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第2節 ― 炉辺に残る母の名

 舞踏会の前夜、灰冠の屋敷は眠らなかった。


 広間には燭台がいくつも運び込まれ、鏡は磨かれ、階段には白い布が敷かれた。玄関扉の金具には油が差され、馬車止めには新しい砂が撒かれた。屋敷そのものが、明日の夜だけ別の家名を名乗ろうとしているようだった。


 エラは廊下の端で、銀盆を抱えて立っていた。


 盆の上には、温めた香油の小瓶、手袋、櫛、髪飾り、そしてマルヴィナが衣装部屋から出してくるよう命じた小さな黒檀の箱が載っている。


 その箱を渡されたとき、エラは中身を知らなかった。


 けれど、蓋に刻まれた細い光の紋を見た瞬間、心臓が不意に強く打った。


 ルミナの小花紋。


 母のものだった。


「遅いわ、灰かぶり」


 衣装部屋の扉が開いた。


 中は、昼のように明るかった。燭台の炎が幾重にも鏡に映り、青銀と桃白の布が部屋じゅうに波のように広がっている。香油と白粉と絹の匂いが混ざり合い、炉辺の灰に慣れたエラの喉には、少し息苦しいほどだった。


 ドロシアは青銀のドレスをまとって立っていた。


 肩を大きく開けたその衣は、王都の硝子灯に映えそうな冷たい輝きを持っていた。縫い直した袖口には、エラが夜通し針を通した細かな銀糸が走っている。


 ベルティナは桃白のドレスを抱えて椅子に座り、足をぶらつかせていた。まだ着つけを待っているのに、もう舞踏会で誰と踊るかを想像しているらしく、頬が紅潮している。


 マルヴィナは鏡の前で、ドロシアの首元を整えていた。


「箱を」


 エラは銀盆を差し出した。


 マルヴィナは黒檀の箱を手に取り、ゆっくりと蓋を開けた。


 中から現れたのは、淡い金色の首飾りだった。


 細い鎖。

 小さな楕円の飾り。

 中心に埋め込まれた、乳白色の石。


 派手な宝石ではない。王都の貴婦人たちが好むような大粒の真珠でも、深紅の宝玉でもない。けれど、その石の奥には、朝の光を閉じ込めたような柔らかな輝きがあった。


 エラは、息をするのを忘れた。


 母の首飾りだった。


 母が特別な日にだけ身につけていたもの。父の記念日や、春の名祈りの日や、エラの誕生日の朝にだけ、首元で静かに光っていたもの。


 幼い頃、エラはその石を指で触ったことがある。


 冷たいのに、なぜか寂しくない石だった。


 母は笑って言った。


 ――これはね、光を飾るものではないの。帰る場所を忘れないためのものよ。


 マルヴィナが、その首飾りをドロシアの首にかけた。


 鎖が白い肌の上に落ちる。


 その瞬間、エラの胸の奥で、何かが音を立てて燃え上がった。


「それは……」


 声が出た。


 自分でも驚くほど鋭い声だった。


 マルヴィナの指が止まる。


 ドロシアが鏡越しにエラを見た。ベルティナも顔を上げた。


「何かしら」


 マルヴィナの声は静かだった。


 静かすぎた。


 エラは銀盆を握りしめた。金属の縁が指に食い込む。


「その首飾りは……母のものです」


 言ってしまった。


 部屋の空気が、急に冷えた。


 ベルティナが目を丸くし、すぐに面白そうに笑った。ドロシアは首飾りに手を添え、不快げに眉を寄せる。


「お母様。この子、何を言っているの?」


 マルヴィナはエラを見た。


 黒い瞳の奥に、ほんの少しだけ退屈そうな光が浮かんでいた。


「あなたの母のもの?」


「はい」


「証は?」


 たった二文字だった。


 けれど、その言葉は刃よりも正確にエラを切った。


 証。


 母の持ち物であるという証。

 母から娘へ渡されるはずだったという記録。

