#21 "A man can die but once."
†
銃撃と断末魔の轟音が鳴り響く中、その影はゆらりと現れた。
洞窟最奥部、今にもその絶大な破壊を解放せんとする光球をちらりと一瞥し、影の女は吐き捨てた。
「浅ましい」
彼女がここに現れたのは、かつて結ばれた筈のか細い現世との縁が途切れたからだ。目の前にある爆弾など、彼女にとっては隣の家の庭先で撒かれる除草剤程度の不快な存在でしかない。こちらの庭にかかれば多少不快ではあるが、全く興味の無い事柄だった。
だが、いざ近くで見せつけられると、その余りの形振り構わぬ生き汚さと無思慮さに苛立ちを覚える。そうやってこの大地の過半を草も生えぬ砂漠に変えたというのに、手を変え、品を変え、また試そうとしているのだろう。
滅びたいなら、勝手に滅べば良い。
女はそう思う。
だが、こちらの縁を踏みにじろうとするなら、話は別だった。
「まったく、誰に似たのだか」
後ろ手を縛られた少女を助けようとして死んだのか、並ぶようにして頭蓋から血を流し倒れ伏す少年の姿を見遣る。
暗い洞窟の中、庇われた背中を思い出す。
冬の夜、寄り添うように愛を請うた蜜月を思い出す。
全てが喪われた数百年前、あの大嵐の轟く暗い海の中を思い出す。
「……はぁ」
美しい銀細工の指輪を五指に飾った細い腕が、空中を踊るように振りかざされる。
指で幾つもの複雑な文様を刻むと、少年と少女の体は白く光り輝き、傷がみるみる内に塞がっていった。その最中に、以前は感じなかった何かとの繋がりを感じ、女は顔を顰めた。
「……ふぅん」
懐かしくも騒々しい不愉快さと、懐かしさのまま優しい心を持つ友。
二つの名残を嗅ぎ取る。
どうやら暫く会わない内に、自分以外の何かと縁を持ったらしい。運の強い魂だ。十分に想像できたことではあったが、後者ならば百歩譲ることも出来ようが、前者となると話が変わる。
アレが関わるなら、この子供の運命はきっと騒々しくなるのだろう。いっそ隠してしまえば、と数年ぶりの考えが鎌首をもたげるが、それは到底不可能な話だ。女を頭を振って諦めと負け惜しみを口にした。
「言っておきますけど。先約はこちらの方ですからね」
無節操さを咎めるように囁くと、煤や傷も気にすることなく、少年の頬に口付けを施す。
ついでに、悪戯も少々。
このような代物を作る連中と縁を結んでしまうような魂だ。これからも危ない場所に自分から突っ込んでいくのだろう。最低限の命綱くらいは残してやらねばなるまい。それが、かつて■■■■■だった自分に出来る最後の事だと女は信じていた。
少しばかりの細工を施して、影の女は去った。
人形たちに気取られることもなく。
そして、光球は定められたとおりに膨大な熱と光を発しながら弾けた。
それに抗うように、二人の子供を光の繭が包み込み、世界は白に染まった。
†
オルリンクス小洞窟の消滅。
そして、ダンジョンコード・ゴルフの再顕現と、スタンピードの発生。
北西の空に光の柱が立ち上った、その日の夜更け。
調査の為に飛び立った都市防衛軍の早鷲より齎されたのは、不可解な元ダンジョンの惨状と、とびきりの凶報だった。
二か月前にスタンピードを鎮めたはずが、突然、異形の魔窟として拡大成長し、魔物が溢れだしている。都市政庁とギルドは、蜂の巣を突いた大騒ぎとなった。
スコッパーズギルド・アージェント支部は、ありったけのランタンを壁と天井に吊るし、二か月ぶりの不夜城の態を為していた。
武力による事態解決が必要な場合、ダンジョンに関わる事態はギルドが、都市国家間の戦争・反乱・治安維持に関わる事態は都市防衛隊が、というのが定められた役割である。スタンピードの場合は、ギルド支部長を総責任者とし、都市防衛軍が協力をする。対策本部が置かれたギルド会館の大会議室の扉は開け放たれ、職員のみならず、都市防衛隊の兵士を含めた多くの人間が出入りしていた。
「手が空いている者は、市内に走って引退した連中を叩き起こせ! 食料と水はこちらで何とかするから、武器だけ持ってこさせろ!」
