第四話 会敵
標準暦一八〇七年 九月十四日
バータル帝国陸軍少将ペトル・フヴォストフは、苛立ちながら彼の率いる旅団の宿営地を見ていた。視界の先に広がる空は、彼の心情を鏡に映したかのように、暗く低い雲が立ち込めていた。
彼が、シベリア総督の太平洋側の拠点となっていたアヤンの港町から旅団本隊第一陣、千五百名と共に出撃し、先行していた先遣隊三百名の待つサハリンに上陸してからすでに一ヶ月。旅団本隊第二陣の千五百名が、アヤンから折り返してきたに船団に乗ってきてから二週間が経とうとしていたが、総勢三千三百名からなる彼の旅団は、未だにナビリスキー湾、現地の天ヶ原人が弥勒翁湖と呼ぶ天然の入り江に築いた宿営地から離れることができずにいた。
ここに来た頃は、まだ夏の暑さを感じられる浜辺だったというのに、今では日によっては風が肌寒い日すらある。
「まだ船は来ないのか……!」
そう言いながら彼は、視界の先に広がる海原を睨みつけるが、その瞳に映るのは深い蒼色の穏やかな水面ばかりであった。
彼らをこの浜に縛り付けていたのは、バータル本国からの船団を待ち続けているためであった。予定では三日前には到着しているはずなのだが、最近は風が吹かない日が続いたからであろうか、眼前に広がる広大な海原には、船の姿は一つも見えなかった。
本当であれば敵に奇襲をかけるべく、本国からくる船団から物資を受け取り次第、すぐサハリン南部にある天ヶ原人の居住地に向けて旅団を動かしたかった。しかし、行軍する際に兵士に配る肝心の糧食が届かないために、ここで屈辱的な停滞を余儀なくされていたのである。
正直なことを言うと、現時点で宿営地に貯蓄されている糧食だけでも、当面の間に限れば南下すること自体は可能であった。しかし、ひとたび動き出せば行軍中の軍隊というものは、待機している時の五割増し、他国によっては倍くらいの糧食を要求してくるという。それはまさに、資源を際限なく呑み込んでいく底なし沼とも言えるようなものであった。
サハリン南部の目的地にたどり着く前に糧食が尽きてしまえば、そこで最期。飢えた我が兵たちは見知らぬ湿地帯で彷徨い、野垂れ死ぬしか取れる選択肢が無くなるのだ。それだけは何としても避けたかった。
このまま遅れている船団を待つか、それに見切りをつけて先に行軍を開始するか、これは彼にとって際どい選択であった。
「そもそも、あんなものを連れてこなければ今頃は敵の眼前にいたというのに……! だから私は要らないと言ったのだ!」
そう吐き捨てる彼の視線の先にあったのは木製の車輪に載せられた大砲が四門並んでいた。
ハーフプード・リコーン。バータル帝国陸軍が誇る、世界最先端の砲である。
プードとは、バータル帝国独自の重量単位であり、それは西方国家群のポンドに照らし合わせると一プードは四十ポンドほどであったため、この砲は二十ポンド砲と同等の性能の砲であった。
少将の考えでは、あんな重い砲を持ってくるつもりはなかった。歩兵と騎兵による軽装部隊でこのナビリスキー湾に上陸ししたらば、サハリン中央部を三百キロほど南下し天ヶ原人の町であるポロナイスク、あちらの言葉で敷香という集落を奇襲的に占領するのが当初の計画であった。
いくら野蛮な天ヶ原人であろうと、その領土を我が陸軍が一気呵成に蹂躙すれば、その堅く閉ざしていた門戸を開き、我らの通商要求を呑むであろう。はじめは、そのような強襲案の方向で行くと彼も風の噂で聞いていたので、それに合わせた作戦を立案していたのだ。
しかし、それに待ったをかけたのがシベリア総督イヴァン・スペランスキーであった。
総督は、陸軍による『平凡な勝利』では善しとせず『圧倒的な帝国の力を見せつけた勝利』を求めた。
その結果、リコーン砲という火力による制圧が最も天ヶ原人、その支配者である津田幕府に効果的であると考え、ペトルの旅団に砲兵部隊を同伴させることを強く要求したのである。
旅団を預かる彼からしたら非常に迷惑な話であった。なにせ、一門のリコーン砲を船に積むだけで完全武装の歩兵七十人分と同等の重さにもなるのだ。そんな重量物を、今回はなんと四門も運んできたのだ。彼からしたら頭痛の種でしかなかった。
「はぁ……」
重い息を吐き出しながら、眼前の机に広げられた地図を一瞥する。
ナビリスキー湾からポロナイスクまでの三百キロの長い道のり。これから進むサハリン中央部は、二年ほど前に探検家が残した記録によれば広い湿地帯の広がる場所だという。シベリア総督は『我が帝国の黒海沿岸周辺の泥濘と同じようなものだ』と言い放ったらしいが、道と呼べる物もないこんな未開の土地では、無理をして持ち込んだリコーン砲も、まともに運搬すらできないのではないか、そんな事をペトルはアヤン出港時から考えていた。
