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第11話 新婚夫婦かよ

 翌朝。


 俺は、妙な胸騒ぎとともに目を覚ました。


 障子越しに差し込む朝の光は、都会のカーテン越しのそれとは違って、やけに白く、やけに容赦がない。畳の匂い、遠くで鳴く鳥の声、台所から聞こえるばあちゃんの包丁の音。昔なら当たり前だった朝の気配が、六年ぶりの身体には少しだけ懐かしく、少しだけ痛かった。


 昨日一日で、俺の帰省はただの帰省ではなくなった。


 六年前に別れた近所のガキンチョたちは、揃いも揃って美少女になっていた。しかも、ただ美少女になっていただけではない。俺の記憶よりずっと重く、甘く、近い感情を抱えたまま、六年間この町で俺を待っていた。


 美月は、俺の好きだった味を覚えていた。

 凛花は、昔貼った絆創膏を残していた。

 小春は、ビー玉を六年間持っていた。


 そして俺は、昨日その全部を受け取ってしまった。


 首元に手をやる。


 そこには、小春が作った巾着があった。中には青いビー玉が入っている。寝る時に外そうか迷ったが、なんとなく外せなかった。外した瞬間、また何かを置き去りにする気がしたからだ。


 こつん、と指先に小さな硬さが当たる。


 たったそれだけで、昨日の三人の顔が浮かんだ。


 美月の柔らかい笑顔。

 凛花の真っ赤な耳。

 小春の至近距離で揺れた瞳。


 ……思い出すな。


 特に草むらの件は思い出すな。


 朝から男子大学生の精神衛生によくない。


 俺は布団の上で一人、深く息を吐いた。


 昨日は事故だった。


 美月を抱きとめたのも、凛花が倒れ込んできたのも、小春と額が当たったのも、全部ただの事故である。偶然であり、不可抗力であり、俺の意思は一切関係ない。


 関係ないはずなのに、なぜ俺の脳内は昨夜から延々と再生しているのか。


 人間の記憶機能は、もっと社会的に安全な方向へ進化するべきだったと思う。


「悠真ー、起きとるかー」


 廊下の向こうから、ばあちゃんの声がした。


「起きてる」


「朝ごはんできとるよ」


「今行く」


 俺は布団を畳み、顔を洗うために廊下へ出た。


 古い家の床板が、ぎし、と鳴る。この音も懐かしい。子供の頃は、この床を走ってばあちゃんに怒られた。今でも走れば怒られるのだろうか。試す勇気はない。


 洗面所で顔を洗うと、鏡の中の自分と目が合った。


 寝癖がひどい。


 都会の一人暮らしでは誰に見られるわけでもないので、朝の自分などどうでもよかった。だが、今は違う。昨日の流れからして、いつどこで三人に遭遇するかわからない。


 いや、さすがに朝から来ることはないだろう。


 いくらなんでも早すぎる。


 そう思った瞬間だった。


 ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。


 俺は鏡の前で固まった。


 早い。


 早すぎる。


 まだ朝飯前だぞ。


 宅配便かもしれない。近所の人かもしれない。じいちゃんの畑仲間かもしれない。そう自分に言い聞かせたが、心のどこかでもう答えはわかっていた。


 玄関の方で、ばあちゃんの明るい声がする。


「あらまあ、朝から可愛い子たちが三人も」


 確定した。


 俺は頭を抱えた。


 なぜ朝から三人セットで来る。


 学校か。

 遠足か。

 それとも俺の監視ローテーションでも組まれているのか。


「悠真くん、迎えが来とるよー」


「迎えって何!?」


 俺は慌てて寝癖を手で押さえ、適当に髪を整えて玄関へ向かった。


 そこで見た光景は、ある意味で昨日以上に破壊力があった。


 美月は、淡い水色のワンピースを着ていた。昨日の白より少しだけ涼しげで、朝の光の中に立つと本当に絵みたいだった。両手には小さな包みを持っている。


 凛花は、Tシャツにショートパンツという動きやすい格好だった。健康的な足が眩しい。昔なら何とも思わなかったはずの格好なのに、今の凛花が着ると視線の置き場に困る。


