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後日、七夕の夜に








「ねぇ、ジェイドさん」

窓際に立って空に浮かぶ星を眺めていた私は、本を読んでいるジェイドさんを振り返った。

「ん・・・?」

ぼんやりした声で返事をした彼は、おもむろに本を閉じて小首を傾げる。

眠そうな彼はきっと、私がベッドに入るのを待っていたんだろう。

頬を緩めてベッドに近づけば、彼は毛布を捲って私を入れてくれた。

よいしょ、と彼の隣に体を落ち着けた私は、何も言わずに抱き寄せる腕に身を任せる。

大きなベッドは、クッションや枕がたくさん置いてある。

その中のいくつかに背中を預けて本を読むのが、ジェイドさんの日課だ。

「もう本はいいの?」

「ええ・・・」

そっと声をかけた私の髪を撫でつつ、彼が囁いた。

そしてそのまま髪に鼻先をうずめて、深呼吸をする。

くすぐったくて少しだけ身を捩った私の腰が、彼に掴まった。

こうやって匂いを嗅がれるのも、毎日のことで。

「さっき、何を言いかけたんです・・・?」

耳元でくぐもった声を聞いた私は頷いて、星を眺めて思い出したことを口にした。

「うん、あのね・・・」



ジェイドさんは、いつも私の言葉をちゃんと聞いてくれる。

たとえ仕事が立て込む毎日で、疲れて眠い夜でも。

話しているうちに、いつの間にか私を腕に閉じ込めたまま眠ってしまったとしても。


そしてこの夜も、彼は私の話をしっかり覚えていてくれた。









「つばき、しばらく1人で大丈夫ですか?」

ジェイドさんは、空に昇った月と天体盤に浮かぶ月を交互に見て、そんなことを言い出した。

「え?」

突然のことに思わず聞き返すと、彼は手元にあった書類を机の端に寄せて立ち上がる。

そして私が口を開くよりも早く、言葉を紡いだ。

「使用人達の夏の休暇と、普段の報酬について話し合いの場を設けることになったんです。

 ・・・そろそろ皆さんが集まっていると思うので、行って来ますね」

「・・・話し合い・・・」

あっちの世界で言うところの、賃上げ交渉や春闘みたいなものだろうか。

社会人になる直前の頃にこの世界に渡って来た私にとっては、馴染みが薄いというか、具体的なイメージが持てない言葉だけど。

ぽつりと呟いた私のそばへ来たジェイドさんは、にっこり微笑んで手を伸ばす。

大きな手が頬を撫でて、空色の瞳がやんわり細まる。

「あなたはこの屋敷の“奥さま”ですから、同席してもらうところなんですが・・・。

 皆さんは、つばきのことが心配だそうなので、今回はお留守番ということで・・・ね?」

そう言って小首を傾げたジェイドさんは、私の目を覗きこむ。

これはあれだ。

言い聞かせる時の目だ。

「・・・うん・・・じゃあ、待ってる・・・」

本当は気になるけど、今回は仕方ない。

いろんな気持ちを飲みこんで頷いた私に、彼は満足そうに笑みを浮かべた。

「いい子には、後で良いものをあげましょうね」

「いいもの・・・?」

彼の腕の中から、その空色の瞳を覗き返して囁いた私に、彼は小さく笑う。

とっても、楽しそうに。

「ええ、いい子にしてたら、ですよ。

 ・・・1人でいて、何かあったら私を呼ぶこと。いいですね?」

「うん」

上機嫌のジェイドさんに、私は素直に頷いた。

すると、彼はおでこにキスをくれる。

まるで子ども扱いだけど、これはこれで好きだから反論出来ない。

要するに、私はジェイドさんに甘やかされるのが大好きなのだ。

だから、たまに上目遣いで見つめてみたり。

そっと彼の背に腕を回して、背中に人差し指でくるくると円を描いてみたり。

「・・・呼んだら、ちゃんと、すぐ来てくれるよね?」

ジェイドさんがいないと寂しいんだぞ、という気持ちを言葉の裏に忍ばせてみる。

そんな私の言葉を聞くや否や、彼は目を大きく見開く。

そうして息を飲んだ彼を見て、私は満たされた気持ちになった。

そしてそのまま言葉を発する暇もなく、ぎゅぅぅぅ、と抱きしめられる。

「・・・もう、もうもうもう・・・!」