痩身らしからぬ大声を張り上げ、ギルド支部長ユルマン・ヘルストレームは陣頭指揮を執っていた。
そこに、連絡員として走り回っている若いギルド職員が、息を荒げながら駆け寄ってきた。
「例の間引きを受けたクランが申請していた都市内の拠点、空だったそうです」
「やはりか」
「ギルド長、申し訳ねぇ。オレが気づかなかったばかりに……」
「気に病むな、ガリベル。現場に、これで見破れという方が無理だ」
傍らに控えたガリベルが、肩を落とす。平時であれば飄々と荒くれもの達を扱う大男のらしからぬ姿を、ユルマンは背中を叩いて慰める。
目の前の円卓には、オルリンクス小洞窟の間引き任務の依頼票と、これを受けたクランの登録証が置かれていた。
サナンダン家が経営するダンジョンの学術調査機関と偽り、オルリンクス小洞窟の間引き任務を受けた件のクランは、忽然とアージェントから姿を消していた。
クランはギルドの任務を受ける際に、ギルド登録証を提出する義務がある。だが今回は別の地方支部で登録されたクランであり、その登録証は偽造ではなく本物だった。任務の度に背後調査など行うはずも無く、多少の素性の怪しさなど気にしていては、そもそもスコッパーなどやってはいられない。
これが偽りであるとわかったのも、協力を申し出てきたアルカディア商会に居候しているサナンダン本家の娘の力があったからこそだ。非常に精密な偽装印であると断言され、詳細は中央の鑑定士の見解待ちではあるが、限りなく『黒』だろう。
「爆発の件は、今はいい。それよりも――――」
「二度目の早鷲、戻りました!」
「どうだ!?」
貴重な大鷲を出し惜しみしている余裕は無く、二次偵察の為に飛んだ偵察兵が戻ってきた。冬も近い上空の寒風に晒され、顔を赤くした防衛隊の隊員が報告する。
「コード・ゴルフ周辺の森は、完全に侵食されています。以前の洞窟も大きく変化し、すり鉢状の大穴が空いて、異界化している模様。オークを中心とした魔物の群れはおよそ千五百。方々に散らばっていますが、半ばはコード・フォックストロットに向かっています」
「千五百……」
集まった面々の顔に、苦渋の色が滲む。
想定よりも多い。しかも鷲が戻ってくる前の段階で観測できた数字だ。こうしている間にも魔物は増え続けている。西部遠征と二か月前のスタンピードで人材の多くを失ったアージェントには厳しい数字だ。
スタンピード状態に陥ったダンジョンは、魔物の生成速度が速まり、ダンジョンコアの破壊を行うまで止まることは無い。時間を追うごとに敵は増えていく。
市内に拠点を構える有力クランの長が、防衛隊長に声をかけた。
「フォックストロットを落とされて、『共鳴』が起こるまでに何時間かかるかだが……止められるか?」
「両方共に変異型だから、攻略の速度も読めん。今から進発して、騎馬隊だけを全力で先行させても数時間はかかる。その状態で魔物の大群を相手しての長時間の野戦は難しい」
スタンピードを起こした魔物は半ば無軌道にダンジョンから散らばり、周辺を荒らす。その一方で、近場に別のダンジョンが存在すると、そのダンジョン自体を侵略し始める。彼らが最深部まで達すると、ダンジョン同士が『共鳴』し、双方の更なる領域拡大を起こす。二か月前の連鎖顕現時にアージェント都市が残された総力を挙げてダンジョンを潰しにかかったのは、それを防ぐ為でもあった。
彼らの議論を遮り、偵察兵の報告は続く。
「近隣の村々はたたき起こして避難を指示しましたが、一つ、逃げ遅れた村は、既に遅く……飲まれました」
「ヤトー村か。あそこは目と鼻の先だったからな、畜生め」
会議に集ったクラン長の一人が、拳を円卓に叩きつける。
「しかし、よりによって、夜か」
「冬も近い。早めにケリをつけんと大変なことになる」
都市警備隊を預かる隊長と、都市外縁警備隊の隊長が危惧を口にした。
洞窟の暗闇に慣れたスコッパーといえど、夜目のきく魔物達相手に野戦など専門外もいいところだ。
