第5節 ― 塔の上の姉と消された花嫁たち
蒼髭館の広間は、あまりにも美しかった。
高い天井から吊るされた硝子燭台には、青白い炎が灯っている。壁には金糸の織物がかかり、床には深い藍の絨毯が敷かれていた。暖炉には火が入り、銀の食器は磨き上げられ、花瓶には季節を外れた白薔薇が飾られている。
そこだけを見れば、幸福な婚姻の祝宴の場だった。
けれど、イリスには分かっていた。
この広間に置かれているのは、祝福ではない。
裁きでもない。
もっと冷たいもの。
記録を、静かに書き換えるための場所だった。
広間の中央には、細長い卓が据えられていた。祭壇に似ていたが、神へ祈るためのものではない。天板には青黒い金属の線が何本も走り、その線はひとつの大きな錠へと集まっている。卓の上には、婚姻契約書、家名統合台帳、封蝋、羽根ペン、そして薄い刃のような記録具が整然と並べられていた。
バルザール=アズールは、その前に立っていた。
青黒い髭は、燭台の光を受けて、濡れたインクのように艶めいている。先ほどまでの柔らかな夫の顔は、もうない。だが怒り狂っているわけでもなかった。彼は、むしろ穏やかだった。あまりにも穏やかで、だからこそ恐ろしかった。
イリスはその穏やかさの意味を知った。
この男にとって、これは激情ではない。
何度も繰り返してきた手続きなのだ。
「そこへ」
バルザールが言った。
指先で示されたのは、記録台の前だった。
イリスは動かなかった。
手の中で、血記鍵が熱を帯びている。赤く濁った鍵先が、彼女の掌にじわじわと痛みを伝えていた。まるで、部屋の奥で呼び戻された六人の花嫁たちが、そこからまだ声を送り続けているようだった。
――私たちの名を使って。
――鍵は扉だけを開けるものではない。
――閉じられた記録を、外へ出すものでもある。
その声が消えない。
消えないから、イリスは立っていられた。
「イリス」
上から、姉の声がした。
アンナだ。
彼女は塔へ向かったはずだった。古い伝信鐘を鳴らすために。だが蒼髭館の壁は厚く、館そのものがひとつの封印具になっている。外へ助けを呼ぶ鐘の音は、まだ届いていない。
それでも、アンナの声だけは届いた。
塔の回廊から、彼女は身を乗り出していた。白い顔。乱れた髪。震える手は、古い鐘の綱を握っている。
「イリス、そこに立たないで!」
バルザールは、ゆっくりと上を見上げた。
「アンナ嬢。姉妹の情は美しい。だが、家の記録に口を出すものではない」
「家の記録?」
アンナの声が震えた。
「あなたが消した女の人たちのことを、そう呼ぶの?」
「消したのではない。整えたのだ」
バルザールは淡々と答えた。
「家に入った者は、家の名に従う。妻とは、夫の家に記される存在だ。クラヴィア家の娘たちは、古い鍵の家だったな。ならば分かるだろう。鍵とは、所有の証だ。開く権利を持つ者が、その場所の主となる」
「違うわ」
イリスは、ようやく声を出した。
喉は乾いていた。けれど、その声は思ったよりもはっきり広間に響いた。
「鍵は、閉じ込めるためだけのものではありません」
バルザールの目が、イリスへ戻る。
「まだ言うのか」
「言います」
「その口で、最後まで?」
「最後ではありません」
イリスは、血記鍵を握りしめた。
「これから始めるのです」
バルザールの微笑みが、細く歪んだ。
「では、始めよう」
彼は婚姻契約書を広げた。
その紙は羊皮紙ではなかった。薄く加工された、青白い記録皮膜だった。光を受けると、表面に細かな文字が浮かぶ。イリスが婚礼の日に見た契約文とは違う。そこには、後から浮かび上がった条項があった。
妻が家内禁記に触れた場合。
妻が夫の信任に反し、隠匿記録を開封した場合。
妻が家名保全に害をなす証言を行った場合。
その名、財、証言権、家系記録の一切は、夫方家名に統合される。
イリスは息を呑んだ。
それは罰則ではなかった。
最初から用意されていた、消去の形式だった。