呻くような声が同じ言葉を繰り返して、ジェイドさんが腕に力を込めた。

「あなたに呼ばれたら、飛んで来るに決まってます!」

「・・・じぇ、ぃどさ・・・っ」

思い切り抱きしめられた私が、苦しくなって彼の背中を叩く。

すると彼はダメ押し、とばかりにもう一度だけ、ぎゅっと私を抱きしめた。

でも、それでも足りなかったのか私のおでこにキスを落として、名残惜しそうに唇を離す。

「・・・まったくもう・・・」

時間がかかって、やっと体が離れた頃には、彼の顔には苦笑が浮かんでいた。



ジェイドさんの仕事机に向かって、ペンを握る。

さっきまで彼が座っていた立派な椅子には、まだ温もりが残っていて、なんだか安心出来た。

椅子の高さが彼に合わせてあるから、つま先からルームシューズが抜け落ちてしまうんだけど。

小さく息を吐いた私は、裸足のつま先を遊ばせながら、クリーム色の紙と対峙していた。


「うぅん・・・難しいなぁ・・・」

ペン先を滑らせて、なんとなく自分の名前を書いたり、ジェイドさんの名前を書いたり。

ジェイドさんのお父さん、お母さん、妹のヴィエッタさん・・・いろんな人の名前を書き出してみて、なんとなく眺めてみたり。

お腹のベビーの名前を考えているんだけど、これが難しいんだ。

ずっとベビーベビーって呼ぶわけにもいかないし・・・と、思ったのがキッカケで、私はここ数日ずっと、赤ちゃんの名前を考えている。

そう簡単にひらめいたり、しっくりこないと分かってるんだけど・・・。

「私が椿だから・・・女の子だったら、花の名前がいいなぁ・・・」

まずは女の子の名前を、と思いつくままペンを走らせた。

「カエデ・・・だと、なんか文字が硬いかも・・・。

 サクラ・・・は、まあ、いいかなぁ。

 ああでも、同じ名前の子が高校にいたっけ・・・」

そんなことを呟きながら、紙に文字を埋め込んでいく。

「モモ・・・カスミ・・・」

花の名前も、たくさんあるものだ。

「ローズ・・・リリー・・・アザレア・・・」

耳通りの良い音を探して、いろいろと書き出した。


「もういいや、あとはジェイドさんに・・・」

足をぷらぷらさせつつ、書きあがった紙を手に取って眺めてみる。

ここまで書きだしたら、あとはジェイドさんに見てもらうだけだ。

「・・・ふぅ・・・」

軽い疲労感を覚えた私は、紙を置きつつ短く息を吐いて、背もたれに体重を預ける。

お腹を擦って、深呼吸。

すると、急に瞼が重くなってきた。

頭の中に霞がかかったみたいに、考えが纏まらない。

「あー・・・きた、かも・・・」

この頃、ふいに強い眠気に襲われることがある私は、慣れつつある感覚に目を擦る。

そしてついに、クッションに背が沈む感覚が心地よくて、思わず目を閉じてしまった。




ふわりと、体が何かに包まれるのが分かる。

次に感じたのは、浮遊感。

体は下へと落ちようとしてるのに、何かがそれを食い止めていて、私はなんだか、波の間を彷徨っている小舟の気分だ。

ゆらゆら揺られて、浮いたり沈んだり・・・。

不安定なのに、絶対に大丈夫という安心感があって、とっても気持ちがいい。

「・・・ん・・・」

寝返りを打ちたいのに、体が動かなかった。

何かが邪魔をしてるのは分かるけど、目を開けるのが面倒くさい。

「うぅ・・・ん・・・」

私が顔をしかめて唸った時だ。

「そろそろ起きましょうか、つばき・・・?」

ジェイドさんの声が耳元で響いて、私は急に現実に引き戻された。


「・・・ん、じぇいどさん・・・?」

彼の声を聞いた私は、重たい瞼をなんとか持ち上げる。

「みんなと、話・・・おわった・・・?」

自分の声が少し掠れているのに気づいて、小さく喉を鳴らす。

すると、口元に冷たいものが当たった。

「・・・水ですよ」

ジェイドさんの言葉に、私はぼーっとする頭を縦に振って、口を開く。

手探りでグラスを持って水を流し込むと、ぎゅっと縮んでいた喉がほぐされて、ゆっくり開いていくのが分かる。

「ありがと、ジェイドさん」

そうしていくらか頭のすっきりした私は、そこでやっと、自分がジェイドさんの膝の上にいることに気がついた。

「・・・あれ?