 父の書いた覚え書き。

 母の刺繍箱に入っていた小さな札。

 家名帳の余白に残されていた、光名の継承印。


 それらは、もうない。


 燃やされた。

 処分された。

 虫食いだと言われた。

 古いものだから整理したと言われた。


 その火を、エラは見ていた。


 母の部屋から運び出された紙束が、台所の炉にくべられた夜。マルヴィナは「湿気を吸って読めなくなったものよ」と言った。使用人たちは信じた。エラだけが、燃え上がる紙の端に、父の筆跡を見た。


 エラ=ルミナ。


 自分の名の一部が炎の中で丸まり、黒くなり、灰になったのを見た。


「どうしたの、灰かぶり」


 マルヴィナは優しく微笑んだ。


「証はあるの?」


 エラは唇を開いた。


 母がつけていた。

 私が覚えている。

 この石を触ったことがある。

 母が、帰る場所を忘れないためのものだと言った。


 けれど、それらは記録ではなかった。


 この屋敷で認められる証ではなかった。


「……ありません」


 言葉は、灰のように落ちた。


 ドロシアが鼻で笑った。


「では、思い違いね」


「お母様が私に似合うとおっしゃったのよ。灰かぶりの母親のものだったとしても、今はこの家のものじゃない」


 ベルティナが軽く肩をすくめた。


「灰かぶりって、すぐに何でも自分のものだと思うのね」


 エラは黙っていた。


 怒りは、まだ胸の中で燃えていた。けれど、その火は声にならなかった。声にすれば、もっと多くのものを奪われる気がした。


 マルヴィナはドロシアの首飾りを整え、鏡の中の娘を満足げに眺めた。


「似合っているわ。ルミナの古い光名など、今さら誰も覚えていない。この石も、ようやくふさわしい首にかかれて喜んでいるでしょう」


 エラは銀盆を落としそうになった。


 ルミナ。


 マルヴィナは知っていた。


 忘れたのではない。

 知らないのでもない。

 知ったうえで、消したのだ。


「下がりなさい、灰かぶり」


 エラは頭を下げた。


 それ以上そこにいたら、自分が何を言うかわからなかった。


 衣装部屋を出て、廊下を歩く。広間の燭台が眩しい。磨かれた床に、自分の姿が歪んで映った。灰色の作業着。乱れた髪。黒くなった指先。


 首元に、何もない。


 母の首飾りは、青銀のドレスの上で光っていた。


 エラは台所へ戻った。


 炉の火は細くなっていた。慌てて薪を足す。火種はまだ残っていた。消えていなかった。


 それだけで、エラの膝から力が抜けた。


 彼女は炉辺に座り込んだ。


 泣くつもりはなかった。


 泣いても何も戻らない。泣いたところで首飾りが返されるわけではない。母の記録が灰から元に戻るわけでもない。


 けれど、涙は勝手にこぼれた。


 一粒落ちると、灰の上に小さな黒い点ができた。


 エラはそれを見つめた。


 涙に濡れた灰が、静かに沈む。火床の奥で、小さな熱が揺れた。


「……お母様」


 呼んだあとで、エラは自分の口を押さえた。


 もう何年も、そう呼んでいなかった気がした。


 この屋敷で母のことを口にすると、誰かが必ず言うのだ。


 亡くなった方のことをいつまでも言うものではありません。

 今の奥様に失礼です。

 思い出にすがるから、灰かぶりは前へ進めないのです。


 けれど、母は思い出ではなかった。


 灰になっても、まだ熱を持っている何かだった。


 エラは涙を拭い、炉の灰を掻いた。火を整えるためではなかった。なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。ただ、灰の下に何かがある気がした。