バルザールは記録台の前に立ち、羽根ペンを取った。その羽根は黒く、軸には青い蔓の模様が巻いている。ペン先が紙に触れると、インクではなく、薄い青い光がにじんだ。
「イリス=クラヴィア」
彼が読み上げる。
その瞬間、イリスの胸の奥で、何かが引かれた。
名前。
自分の名前。
それが、誰かの指で糸の端を摘まれたように、少しだけ遠のいた。
「不従順により、アズール家記録へ統合」
広間の空気が重くなる。
壁の肖像画が、微かに揺れた。
空白の銘板が、青く光った。
「以後、個人名としての使用を停止」
イリスの膝が崩れかけた。
自分の名が、自分の中から薄れていく。
イリス。
クラヴィア。
父が呼んだ名。
姉が呼んだ名。
古い記録鍵の家に生まれた娘として、彼女が持っていた名。
それが、青いインクの中に沈められていく。
「イリス!」
塔の上から、アンナが叫んだ。
その声が、広間を裂いた。
薄れかけた名が、胸の奥で弾けるように戻る。
イリスは大きく息を吸った。
私は、ここにいる。
まだ、いる。
バルザールの眉が動いた。
「姉妹の呼び声ごときで、記録は覆らない」
「覆ります」
イリスは顔を上げた。
「少なくとも、あなたが思うほど、名は従順ではありません」
彼女は血記鍵を胸の前に掲げた。
鍵先の赤い濁りが、燭台の光を吸い、深い血色へ変わる。鍵束につながれた他の鍵も、かすかに震えはじめた。金の鍵。銀の鍵。青銅の鍵。黒鉄の鍵。そのすべてが、小さな鈴のような音を立てる。
バルザールの顔から、初めて余裕が消えた。
「何をするつもりだ」
「読むのです」
イリスは言った。
「あなたが読ませなかった人たちを」
そして、最初の名を呼んだ。
「ミレーユ=サント」
広間の左手、音楽室へ続く扉の向こうで、かすかな音がした。
誰も触れていないはずの鍵盤が、ひとつ鳴る。
続いて、二つ。
やがて古い旋律が、扉の隙間からこぼれ出した。途切れ途切れの、けれど確かに誰かが弾きかけていた曲。途中で終わらされ、二度と続きが奏でられなかった旋律だった。
広間の壁にかかっていた空白の肖像画に、淡い輪郭が浮かぶ。
髪を結った若い女。
指先に楽譜のインクがついた女。
彼女は、驚いたように目を開けた。
イリスは二人目の名を呼ぶ。
「オルファ=レイン」
刺繍室の方で、針が床へ落ちた。
小さな音だった。
けれど、その音は広間じゅうに響いた。
刺しかけの布が、誰もいない空中でふわりと持ち上がる。そこには未完成の花模様があった。花びらの一枚だけが赤い糸で縫われ、残りは白いまま止まっている。針は、その続きを待っていた。
三人目。
「セラフィナ=クロウ」
温室へ続く硝子扉の向こうで、枯れないまま閉じていた白い花が一斉に開いた。花弁の奥から、黒い種のような文字がこぼれる。手紙の断片だった。出されなかった手紙。家族へ届かなかった言葉。そこには震える筆跡で、ただ一行が残っていた。
私は、帰りたい。
四人目。
「リディア=ヴェル」
鏡台のある寝室から、古い櫛が滑り落ちた。櫛の歯に、長い髪が戻っていく。夜明け前に梳かれたまま、持ち主の名ごと奪われた髪だった。鏡の表面に、女性の背中が映る。彼女は振り向きかけて、涙をこぼした。
五人目。
「ノエル=アスター」
破られた手紙が、空中へ舞い上がった。
紙片は広間の上で集まり、ひとつの文章へ戻ろうとする。封蝋は割れ、宛名は削られていた。それでも紙は、必死に自分が誰へ向けられていたのかを思い出そうとしていた。
六人目。
イリスは、最後の名を呼ぶ前に息を整えた。
この名は、記録室の奥にあった。
もっとも新しい花嫁。
もっとも強く消されていた名。
日記の最後のページがほとんど黒く塗りつぶされていた女。
「エヴァ=ルシェ」
婚礼衣装の箱が、広間の奥で開いた。
中から、白い裾がこぼれた。
