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第十話 チンギス・ハーン~近世の東洋~

「タルタール人たちはチンギス・カーンと号する王を戴くことになった。チンギスは非凡の才を備えた知勇兼備の士であった。彼が選ばれて王位についたと知るや、タルタール人たちはどんな遠隔な地方からもすべて馳せ参じ、彼を宗主と仰いだ。チンギス・カーンも苛政に陥ることなくりっぱな統治を行った」(マルコ・ポーロ『東方見聞録』)

 紀元後十三世紀、モンゴル部の汗チンギス・ハーンは塞外の遊牧民たちを統合すると、自分が出身した部族集団の名を取り、彼の下に集った遊牧民連合体を大モンゴル国と名付けた。

 彼は聚会を招集し、諸君主である汗たちの上に君臨する大汗に選出された。

 塞外の遊牧民は君長の選挙や遠征の決定、法令の発布など重大事を議する際、部族の長や有力者が会合して協議した。


 そうした聚会でチンギス・ハーンは皇帝となったわけだが、その道のりは平坦なものではなかった。

 遼や金といった華北の征服王朝が塞外の統合を阻んできたからだ。

 中土は唐が滅びると、五つの王朝と十の地方政権が興亡する五代十国の時代を迎えた。


 遊牧民の契丹や狩猟民の女真はその隙を突いて中土を征服し、華北に契丹が遼を、女真が金を建てた。

 遼や金は律令国家に引けを取らぬほど国制を完成させており、遊牧国家や騎馬民族の制度と律令制を併存させた。

 五代でもテュルク系たる沙陀族が燕雲十六州を割譲するなど契丹との間で連携と離反を繰り返し、彼らが擁立した軍人である趙匡胤が北宋を建国した。


 沙陀国家たる北宋は唐が確立した律令制度を成熟させたが、遼ともども金に倒され、江南に南宋を建てた。

 塞外と中土に跨がる征服王朝は、そのどちらも警戒した。

 それゆえ、塞外の遊牧民を仲間内で衝突させ、必要とあれば大挙して北伐し、長大な防御線を塞外の内部にまで食い込ませた。


 しかし、金も災害が続いて弱り、塞外に余り干渉できなくなった。

 チンギス・ハーンはその好機を見逃さなかった。

 彼は普通の黒い瞳とは違う猫のような眼を持っており、そのためかただ人には見えないものを見通せた。


 チンギス・ハーンは良家の出だったが、その少年時代はさほど幸福なものではなく、父という後ろ盾を失い、氏族集団からも追放されて放浪の生活を余儀なくされた。

 遊牧民にとっては恥とされる魚食に及び、捕虜とされて奴隷となったこともあった。

 だが、それらの経験は遊牧民の枠に囚われない視野をチンギス・ハーンに与えた。


 逆境を生き抜くに連れ、チンギス・ハーンは逞しく成長した。

 彼は額が広く、黒い頭髪が長々と垂れ、濃褐色の肌を持ち、並外れて大柄な体に戎衣をまとっていた。

 モンゴル人は多くが小柄で、巨躯であることは指導者の第一条件だった。


 そのようなこともあり、チンギス・ハーンは周囲を引き付けて義兄弟ジャムカのような友人も出来た。

 幼き日の婚約者ボルテの父を頼った時も、後ろ盾になってもらえた。

 ボルテは敵に連れ去られて孕まされ、ジャムカとも覇を競うようになったが、チンギス・ハーンはボルテが産み落とした長男ジョチを認知し、ジャムカを貴人に相応しい方法で処刑した。


 そうして彼はタタール部などを打倒して聚会で大汗を名乗り、チベット系たるタングート族の西夏などを服属させ、天山ウイグル王国や西遼も自ら帰順の意思を伝えてきた。

 枠に囚われないチンギス・ハーンは、国境にも限界を設けなかった。

 モンゴル帝国は洪水のような勢いで拡大していった。


 水は石をも穿つ力を持ち、それでいて流れに応じて姿を変え、あらゆるものを溶かし込んで潤いを与えた。

 チンギス・ハーンが組織化したモンゴル軍は、騎馬軍団の強さを最大限に活かし、周到な計画性で被害は最小限に抑え、誰であれ自分たちと同じ仲間になれば差別しなかった。

 彼らは金に戦いを挑んで満洲を占領するだけではなく、イラン高原のホラズム・シャー朝にも侵攻し、君主ジャラールッディーンをインダス川まで追い詰め、グルジア王国を蹂躙してルーシ(東ヨーロッパ)の諸侯やブルガール人も蹴散らした。


 モンゴルは行政機構や交通網の整備、公正な裁判、貧者への配慮、信教の自由、人種の平等などに心を砕いた。

 それらは塞外の統合における経験や方針を適用したもので、チンギス・ハーンは法典の策定にも取り掛かった。

 その法は後に『元朝秘史』などにも収められた。


 帝国は芸術と科学にも理解があった。

 チンギス・ハーンは道教の高名な学者たる長春真人を呼び寄せることもした。

 道教は大乗仏教の伝来に刺激されて成立した中土の民間信仰で、儒教が人間社会だけを扱ったのに対し、神仙に関しての議論という形で自然についての考察したため、自然科学の発達にも貢献した。


 戯れにチンギス・ハーンは長春真人に寿命を延ばす方法はあるかと訊いた。

 長春真人は不老不死の妙法などなく、死を恐れるのならば遊興や狩猟、女色、飲酒を控えろと説諭した。

 チンギス・ハーンは一切それに異議を差し挟まなかったが、戦争や狩りを止めることもしなかった。


 彼は死そのものに恐れはなかったが、自身の死後に危機感を抱いてはいた。

 何物でもないことにより拡大した帝国は、臣民が各地で土着化すれば、土に吸い込まれた水のごとく地上から消えてしまうのではないか。

 チンギス・ハーンが死した後、その懸念は現実となっていった。


 モンゴル帝国は一元的な支配からボルテの子孫たちによる連邦制に移行し、第五代大汗フビライの一族が大汗を世襲した。

 カラコルム(ハラホリン)市から大都(北京)に遷都したフビライ・ハーンは、南宋を滅亡させて中土を平定し、その帝国を元とした。

 そこでも遊牧民の聚会は国会として招集され、国事について協議したが、形骸化して大汗への服従を表明する儀礼となった。


 四つの領国に分かれたモンゴル人は、それぞれの地域に根を下ろすと、仲間割れという悪弊に染まっていった。

 もっとも、思想や文化の同一性は長く保たれ、内外での戦争にも拘わらず、相対的には平和をもたらした。

 「モンゴルの平和」はユーラシア大陸の横断を可能にし、旅行や交易が盛んとなった。


 第二代大汗オゴデイは駅伝を設置させ、商品に掛ける税金を廃止し、商業活動や金融活動を活発に行わせた。

 一部には破壊の爪痕も残ったが、豊かな物資の流入によって多くの廃墟はたちまち目映いばかりに修復された。

 そうした戦災からの復興には耶律楚材やヤラワチ親子のような現地人の高級官僚が尽力した。


この時代を題材とした映像作品には『ジンギス・カン』、『成吉思汗』、『蒼き狼チンギス・ハーン』、『蒼き狼 地果て海尽きるまで』、『チンギス・ハーン』、『モンゴル』、『ライジング・ロード』があります。

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