この時期がやってきたか
「この時期がやってきたか……」
国王は深い溜息とともに呟いた。
執務机に積まれた報告書の一つを手に取り、目を通してから再び机に置く。その様子を傍らで見守っていた宰相も、同じように息を吐いた。
「王太子殿下、その婚約者である我が娘、そして側近候補の三人が対象となりますな」
「うむ。息子のことは信じておる。しかし、どうしてこの時期になると、それに相応しいものが現れるのか」
「神の御心は、我々人間には測りかねますからな」
宰相の返答に、国王は苦笑した。
この国では、次代の為政者が年頃になると、決まって何かしらの問題が持ち上がる。今回のように、王太子やその側近たちの周囲に、身分や立場を顧みず接近してくる者が現れることもあれば、過去には稀有な魔法の才を持つ者が現れたこともあった。
いずれも、誰かが仕組んだと断定できるようなものではない。背後を調べても、特別な組織や黒幕が見つかるわけではなく、ただ人々の欲望や感情が複雑に絡み合い、次代を担う者たちの前に問題として現れるのだ。
だからこそ、王国では古くから、これを神が与える試練と考えていた。
「約20年前は、光魔法を持つ平民の特待生でしたな」
「ああ。あのときは、お前も私も肝を冷やした」
宰相は、若き日の自分を思い出す。
あの試練では、側近候補の一人が脱落した。能力も家柄も申し分ないと考えられていた青年だったが、目の前に現れた特別な存在に心を奪われ、自分の立場と責任を見失った。結果として、彼は側近候補から外された。家門の継承にも影響が及び、本来なら家を継ぐはずだった彼に代わり、弟が跡を継ぐことになったのだ。
試練は、決して形式だけの儀式ではない。その結果は本人だけでなく、家族や家門の未来さえ左右する。
「息子は大丈夫だと思いたいが……」
国王が再び溜息をつく。
「さて、どうなることやら」
「王太子殿下を信じるほかありますまい」
「そうだな。だが、信じているからこそ、試さねばならぬ」
国王は報告書を閉じた。
そこには、一人の少女の名が記されていた。カルラ・コンツ。国境に近い田舎のコンツ男爵家に引き取られた、男爵の庶子である。
そして、王立学院に不穏な空気を持ち込んだ張本人でもあった。
カルラが王立学院に入学したのは、母親を流行り病で亡くしたあとだった。
母親はコンツ男爵の愛人だった。ほぼ同じ時期に男爵の正妻も病で亡くなり、カルラは父親である男爵に引き取られた。
田舎で平民として暮らしてきたカルラにとって、男爵家に入ることも、王立学院に通うことも、夢のような話だった。
それに、カルラは自分の顔に自信があった。鏡を見るたびに思う。あたしって、やっぱり可愛い。だったら、もっといい暮らしが出来るはずだ。
父親の男爵は、そんな娘に期待していた。男爵家は特別に裕福というわけではない。だからこそ、見目のよい娘が金持ちの商家の息子や、もっと身分の高い貴族の息子を捕まえてくれれば、家にとっても悪い話ではなかった。
勿論、男爵が娘にそんなことを直接教えたわけではない。だが、娘が王立学院に入れば、金持ちの男の一人や二人は見つかるだろう。うまくいけば、男爵家の暮らしもよくなる。そんな期待を抱いていた。そして、カルラ自身も同じことを考えていた。
学院に入ってすぐ、カルラは男子生徒たちに声をかけ始めた。
「ねえ、あんた、お金持ち?」
中庭のベンチで本を読んでいた男子生徒が、ぎょっとして顔を上げた。
「……は?」
「その服、いいやつでしょ。お金持ちなんだ?」
「君は……」
「ねえねえ、今度お菓子おごってよ。あたし、甘いの好きなんだ」
カルラは相手の返事を待たず、隣に腰を下ろした。
