チャプター25
ー裾野の森・深部ー
エルリッヒの瞳が青く光ると、急速に周囲の天候が変わり始めた。それまで晴れていた空は暗雲に覆われ、雷鳴が轟き始める。そして、冬でもないのに雪のたくさん交じったみぞれが降り始めた。嵐のように風も強くなり、深紅の髪は激しくなびいている。
嵐が来る前の、独特の空気の緊張が走る。
それが異常な事態だということは、さすがのドラゴンも理解出来る。これには、驚きと戸惑いを隠せない。
『これは、一体なんだというのだ!』
『呼んだのは、お前だからな……』
静かに呟くと、おもむろに服を脱ぎ始めた。一見するとあまりに刺激的な光景だったが、それを見たら喜びそうな男二人は既に気絶しており、ドラゴンはエルリッヒの姿などには一切の興味がない。だからこその行為ではあるが、ひとしきり衣服を脱ぎ終わると、それを少し離れた場所に投げ捨てた。一方、ドラゴンはその目的が気になった。
これだけの気象の変化をもたらし、さらには衣服まで脱ぐというのだから、すでに想像できる範疇を超えている。もはや、何が起ころうと受け止めきれないかもしれない。
もしや本当に、”竜の姿”にでもなろうというのか。
『何をする気だ、小娘』
『言っただろう。本当に竜族の娘なら、その姿を見せろと。だから見せようと言うのだ。この私にここまでさせたのだから、後戻りはできんぞ。それだけは、覚悟しておけ』
ザワザワと、全身の血が疼き出す。抑えようのない衝動と、人間を遥かに超える理性が、同時に襲って来る。果たして、どれくらいぶりだろうか。この感覚を覚えたのは。
『あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』
次の瞬間、一筋の雷がエルリッヒの体に落ちた。
『っ! 自ら落雷に撃たれただと?』
生身の人間が雷に撃たれれば、無事では済まない。それなのに、何故。
エルリッヒをして百年は生きていると言っていたドラゴンが、起こっている事態に対応できないでいる。この地域の生態系を支配し、あたかも王者のように君臨してきたドラゴンにとって、これは堪え難い屈辱だった。
しかも、落雷をまともに見てしまったため、またも視界が奪われる。先ほどの閃光玉と言い、二度も目くらましを浴びる形になろうとは。また一つ、屈辱を重ねることになってしまった。
『これは! 何が起こっているというのだ! こんな現象、我は知らぬ! 知らんぞ!』
『喚くな。知らないのなら黙っていろ、若造。お望み通り、本来の姿に戻ってやっているだけだ』
ほどなくして、視界が戻る。が、既に目の前にエルリッヒの姿はなかった。それどころか、声はどこからともなく響いて来る。まるで、空間全体から響いて来るかのようだ。
『どこにいる!』
『竜族ともあろう者が、気配で分からないのか? すでに人間のそれではないというのに、情けない。同胞の気配くらい、感じ取ってほしいものだがな』
はっと気付き、声のした方、上空を見上げると、そこには……
『なん……だと……!!』
めちゃくちゃな気候の中、桜色のドラゴンが羽ばたいている。一見すると自分と同じ種族と思えたが……その姿は二回りほど大きかった。
これには、ただただ、圧倒される。
『いつの間に!』
ゆっくりと羽ばたきながら高度を下げ、ドシンと音を立てて着地する。その風圧に、十分に巨体と言えるはずのドラゴンが思わずのけぞってしまった。それほどまでに激しい風圧が、それも広範囲に発生していた。全ては、この大きな体があってこそのものだろう。
ゲートムントとツァイネの体も、巻き添えを食っていくらか遠くへ飛ばされていた。
『この姿になるのは久しぶりだから……少し、動き辛いな。まぁ、こちらが本来の姿なのだ、すぐに感覚は戻るだろう。どうだ、これが私だ。驚いたか? それとも、感動したか?』