 ・・・私、部屋でベビーの名前考えてて・・・」

「・・・みたいですね」

くすくす笑う声を仰ぎ見ると、彼は肩を竦めてみせる。

「名前のリスト、拝見しましたよ。

 とても品のある、綺麗な響きの名前ばかりでしたね。

 ・・・見た感じ、女の子の名前ばかりでしたが・・・」

囁きと一緒に、こめかみにキスが落とされた。

ちゅ、と小さな音が聞こえる。

「ん・・・男の子の名前は、今度考えようね。ジェイドさんも一緒に」

「ええ、ぜひ」

くすくす笑う彼の首に腕を回して、私は頷いた。

温くて、少し湿った空気が頬を撫でる。

目が覚めてジェイドさんばかり見てたけど・・・。

「ねえ、どうして私達、外にいるの?

 ・・・しかもこの、網・・・どうしたの?」

自分が外にいることに気づいた私は、きょろきょろと辺りを見回す。

「・・・あ、気づいてくれました?」

楽しそうな彼のカオに、私はただ首を捻るだけだった。



夏の夜風が頬を撫でていくのを、私は不思議な気持ちで感じていた。

今夜は月が大きく欠けているから、月明かりも頼りない。

吐息がかかるくらいの距離にいるジェイドさんの顔だけは、ちゃんと見えるけど。

「この匂いは、お香か何か?」

「ええ」

くんくん、と漂ってくる御線香のような香りを尋ねると、彼は頷いて教えてくれた。

「虫除けの香を焚いてます」

「そっか・・・」

相槌を打ちながらも、私は周りを見回す。

そして、私達の四方に張り巡らされた目の細かい網を指差した。

「この網はなあに?」

「蚊帳って、知ってます?」

「うん、でも見るのは初めて」

ひと部屋分くらいの空間の中で、私達は何をしてるんだろう。

ジェイドさんはまだ教えてくれないけど・・・。

「・・・風、気持ちいいね」

しん、と静まり返った庭に2人で佇んでいると、なんだか不思議な気持ちになる。

すぐそこにはお屋敷があるのに、なんだか世界に私達だけしかいないような。

「ええ」

彼が、私の頬を撫でながら微笑んでいて。

目が合うと、私もはにかんでしまう。

いつまで経っても、じっと見つめられると恥ずかしい気持ちになる。

だからこういう時、何か話そうと思って、私はいつも話題を探す。

「こんなとこにベンチ、なかったよね・・・?」

今朝小鳥にパンくずをあげた時には、なかったのだ。

小首を傾げていると、ジェイドさんがくすくす笑った。

「つばきには内緒で、いろいろ計画してたんです。

 ・・・覚えてます?