男子生徒は困った顔をしたものの、強く追い払うことも出来なかった。カルラはそんな相手の様子を気にしない。笑って、話しかけて、気軽に肩に触れる。それまで貴族の令嬢たちに囲まれてきた男子生徒にとって、カルラの態度は随分珍しかった。
淑女教育を受けた令嬢なら、人前で大声を上げて笑ったり、知り合ったばかりの男性の肩を気安く叩いたりはしない。だが、カルラにはそんな常識がない。楽しいときには大きな声で笑う。気に入った相手には遠慮なく近づく。欲しいものがあれば、欲しいと言う。その遠慮のなさを、男子生徒たちは最初こそ面食らったものの、次第に面白がるようになった。
「ねえ、今度はあっちの人を紹介してよ」
「え? 彼を?」
「うん。あの人、かっこいいし、お金持ちそうじゃん」
「でも、彼は伯爵家の……」
「伯爵って何? 男爵より偉いの?」
カルラは首を傾げた。
男子生徒は、返事に困った。カルラにとって、貴族は貴族だった。公爵も侯爵も伯爵も男爵も、みんな同じように偉い人たちだと思っていた。平民として暮らしてきた彼女には、貴族の爵位による序列も、家ごとの婚姻政策も、嫡男とそれ以外の息子たちの立場の違いも、よく解っていなかった。
いや、正確には、そんなことを知る必要を感じていなかった。相手が自分の好みで、金を持っていそうなら、それでいい。
そうしてカルラの周囲には、少しずつ男子生徒が集まり始めた。最初は下位貴族の子息が中心だった。彼らの友人が加わり、その友人の紹介で別の家の子息も顔を出すようになった。上位貴族の子息も混じるようになったが、よく見れば、彼らは家を継ぐ嫡男や、その予備となる次男ではない。三男以下が殆どだった。
貴族としての教育をしっかり受けた者なら、カルラの振る舞いに違和感を覚え、一定の距離を置いただろう。しかし、カルラの周囲に集まる者たちは、彼女の無邪気な笑顔や遠慮のない態度を珍しがり、深く考えずに付き合っていた。カルラは、そんな彼らを通じて、更に身分の高い男性たちへ近づいていった。
「もっとお金持ちの人、いないの?」
「この前、侯爵家の人を見かけたよ」
「ほんと? どこにいるの?」
そんな会話が、学院のあちこちで聞かれるようになった。
そんなある日、ヴェンツェルは父の執務室に呼ばれた。
指定された時間に父王の執務室を訪れたヴェンツェルは、国王と宰相が揃っていることに気づいた。
「父上。宰相閣下も、何かございましたか」
「座れ、ヴェンツェル」
国王は息子に椅子を勧めると、一枚の報告書を差し出した。
「コンツ男爵家の庶子、カルラについては知っておるな」
「学院で男子生徒たちに囲まれている少女ですね。私にも何度か接近してきました」
「そうだ。あの娘の狙いを探れ」
ヴェンツェルの表情が引き締まった。
「本人の独断か、家の指示か。それとも、背後に別の者がおるのか。コンツ男爵家と、その寄り親についても調べよ」
「承知しました。しかし、なぜ私に?」
「そなたが王太子だからだ」
国王は淡々と答えた。
「カルラの周囲にいるのは、下位貴族の子息が殆どだ。だが、彼らの伝手を辿って、少しずつ上位貴族にも近づいておる。今は伯爵家止まりのようだが、このまま侯爵家の嫡男や次男にまで手を伸ばされては、各家の婚姻政策に悪影響が出かねん」
「……成程」
「そこで、そなたと側近候補たちが彼女の周囲に侍れ」
ヴェンツェルは一瞬、聞き返しそうになった。
「私たちが、ですか」
「そうだ。王太子と側近候補が側にいれば、他の男どもも遠慮して近づきにくくなるだろう。カルラ自身も、そなたたちに気を取られれば、手当たり次第に男を漁ることは難しくなる」
「しかし、私にはエルヴィーラがいます」
「承知しておる」
国王は、少しも表情を変えなかった。