そして、先行で偵察させていた先遣隊から上がってくる報告が、彼の懸念が正しいという事を裏付けつつあった。
『前進、甚だ困難なり』
先遣隊から届いたこの一文だけでも、ペトルが自身の旅団をこの宿営地から前進させるのを躊躇させるのに十分な威力を持っていた。
――この作戦は、そのものが無謀だったのではなかろうか。
そう思わずにはいられない。本来であれば、こんな回りくどい作戦など取らずに、天ヶ原人の町の眼前に上陸すればいいのだ。それをしなかったのは、去年の軍艦ユノー号の爆沈の再来をシベリア総督府が警戒した。それに尽きると言えるだろう。
バータル帝国にとって僻地であるシベリア総督府、そんなところが自由に動かせる船の数にも、当然のことながら限りがあった。
貴重な船を失うくらいなら兵士を酷使させる。兵の命より船の損失を気にするという、国の判断には兵士を預かるものとして閉口したくなった。
それに、大胆な突破戦術というものは最近、西方国家群での戦争で前例があった。
我が国の宿敵であるエレヘグ共和国、今では人民皇帝などと言われている男に率いられた革命軍が、アルプス山脈を越えて敵軍を奇襲して討ったのである。
どうやら、我らがシベリア総督様は戦争の天才とも言われる男の成功に感化されて、我々にも同じことができると思っているらしい。しかし、現実というものはそこまで鮮やかに事を運ばせてはくれなかった。
総督府の船舶を総動員しても輸送を四から五回に分けざるを得ず、アヤンから数日で着く場所に上陸したとはいえ、少ない船を往復させて荷を積み下ろししていたのでは途方もない時間がかかる。結果としてこのように膨大な時間をこの浜で過ごすことになり、お世辞にも奇襲とは言えないものになり果てていた。これでは、すでに天ヶ原人にも我らの存在くらい知れているであろう。
――こんなことなら、無理をしてまで軍を送るべきではなかったのではないか?
彼はそこまで思考したところで、考えることをやめた。
もうすでに、我が旅団は行動を開始してしまったのだ。ここで引き下がることなど、到底出来なかった。
半ば諦めたような気持ちで、自身が愛用するパイプに煙草の葉を詰めて火をつけると、煙を軽く口に含み吐き出す。紫煙が曇った空に混じり溶けていく。
その光景を、ペトルは思案にふけりながらぼんやりと眺めていたが、暫くの熟考の末に一つの決断に至った。
「従兵、各部隊の指揮官を集めろ、前進するぞ」
「はっ!」
代わり映えのない浜辺での待機に、薄々嫌気がさしつつあった彼の従兵は、返事もそこそこにまるで放たれた鉄砲の弾丸のような勢いで天幕を飛び出すと、そのままの勢いで走り去っていく。
補給の船がなんだ、遅れている物資は後から運ばせればいい。それよりも時間が惜しい、奇襲を成功させるにはこんなところで足止めを受けているわけにはいかない。それが彼の結論であった。
ほどなくして、彼の天幕に集った旅団の指揮官たちは、彼の決断を聞いて思い思いの顔をしていた。言葉には出さずとも反対の意を示している者が多かったが、それでも彼の決定に対して明確に異を唱える者は最後まで現れなかった。
旅団は、遅れている船団から物資を受け取る兵站部隊だけを残して前進することが決まった。
ナビリスキー湾のほとりにあった宿営地は、まるで蜂の巣を突いたような騒ぎになった。撤収で慌ただしく動き回る兵士たちを、パイプを咥えながら見ていたペトルは静かに天幕の中へと引き上げる。
「我々は、もう行動を開始したのである。多少のアクシデントで止まるわけにはいかない。いかないんだ」
誰もいなくなった天幕の中で、自分に言い聞かせるように彼は呟いたが、それはまるで呪いのようにも聞こえた。
補給物資を満載した船団がナビリスキー湾に到着したのは、ペトルの旅団が前進を開始してから十一日後の事であった。
本隊の第二陣を降ろし、アヤンに向かう復路にて船団が濃霧に遭遇したことにより船団が散り散りになってしまい、再集結に手間取ったこと。さらに、物資の出発港であるアヤンでも積み込みが遅れたこと。ナビリスキー湾に向かう途上でも、風が吹かなかったことによる航路の遅れなど、様々な要因が積み重なった結果の十一日であった。
この十一日の遅れは、後に彼らの旅団を大いに苦しめることになる。だがそれは、先遣隊が敷設した木道を馬に跨りながら進み、古屯を目指すペトル・フヴォストフ少将にとって、未だ、知る由のない出来事であった。
天孫暦二四六七年 標準暦一八〇七年 十月四日
秋の肌寒い空気に包まれた、早朝の朝霧の中、古屯陣屋の中は俄に慌ただしさに包まれていた。
陣屋の中にいる八百名ほどの兵たちは、甲冑に身を包み、鉄砲を握りしめながらそれぞれの場所に駆けていく。彼らの表情には、緊張や殺気を含んだ険しい形相がうっすらと浮かんでいた。
「急ぎ、兵を出せる支度をせい! 敵はすぐそこであるぞ!」