 この前・・・ベッドの中で話してくれた、向こうの世界の話」

「あ・・・」

私を膝に乗せたまま、彼は小首を傾げて話す。

小さく声を上げた私を、にっこり微笑んでやり過ごして。

「屋敷の皆に話して、いろいろ用意してみたんです。

 ほら・・・ちゃんとタンザクと、それを飾る木もあるんですよ」

ほら、と指差された場所に視線を投げた私は、息を飲んだ。


彼の指差した先にあったのは、小さな木だった。

私の背と同じくらいの、クリスマスツリーさながらの木だ。

何か、キラキラしたものや短冊らしき紙が、ひらひらと風に揺られて踊っている。

「もう私達は願いごとを書きましたから、」

ツリーに見入っている私は、ジェイドさんの声を片方の耳で聞き流しながら頷いていた。

驚きを超えた感情に、どんなカオをしたらいいのか分からないのだ。

「つばきも書いて、飾りましょうね」

楽しそうな彼の声が聞こえたのと同時に、ペンと紙が渡される。

「・・・うん」

受け取った私のつま先が、そっと草の上に下ろされた。

・・・いつの間に靴を履いてたんだろう・・・。

そんなことをぼんやりと考えながら、私は促されるまま小さなテーブルの上に紙を置いた。

「・・・見ちゃ、ダメだからね?」

ぽつりと呟いて、風で飛ばないように紙を押さえた私は、ペンを走らせた。

考えなくても、もう願うことなんて決まってる。

・・・それだけを望んで、私はここにいるんだから。




木に、願いごとを書いた紙をくくりつける。

ジェイドさんからは見えないように、わざと裏返していたら、背後でくすくす笑われた。

「・・・意地っ張りですねぇ」

苦笑交じり、呆れ半分で囁かれて、私は口を尖らせる。

「だって、恥ずかしいんだもん」

「ええ、そんなところも大好きですよ」

顔から火が出そうな台詞だ。

この人はいつも、平然とそういうことを言い放つ。

私が困ったり恥ずかしがったり、慌てたりするのを楽しんでるんだろうけど。

・・・もちろん、言われたらすごく嬉しいっていうのは秘密だ。

「・・・あのね、ジェイドさん」

恥ずかし紛れに言葉を紡ぐと、背中に温かいものを感じた。

「ん・・・?」

吐息に似た相槌が聞こえて、遅れて彼の腕が私を包む。

彼の気配を背中に感じながら、私は続きを口にした。

顔が見えない今は、いつもより素直に言葉を選べそうだ。

「ありがとう・・・覚えててくれたんだね・・・」

「・・・気に入ってもらえました?」

「うん・・・。

 ・・・懐かしい・・・」

回された腕に、そっと触れる。

たくさん装飾が施された木は、本当にクリスマスツリーみたいだけど、そこはご愛嬌だ。

顔の割にごつごつした手首を撫でると、彼が息を漏らした。

「・・・つばき」

「なあに?」

彼の頬と私の頬が、くっつく。

柔らかくて、温かくて。

私は自然と笑みを浮かべて、彼の言葉を待つ。

「あちらの世界が、恋しいですか・・・?」

「え?」

思わぬ発言に、一瞬頭の中から文字が消えた。

戸惑って何も言えなくなった私に、彼の腕が強張る。

「帰りたくなったから、七夕の話をしたわけじゃないの・・・」

くっついたままの彼の頬に手を伸ばす。

ふに、と力の抜けた頬を指でつつくと、彼はそっと息を吐いた。

「本当に・・・?」

彼がぽつりと零した瞬間風が少し強くなって、ツリーの飾りが、しゃらしゃらと音を立てる。

皆の書いた短冊が揺られて、くるくる踊っていた。

「・・・皆にも、感謝しなくちゃね。

 こんなに、いろいろ用意してくれて・・・」

ジェイドさんから伝え聞いたことを再現するなんて、大変だったに違いない。

昼間なかったんだから、きっと私が夕食をいただいている時間から庭に出て、準備してくれていたんだろう。

「帰りたいなんて、思わないよ」

準備してくれた皆も、楽しいと思ってくれたんだろうか。

風に揺られる短冊が捲れて、ちらりと中身が見える。

“旅行に行きたい”“彼氏が欲しい”“痩せたい”・・・世界を超えても、願うことなんてそれほど違いはないのかな。

そんなことに少しほっとして、私は言葉を紡ぐ。

「・・・それに、あっちにはジェイドさん、いないもん。

 もし帰ったとしても、寂しすぎて、どうにかなっちゃうと思う・・・」

聞こえないように小さな声で言ったのに、彼はぎゅっと腕に力を込めた。

虫の音が聞こえる庭は、相変わらず静かだ。

ジェイドさんは、私のことを後ろから抱きしめたまま黙っている。