今年は冬の訪れが遅い。これが既に積雪が始まる真冬であったらと想像するだけでも頭痛は深くなる。雪に足を取られ、行軍はもちろん、農村部の住民の避難すらままならなかっただろう。
ユルマンは頷き、ガリベルと共に傍に立つ秘書官に振り向いた。
「ギルドとしての援助要請の返答はまだか?」
「テラトール、アルゲン共にまだ返事はありません。さすがにまだ届くのには時間を要するかと」
広大な北部の都市間を電話線で繋ぐ余裕など無い。強化印を仕込まれた鳩とはいえ、数時間で往復など不可能な距離である。
「そちらの数はどうだ? 防衛隊長殿」
「非番と予備役も総動員で、北門前広場に招集をかけさせている。だが、警備隊で出せるのは九百が限界だろう。それ以上は、街が危うい」
無謀な西部への遠征と、先日のダンジョン連鎖顕現で大きな犠牲を払ったのは、スコッパーだけではない。都市防衛隊からも多くの兵士が供出され、山狩りを含めて大勢の死傷者が出ている。いかにスタンピードといえど、アージェントほどの規模の大きな都市の守り自体を空にするわけにはいかない。年嵩の都市防衛隊の隊長は、苦々しく現状を口にした。
「スコッパーの内、まともに戦えるのは、四百。間引きで各地に散らばっている連中が戻ってくれば、もう二百はかき集められる。だが、何日先になるかわからん」
「ひとまずは千三百か」
「包囲戦になる。足りんな」
ユルマンの言葉に、集った一同の眉間の皺は深くなる。
スタンピードの魔物は好戦的だ。
小集団でも逃せば、生産地域の村々に対抗する手段は乏しい。大軍を以て包囲殲滅するのが常道だが、全く数が足りない。
「致し方あるまい。政庁に対しては非常事態宣言の発布と、防衛隊の出撃許可、連合加盟都市に対する緊急援軍要請を重ねて依頼する」
あくまでスコッパーズギルドは、都市政庁からダンジョンに関する業務を引き受ける認可を得た委託機関に過ぎない。他の都市防衛隊への直接の援軍要請の権限は外交の範疇だ。都市防衛隊の出撃許可を含め、政庁が動かねば出来ないことはあまりに多い。
ユルマンの言葉を聴いて、防衛隊長は苦々しく頷く。
「伝令は出す。だが、執政官と政務官たちはいま、会議中だ」
「この期に及んで会議中だと!? 連中は何をしているんだ!? 元々奴らの失策が招いたことだろう!」
防衛隊長が眉根に皺を寄せ、呻くように答える。その言葉に激高したクラン長達は、分厚い拳を机に叩きつけて立ち上がった。
「何を今更会議などと! ここに足を運べばよいことだろうが!」
「よせ。今更出てこられたところで何もならん」
「未だ近隣地域に避難指示も出しておらんのだろうが!
「隊長殿を詰っても始まらん、控えろ、グレド、リヴェース」
「しかしだな――」
納得しかねる様子で食ってかかるクラン長達に、ユルマンはそっと鼻から息を吐く。
文句を言いたい気持ちは彼らと同様だった。立場が違えば、彼らと肩を並べて不平を漏らしていた事だろう。事ここに居たって、未だに何の対策も打とうとしない政庁が機能不全に陥っていることは明白だ。この騒動でギルドが持ち出す物資の追加予算すら、まともに当てられるかも怪しい。
だが、まずは生き延びなければならなかった。
アージェントの近隣を含めた北部数十万の命が、この初期対応の誤りで無残に地に堕ちる。無策の貴族達をどうこうするのは、この明けるかもわからぬ長い夜を超えた後でいい。
白熱する議論を遮ろうとユルマンが息を吸い込んだ瞬間、大鷲の羽音と、馬のいななきが聞こえた。
会議室の外が騒がしくなる。何事かと開け放たれた扉に一同が目を向けると、しばらくしてムラクモとイズラハが顔を出した。それぞれの背中には、意識を失った子供が担がれている。
「――――遅くなった」
「ムラクモ!」
焼けた鎧の痕跡は痛々しく、歴戦の傷が刻まれた男の顔面には、汗と砂塵が滲んでいる。自分にも馬にも、回復薬と活性剤を使って強引に駆けてきたのだろう。戦いと疲弊の色を隠せていない戦士の珍しい姿に、ユルマンは息をのんだ。
「遅か……いや、いい。その子供たちはどうした?」
