第6話 別れの過去
甘い卵焼きを噛みしめているうちに、俺はふと、六年前のことを思い出していた。
正確には、思い出したくなかったものが、勝手に浮かんできた。
引っ越しが決まった日のことだ。
その日も、馬鹿みたいに暑かった。
夏休みの終わりが近づいていて、宿題を放置していた俺は、じいちゃんの家の縁側で読書感想文と格闘していた。読んでもいない本の感想をどう書くかという、人類が古来より抱える難題に挑んでいたわけである。
その横で、ばあちゃんが麦茶を置いた。
氷がからん、と鳴った。
今でも覚えている。
その音が妙に涼しくて、なのに次の瞬間、世界が一気に暑苦しくなったことを。
「悠真。ちょっと話がある」
親父の声だった。
普段、親父はあまり改まった言い方をしない人だった。仕事から帰ってきても「飯あるか」くらいしか言わない。そんな親父が、わざわざ俺の前に正座した。
その時点で、嫌な予感はあった。
けれど中一の俺は、まだどこかで楽観していた。どうせ小遣いを減らすとか、二学期から塾に通えとか、その程度の話だろうと思っていた。
「来月、引っ越すことになった」
言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
引っ越す。
誰が。
どこへ。
何のために。
俺が聞き返す前に、母さんが説明した。親父の仕事の都合。急な異動。新しい勤務先は遠い都会で、ここから通うことはできない。家族で一緒に行く。学校も転校になる。
説明は理屈としてはわかった。
でも、納得とは別物だった。
「……俺も?」
それだけ聞いた。
親父は少し目を伏せた。
「ああ」
それで終わりだった。
俺は怒ればよかったのかもしれない。嫌だと泣けばよかったのかもしれない。どうして俺に相談しなかったんだと、机を叩いてもよかったのかもしれない。
けれど、できなかった。
親父も母さんも、すでに疲れた顔をしていた。大人たちは、大人の事情とやらで何度も話し合って、悩んで、決めて、その結果だけを俺に渡してきたのだろう。
そこに俺の気持ちを差し込む隙間は、もうほとんど残っていなかった。
だから俺は、格好つけた。
「ふーん」
それだけ言って、麦茶を飲んだ。
氷はもう半分溶けていた。
味が薄かった。
それから数日は、町の景色がやけに鮮明に見えた。
通学路の曲がり角。
神社の石段の欠けたところ。
川の浅瀬に沈んでいる平たい石。
近所の商店の古い看板。
夕方になると匂ってくる誰かの家のカレー。
全部、当たり前だった。
当たり前だったものが、急に期限付きになると、人間は案外まともに見られなくなるらしい。
俺は三人に言えなかった。
美月にも、凛花にも、小春にも。
言わなきゃいけないのはわかっていた。
でも、言えば終わってしまう気がした。
美月はきっと泣く。
凛花はきっと怒る。
小春は何も言わず、ただ俺を見る。
それが簡単に想像できてしまったから、俺は逃げた。
夏休みの最後の一週間、俺はいつも通り三人と遊んだ。
川へ行った。
神社へ行った。
秘密基地の缶に、ビー玉を入れた。
美月が転びそうになって、俺が手を引いた。
凛花が木に登って、降りられなくなった。
小春がいつの間にか背後にいて、俺のシャツの裾をつまんだ。
全部、いつも通りだった。
いつも通りのふりをしていた。
その間ずっと、俺の腹の底には重い石みたいなものが沈んでいた。
こいつらは明日も来ると思っている。
来年も一緒に遊べると思っている。
俺がどこにも行かないと思っている。
そう思うたびに、胸の奥が少しずつ削れた。
それでも言えなかった。
俺は兄貴分のくせに、三人の泣き顔を見る覚悟すらなかったのだ。
別れを告げたのは、引っ越しの三日前だった。
場所は神社の楠の下。
その日も、三人はいつものように集まっていた。美月は虫取り網を持っていて、凛花はどこで拾ったのかわからない木の棒を振り回していて、小春は缶の中の宝物を並べ直していた。
俺は楠の根元に立ったまま、なかなか口を開けなかった。
蝉の声がうるさかった。
うるさすぎて、俺の声なんて全部かき消してくれればいいのにと思った。
