第10話 三人の六年分の想い
公園を出る頃には、夏の日差しが少しだけ柔らかくなっていた。
とはいえ、暑いものは暑い。
アスファルトから立ち上る熱気は、足元にまとわりつくようだった。遠くの田んぼは青々としていて、風が吹くたびに稲が波みたいに揺れる。空はまだ高く、雲は白く、蝉は遠慮という概念を知らない。
六年前の俺なら、こんな暑さでも平気で走り回っていた。
川へ行こうぜ、山へ行こうぜ、秘密基地を改造しようぜ。
そう言って、三人を引き連れて町中を歩き回っていた。
だが、今の俺は大学生である。
都会のエアコンに甘やかされた身体は、田舎の夏に対してあまりにも脆弱だった。何が故郷だ。故郷の気候に負けている時点で、俺の帰属意識はかなり怪しい。
「悠真兄ちゃん、大丈夫?」
隣を歩く美月が、俺の顔を覗き込んできた。
白いワンピースの袖口から伸びる腕が、夏の日差しを受けて眩しい。汗ひとつかいていないように見えるのが不思議だった。いや、よく見ると首筋にうっすら汗が滲んでいる。黒髪が少しだけ頬に張りついていて、それが妙に色っぽい。
俺は慌てて視線を前に戻した。
「平気。ちょっと暑いだけ」
「顔、赤いよ?」
「夏だからな」
「さっきからそればっかり」
美月はくすっと笑う。
その笑い方がまた甘い。
昔の美月は、笑う時も泣く時も全力だった。今の美月は、静かに笑う。けれど、その静けさの中に、こっちの心臓を直接撫でてくるような柔らかさがある。
六年間というのは恐ろしい。
泣き虫のガキンチョを、こうも男子大学生の情緒を破壊する存在へ変えるのだから。
「休憩する?」
美月が言う。
すぐに凛花が反応した。
「休憩なら、あそこの自販機でいいでしょ」
彼女が指差した先には、古びた自販機があった。
昔からある自販機だ。神社へ向かう道の途中にぽつんと立っていて、夏場は俺たちの命綱みたいな存在だった。凛花はよくそこで炭酸を買い、一口飲んで盛大にむせていた。美月はいつも桃のジュースを選び、小春はなぜか毎回お茶だった。
その記憶が蘇った瞬間、俺は少しだけ笑った。
「懐かしいな。まだあるのか、あれ」
「あるわよ。悠真がいない間も、ずっとね」
凛花の何気ない一言に、俺の笑みが少し止まる。
ずっと。
この町には、その言葉が多い。
ずっと残っていた自販機。
ずっと残っていた秘密基地。
ずっと残っていた約束。
ずっと待っていた三人。
俺にとっての六年は、流れて過ぎた時間だった。
でも、この町の六年は、何かを残し続ける時間だったのかもしれない。
そんなことを考えかけた時、美月が俺の手を引いた。
「悠真兄ちゃん、早く行こ?」
その手の温度に、重くなりかけた思考が少しだけ引き戻される。
俺は頷き、自販機へ向かった。
※ ※ ※
問題は、自販機まであと数歩というところで起きた。
道の端に、農業用の細い水路がある。
昔からそこにあった水路だ。幅は狭く、深さも大したことはない。子供の頃は、その水路を飛び越えて遊んでいた。凛花が毎回「余裕!」と言って飛び、たまに失敗して片足を突っ込む。美月は怖がって俺の手を握り、小春はなぜか無音で軽々と越えていた。
今なら普通にまたげる。
そう思ったのが、まずかった。
美月が右手を握り、凛花が左側から俺の袖を掴み、小春が背後を歩いている。
この状態で、俺は何も考えずに水路をまたごうとした。
その瞬間、首から下げた小春特製の巾着が揺れた。
中のビー玉が胸元でこつんと跳ねる。
俺は反射的にそれを押さえようとした。
結果、重心がずれた。
「うおっ」
足元が滑った。
水路に落ちる、と判断するより早く、美月が俺の手を強く引いた。凛花も袖を掴んで引き戻そうとする。背後から小春が無言で俺の背中を押した。
三方向から力が加わった。
普通なら助かる。
だが、三人の息が合いすぎたせいで、俺の身体は不自然な角度で回転した。
そして次の瞬間。
俺は美月を巻き込む形で、道端の草むらへ倒れ込んでいた。
柔らかい感触が、胸元にあった。
腕の中に、甘い匂いがした。
黒髪が頬をくすぐった。
目を開ける。
至近距離に、美月の顔があった。
俺は美月を抱きしめるような形で倒れていた。
というか、抱きしめていた。