「・・・ジェイドさん、」

彼が聞いているかどうかは分からないけど、私は言った。

「私の思い出・・・大事にしてくれて、ありがとう」

「・・・私は見たことありませんから、同じようには出来ませんけどね・・・」

静かに言葉を返す彼は、一体どういう気持ちでいるんだろう。

顔が見えないと、やっぱり少し不便だ。

そんなことを思いながらも、私は首を振って口を開く。

今は彼の気持ちを知るよりも、私の気持ちを伝える方が大切な気がしたから。

「同じになんて、しなくていい。

 ジェイドさんが、私の思い出をこうやってカタチにして、今、一緒に見てる・・・。

 すごく嬉しいよ。嬉しくて、何て言ったらいいのか分からないくらい。

 ・・・ねえ、来年は、ベビーも一緒に七夕しようね。

 教授もリジェルさんも、ヴィエッタさんも一緒に。

 お姉ちゃん達も誘って、皆で短冊に願いごと、書こう。

 ・・・そうやって、これからも毎年七夕しようね」

「・・・ええ」

頷いた彼の声が、いくらか柔らかく落ち着いていた。

それに気づいた私は、頬を緩めて頷く。

彼の腕の中から見上げた夜空は、宝石がちりばめられたみたいに、キラキラしていた。


「つばき、」

彼の鼓動の音を背中越しに感じていた私は、吸い込まれそうな夜空から視線を剥がした。

そして腕の中で体の向きを変えて、彼の顔を仰ぎ見る。

黙って小首を傾げて先を促せば、ジェイドさんは穏やかなカオをして口を開いた。

私が身動きが取れないくらいに絡みつく腕からは、想像もつかないような穏やかさだ。

「大好きです」

真っすぐな言葉をぶつけられた私の息が、ぴたりと止まる。

すると、彼は低く笑いながら私の唇を指でとんとん、とノックした。

「息止めたら、ベビーちゃんが可哀相ですよ」

「・・・っ、だって・・・ジェイドさんが急に・・・」

息を吹き返して言えば、彼が困ったように微笑んだ。

「だって、愛してるんです」

「・・・だって、の使い方、間違ってない・・・?」

もう一度甘い言葉を囁かれて、私は口ごもる。

夜空に映える綺麗な水色の瞳が、柔らかく細められた。

「間違い、ですか・・・」

ジェイドさんの指が、唇からゆっくり下りて、顎を撫でて耳たぶを揺らす。

わずかに身を捩った私は、体の奥に灯りそうになる何かを押しやって彼を見上げる。

彼は、そんな私の頬を撫でた。

「ねえ、つばき。

 私があなたのこと、好きで好きで、どうしようもないっていうのは伝わってます?」

囁いた彼の瞳が、真っすぐに私を見る。

そこには、湿った熱みたいなものはない。

すごく甘い言葉なのに、真剣な話をしてる雰囲気に、私は素直に口を開いた。

「ん、ちゃんと伝わってるよ」

ジェイドさんの首に腕を伸ばして、そっと耳元に口を寄せ、声をひそめる。

「私もジェイドさんのこと、すごーく好きなの、伝わってるよね・・・?」

「それは・・・」

そっと顔を覗きこめば、彼がにやりと口角を上げた。

ぐい、と顔が近づいて吐息がかかる。

もういっそのこと唇を触れさせたい、と思ってるのは私だけなんだろうか。

すると、彼が囁いた。

「どうでしょう?」

小首を傾げて悪戯っぽく微笑んで言った彼に、私は口を尖らせる。

・・・そういう可愛い仕草が似合うっていうのも、どうなんだろう。

・・・忘れそうになるけど、一応イイ歳なんだから、ジェイドさん。

「あんまり意地悪すると、家出するからね」

からかわれてるのが分かるから、余計に悔しい。

いくら上目遣いに睨んでも、お砂糖が零れ落ちるんじゃないかと思うくらいの甘いカオで、嬉しそうに微笑まれて、毒気が抜かれてしまう。

いつものことだし、この力関係はきっと一生変わらないんだと思う。

だって、積み重ねてきた人生の経験値が全然違うんだから。

「もう・・・」

ため息混じりに呟くと、ジェイドさんが困ったように微笑んだ。

「意地悪ですみません」

「・・・ほんとに私のこと、好きで好きでどうしようもないの~?」

困らせるつもりで、わざと捻くれてみる。

すると彼は、眉を八の字にして私を抱きしめた。

今のところベビーからの苦情は来ないけど、もう少ししたら、ぎゅうぎゅう力を入れるのは止めてもらわないといけないな。

・・・私は痛いくらい、ぎゅっとされた方が安心出来るけど。

そんなことを考えていると、ジェイドさんが体を離して言った。

「好き過ぎて、意地悪したくなっちゃうんです。

 ・・・嫌いになります?」