「悠真兄ちゃん?」
最初に気づいたのは美月だった。
俺が変な顔をしていたのだろう。
美月は不安そうに近づいてきて、俺の服の裾を掴んだ。
「どうしたの?」
その小さな手を見て、余計に言えなくなりそうだった。
でも、もう逃げられなかった。
「俺、引っ越すことになった」
言った瞬間、世界が止まった気がした。
凛花の木の棒が地面に落ちた。
小春の手からビー玉が一つ転がった。
美月は、何を言われたのかわからないみたいに瞬きをした。
「……どこに?」
「遠いところ」
「いつ帰ってくるの?」
「わからない」
「明日は?」
「明日はいる」
「あさっては?」
「いる」
「その次は?」
俺は答えられなかった。
美月の顔が、ゆっくり歪んだ。
それは泣き顔になる直前の顔だった。俺が一番見慣れていて、一番見たくなかった顔だった。
「やだ」
美月は小さく言った。
「やだ。悠真兄ちゃん、行っちゃやだ」
服の裾を掴む力が強くなる。
俺は困ったように笑おうとした。大丈夫だと言おうとした。けれど何が大丈夫なのか、自分でもわからなかった。
凛花が俺の胸を叩いた。
小さな拳だった。
痛くなかった。
でも、痛かった。
「なんで今言うのよ!」
凛花は泣いていないふりをしていた。
声が震えていた。
「もっと前から決まってたんでしょ!? なんで言わなかったのよ! ばか! 悠真のばか!」
「ごめん」
「ごめんじゃない!」
凛花はもう一度、俺を叩いた。
それから、自分の手を握りしめた。
悔しそうだった。
怒っているのに、泣くのを我慢しているせいで、顔がぐしゃぐしゃになっていた。
小春は何も言わなかった。
それが一番きつかった。
彼女は転がったビー玉を拾い上げて、泥を指で拭った。それから俺の前まで来て、じっと見上げた。
「約束は」
小春の声は小さかった。
「約束は、どうなりますか」
俺は息を詰まらせた。
――俺はどこにも行かないから。
少し前に、俺が言った言葉だ。
あの時は本気だった。
本気だったけれど、守れるかどうかなんて考えていなかった。
子供の約束だった。
でも、小春の目はそう受け取っていなかった。
俺は初めて、自分の言葉が自分のものだけではなくなる瞬間を知った。
「……ごめん」
また、それしか言えなかった。
小春は瞬きをした。
一度だけ。
それから、いつもの無表情に戻った。
「わかりました」
その声があまりに静かで、俺はかえって怖くなった。
美月は泣いた。
凛花は怒った。
小春は黙った。
俺は全部に負けた。
引っ越し当日。
朝から家の前には段ボールと荷物が並んでいた。大人たちが忙しそうに動き、トラックの荷台に家具が積み込まれていく。俺の部屋も空っぽになった。机も、本棚も、壁に貼っていたカレンダーもなくなって、そこはもう俺の部屋ではなくなっていた。
最後に町を出るため、駅前のバス停へ向かった。
俺は三人が来ないかもしれないと思っていた。
怒っているなら、それでいい。
泣き顔を見なくて済むなら、その方が楽だ。
そんな最低なことを考えていた。
けれど、三人はいた。
バス停の前に、三人並んで立っていた。
美月は目を真っ赤にしていた。
凛花は腕を組んで、俺を睨んでいた。
小春は両手で、あの青いビー玉を握っていた。
俺は何を言えばいいのかわからなかった。
「悠真兄ちゃん」
美月が最初に走ってきた。
そして俺の服にしがみついた。
「行っちゃやだ」
何度も聞いた言葉だった。
でも、その日はいつもと違った。
俺が「行かない」と言えない日だった。
「ごめんな」
俺は美月の頭を撫でた。
美月は首を振った。
「ごめんじゃやだ」
「……うん」
「約束して」
「何を?」
「帰ってくるって」
俺はすぐには頷けなかった。
帰ってこられるかなんて、わからなかったからだ。
でも、美月の手は震えていた。
それを見て、俺はまた格好つけた。
たぶん、この瞬間の俺は、優しさと逃げを履き違えていた。
「帰ってくるよ」
美月の手が止まった。
「ほんと?」
「ああ」
「絶対?」
「絶対」
凛花が歯を食いしばった。
「嘘だったら、許さないから」