 灰掻き棒の先が、柔らかなものに触れた。


 炭ではない。


 エラは手を伸ばした。熱はもうほとんどない。灰の中から、黒く焦げた小さな布切れをつまみ上げる。


 それは、刺繍布だった。


 ほとんど燃え残りと変わらない。端は焦げ、色は失われ、元がどんな布だったのかもわからない。


 けれど、中心にだけ、糸が残っていた。


 淡い金の糸。


 細く、頼りなく、けれど灰にまみれてもなお光る糸で、文字の一部が縫われていた。


 エ――


 エラは息を呑んだ。


 それ以上は燃えて失われていた。


 けれど、残っていた。


 自分の名の、最初の響き。


 母の手で縫われた、名の欠片。


 エラは布切れを両手で包み込んだ。


 胸に押し当てる。


 今度こそ、声を殺せなかった。


「どうして……残って……」


 言葉は涙に崩れた。


 そのとき。


 炉の灰が、静かに揺れた。


 風はない。扉も窓も閉まっている。火が爆ぜたのでもない。けれど灰は、呼吸するようにふくらみ、沈み、またふくらんだ。


 エラは顔を上げた。


 炉の奥で、灰が渦を巻いていた。


 白い灰。黒い煤。金の糸屑。燃え残りの紙片。砕けた炭。


 それらが、ゆっくりと集まっていく。


 最初は小さな山だった。次に、それは肩の形を取り、曲がった背を取り、細い腕を取った。灰の中から立ち上がったのは、老婆のようにも、煤をかぶった小さな妖精のようにも見える存在だった。


