手に取った。
冷たかった。
六年前、小春に渡された時と同じように。
「今度は、ちゃんと持ってる」
俺がそう言うと、小春は初めて、ほんの少しだけ表情を緩めた。
美月は安心したように息を吐いた。
凛花はそっぽを向いた。
その瞬間だけなら、きっと綺麗な再会だった。
過去の約束を、もう一度結び直す場面だった。
けれど俺は、手の中のビー玉を握りしめながら、どうしても考えてしまう。
俺はまた、夏が終わればこの町を出ていく。
大学がある。
生活がある。
戻らなければならない場所がある。
今ここで「ちゃんと持ってる」と言った俺は、また何かを約束したのではないか。
そしてその約束は、今度こそ俺一人の軽い言葉では済まないのではないか。
「悠真兄ちゃん」
美月が、隣で静かに笑った。
「もう、なくさないでね」
その言葉はビー玉のことを言っているようで、そうではない気がした。
俺は頷いた。
頷くしかなかった。
窓の外では、夏の日差しが少し傾き始めている。
明るい居間の中で、俺たちは古い宝物を囲んで座っていた。
小さなビー玉が、俺の手の中でじっと冷えている。
その冷たさは、六年前に置いていったものが、まだ完全には死んでいなかった証拠みたいだった。
そして同時に。
今度こそ間違えたら、もう二度と取り返しがつかないという警告にも思えた。
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