「だからこそ、これは内密に進めよ。カルラの調査も、そなたたちが彼女に近づく理由も、無闇に周囲へ漏らすな」
ヴェンツェルは、報告書に目を落とした。カルラの行動は、確かに学院内の問題になりつつある。しかし、国王が自分たちに命じるほどのことなのだろうか。
「父上。カルラの調査と、彼女の周囲に侍ることが今回の命令、という理解でよろしいでしょうか」
「表向きはな」
その言葉に、ヴェンツェルは顔を上げた。
国王は息子をまっすぐに見つめていた。
「忘れるな、ヴェンツェル。そなたは将来、この国を治める者だ。命じられたことをこなすだけでよい立場ではない。何を求められているのか、自分で考えよ」
「……承知しました」
ヴェンツェルは一礼した。
だが、執務室を辞する前に、もう一つ確認しなければならないことがあった。
「父上。エルヴィーラには、どこまで話してよろしいでしょうか」
国王は、すぐには答えなかった。
やがて、僅かに目を細める。
「そなたは、どうすべきだと思う?」
ヴェンツェルは、父王の視線を正面から受け止めた。
「全てを秘密にすることは、婚約者への信頼を損ねます。エルヴィーラだけでなく、ブライトクロイツ公爵家にも影響する事態です。少なくとも、私が王命によって別の令嬢に近づくこと、周囲から不貞を疑われる可能性があることは、伝えるべきだと考えます」
「ほう。具体的には、どのように伝えるつもりだ」
「まず、国王陛下から密命を受けたことを説明します。そのうえで、私と側近候補たちが一人の令嬢に近づくことになった。周囲から不貞を疑われるかもしれず、君も侮られることになる。それでも協力してくれるか、と尋ねます」
国王は、暫く息子を見つめていた。
「よかろう。そこまで話すことを許す。密命の内容も、協力者が誰なのかも伝えてよい。そのうえで、どう行動するかは二人で決めよ」
「ありがとうございます」
「但し、忘れるな。そなた一人が試されているわけではない」
ヴェンツェルは、父王の言葉を胸に刻んだ。
「承知しております」
彼はまだ知らない。この密命が、カルラの正体を暴くためだけのものではないことを。
そして、父王が最初に見極めようとしているのが、まさに今、彼が口にした「婚約者にどこまで話すべきか」という判断だったことを。
翌日から、学院の空気は変わった。
これまでカルラを遠ざけていたヴェンツェルが、彼女の話に耳を傾けるようになったのである。
「殿下、今日は何してたんですか?」
「少し用事があった」
「へえ。あたし、殿下のこと、もっと知りたいんですけど」
「そうか」
以前なら短く切り上げていた会話を、ヴェンツェルはあえて続けた。トビアスも積極的にカルラの側へ顔を出すようになり、ローデリヒとオスヴィンも、彼女が話しかけてきたときには無下に追い払わなくなった。
カルラは、ぱっと顔を輝かせた。
「やっと仲よくしてくれる気になったんだ!」
「まあ、そういうことだ」
ヴェンツェルは笑みを浮かべた。それは、王太子として身につけた、誰にでも向けられる穏やかな笑顔だった。
しかし、カルラにはそんな違いなど判らない。王太子が自分に笑いかけてくれた。側近たちも、前ほど冷たくない。だったら、これは脈ありなのではないか。
カルラは、そう考えた。
「ねえ、殿下。今度、あたしと一緒にお茶しませんか?」
「予定を確認しておこう」
「ほんと? 約束だからね!」
カルラは嬉しそうに笑った。
その様子を遠巻きに見ていた生徒たちは、驚きと好奇心の入り交じった顔をしていた。王太子が、カルラを受け入れた。その噂は、学院中へ広がっていった。
そして、その噂を聞いたエルヴィーラが何を思い、どう動くのか。それこそが、王宮で始まった試練の本当の焦点だった。