「なるわけないでしょっ」

若干心配そうにしている彼に、間髪入れずに言葉を返す。

そのひと言に満足したのか、彼が頬を緩める。

私は手を伸ばして、緩んだばかりの両頬を摘まんで引っ張った。

だって、試されてるみたいで悔しい。

「いひゃいれふ」

歳の割にもちもちした頬を伸ばした私を、無防備な彼が見下ろしている。

絶対に他の人の前では晒せないカオに、私の中に渦巻いていた黒い気持ちが、だんだんと萎んで小さくなっていく。

「ジェイドさんのことが好き。

 ・・・意地悪されても大好き。

 ねえ、私の気持ち、ほんとはちゃんとジェイドさんに伝わってるよね?」

そう言った私の両手を、彼がそっと掴んで下ろす。

「ええ・・・十分過ぎるくらい」

「じゃあどうして?」

握られた両手を握り返した私に、彼は困ったように微笑んだ。

「試して、安心したいんでしょうね。

 ・・・あなたの気持ちは、絶対に離れないって」

「・・・そんなことしなくたって・・・」

言葉に困って呟くと、彼が小さく笑う。

鼻から抜けた息は、なんだか自嘲めいていた。

「分かってるんです、自分でも。

 子どもじみたことを、それも15も年下の妻になんて・・・どうかしてますよね。

 でも、好き過ぎてどうしようもないんです。

 だからタナバタのことを思い出したあなたが、何を考えているのか不安で・・・」

ジェイドさんはそう言って、照れ隠しでもするみたいに微笑んだ。

「ほんと、しょうもないです、」

それを見た途端に、私は無意識に彼の手を引いていて。

彼の口が「ね」と言葉を紡ぐ前に、唇でそれを塞ぐ。

「む」

「んっ」

それぞれの口から、くぐもった声が漏れた。


ぶつかるようにしてキスをしていた私達は、どちらからともなく唇を離した。

さすがに息を止め続けるのは、数秒がいいところだ。

ぷはっ、と息継ぎをした私を見て、ジェイドさんがぽかんと口を開けていた。

「愛してる」

言葉をぶつけた私に、彼は一瞬呆気に取られたみたいだ。

私は顔から表情を失くした彼の両手を、もう一度軽く引いてから口を開いた。

「ジェイドさんのこと、愛してるの。

 いなくなったらきっと、どうにかなっちゃう。

 好きだよ、大好き・・・」

「つばき、」

何か言いかける彼を無視して、私は続ける。

手をぎゅっと握って、真っすぐに空色の瞳を覗きこんで。

「だから、意地悪でも何でもして。

 私はジェイドさんのことが大好きだから、何回でも試してくれていいよ。

 ・・・そのかわり、私が家出しても絶対迎えに来てね」

すると彼は、言い切った私を見下ろして小さく息を吐いた。

その顔に浮かぶものが何なのか、私にはよく分からないけど。

「ええ・・・どこに逃げても、探して見つけ出して、連れ戻します。

 ・・・と、いうか、」

ジェイドさんの顔が、目の前に迫る。

鼻を鳴らして、吐息がかかったかと思えば、次の瞬間にはキスが落とされた。

穏やかな声とは裏腹の、噛みつくような乱暴な唇に内心驚いてしまう。

「ふ・・・んんぅ・・・っ」

思わず鼻から抜ける声を、喉を鳴らして聞き流した彼が、わずかに唇に隙間を作った。

「逃がし、ません、よ・・・っ」

深くなるキスの合間に言葉を紡ぐ彼の吐息が、私の頭の中を痺れさせる。

「じぇ、んぅ・・・っ」

名前を呼ぼうとしても、唇が言うことをきかない。

・・・別に逃げようだなんて、これっぽっちも思ってないんだけど・・・。

私は反論したい気持ちとは逆に、彼の唇を懸命に追いかけている自分に呆れながらも、彼の手に指を絡めた。

彼の手がぴくりと動くけど、すぐに絡めた私の指をがっちりと閉じ込める。

食虫植物みたいに、ぴったり閉じて、肌が吸いついてきた。

唇が角度を変えてキスが深くなるたびに、水の跳ねる音が聞こえる。

そうして夢中で、彼のキスに応えていた時だった。

ふいに彼の唇が離れていった。

そして、絡めていたはずの大きな手が、私の肩を撫でて、ゆっくり下りていく。

「大事な体が、冷えてしまいますね」

濡れた唇に風が当たって、冷たい。

寂しい気持ちになって、私は彼を見上げた。

「も・・・おしまい・・・?」

小さな声で囁いた瞬間、彼の目つきが変わる。

ひゅっと細く、鋭くなった。

私がそれに驚いて息を飲むと、彼が黒い笑顔を浮かべて口を開く。

「・・・私ね、ちゃんと勉強してるんですよ」

「な、何のお話ですか?」