美月の身体は俺の腕の中にすっぽり収まっていて、彼女の頬は俺の胸元に触れている。白いワンピースの布越しに、彼女の体温が伝わってくる。細い肩。柔らかい髪。微かに震える吐息。
頭が真っ白になった。
昔なら、美月を抱きとめることなんて何度もあった。
川で転びそうになった時。
坂道でつまずいた時。
泣きながら走ってきた時。
俺は当然のように彼女を受け止めていた。
でも、今は違う。
腕の中にいるのは、小さなガキンチョではない。
六年分成長して、俺の知らない表情を覚えて、俺に「好き」を隠そうともしない美少女だ。
「……悠真兄ちゃん」
美月が、小さく俺の名前を呼んだ。
その声が、耳の近くで甘く震えた。
「大丈夫か!?」
俺は慌てて身体を起こそうとした。
だが、美月は俺の服を掴んだまま動かない。
「美月?」
「もう少し」
「何が?」
「もう少しだけ、このまま」
俺の心臓が嫌な音を立てた。
美月は顔を伏せている。
だから表情は見えない。
けれど、耳が赤い。
白い首筋まで、うっすら染まっている。
それを見て、俺はさらに動けなくなった。
いや、動け。
ここで動けないのはまずい。
道端だぞ。
田舎とはいえ、誰か通るかもしれない。
通ったら終わりだ。
六年ぶりに帰省した大学生が、幼なじみの美少女を草むらで抱きしめている絵面になる。言い訳の余地はほとんどない。俺の社会的信用が、夏の陽炎みたいに消える。
それでも、美月の細い指が俺のシャツを握っているのを見ると、強く引き剥がせなかった。
その指先が、あまりにも必死だったからだ。
「……悠真兄ちゃんの匂い、する」
「待て待て待て」
「昔と、少し違う」
「感想を述べるな」
「でも、安心する」
美月はそう言って、ほんの少しだけ俺に身を寄せた。
甘い。
甘いを通り越して、危険だ。
砂糖水に沈められている気分だった。
その瞬間、横から殺気が飛んできた。
「美月」
凛花だった。
声が低い。
俺は首だけ動かして見る。
凛花は腕を組んで立っていた。顔は赤い。怒っているのか、照れているのか、羨ましいのか、自分でも整理できていないような顔だ。
「いつまで悠真に乗ってるの」
「乗ってないよ。抱きとめてもらってるだけ」
「同じようなもんでしょ!」
「凛花ちゃんも転べば?」
「転ばないわよ!」
そう言った凛花が、一歩踏み出した。
その足元に、さっき俺が滑った草があった。
「あ」
俺が声を出すより早く、凛花の身体がぐらりと傾いた。
反射的に俺は片手を伸ばした。
美月を抱えたまま、凛花の腕を掴む。
引っ張る。
結果。
凛花も倒れ込んできた。
「きゃっ!?」
珍しく可愛い悲鳴だった。
次の瞬間、凛花の額が俺の肩にぶつかり、彼女の身体が俺の左側に重なる。
つまり、右に美月、左に凛花。
俺は草むらで美少女二人に挟まれる形になった。
何だこれ。
事故現場か。
いや、事故現場だ。
ただし、被害者は俺の理性である。
凛花は一瞬固まったあと、ものすごい勢いで顔を上げた。
「ち、違うから!」
「俺はまだ何も言ってない」
「あたしは別に、悠真に抱きつきたかったわけじゃないから!」
「そこまで言うと逆に」
「言うな!」
凛花は怒鳴ったが、離れようとはしなかった。
いや、正確には離れようとしたのだろう。
だが、美月が俺の右側を占拠しているせいで、凛花が起き上がろうとするとバランスが崩れる。俺が支えようとすると、また距離が近くなる。凛花はそのたびに顔を赤くして、怒りながら固まる。
非常に面倒くさい。
そして非常に可愛い。
認めたくないが、可愛い。
昔は泥だらけで俺を叩いてきた凛花が、今は俺の肩に額を預けたまま、耳まで赤くしている。強がっているくせに、掴んだ俺のシャツを離していない。
俺の心臓がさらに仕事量を増やした。
「悠真」
「はい」
「今、何考えてる?」
「この状況から穏便に脱出する方法」
「本当は?」
「……暑いな、と」
「嘘つき」
凛花が小さく呟いた。
その声は、怒っているようで、少しだけ甘かった。
俺は何も返せなかった。
すると、頭上から小春の声が降ってきた。
「三人目が必要ですか」
「必要ない!」
俺は即答した。
小春は水路の向こう側に立っていた。