「嘘じゃない」
「六年後でも、十年後でも、忘れてたら許さないから」
「そんなに先の話かよ」
「笑うな!」
凛花は俺を睨んでいた。
でも涙が落ちた。
それを見られたくなかったのか、彼女は乱暴に目元を拭った。
「帰ってきたら、あたしの言うこと何でも聞きなさいよ」
「なんでだよ」
「罰よ。先払い」
「まだ何もしてないだろ」
「これからするでしょ」
凛花の声が震えた。
「いなくなるんだから」
俺は言葉を失った。
小春が一歩、前に出た。
彼女は青いビー玉を俺に差し出した。
「持っていてください」
「いいのか?」
「はい」
「小春の宝物だろ」
「だからです」
小春は俺の手のひらにビー玉を置いた。
小さくて、冷たくて、軽いはずなのに、やけに重かった。
「帰ってくる時、返してください」
「わかった」
「必ず」
「ああ。必ず」
その約束も、俺は軽く受け取っていた。
いや、軽くはなかった。
その時は本気だった。
ただ、本気で言うことと、守り抜くことが別物だと知らなかった。
バスが来た。
排気音が、蝉の声をかき消した。
母さんが俺を呼ぶ。
親父が荷物を持ち直す。
大人たちにとっては、ただの移動だったのかもしれない。
けれど俺たちにとっては、世界がそこで二つに割れる音だった。
俺は最後に、三人の頭を順番に撫でた。
美月は泣きながら俺の手に頬を押しつけた。
凛花は「子供扱いすんな」と言いながら、逃げなかった。
小春は目を閉じて、撫でられる時間を数えているみたいにじっとしていた。
「またいつか帰ってくるよ。だから、それまでいい子でいるんだぞ」
俺はそう言った。
今思えば、最低の言葉だった。
俺が帰ってくるかどうかもわからないまま、待つ側にだけ時間を押しつける言葉だった。
けれど当時の俺は、別れを綺麗に終わらせるための言葉だと思っていた。
バスに乗る。
窓際の席に座る。
三人が見える。
美月が泣きながら手を振っている。
凛花が泣くのをこらえながら何か叫んでいる。
小春は動かず、ただこちらを見ている。
バスが動き出した。
町がゆっくり後ろへ流れていく。
三人の姿が小さくなる。
美月が走り出した。
凛花も走った。
小春も、少し遅れて走った。
俺は窓に手を当てた。
声は届かなかった。
それでも、美月の口が何度も同じ形を作っているのが見えた。
――忘れないで。
俺は頷いた。
頷いたつもりだった。
けれど、そのうち道が曲がり、三人の姿は見えなくなった。
見えなくなった瞬間、俺はようやく泣いた。
声を殺して、顔を窓に向けたまま。
親父も母さんも、何も言わなかった。
バスは町を出ていく。
田んぼが遠ざかる。
川が遠ざかる。
神社が遠ざかる。
俺の知っている夏が、全部後ろへ流れていく。
その手の中には、小春から預かった青いビー玉があった。
ぎゅっと握りしめすぎて、手のひらが痛かった。
俺はその痛みだけは、ずっと忘れないと思っていた。
なのに。
都会へ着いて、新しい学校に通って、新しい友達ができて、新しい毎日が始まると、痛みは少しずつ薄れていった。
忘れたわけじゃない。
そう言い訳できるくらいには、ちゃんと覚えていた。
でも、毎日思い出すことはなくなった。
夏が来ても、すぐには帰れなかった。
受験があった。
部活があった。
予定があった。
なんとなく気まずかった。
理由はいくらでもあった。
そして六年が経った。
俺は今、美月の家の居間で、甘い卵焼きを飲み込めずにいる。
目の前には、美月がいる。
向かいには凛花がいる。
斜め後ろには小春がいる。
三人とも、あの日のガキンチョではなくなっていた。
けれど、あの日の約束だけは、子供のまま錆びずに残っていた。
俺だけが、少しずつ大人になったふりをして、忘れることに慣れてしまっていた。
手のひらが、ふいに痛んだ気がした。
青いビー玉は、今どこにあるのだろう。
そのことを思い出した瞬間、俺は箸を止めた。
小春が、斜め後ろから静かに言った。
「思い出しましたか」
俺は振り返れなかった。
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