その裾は床を滑り、誰かが歩くように揺れながら、記録台の前まで来る。布地には青いインクの染みが幾筋も残っていた。血ではない。だが血よりも深く、その女の名を汚した記録の染みだった。
六つの気配が、広間へ集まる。
それは亡霊ではなかった。
少なくとも、ただの死者ではなかった。
彼女たちは、記録の中に沈められていた名だった。
語られず、呼ばれず、夫の家名の奥に閉じ込められ、自分の声を失っていた者たちだった。
バルザールが一歩退いた。
「やめろ」
声に、初めて乱れが混じった。
「それらは、わたしの家の記録だ」
広間の燭台が揺れる。
「わたしの妻たちだ」
壁の肖像画の空白が、次々と剥がれていく。
「わたしが管理する名だ」
イリスは、血記鍵を下ろさなかった。
「いいえ」
静かに言った。
「彼女たちは、あなたの所有物ではありません」
六つの影が、イリスの背後に立つ。
ミレーユの旋律が、震えるように続いた。
オルファの針が、赤い花びらを縫い足した。
セラフィナの白い花が、黒い種を落とした。
リディアの櫛が、鏡の前に戻った。
ノエルの手紙が、宛名を取り戻そうと光った。
エヴァの婚礼衣装が、裾を翻した。
「妻である前に」
イリスは言った。
「それぞれの名を持っていた人です」
塔の上で、アンナがもう一度、鐘の綱を引いた。
古い伝信鐘が鳴る。
今度は、音が閉じ込められなかった。
イリスの手の中で、血記鍵が赤く輝いたからだ。
鍵は、音の出口を開いた。
鐘の響きは塔の壁を抜け、蒼髭館の屋根を越え、青黒い蔦のように絡んでいた封印を裂いて、外へ放たれた。
王都の記録院へ。
クラヴィア家の古い証人台へ。
近隣の教会の鐘楼へ。
眠らされていた使用人たちの記憶へ。
そして、かつて六人の花嫁を見送りながら、二度と戻らなかったことに疑問を抱きつつも、口を閉ざしてしまった人々の胸の奥へ。
蒼髭館の沈黙が、割れはじめた。
廊下で、使用人たちが顔を上げる。
閉じられていた扉の隙間から、古い声が漏れる。
庭の門が軋む。
礼拝堂の祭壇に置かれていた名無しの花束が、六つに分かれる。
バルザールは、記録台の上に置かれていた青黒い刃を取った。
それは剣に似ていたが、刃は薄く、光を透かしていた。肉を斬るためのものではない。名前と記録を切り離すための刃。婚姻記録から妻の個人名を削ぎ落とし、夫の家名へ溶かすための道具だった。
「ならば」
彼は低く言った。
「お前も記録になれ」
バルザールが踏み出す。
その瞬間、六人の花嫁の影が揺れた。
けれど彼女たちは、イリスを守るために前へ出たのではない。
イリスに、道を空けたのだ。
広間中央。
婚姻記録台の下。
青黒い金属線が集まる、ひとつの大きな錠。
それは、開かずの記録室だけではない。
蒼髭館そのものの記録を封じる主錠だった。
イリスは駆けた。
バルザールの刃が、彼女の肩先をかすめる。布が裂ける。名の端を引かれるような痛みが走る。だが、イリスは止まらなかった。
血記鍵を、主錠へ差し込む。
鍵は、まるで最初からそこへ入るために作られていたかのように、深く沈んだ。
バルザールが叫んだ。
「やめろ!」
イリスは振り返らない。
両手で鍵を握る。
手の中に、六人の花嫁の名が重なる。
塔の上から、アンナが叫ぶ。
「イリス!」
その声が、最後の力になった。
イリスは鍵を回した。
蒼髭館が、軋んだ。
壁の奥で、無数の錠が外れていく音がした。
図書室。
音楽室。
刺繍室。
温室。
礼拝堂。
寝室。
地下。
廊下。
肖像画。
日記。
手紙。
衣装箱。
そして、開かずの記録室。
ひとつずつ、閉じ込められていた記録が開いていく。
青い炎が、白く変わった。
広間の壁一面に、消された花嫁たちの名が浮かび上がる。
ミレーユ=サント。
オルファ=レイン。
セラフィナ=クロウ。
リディア=ヴェル。
ノエル=アスター。
エヴァ=ルシェ。
そして、その下に、まだ消されていない第七の名。
イリス=クラヴィア。
館全体が、開いた。