 髪は灰白。

 目は火種のような赤金。

 衣は燃え残った布と煙でできている。


 けれど、その顔を見た瞬間、エラは不思議と怖くなかった。


 懐かしい匂いがした。


 炉辺。

 針箱。

 眠る前に髪を梳く手。

 ラベンダーと灰の混ざった、母の部屋の匂い。


「泣くと灰が固まるよ」


 老婆は言った。


 声はしわがれていたが、底に柔らかな熱があった。


「そうすると、あとで掃除が面倒になる」


 エラは涙を拭うのも忘れて、その存在を見つめた。


「あなたは……誰?」


「名前を問うのかい。良いことだ。名前を問う子は、まだ自分の名を諦めていない」


 老婆は炉の縁に腰をかけた。


 灰が少し舞った。


「わたしはシンダ=マール。炉辺の名織り。燃えたものの残りを拾い、灰の下に残った祈りを縫い合わせるものさ」


「シンダ……マール」


「おまえの母が、そう呼んだこともある。呼ばなかったこともある。母親というものはね、名を知らなくても祈りを残すのが上手い」


 エラは胸の刺繍布を見た。


「これは……母が?」


「そうだよ。あの人は知っていた。紙は燃やされる。印章は奪われる。首飾りは他人の首にかけられる。けれど、炉の灰だけは、誰も貴いものだと思わない」


 シンダ=マールは、にやりと笑った。


「だから、そこに残したのさ。おまえの名を。おまえがいつか、自分で拾えるように」


 エラの指が震えた。


「でも、残っているのは少しだけです。名の最初だけ。家名も、記録も、もう……」


「少しだけ?」


 シンダ=マールは片眉を上げた。


「火種も少しだけあれば炉は戻る。名も同じさ。全部残っていなければ名でない、などと誰が決めた」


 エラは答えられなかった。


 シンダ=マールは炉から降り、エラのまわりをゆっくり歩いた。小さな足跡のかわりに、床へ灰の輪が残る。


「さて。舞踏会へ行きたいのかい」


 エラは喉を詰まらせた。


 行きたい。


 そう言うのは簡単だった。


 けれど、何のために。


 王子に見初められるため。

 義姉たちを見返すため。

 美しいドレスを着るため。

 母の首飾りを取り返すため。


 どれも嘘ではないかもしれない。


 けれど、それだけではなかった。


 シンダ=マールは、じっとエラを見ていた。


「おまえは姫になりたいのかい」


 エラは首を横に振った。


「それとも、自分の名で立ちたいのかい」


 その問いが、胸の奥にまっすぐ届いた。


 エラは焦げた刺繍布を握った。


「……姫になりたいわけじゃありません」


 声は震えていた。


 けれど、今度は消えなかった。


「王子に選ばれたいからでもない。誰かに、別の人間にしてほしいわけでもない」


 灰の匂いがする。涙の塩が唇に残っている。遠くの衣装部屋では、まだ義姉たちの笑い声が聞こえている。


 エラは、ゆっくりと顔を上げた。


「ただ、灰かぶりではなく、私としてあの場所に立ちたい」


 シンダ=マールの目が、火のように細くなった。


「私とは?」


 エラは息を吸った。


 屋敷の中でその名を口にすることは、怖かった。


 けれど、炉辺には母の祈りがある。灰の下には、燃え残った名がある。今この場所だけは、マルヴィナの記録よりも、もっと古いものが彼女を見ていた。


「エラ」


 まず、そう言った。


 胸が熱くなる。


「エラ=ルミナ」


 炉の火が、ぱっと明るくなった。


 シンダ=マールは満足げに笑った。


「よし。それなら姫にはしない」


 彼女は手を伸ばし、エラの頬についた灰を指で拭った。


「灰の下に隠された名を、ひと晩だけ表へ出してやろう」


 次の瞬間、炉の灰が舞い上がった。


 それは煙ではなかった。雪でもなかった。ひと粒ひと粒が小さな文字のように光り、エラのまわりを巡りはじめた。


 焦げた刺繍布から、淡い金糸がほどける。糸は消えるのではなく、空中で伸び、細く、長く、幾筋にも分かれた。灰がその糸に絡み、煤が影を作り、火種が光を与える。


 エラの作業着の袖が、ほどけた。


 破れるのではない。古い仮名を脱ぐように、灰色の布が静かに崩れ、床へ落ちる前に光の粒になった。


 その下から現れた衣は、銀灰色だった。


 灰の色。

 けれど、汚れの灰ではない。


 夜明け前の空のような灰。

 古い炉の奥で赤く眠る火を隠した灰。

 燃え尽きたものの記録を抱く灰。


 裾には淡い金の刺繍が走り、歩くたびに小さな火花のような光が揺れた。胸元には、母の首飾りと同じ小花紋が、しかし宝石ではなく糸で縫い上げられていた。


 エラは息を呑んだ。


「これが……」


灰名衣シンダー・ドレス


 シンダ=マールが言った。


「おまえを偽る衣ではないよ。隠されていた名の輪郭を、一夜だけ見えるようにする衣さ」


 エラは自分の手を見た。


 灰に染まっていた指先が白く戻っている。けれど、爪の際にほんの少しだけ灰が残っていた。


 それが、なぜか嬉しかった。


 完全に別人になったわけではない。


 炉辺にいた自分も、そこに残っている。


「靴も要るね」


 シンダ=マールが灰をひとつまみ投げると、炉の奥に置かれていた古い硝子片が光った。かつて母の部屋の小窓にはまっていたものだ。割れてから捨てられず、炉脇に積まれていた。


 硝子片は溶けるように形を変え、エラの足元で一対の靴になった。


 透明な硝子の靴。


 けれど冷たくはなかった。内側には小さな火種のような光が宿り、エラが足を入れると、靴はぴたりと馴染んだ。


「硝子の名靴《クリスタ=ネーム》。足の大きさではなく、その夜、その名で歩く者を覚える靴だ。なくすんじゃないよ」


 シンダ=マールはそう言ったあと、少し考えるように首を傾げた。


「いや、片方くらいなら、なくしても話になるかもしれないね」


「え?」


「こちらの話さ」


 老婆は炉端に置かれていた冬南瓜へ目を向けた。


 それは台所の隅で、明日のスープになるのを待っていた大きな南瓜だった。表面には灰がつき、片側が少しへこんでいる。


「おまえも、今夜だけ別の名を欲しがるかい」


 シンダ=マールが尋ねると、南瓜がかすかに震えた。


「よろしい。ならば今夜のおまえは、馬車だ」


 灰が南瓜を包んだ。


 南瓜の皮が黒銀に変わり、蔓が車輪の飾りになり、種の眠る空洞が柔らかな座席になった。炉の火がその内側へ入り、外から見ると、小さな宮殿のような馬車が台所の床に現れた。


