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後ろ語り ― リラ=ファブラ

 さて。


 この夜の話は、後の世では、もっと悲しく、もっと美しく、そして少しだけ単純に語られることになるでしょう。


 海の底に、美しい声を持つ人魚姫がいた。

 人魚姫は、嵐の夜に若い王子を助けた。

 けれど王子は、彼女のことを知らなかった。

 人魚姫は声と引き換えに足を得て、陸へ上がった。

 けれど想いは届かず、王子は別の娘と結ばれた。

 夜明け、人魚姫は泡になって消えた。


 そう語れば、聞く者は泣きます。


 届かなかった恋。

 失われた声。

 海へ消えた娘。

 朝の光にほどける白い泡。


 それはそれで、たしかに美しい物語です。


 けれど、わたしは知っています。


 物語は、美しく語られるたびに、いくつかの名を落としていくのです。


 彼女が失ったものは、声だけではありませんでした。

 彼女が欲しかったものも、恋だけではありませんでした。


 彼女は、呼ばれたかったのです。


 ただ「誰か」としてではなく。

 ただ「声の出ない娘」としてではなく。

 ただ「海から来た不思議な者」としてではなく。


 自分の潮名で。

 自分が自分であるための響きで。

 海へ帰る道を持つ者として。


 けれど、その名は貝殻に閉じられました。


 声は奪われ、潮は遠ざかり、陸で与えられた優しい仮名は、彼女を救いながら、同時に傷つけました。


 それでも彼女は、誰かの名を奪いませんでした。


 ここを、どうか忘れないでください。


 夜明け前、彼女には刃がありました。

 帰るための刃が。

 声を取り戻すための刃が。

 泡にならずに済むための刃が。


 その刃で切るべきものは、肉ではありませんでした。

 血ではありませんでした。

 若者の胸でも、命でもありませんでした。


 彼の名でした。


 彼が灯台の家へ帰るための名。

 彼がリーネに呼ばれるための名。

 彼が町の人々に覚えられるための名。

 彼が彼として朝を迎えるための名。


 それを潮へ沈めれば、彼女は戻れた。


 けれど、彼女は戻らなかった。


 いいえ。


 戻れなかったのではありません。

 戻るために誰かを失わせることを、選ばなかったのです。


 だから、彼女は泡になって消えたのではありません。


 泡になるはずだったものが、潮へ還ったのです。


 声を失った娘は、最後に声よりも深いものを守りました。


 誰かが誰かとして帰るための名。

 呼ばれるべき者が、呼ばれるべき岸へ戻るための道。

 失われたまま泡になりかけた響きを、海が忘れないための祈り。


 その祈りに、潮は応えました。


 白泡の浜で、泡は消えませんでした。

 ただ光り、ほどけ、海へ混ざり、いつか誰かを呼び戻す声になりました。


 ですから、後の世の人々が海辺で白い泡を見るとき。


 それをただ、消えるものだと思わないでください。


 泡は、終わりの形ではないのです。


 名になれなかった声。

 届かなかった呼びかけ。

 帰る岸を探している祈り。


 それらが、ほんの一瞬だけ海の表に浮かび上がったもの。


 それが、泡。


 そして耳を澄ませば、波の奥で、いまも誰かが歌っています。


 恋を失った娘の歌としてではなく。

 誰かの名を奪わなかった者の歌として。


 後の世では、彼女の物語は「人魚姫」と呼ばれるでしょう。


 けれど、わたしはこう記しておきます。


 彼女は、泡になって消えた姫ではありません。


 泡にならなかった潮名。


 白泡の浜に、名を還す最初の声だったのです。

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