第十一話 ハンリ・ポー~中世の南洋~
「シャケン・ダルシャーと同行して、一人の高位の司令官がやって来た。彼はシナの王の命令によって彼を送って来たのである。この司令官は一人のシナ人の美しい娘を連れて来た。そしてシャケン・ダルシャーはマラカに着くと、上記の司令官に敬意を払って彼女と結婚した。もっとも彼女は由緒ある血統の婦人ではなかった。異教徒がイスラム教徒の婦人と結婚することは驚くべきことではない」(ピレス『東方諸国記』)
紀元後十四世紀、孤児ハンリ・ポーは明の宦官である鄭和の養女となった。
ハンリ・ポーの両親や鄭和は回民だった。
回民は漢語を使う中土のイスラム教徒で、その祖先は外国との交易が盛んであった唐や元の時代に回鶻などからやってきた。
鄭和は元の時に雲南へ移住した家系の出身だった。
乞食僧の朱元璋が明を建ててモンゴル人を塞外に逐い、元を滅ぼして雲南も征服すると、彼は捕らわれて去勢された。
そうして朱元璋の息子である永楽帝に仕えた。
永楽帝が兄帝の建文帝から帝位を奪った際、鄭和はそれに従って武功を上げたので、宦官の最高職たる内官大監に抜擢された。
彼は宦官として位人臣を極めたわけだったが、去勢されているがゆえに子作りが出来ず、親戚の子供もいなかったため、幼いハンリ・ポーを引き取ることにした。
ハンリ・ポーの両親と鄭和は同じ回民として親交があった。
鄭和はハンリ・ポーの養育に当たり、航海術を彼女に教えた。
永楽帝は大艦隊の司令官を務めるよう鄭和に命じていた。
それは入朝して貢ぎ物をするよう海外に促し、簒奪によって即位した永楽帝の権威を確固たるものとするためだった。
中華帝国は入朝した諸国に貢ぎ物よりも高価な返品をし、内外にその威光を見せ付けていた。
それゆえ、貢ぎ物は珍しいものが望ましく、インドから黄金州と呼ばれて中土から南海と称されていた地域は、各国の商品が集積し、距離的にも近い上、多くの島嶼と半島とで結ばれて航行がし易かった。
そして、そこではイスラム教徒の商人が優勢で、鄭和が航海を命じられるのも無理はなかった。
航海の技術は元の時代における蓄積があったので、鄭和はそれを勉強してハンリ・ポーにも学ばせた。
科挙は貴族に代わって士大夫という支配層を出現させたが、彼ら士人の一族は試験に合格できなければ特権を失ったので、子弟の教育には力を注いでおり、その風潮に鄭和も影響されていた。
それに、イスラム教は平等や表現の自由、大衆の政治参加などを原則上は認めており、女性も学者から統治者まで生活のあらゆる領域で市民の代表となった。
イスラム教徒の女性は統治者の裁定に公然と異議を唱えられ、指導者を承認する選挙民にもなれた。
『クルアーン』などに見られるそのような原則に従い、鄭和はハンリ・ポーに教育を施した。
ハンリ・ポーも海外に思いを馳せ、航海について熱心に学習した。
ただし、明は私的な海外渡航や海上貿易を禁じていた。
国際的な王朝であった元の崩壊は広大な領域に影響を及ぼし、海岸でも治安が保たれず、海寇が跋扈していたので、国際秩序を再確立するため、明には海禁などの強硬な手段に出なければならなかったのだ。
そのような世情がハンリ・ポーには息苦しく感じられた。
また、朱元璋が貧しい佃農の出身だったため、商業よりも農業を重んじられ、回民の商人にも制限が加えられていた。
西方との交易で活躍していた回民は、元で重宝されていたので、明では目の敵にされていた。
ハンリ・ポーは航海について学ぶだけではなく、鄭和に同行して出海することさえ夢見るようになった。
その夢は思わぬ形で叶った。
マラッカ王国の君主パラメスワラが入貢し、ハンリ・ポーを王太子イスカンダル・シャーに嫁がせてくれるよう鄭和に願ったのだ。
パラメスワラは南海の島嶼部にあったシュリーヴィジャヤ王国の王子だったが、マジャパヒト王国の内戦に巻き込まれ、黄金半島(マレー半島)にマラッカ市を建てたのだ。
マジャパヒトが農業国家であるのに対してシュリーヴィジャヤは通商国家だったが、マラッカ王国も海上交通の一大要点たるマラッカ海峡を支配していた。
しかし、半島部の有力な国家であるアユタヤ朝に圧迫されてもいたので、それを退けるべくパラメスワラは明に頼る政策を取り、イスラム教に改宗して外国の商人を優遇した。
当時、マラッカ王国に珍しい商品を持ち寄るのは、アラブ人やインド人のイスラム教徒だった。
アラビア半島で生まれたイスラム教はガズナ朝やゴール朝、デリー・スルタン朝などイスラム教徒の王朝によりインドへも流れ込んでいた。
マラッカ王国と繋がればイスラム教徒の伝手でインドにも連絡できた。
そのような事情からパラメスワラと永楽帝は利害が一致しており、両者の仲を取り持つ役は鄭和が打って付けだった。
永楽帝はハンリ・ポーをイスカンダル・シャーへ嫁がせるよう鄭和に命じた。
鄭和は血が繋がっていなくても娘であるハンリ・ポーを外国へ嫁がせることに躊躇した。
だが、当のハンリ・ポーは乗り気だった。
養父が航海から帰ってくる度に聞かせてくれる外国の話に彼女はいつも胸を躍らせていた。
その舞台に自分も立つことが出来るかも知れないのだ。
希望に瞳を輝かせるハンリ・ポーに鄭和は目を細めた。
ハンリ・ポーは見目形の麗しい美少女だった。
気紛れな紅い髪は幾つもの小さな巻き毛の房となって垂れ下がり、肌は日に焼け、長い睫毛が碧眼を縁取っていた。
その美貌がいずれ朽ちることは避けられなかったが、どこでそうなるかは選べた。
鄭和も明の海禁に懸念を抱いていた。
海外への進出に積極的な永楽帝がいなくなれば、それはもっと強まるように思われた。
マラッカ王国の可能性に賭けるのも一つの手段だった。
パラメスワラたちを帰国させることも兼ねた航海に鄭和はハンリ・ポーを同行させた。
しなやかであって乳房の豊かな体にハンリ・ポーは漢服を優美にまとっていた。
その服は黄金州の気候に合うよう仕立て直されてあった。
ハンリ・ポーには世話役として六百名の従者が随行した。
イスカンダル・シャーは遠く明から遙かマラッカ王国まで輿入れしたハンリ・ポーの気概を気に入り、彼女たちのために迎賓館を建設させ、井戸を掘らせて水源も確保させた。
ハンリ・ポーの嫁入りは黄金州に華僑が移住するのを促し、後に迎賓館のあった丘陵地は「中国の丘」の、井戸は「ハンリ・ポーの井戸」の呼び名で親しまれた。
けれども、鄭和の不安は的中した。
明は永楽帝が病没すると、海禁を強化するようになっていった。
彼の航海に関する公的な記録も宮中から持ち出されて焼却された。