 エラは言葉を失った。


 シンダ=マールは次に、壁際を走っていた鼠たちへ目を向けた。


「おまえたちは、馬」


 鼠たちは一斉に立ち止まった。


 灰が落ちる。小さな体が伸び、銀灰色のたてがみを持つ馬へ変わる。ただし、その目の奥には、どこか鼠らしい賢さが残っていた。


「おまえたちは、従者」


 暖炉の石の隙間から顔を出していた蜥蜴たちが、細身の従者になった。緑がかった燕尾服を着て、驚いたように自分の手袋を見つめている。


 エラは思わず笑いそうになった。


 泣いたあとの胸に、その小さな可笑しさが温かく染みた。


「これは……本当に?」


「本当ではないよ」


 シンダ=マールはあっさりと言った。


 エラは瞬いた。


「え?」


「だが、嘘でもない」


 老婆は、変わったばかりの馬車を杖で軽く叩いた。


「南瓜は今夜、馬車という仮名を得た。鼠は馬という仮名を得た。蜥蜴は従者という仮名を得た。役目を与えられたものは、その夜のあいだ、その名で立つことを許される」


「仮名……」


「人間も同じさ。灰かぶりという仮名に縛られれば、灰かぶりとして扱われる。姫という仮名を着せられれば、姫に見える。だが、おまえの衣は違う。仮名で隠すのではなく、本来の名を夜へ通すためのものだ」


 エラは胸元の小花紋に触れた。


 母の首飾りは、ドロシアの首にある。


 けれど、母の祈りはここにあった。


「いいかい、エラ=ルミナ」


 シンダ=マールの声が低くなった。


「十二の鐘が鳴り終わる前に戻りなさい」


 その言葉に、部屋の灯が一瞬揺れた。


「十二……」


「王都では、日付が変わる十二鐘の瞬間、その日の記録が閉じられる。夜は仮名を許す。役目を変える。灰の下の名を、ほんの少し表へ出す。けれど、朝の記録は仮名を許さない」


 シンダ=マールは、エラの硝子靴を指さした。


「鐘が鳴り終われば、南瓜は南瓜に、鼠は鼠に、蜥蜴は蜥蜴に戻る。灰名衣も、記録の朝までは越えられない。おまえがその場に残れば、王都の名簿官たちは、おまえを記録できずに裂くだろう」


「裂く……?」


「名と姿が合わないものを、記録は嫌う。だから戻りなさい。必ず」


 エラはうなずいた。


 恐ろしくないと言えば嘘になる。


 けれど、それ以上に、胸の奥で火が灯っていた。


 舞踏会へ行く。


 灰かぶりとしてではなく。

 誰かの作った姫としてでもなく。

 エラ=ルミナとして。


 台所の奥で、遠くから義姉たちの笑い声が聞こえた。マルヴィナの声も混じる。彼女たちはまだ知らない。炉辺の灰の下で、燃え残った名が起き上がったことを。


 シンダ=マールは馬車の扉を開けた。


「行っておいで」


 エラは一歩踏み出した。


 硝子の靴が床に触れる。


 その小さな音は、台所の石床に澄んで響いた。


 灰をかぶせられた娘の足音ではなかった。


 名を失ったまま膝をつく者の音でもなかった。


 それは、まだ誰にも聞かれていない名が、初めて夜へ向かって歩き出す音だった。

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