第二十三話 ラクシュミー・バーイー~近代の南洋~
「一八五三年ラクシュミ・バイの夫が子供をもたないまま急死し、ラクシュミ・バイがその位をついだ時、イギリスはこの即位をみとめないとして、土侯国ジャンシをイギリス領に併合してしまった。十八歳の女王ラクシュミ・バイは、この時にこういったという。『私のジャンシをすてる?──そんなことを私はしない。とろうとするなら、とってみなさい』」(サヴァルガー「セポイの乱」)
紀元後十九世紀中盤、ジャーンシー藩王国の藩王妃ラクシュミー・バーイーは子供に恵まれないまま夫である藩王ガンガーダル・ラーオを亡くすと、イギリス東インド会社にジャーンシーを併合されて居城も接収された。
実子なき藩王国は併合するというのがイギリス東インド会社の政策だった。
藩王国の支配権はイギリス東インド会社にあった。
ヨーロッパは土地が貧しく、農地を経営する貴族は、貧困であって政治的な権力にも限界があったので、都市の富裕な商人は納税などの見返りに特権を手にし、政治的な権力を持った。
彼らは国家の暴力を利用し、安価な原材料や労働力、課税などが獲得できる植民地を作らせていった。
ヨーロッパの各国に設立された東インド会社も、インド洋の交易を支配して搾取するための商社だった。
ただし、インド洋にはティムール帝国の後継国家たるムガル帝国などがあり、植民地化は時間が掛かった。
それでも、商人が権力を手に入れたヨーロッパの国家は、文芸復興や宗教改革を経験して社会の価値観が世俗化し、経済的かつ科学的な思考が唯一の公的な価値基準とされ、科学革命などで軍事や技術が発展していった。
そうしてヨーロッパは世界の各地で植民地を広げていった。
マラーター王国の宰相を中核としたマラーター同盟もイギリス軍に敗れ、イギリス東インド会社の支配下に入り、領土は幾つもの藩王国に分割された。
マラーター同盟はヒンドゥー教徒の諸侯が同盟したもので、イスラム教国であるムガル帝国に対抗して結成され、インド亜大陸の覇権を握ったことさえあった。
ヒンドゥー教はバラモン教が民間の様々な信仰を取り入れたもので、プラーナ文献のごとく土俗的な聖典を生み出すなどして民衆に働き掛けたため、仏教やジャイナ教の拡大に押されていたのを巻き返し、インドの大部分で優勢を示すようになった。
種姓制度も村落共同体の展開や職能の分化に伴い、緩やかな職業集団となっていった。
職業集団は長期的な関係で取り引きの安全を確保し、経済を発展させたばかりか社会の秩序も維持した。
そうであるがゆえにインド亜大陸の諸国家は職業集団を保護し、自前の身分制度を制定しなかった。
マラーター王国を樹立したのも農民層が武装した職業集団で、ラクシュミー・バーイーの家もその集団に属していた。
幼い時に母親を亡くしたラクシュミー・バーイーは、武人の父によって育てられたからか、少年に混じって教育を受け、読み書きを習得するだけではなく、騎乗や武器の操縦までも体得した。
当時の女性としては異例の教育に周囲は驚愕を隠せず、ラクシュミー・バーイーはそれが楽しかったので、学習の成果を披露しては周りを驚かさせた。
結婚してからも彼女は乗馬と軍事訓練の継続を主張し、侍女を集めて不正規の女性戦士部隊を作るようなことまでやってのけた。
もっとも、ラクシュミー・バーイーの行いは単に奇を衒っただけのものではなかった。
実際の効能に裏打ちされたものこそ真に人を驚かせるというのがラクシュミー・バーイーの持論で、彼女は実学の習得に努めてヨーロッパの法律や外交、歴史も勉強してそれらの知識を活かし、イギリス王国のインド総督に手紙を出しもした。
その手紙でラクシュミー・バーイーは近視眼的な併合政策がいずれ禍をもたらすと告げたが、彼女の訴えは黙殺された。
そして、ラクシュミー・バーイーの予言は的中した。
侵略者イギリスに対する民族的な大反乱が勃発し、各地でイギリス人が殺害され、保護を求められたラクシュミー・バーイーは彼らを宮殿に匿おうとした。
イギリス人はラクシュミー・バーイーの申し出に応じる前に虐殺されたが、イギリス東インド会社は新任の官吏が到達するまでジャーンシー市を統治するようラクシュミー・バーイーに要請した。
ラクシュミー・バーイーは倉庫を開き、貧民に衣食を配給して軍隊を集め、武器を製造して大砲も鋳造した。
女性部隊にも馬術と武術を叩き込み、自国の強さを確認するに至ると、奪われた支配権を回復するため、周りが驚く中、彼女はイギリス東インド会社への公然たる反乱に打って出た。
有能かつ勇敢なラクシュミー・バーイーは際だった美貌でも民衆を惹き付けた。
紅い長髪を紐で結い上げた彼女は、張りのある焦げ茶色の肌をしており、紅玉のごとき眼には不思議な輝きがあった。
痩せているけれども胸が大きい体は絹のブラウスに包まれ、ほっそりとした強靱な太股は、ヨーロッパ風の乗馬ズボンを穿いていた。
ラクシュミー・バーイーは馬の手綱を巧みに捌き、剣や銃を持って陣頭に立った。
ジャーンシーの陥落後も彼女は反乱の指導者たちと共に抵抗戦を続け、グワーリヤル城を奪取して頑強に戦い、連日、イギリス軍を遙か彼方へと駆逐した。
相手が大軍であるにもかかわらず、ラクシュミー・バーイーは果敢に突撃して多大な損害を与え、優れた戦士であるばかりか戦術に長けてもいることを示し、敵と味方の双方を驚愕させた。
しかし、反乱軍の限られた戦力は、減少の一途を辿り、イギリス軍は続々と増援されていった。
そうして遂にラクシュミー・バーイーはグワーリヤル城の外へと駆け出したところ、イギリス軍の軽騎兵に致命傷を負わされて戦死した。
やがてイギリス軍は反乱軍の不統一もあり、各地で農民や市民も参加した大反乱の鎮圧を成し遂げた。
イギリス王国は反乱軍に担ぎ出されたデリー市のムガル皇帝バハードゥル・シャー二世を廃し、ムガル帝国を滅亡させてイギリス東インド会社も解散させ、インド亜大陸を政府の直接的な支配下に置かれた。
イギリスはそのようなインドをインド帝国と称し、イギリス王がインド皇帝も兼ねた。
インド帝国は職業集団を厳格に制度化し、身分差別として固定化することで大反乱の再来を防ごうとした。
また、インド資本の企業が育たぬようは徹底的に規制され、イギリス製品と競合させないため、インド人の職人は指を切断された。
鉄道も各州ごとに幅が変えられ、インド亜大陸の経済を分断し、巧妙な分割支配が行われた。
後に各国が黄金州などにも植民地帝国を築いていったが、イギリス王国はその中でも最大の規模を誇り、インド帝国は大英帝国の独自な構成部分と見なされた。