『キサマ、本当にあの娘なのか!?』
目の前に立っているのは、まぎれもなくドラゴンである。本当に人間の娘が変化したのか、まるで理解できない。そして、一見すると自分とよく似ているが、頭部に生えている青白く光る四本の角や、背中に無数生えている黄金の棘、それに尻尾の先端の形状など、外見のいくらかが違っていた。
それが個体差なのか、種族の違いなのか、突然変異のような、その他の違いなのか、まして雌雄による体の作りの違いなのか、ドラゴンにはさっぱり分からなかった。彼は、気付いた時にはこの地に一人だった。これまで、他の個体を見たことすらなかったのだ。
またしても、戸惑いを隠せなくなっている。
『さあ、お望み通り本来の姿になったぞ? この姿の私が、お前を裁いてやろう』
『本当にキサマが先ほどの小娘だというのなら、竜族のキサマが同じ竜族である我を裁こうというのか! それは、同族殺しではないのか!』
言葉尻に、明らかな狼狽が見えた。それは、ゲートムント達と闘っていた時には見られない表情だった。人間相手には余裕でいられても、自分より体の大きな竜が目の前に存在し、それが自分を殺すと言っているのだ、落ち着いていられる方が不自然というものだ。
初めて見る同族は、彼にとって、”敵”だった。
『人間を滅ぼすのならまだしも、同族殺しなど、高等生物たる竜族にあるまじき行為だ!』
今までの様子からは、同族殺しなど意に介さないような性格をしていそうだったが、今はその非を説いている。エルリッヒは、それを安っぽい命乞いだと受け止めた。
『同族殺しか、そうだな。けれど、先ほども説明してやったではないか。私はな、他の種族に迷惑をかける同族を裁く役目を負っているんだ。他ならぬ父、竜王からな。そして、お前はそこの二人を傷付けた』
『脆弱な人間共など、守っても何の価値がる。我はただ、手向かって来た雑魚を蹴散らしたまで! その相手が弱かった、それだけの事の何が問題だというのだ!』
エルリッヒは、他者には読み取れないほど微かに表情を変え、嗤った。
『脆弱な、人間だと?』
『そうだ、脆弱な人間だ。我らが踏みつければ、そのまま死んでしまうほど弱い!』
その言葉が、まるで弱者相手に威張っているように感じられ、ついつい笑いを禁じ得なかった。が、その相手はまさにゲートムントとツァイネなのだと意識した瞬間、笑いは消えた。
『確かに、人間は弱い。その命を奪うことなど容易だ。ましてそこの二人は負傷し、意識を失っている。文字どおり一捻りだろう。だがな、そこにいるのは、ただの脆弱な人間ではない。他でもない、私の大切な友人だ。今知り合ったばかりのお前の命と、どちらが重いと思う? どちらが大切だと思う? なるほどこの二人が襲ってきたから返り討ちに合わせただけだ、というお前の話はその通りだ。降りかかる火の粉を振り払うことには十分の理がある。だがな、私情を考えれば、どちらを取るか、簡単な事ではないか』
『竜が人間を友人と言うか! 落ちたものだな。ならばそのような腑抜けに裁かれるのは屈辱! そこの人間共々返り討ちに遭わせてくれるわ!』
その叫びは激しい雄叫びとして、周囲に音の衝撃を放った。
『生ぬるいな。その程度の叫びで、威嚇したつもりかぁっ!』
返すエルリッヒの叫びは、比較にならないほどの強力な雄叫びとなった。音で周囲を支配するだけでなく、風圧となって辺りの切り株や落ち葉など、周囲の物を吹き飛ばした。ドラゴンの雄叫びには、これほどの力はない。
『ぐぉっ!』
『さあ、お遊びは終わりだ。どう殺されたい? お前には、死の自由だけを与えてやろう』
言い放った表情は、とても冷たかった。
〜つづく〜