 小春は、薄いカーディガンにスカート。茶色い髪はいつもより少しだけ丁寧に整えられていて、手には布製の小さな袋を持っていた。


 三人とも、明らかに昨日とは違う服だった。


 つまり、気合いが入っている。


 俺は寝癖を押さえた自分の姿を思い出して、今すぐ引っ込みたくなった。


「悠真兄ちゃん、おはよう」


 美月がにこりと笑う。


「お、おはよう」


「寝癖、かわいいね」


「かわいいと言われても困る」


「昔も、朝はよく跳ねてたよね」


「その情報は忘れてよかったんだぞ」


 美月は嬉しそうに目を細める。


 その視線が、俺の寝癖すら宝物みたいに見ている気がして、妙に落ち着かない。


 凛花は腕を組んで、俺を上から下まで見た。


「だらしない顔」


「朝だからな」


「昨日あれだけ女の子に囲まれたんだから、もう少ししゃきっとしなさいよ」


「昨日の件を朝から掘り返すな」


「べ、別に意識してるわけじゃないし」


「俺は何も言ってない」


「うるさい」


 凛花はぷいっと顔を逸らした。


 だが、耳が少し赤い。


 朝からツンデレの供給があるとは思わなかった。栄養価が高すぎて胃もたれする。


 小春は俺の首元をじっと見ていた。


「装着確認」


「お前は警備員か」


「ビー玉、外していませんね」


「ああ。まあ……なんとなく」


 俺がそう答えると、小春はほんの少しだけ表情を緩めた。


 その変化は本当に小さい。けれど、昨日よりはわかる。


 小春が喜んでいる。


 そう気づいた瞬間、胸の奥が少し温かくなった。


 美月が手に持っていた包みを差し出してくる。


「これ、お弁当」


「弁当?」


「悠真兄ちゃんの分」


「朝から?」


「うん。今日は一日、町を案内するから」


 さらっと恐ろしいことを言った。


 一日。


 俺の予定が、俺の知らないところで完全に押さえられている。


「いや、俺にも一応予定というものが」


「あるの?」


「……ないけど」


「じゃあ大丈夫だね」


 美月は微笑んだ。


 論理的に逃げ道を塞がれた。


 凛花が得意げに笑う。


「今日は川の方まで行くわよ。昨日は商店街だけだったし」


「川か」


 その言葉に、少しだけ胸が揺れた。


 川。


 昔、毎日のように遊んだ場所だ。


 美月が虫を怖がり、凛花が魚を捕まえようとして転び、小春が川岸で俺を見ていた場所。


 懐かしい。


 同時に、少し怖い。


 あの場所には、俺が置いていったものがまだ残っている気がした。


 小春が手に持っていた袋を掲げる。


「タオル、絆創膏、虫除け、予備の巾着を持ってきました」


「準備が万全すぎる」


「昨日、転倒事故がありましたので」


「蒸し返すな」


「再発防止は重要です」


 凛花が小春を見る。


「小春、あんた予備の巾着って何」


「悠真お兄さんが一つなくした場合に備えています」


「失くさねぇよ」


「実績があります」


「またそれか!」


 俺の信用は六年前に破産しているらしい。


 ばあちゃんは玄関先で、にこにこしながらそのやり取りを見ていた。


「悠真くん、朝ごはん食べてから行きなさいね」


「そりゃそうするけど」


「あんたたちも食べていくかい?」


 その一言で、三人の目が光った。


 俺は嫌な予感がした。


「いいんですか?」


 美月が即座に反応する。


「もちろんよ。若い子が多い方が賑やかでいいからねぇ」


「ちょっと待て、ばあちゃん」


「何ね」


「俺の朝飯では?」


「みんなで食べた方がおいしいでしょう」


 正論だ。


 正論なのだが、俺の精神的準備が追いつかない。


 しかし、ばあちゃんはすでに三人を家に上げる気満々だった。美月は嬉しそうに靴を脱ぎ、凛花は少し照れくさそうに「お邪魔します」と言い、小春は無言でぺこりと頭を下げる。