ムラクモの背中には愛用の大剣の代わりに灰色の髪の少年が。協力を申し出てすぐ大鷲で飛び出していったイズラハの背中には赤髪の少女が、それぞれ紐で縛り付けるようにして背負われている。
「例の光の柱の、生存者だ。おそらくな」
眠る少年を見遣る気づかわしげにイズラハをよそに、戦士は背中から下ろした少年を両手で抱きかかえた。
†
アージェント都市の大公会堂には、都市を治める役割を担った貴族達が詰め寄せている。執政官の管理責任を追及する声は大きく、その喧噪は遥か高くにある執務室にまで聞こえてくるほどだった。
眼下に大公会堂の明かりを見下ろしながら、老人は鬱陶しげに呟いた。
「あやつら、しくじりおったか」
熱く人類の救済を説いた科学者達の姿を思い出しながら、都市の最高責任者である執政官ギネア・ノク・エアラインは毒づく。
大鷲隊による報告は、彼の元にも届いている。
第五元素爆弾。
ダンジョンをこの世から完全消滅させると息巻いていた破壊の種は、青白い顔をした科学者達の言う通りの結果を成し遂げた。しかし、一方で、残されたダンジョンは暴走し、魔物達が地上に溢れている。人類を救うと豪語した実験の代償というには余りにも大きい置き土産だ。ツケは全て残された者に支払わせようということだろう。
彼らとの仲立ちを務めたダーリントン鉄道連盟の支局長も、未だに顔を出していない。あれほど低姿勢で老人を毎日のように頼ってきたにも関わらずだ。商売人の変わり身は呆れるほどに鮮やかだった。今頃、こちらに全ての非を押し付け、己は中央に逃げ帰る為の算段でも整えていることだろう。
老いた指が葉巻に伸びて、煙が宙に舞う。
いっそのこと、やはりここで使わせれば良かったのだ、と老人は思う。
鬱陶しいものは全て更地と消えて、憂う必要など無くなるのだから。
「失礼いたします、執政官殿、重ねてお願い申し上げます。大公会堂へお越しいただけませんでしょうか」
老人の補佐役を務める初老の政務官が、ノックもそこそこに入室して告げる。
二十年の長い勤めで老練と呼ぶべき手腕を身に着けた男も、今回ばかりは珍しく弱った様子であった。
「執政官殿の責任を問う声があまりにも大きく、私どもでは抑えられそうにもありません。騒ぎをかぎつけてきた都市連合の監査官も、面会を求めております」
「ふん、腐った亡霊の犬どもが」
老いた政治家は吐き捨てた。
政務を預かる貴族共は良い。まだ躱しようもあるが、大陸都市連合の法の番人を気取る犬の存在は不愉快でしかなかった。
大陸に点々と残った避難所と、ダンジョンと戦う前線基地を起源とした都市国家は、その連帯で以て魔物に立ち向かう。生存者の紐帯と相互互助を謡った都市国家連合などという組織は、数百年の時を経て生き残った貴族達の利権争いの場と化した。
そんな現状を変えようと勇んだ若者がいた。かつての老人である。
老いた父に代わり、贈賄で腐敗した議会を一新し、ダーリントン鉄道連盟と強いパイプを持つ改革派の旗頭と目された若き執政官は、周囲の嫉妬を一心に受けた。中央にも比較的近い交通の要所たる地理と豊富なダンジョン資源を疎んだアージェントの力を奪おうと、妻と息子を政争の具として謀殺し、政略結婚で嫁いだ娘も病死に追いやっておきながら、己の非を問う。
周囲の貴族達は己の身を守ることにばかり固執し、愚かな大衆は恵まれた貴族どもが死ぬのは痛快だと笑った。
人面獣心の輩は道理すら母親の胎の中に置いてきたらしい。
失政の責を問う? 馬鹿馬鹿しいことだ。
老執政官は思う。
何もしなかったのは誰だ。
放っておけば滅びに向かう死に満ちた世界で、我利を貪り、責任を他者に押し付け、都合の悪いことには口をつぐむ。
その無知蒙昧さでもって人類の命脈を悪戯に絶えさせようとしている烏合の衆に、なぜ己が責められなければならないのか。
老人は鼻を鳴らし、立ち尽くす初老の男に背を向けた。
「私は行かぬ。行ったところで何になる。ただ火にくべるだけの藁であろうが」
「……残念です」