いつの間にか安全圏へ移動している。茶色い髪が風に揺れ、表情はいつも通り平坦だ。だが、その目だけはじっとこちらを見ている。
非常に冷静だった。
この状況を観察対象として見ている。
怖い。
「小春、助けてくれ」
「助けるとは」
「俺を起こしてくれ」
「その前に確認があります」
「今?」
「はい」
小春は一歩近づき、俺たちを見下ろした。
「悠真お兄さんは、美月さんと凛花さんのどちらを先に離しますか」
「その質問に答えたら戦争が起きるだろ」
「重要です」
「重要じゃない」
「順番は、気持ちの表れです」
「そんな地雷原みたいな解釈をするな!」
美月が俺の胸元で小さく笑う。
「私は、最後でもいいよ」
「美月?」
「最後まで悠真兄ちゃんの近くにいられるから」
凛花が反対側でぎくりとした。
「ずるっ……!」
「凛花ちゃんも最後がいい?」
「い、いいわけないでしょ!」
「じゃあ先に離れる?」
「それも嫌!」
「どっち?」
「うるさい!」
凛花は完全に詰んでいた。
俺も詰んでいた。
小春だけが、静かに考えている。
「では、公平に同時で」
「どうやって?」
「私が上から支えます」
「上から?」
嫌な予感がした。
小春は俺の頭側へ回り込み、しゃがんだ。
そして、俺の肩に手を置く。
「悠真お兄さん、力を抜いてください」
「この状況で力を抜いたら終わる気がする」
「信じてください」
その言葉に、俺は一瞬黙った。
信じてください。
小春は昔から、あまり感情を言葉にしない。
だからこそ、その一言が妙に深く響いた。
俺は小さく息を吐いた。
「……わかった」
力を抜いた。
小春が俺の肩を支え、美月と凛花が左右から身体を起こす。
その動き自体は、かなりスムーズだった。
さすが小春。
問題はその直後だった。
俺が半身を起こした瞬間、小春の手が滑った。
たぶん、俺のシャツが汗で少し湿っていたせいだ。
小春の身体が前へ傾く。
茶色い髪がふわりと落ちてくる。
そして。
小春の額が、俺の額にこつんと当たった。
鼻先が触れそうな距離だった。
俺と小春は、至近距離で固まった。
美月と凛花も固まった。
蝉の声だけが、やけに大きい。
小春の瞳が、目の前にある。
普段は感情を読ませないその瞳が、今だけわずかに揺れていた。頬も少し赤い。ほんの少しだけ呼吸が乱れている。
小春は無表情のまま、しかし耳まで赤く染めていた。
「……事故です」
「だろうな」
「不可抗力です」
「そうだな」
「ですが」
「ですが?」
「記憶しました」
「しなくていい!」
小春はゆっくり離れた。
だが、その指先は俺の肩に残ったままだった。
美月が俺の右腕を抱き直す。
「小春ちゃん、ずるい」
凛花が左側から睨む。
「今のは完全に狙ってたでしょ」
「事故です」
「事故に見せた事件じゃないの?」
「証拠はありません」
「否定の仕方が犯人なのよ!」
小春は無表情のまま、少しだけ目を逸らした。
その仕草が、妙に可愛かった。
俺はもう、完全に混乱していた。
右には美月の温度。
左には凛花の柔らかい重み。
正面には小春の赤い耳。
さっきまで俺は、町案内をされていただけのはずだ。
それがどうして、草むらで美少女三人と密着する展開になっているのか。
ラブコメの神様がいるなら、かなり雑な仕事をしている。
だが、雑なのに破壊力だけは高い。
「……とりあえず、起きよう」
俺がそう言うと、三人はなぜか少し残念そうな顔をした。
おかしい。
普通、女子高生は草むらから早く起きたがるものではないのか。
美月が名残惜しそうに俺のシャツを離す。
凛花が顔を真っ赤にしながら立ち上がる。
小春が俺の首元の巾着を整える。
「ビー玉は無事です」
「俺の精神は無事じゃない」
「確認しますか」
「やめろ」
俺が立ち上がると、服に草がついていた。
凛花が無言で俺の背中についた草を払ってくれる。
その手つきが思ったより優しくて、俺は少し驚いた。
「……ありがとな」
「別に。あんたがだらしないからでしょ」
凛花はそっぽを向いた。
でも、耳はまだ赤い。
美月は俺の胸元についた草を丁寧に取ってくれた。
指先が近い。
くすぐったい。
「美月、自分で取れるから」
「私が取りたいの」
「そうですか」
「うん」