なんとなく気圧されて尋ねると、彼はとても嬉しそうな表情を浮かべた。

身の危険を知らせる警報が、頭の中で鳴り響く。

無意識に一歩、後ろへ下がる。

それに合わせてダンスでもするかのように、彼が一歩前に出た。

「お腹にベビーがいても、繋がることは出来るそうです」


次の瞬間、彼が動いた。


「えっ、あっ?!」

情けない声を上げた私を、ジェイドさんは喉の奥で笑い飛ばす。

「ほらほら、大きな声は体に障りますよ。

 ・・・ああでも、声を我慢する方が体に毒かも知れませんね。

 好きなだけ声を上げていいですからね、我慢しないで下さいね」

「何の話かなジェイドさん?!」

抱きあげられて、足をばたばたさせても、彼の腕はびくともしない。

そりゃそうだ。

補佐官だなんて、座りっぱなしの仕事をしてる割に、彼の体つきはがっしりしてる。

あれは脱がなきゃ分からないだけで、本当はかなり鍛えてるに決まってるのだ。

本当は強いけど、強くないと思わせてるだけ。

だから、私がちょっとくらい暴れたって、痛くも痒くもないはず。

「いたたたた、腕が折れそうですー」

「嘘だ、棒読みだし!」

べちん、と肩を叩いた私を一瞥した彼が、楽しそうに肩を揺らす。

その足がお屋敷の中へと向かっていることに気づいて、私は息を吐いた。

こうなったら、もう観念するしかない。

「うふふふふ」

「・・・ジェイドさんがキモチワルイ・・・」

人を1人抱き上げて歩いてるはずなのに、彼の歩く速度はいつもより速い。

不気味な笑みを浮かべたまま歩く彼に、私は呟く。

すると、彼は目だけをこちらに向けて言い放った。

「“意地悪でも何でもして”

 “何回でも試してくれていい”・・・でしたっけ。

 お言葉に甘えて、これからたぁぁぁっぷり、実践させて貰いますね」

絶句。

・・・そういう意味で言ったんじゃないだよジェイドさん。


言葉を失った私に、彼は本当に楽しそうに囁いた。

その声の、艶やかなことといったら、ない。

背中からつま先まで、電流が走るくらいに、色気に溢れていた。

・・・まさか、最近私がベッドに入ってすぐ寝ちゃうことのフラストレーションが・・・?

「疲れて眠ってしまっても、心配しないで下さいね。

 お風呂にも入れてあげますし、着替えもちゃんとしますから。

 ああ、涎が止まりません」

「お、おおかみ・・・」

「失礼な。

 世の中の大多数の男性は、オオカミですし変態です。

 そんな目で見ないで下さい」

「・・・少なくともジェイドさんは、オオカミで変態なんだ・・・」

「そうですが何か」

半目になった私に、彼は甘く微笑んで頷いた。

・・・言っとくけど、変態っていう表現は褒め言葉ではない。決してない。






こうして、ジェイドさんがサプライズで用意してくれた七夕の夕べは幕を閉じた。


もちろん長くて、ねっとりした夜だった。

いつの間にか眠ってしまった私を、彼は言葉通りに世話して寝かせてくれたらしい。

目覚めた時には、爽やかな表情を浮かべた彼が私を見下ろしていて。

鼻唄混じりで着替えさせてくれて、食事まで持ってきてくれた。


そんな彼が、私は大好きだ。


だけど、ひと晩翻弄され続けて体のあちこちが違和感だらけの朝は、仕返ししてやりたい気持ちでいっぱいだった。

だから、私は彼の手を掴んで、お腹を触らせながら言ってやった。

「双子かも知れなくて、もしかしたら標準よりも早めのお産になるかも・・・」と。

・・・これは視力が回復しつつあるルルゼに言われたことだから、絶対の情報ではないけど。

それでも効果はあったらしく、ジェイドさんの落ち込みっぷりといったら・・・。

双子を宿した妊婦さんがどうなるのか、勉強していなかったようである。当然だけど。




私が思っていたよりもずっと落ち込んでいたから、そろそろ安心させてあげなくちゃいけないな。

賢くて優しくて、誰も知らないけど本当はとっても強くて。

それなのにちょっと女々しかったり、うじうじ虫をお腹に飼っていたり。


絶賛増殖中のうじうじ虫を彼のお腹から追い出すべく、私は冷蔵庫に入れてあるカップケーキを取り出して、デコレーションを施す。


大好きなジェイドさんの、ほっとしたカオを見るために。











お付き合いありがとうございました^-^

拍手ページにて、翌朝の会話を掲載中です。

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