途端、返ってきた声は、常日頃から老執政官を補佐してきた政務官のモノではなかった。驚きながら振り返ろうとした矢先、視界の端に紫電が走った。
「ぐぅッ!?」
同時に訪れた激痛に耐えきれず、執政官は胸を押さえ、執務卓に突っ伏す。
全身が痺れ、手足に力は入らない。先ほどまでの沈痛な様子からは想像もつかぬ笑顔で近寄ってくる補佐官の姿を、執政官は呆然と見上げた。
「ご協力に感謝申し上げますよ、執政官殿。おかげで良い実験データが取れました。ですが、この段に至って、ご自身が矢面に立たれないというのは、少しばかり指導者としてのお仕事をお忘れのようだ。そうであれば、ご自身の命でもって責を償い、後進に跡を託されるべきかと」
「お前、は、たしか――――」
謹厳で知れた政務官は、その様子に似つかわしくない振る舞いで、大仰に大きく手を広げる。全く別人の声だった。だが、その声と身振りには覚えがある。研究者達を率いて現れた所長と名乗る若い男のものだ。
「政務官は――――」
「彼は実に素晴らしい人材だったのでしょうね。貴族の血を引かない、努力で貴方の傍らにまでのし上がったエリート。だから、こうなってしまったのはとても私としても残念なことです。原型刻印を持たない方にしか、この術は使えませんから」
見慣れた初老の男の顔に、翳された手が食い込む。剥がれ落ちるようにして偽りの肉と髪が取り去られると、その下には銀髪と紫紺の瞳が現れる。
「あ、悪魔、の類か」
「まさか。私は人間ですよ。あなた方などより余程真面目な、ね」
どさり、と装束が落ち、初老の政務官を形作っていた偽装が剝がれていく。布も、肉も、ぼとりと地に落ちた瞬間に光となってかき消え、いつの間にか以前に老人と会った白衣の男の姿がそこにはあった。
苦しむ老人に対して、親しげに肩に手を回し、男は囁く。
「後のことはご心配いりませんよ――――お孫さんがおりますね? テラトールの女学校に。私共にも貴族方にもずっとひた隠しにされていた、かわいいかわいいお孫さんが。もうご自身の血を引く者が政治の道具にされるのはお嫌だったのでしょうかねぇ?」
「貴、様」
二十年共に仕事をしてきたこの補佐官にすら、話したことのない秘中の秘をいとも簡単に口にされ、老人は目を剥いた。
息子の死後、偶然にも庶子の存在を知った老人は、孫が二度と政治に関わらないよう、その母親を含めてアージェントから脱出させ、保護を与えていた。それを知るのは、身の回りに置く家宰のみだった。
だが、この補佐官が、誰にも気づかれず他人にすり替わるほどの力を持っているのだとすれば――――。
「混迷した人心をまとめるには、美しく健気な人身御供が必要です。後は万事お任せください。執政官殿。ゆっくりと、天国でご家族とお過ごしあれ」
落ちてくる瞼の重みに耐えきれず、老人は意識を闇に落とした。
痛みと眠気で混濁する意識の中、浮かぶのは喪った家族達だ。
アンナ。
アーダルベルト。
セシリア。
そして、イレーナ。
喪って、喪って、喪って――――最後にまた失う。
預言者の十氏族ではない貴族達に対して、共通して向けられる蔑称、十一番目の出がらし。
その軽侮を跳ねのけ、北部に真の紐帯を齎そうと勇躍したかつての改革者。
その名声は、家族を失った後の晩年の失政で地に堕ちた。
アージェント都市の後の歴史には暗君として刻まれることになる老人の生涯は、意図せぬ形で最後の幕を下ろすことになった。
「”人間一度しか死ぬことはできない”――――羨ましいことです」
哀れなものを見るように一瞥し、男は指を鳴らした。
その姿が影に溶けて忽然とかき消える瞬間、去り際に指ではじいた花瓶が地に落ちた。物音を聞きつけた警備役の衛兵たちが、訝し気に部屋の扉を開けた。
「失礼いたし……いかがなされましたか、執政官殿!」
「医官、医官を呼べ!」
そっと姿を消した何者かなどに気づくこともなく、花瓶の破片と共に床に散ったドライフラワーを、慌てた男達が足蹴にする。
褪せた赤いユリの花弁が、砕けて散った。




