閉夜 ― リラ=ファブラの閉じの語り
七つの夜は、ここでひとまず閉じられます。
けれど、どうか間違えないでください。
閉じる、という言葉は、終わる、という言葉と同じ形をしてはいません。
本を閉じる指先の向こうで、まだ頁は熱を持っています。
灯を吹き消したあとの部屋にも、火の匂いは残ります。
語り終えた夜のあとにも、物語は、しばらく耳の奥で息をしているものです。
赤い頭巾の森がありました。
そこでは、狼が腹を空かせていました。
けれど狼が喰らおうとしたものは、ただの肉ではありませんでした。
祖母から母へ、母から娘へと渡された呼び名。
血の赤ではなく、守るために結ばれた赤。
あの子は、森の暗がりで、自分の名を喰われないために歩きました。
人魚の沈黙がありました。
海の泡へ消えた娘は、声をなくしたのではありません。
声を、誰かの願いのために差し出したのです。
けれど差し出した声が、奪われたものとして沈むのか、選んだものとして海へ還るのか。
その違いを、物語は長いあいだ忘れかけていました。
だから夜は、彼女の沈黙を、ただ悲しいだけの泡にはしませんでした。
灰かぶりの炉辺がありました。
灰は汚れではありませんでした。
燃やされた記録の残り。
奪われた家名の欠片。
母が最後まで手放さなかった祈りの粉。
灰をかぶせられた娘は、王子に見つけられるために舞踏会へ行ったのではありません。
他人に押しつけられた仮名を脱ぎ、自分の名で立つために、硝子の床を歩いたのです。
雪肌の棺がありました。
鏡は顔を比べていたのではありません。
誰がもっとも正しく世界に残っているかを映していました。
毒林檎が止めようとしたのは、ただの息ではありません。
生きていたという記録。
その人がそこにいたという輪郭。
硝子の棺は死を飾る箱ではなく、死んだと記されかけた生を、消させないための眠りでした。
百年眠った王国がありました。
茨は城を守りました。
けれど、守ることは、ときに奪うことでもありました。
朝を。
別れを。
老いを。
変わっていく痛みを。
眠り姫が目覚めたのは、百年前へ戻るためではありません。
止まった続きを、百年後の朝へ進めるためでした。
パン屑の道がありました。
小さな兄妹は、帰るために食べ物を落としました。
けれど飢えた森では、祈りさえ食べられてしまいます。
パン屑に刻まれた名は鳥に啄まれ、道は消えました。
それでも、兄妹は互いの名を呼びました。
甘い家の壁に焼き込められた子どもたちの名を、もう一度、菓子ではなく子どもとして呼び戻しました。
そして、開かずの記録室がありました。
鍵を渡された花嫁は、禁忌を破った罪人ではありませんでした。
彼女は、閉じ込められた名の前に立った証人でした。
血のついた鍵は、汚れではありません。
読まれなかった日記。
届かなかった手紙。
削られた銘板。
妻という名に呑み込まれる前に、それぞれの名を持っていた者たちの、赤い証でした。
七つの夜には、どれも消されかけた名がありました。
喰われそうになった名。
奪われかけた声。
押しつけられた仮名。
死者として記されかけた生。
止められた未来。
帰れなかった子どもたち。
閉じ込められた花嫁たち。
けれど、物語はそれらを一つずつ拾いました。
森の土から。
海の泡から。
炉辺の灰から。
雪の下から。
茨の奥から。
パン屑の消えた道から。
鍵のかかった部屋の暗がりから。
拾い上げたからといって、すべてが救われるわけではありません。
失われた声は、完全には戻らないことがあります。
閉じられた時間は、なかったことにはできません。
帰れなかった子どもは、帰れなかったままです。
消された花嫁たちは、もう婚礼の日の朝へは戻れません。
けれど、なかったことにはさせない。
それが、物語にできる小さな抵抗です。
夜は深く、世界は何度も名を失います。
強い者は、弱い者の名を別の名で呼ぼうとします。
都合の悪い声を、沈黙と呼びます。
閉じ込めた記録を、保存と呼びます。
奪った未来を、守ったのだと言います。
けれど、どこかに語る者がいるかぎり。
どこかに読む者がいるかぎり。
どこかに、これは本当にそうだったのかと問い返す者がいるかぎり。
失われた名は、完全には沈みません。
たとえ、童話が甘く語り直されても。
たとえ、王子の口づけや、魔女の炉や、硝子の靴ばかりが覚えられても。
その奥には、まだ小さな名が残っています。
赤い布の結び目に。
泡立つ波の白さに。
炉辺の灰のぬくもりに。
硝子棺の曇りに。
茨の棘の影に。
白い羽の落ちた道に。
血のついた鍵の重みに。
本の表紙を閉じても、物語はどこかで息をしています。
閉じることは、終わることではありません。
夜を終えることは、夜がなかったことになる、という意味ではありません。
ただ、灯を少し低くするだけ。
声を、次の夜までしまっておくだけ。
鍵を、束の中へ戻しておくだけ。
まだ開かれていない扉があります。
まだ拾われていない名があります。
まだ、語られるのを待っている物語があります。
それでは、今宵はここまで。
七つの夜は、ひとまず閉じられます。
けれど鍵はまだ、束の中に残っています。
次に開く扉が、どこにあるのか。
それはまた、別の夜に語ることにいたしましょう。