にこにこと笑う美月に、俺は勝てなかった。
小春はしゃがみ込み、俺のズボンの裾についた草を取ろうとした。
「小春、それは自分でやる」
「遠慮しないでください」
「遠慮じゃなくて防衛本能だ」
「残念です」
「残念なのかよ」
三人それぞれが、何かしらの理由で俺に触れようとしてくる。
しかも、その触れ方が昔と似ているのに、全然違う。
昔は世話だった。
今は甘さが混ざっている。
俺が転んで草をつけたら、美月は心配して、凛花は文句を言いながら助けて、小春は静かに確認する。
それは昔と同じだ。
けれど今の彼女たちは、俺に触れること自体を喜んでいるように見える。
俺の反応を見ている。
俺が赤くなるのを待っている。
俺が意識する瞬間を、逃さない。
そして俺は、まんまと意識している。
「悠真兄ちゃん」
美月が胸元の最後の草を取って、俺を見上げた。
「さっき、抱きしめてくれて嬉しかった」
「事故だぞ」
「うん。事故でも嬉しかった」
まっすぐな言葉だった。
俺は何も言えなくなる。
凛花が横からぼそっと言う。
「……あたしも、別に嫌じゃなかったし」
「凛花?」
「何でもない!」
小春が巾着の紐を指で押さえながら、小さく言った。
「私は、次は事故ではなくても構いません」
「構え」
俺のツッコミは、夏空に虚しく消えた。
自販機はすぐそこだった。
俺たちはようやく飲み物を買った。
美月は桃のジュース。
凛花は炭酸。
小春はお茶。
俺はスポーツドリンク。
六年前と同じようで、同じではない。
美月は自分の桃ジュースを一口飲んだあと、俺に差し出してきた。
「飲む?」
「いや、俺のあるし」
「一口だけ」
凛花が炭酸の缶を握ったまま、こちらを見る。
「美月、それ間接キスじゃん」
「そうだよ?」
「認めるな!」
美月は平然としていた。
俺の方が動揺している。
すると凛花も、なぜか炭酸を差し出してきた。
「じゃあ、あたしのも」
「張り合うな」
「張り合ってないし。炭酸飲めるか確認するだけだし」
「俺は炭酸くらい飲める」
「じゃあ飲みなさいよ」
小春もお茶を差し出す。
「私のも」
「小春まで」
「公平性です」
「さっきから公平性が俺を殺しにきてる」
三本の飲み物が、俺の前に並ぶ。
桃ジュース。
炭酸。
お茶。
三人の視線。
逃げ場なし。
俺は観念して、それぞれ一口ずつ飲んだ。
美月は頬を染めて嬉しそうに笑った。
凛花は顔を真っ赤にして炭酸を飲み、案の定むせた。
小春は俺が飲んだ口元をじっと確認してから、同じ場所に唇をつけた。
「小春!?」
「位置を確認しました」
「確認するな!」
美月が自分のジュースの飲み口を見つめ、そっと同じ場所に唇をつけた。
凛花もそれを見て、むせながら同じことをした。
俺は天を仰いだ。
甘い。
甘すぎる。
ラムネより甘い。
桃ジュースより甘い。
炭酸より刺激が強い。
そして同時に、怖い。
三人の好意が、真夏の空気みたいに濃くなっていく。息をするたびに、胸の奥へ入り込んでくる。
でも、嫌じゃない。
嫌じゃないと思ってしまう自分が、一番危ない。
夏の田舎道で、俺はスポーツドリンクを握りしめたまま、三人の顔を見た。
美月は甘く笑っている。
凛花は照れ隠しに怒っている。
小春は静かに俺を見つめている。
六年前、俺の後ろを追いかけていたガキンチョたちは、もうどこにもいない。
そこにいるのは、俺の不在を六年間抱えて、それでも俺に手を伸ばしてくる女の子たちだった。
その手を振りほどくには、彼女たちは可愛すぎた。
そして、その手を取るには、俺はまだ何も知らなすぎた。
首元の巾着の中で、ビー玉が小さく揺れた。
こつん、と胸に当たる。
まるで、忘れるなと言われているみたいだった。
俺はその小さな重みを指で押さえながら、ため息をつく。
「……とりあえず、もう転ばないように歩こう」
「次は私が支えるね」
「次はあたしが先に掴む」
「次回の事故に備えます」
「事故を予定に入れるな」
三人は笑った。
俺も、少しだけ笑ってしまった。
夏はまだ終わらない。
たぶん、俺の平穏はもうとっくに終わっている。
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