 昨日とは逆だ。


 今度は俺の家に三人が入ってきた。


 それだけなのに、なぜか妙に落ち着かない。


 居間へ向かう途中、美月が廊下を見回して懐かしそうに微笑んだ。


「変わってないね」


「まあ、古い家だからな」


「悠真兄ちゃんの部屋も?」


「部屋は見るな」


「まだ何も言ってないよ?」


「顔に書いてある」


 美月はくすくす笑う。


 凛花も廊下の柱に触れながら、少しだけ目を細めていた。


「ここで悠真、昔よく転んでたよね」


「俺そんなに転んでたか?」


「転んでた。あと、あたしたちに追いかけられて逃げてた」


「何をしたら追いかけられるんだよ」


「美月を泣かせた」


「心当たりが多すぎる」


 小春は廊下の途中で立ち止まり、二階へ続く階段を見上げていた。


 俺の部屋は二階だ。


 嫌な予感しかしない。


「小春」


「はい」


「上には行くなよ」


「まだ何もしていません」


「する前の顔をしてる」


「顔に出ない方です」


「出てる」


 小春は少しだけ不満そうに瞬きをした。


 可愛い。


 いや、可愛いと思っている場合ではない。


 俺の部屋には、都会から持ってきた荷物もある。昨日脱ぎ散らかした服もある。下手をすれば、男子大学生として非常に見られたくないものもある。


 絶対に入れてはいけない。


 居間に入ると、朝食が並んでいた。


 炊きたてのご飯、味噌汁、焼き鮭、漬物、卵焼き。


 昨日、美月の家で食べた甘い卵焼きとは違う、ばあちゃんの少ししょっぱい卵焼きだ。


 三人が座る。


 またしても、俺は真ん中に配置された。


 右に美月。

 左に凛花。

 斜め後ろ気味に小春。


 なぜ毎回この布陣になるのか。


 戦国武将でもここまで陣形にこだわらないと思う。


「悠真兄ちゃん、ご飯よそうね」


「自分でやる」


「やりたいの」


 美月は俺の茶碗を取り、丁寧にご飯をよそった。


 量がちょうどいい。


 昔の俺なら大盛りだったが、今の俺にはこれくらいがちょうどいい。六年ぶりなのに、なぜわかる。


「多かったら言ってね」


「いや、ちょうどいい」


「よかった」


 美月はそれだけで嬉しそうに笑った。


 凛花は味噌汁を俺の前に置いた。


「ほら」


「ありがとう」


「べ、別に。近かっただけだし」


「まだ何も言ってない」


「うるさい」


 小春は箸を俺の方へ向けて揃えた。


「角度を調整しました」


「箸の角度?」


「食べやすい位置です」


「そこまで世話されると逆に緊張する」


「慣れてください」


「慣れたら終わりな気がする」


 三人に囲まれて食べる朝飯は、妙に落ち着かなかった。


 けれど、不思議と悪くはなかった。


 ばあちゃんは台所から俺たちを眺めて、楽しそうに笑っている。じいちゃんは新聞を読みながら、時々こちらをちらりと見るだけだ。たぶん、何か言いたいのを我慢している。いや、頼むから我慢してくれ。


 味噌汁を飲む。


 懐かしい味がした。


 その瞬間、右隣の美月がそっと俺を見る。


「おいしい?」


「うまい」


「私も、悠真兄ちゃんに毎朝お味噌汁作れるようになりたいな」


 凛花が味噌汁を吹きそうになった。


 俺も危なかった。


「美月、朝から発言が重い」


「普通だよ?」


「普通の朝食会話ではない」


「じゃあ、凛花ちゃんは作りたくないの?」


「つ、作れるし!」


「作れるんだ」


「練習したから!」


 凛花は言ってから、自分で墓穴を掘ったことに気づいたらしい。


 顔が赤くなる。


「誰のために?」


 美月がにこにこしながら追撃する。


「じ、自分のためよ!」


「悠真兄ちゃん、凛花ちゃんの卵焼きも食べたい?」


「そこで俺に振るな」


 小春が静かに手を上げた。


「私は、おにぎりを練習しました」


「小春も参戦するのか」


「鮭、梅、昆布、悠真お兄さん用です」


「最後だけ具材じゃない」


「中身は愛情です」


 ばあちゃんが台所で「あらまあ」と笑った。


 じいちゃんが新聞の向こうでむせた。


 俺は味噌汁を置いた。


 朝から糖度が高すぎる。


 昨日の桃ジュースどころではない。


 この家の朝食が、いつの間にか将来の新婚生活プレゼン会場みたいになっている。


 美月は柔らかく笑い、凛花は照れ隠しで怒り、小春は真顔で甘い言葉を落としてくる。


 俺は思った。


 昨日で少し慣れたつもりだった。


 だが、甘かった。


 この三人は、日をまたぐとリセットされるどころか、むしろ攻勢を強めてくるタイプだった。


 朝食を食べ終える頃には、俺の精神はすでに一日分の消耗を終えていた。


 しかし、今日の本番はこれかららしい。


 美月は弁当を大事そうに抱え、凛花は玄関で靴紐を結び直し、小春は俺の首元の巾着を再確認する。


「今日は、川だよ」


 美月が微笑む。


「昨日みたいに転ばないでよね」


 凛花がからかう。


「転倒時は私が記録します」


 小春が真顔で告げる。


「助けろ」


 三人が笑った。


 俺も、ため息混じりに笑う。


 玄関を出ると、朝の光がまぶしかった。


 田んぼの向こうから、川の音が微かに聞こえる。


 六年前、俺たちが毎日のように遊んだ場所。


 俺が置いていった夏の続きが、そこにある気がした。


 右には美月。

 左には凛花。

 半歩後ろには小春。


 昨日と同じようで、昨日より少し近い距離。


 俺は首元のビー玉を指で押さえながら、歩き出した。


 どうやら二日目も、平穏とは無縁らしい。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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