箱館藩侍大将にして、この古屯陣屋の総大将である蓮見利義は、陣屋の中心に位置する屋敷の中で、大声を出しながら指揮を執っていた。
『この男は、この戦を楽しんでいるのか……?』
彼に仕える者は、思わずそんな感想を抱きながらも、彼の指示に従って兵たちを動かしていた。
それもそのはずである。彼は、この喧騒の中で満面の笑みを浮かべながら、指示を飛ばしていたのである。いつも、難しい顔をしながら地図を睨めている彼とはまるで違う。人によっては、その違いに気味の悪さを覚えていた。
事態が動いたのは、昨日の夕刻であった。
偵察がてら馴鹿を狩っていた徴募兵の猟師が、陣屋の北東に位置する武意加川と幌内川の合流地点の近くにて、野営をしている集団を発見したのである。
報告を受けた利義は、夜間であるにもかかわらず箱館藩の兵を確認に向かわせた。彼らの献身的な夜を徹しての偵察の結果、野営している者達が身に着けている衣類からして、バータル帝国軍であるという確証が取れた。
「その野営地を叩く! 今すぐ出陣の支度をせよ!」
野営をしているのは先遣隊であるらしく、多く見積もっても二百人程しかいないという藩兵からの報告を受けた利義は、即座に陣屋から打って出る決断を下した。後から来るであろう本隊との戦闘の前に先手を取り、戦いの主導権を握る。それが彼の思惑であった。
「殿、先鋒として出すのは御子息、利次殿の雷銃隊でよろしいですかな?」
そう聞くのは、この陣屋の総御鉄砲頭である。彼の質問に利義は笑みを浮かべたまま大きく頷いた。
「あやつの隊に託した雷銃の威力を知るには、まさに丁度いい相手だろうよ」
利義は口元を笑みで緩ませながら鉄砲頭に語る。それはまるで、新しい玩具が待ちきれない童のようであった。
「……ふぅ」
古屯陣屋の閉ざされた表門を前にして、カヨは集まった部隊の中で大きな深呼吸をしていた。
身体が重くて、慣れない事この上ない。カヨが身に纏っている箱館藩の旗印が陣笠と胴に大きく描かれた御貸具足は、侍が身に着けるような当世具足のような本格的な甲冑とは違う、足軽が藩から支給されて身に着ける簡素なものであるのでそこまで重くはないのだが、それでも甲冑など着慣れていない彼女にとってはまるで足枷のようであった。
そんな、御貸具足を身に纏った彼女の細い腕に納まっている鉄砲は、これまで持っていた物とは少し形状が違うものであった。
この鉄砲と対面したのは、今から一月ほど前の事である。
「これは、西方国家群で『らいふる』と呼ばれているものである。近隣の大名はその名前から音を借りて『雷銃』と呼んでいるから、これに倣い、ワシもこれを雷銃と呼ぶこととする」
敷香から帰って来た蓮見殿は、持ち帰って来た木箱の中から真新しい鉄砲を取り出しながら皆に講釈を垂れ始めた。
新しい鉄砲の説明だけならまだしも、雷銃を作ったという西方国家群のルツァーン王国や、その王国が属するという神聖帝国同盟についての長い話が始まると、流石に情報量の濁流に溺れてしまい、気を抜いたら寝てしまいそうになっていた。
――それよりも、だ。
新しい鉄砲より彼女を驚かせたのは、蓮見殿が次に口にした言葉であった。
「この雷銃は数に限りがある。よって射撃の巧い者にのみ持たせることとし、雷銃だけの鉄砲隊として『雷銃隊』を新たに編成することとする。雷銃隊の鉄砲頭はワシの息子、利次に執らせることとする」
蓮見殿の紹介を受けながら現れた狐族の男に、カヨは目が釘付けになった。
昔の記憶が、鮮明に蘇ってくる。
その黒い狐耳は数年ほど前、カヨに植物のうんちくをいつまでも語っていた役人と同じ耳であった。
「まさか、あの役人さんが蓮見殿の息子とは……」
「父上が、どうか致したかな?」
「うわっ!?」
出陣前の人混みの中、誰も聞いていないと思い、利次殿と再会した時の事を思い出して小さく独り言を呟いたつもりだったのが、不意に彼女の隣で声がする。
カヨが驚いて振り返ると、そこには当世具足に身を包みながらも屈託のない笑みを浮かべる狐族の男、蓮見利次が立っていた。
「……この鉄砲隊のお頭が、一介の徴募兵になんの御用ですか?」
「いや? 特に用といったものは無いのだが、出陣を前にして君のような麗しい乙女の顔をこの瞳に焼き付けておきたいと思ってな」
「はぁ……」
出陣を前にして、この人は何を言っているのであろうか。父上である蓮見殿も変わり者であるが、この利次殿も十分に変わり者である。
「親子である血は争えない……ってことかしらね」
そんなことを呟きながら、カヨは深い溜息をつきつつも真新しい雷銃を担ぎ直す。
これがかつての相方で、虎族の名に恥じぬほど気の強いシノであれば、鉄砲頭の彼であろうとお構いなしに噛みつくくらいの事はしたのであろうが、自分には誰かに面と向かって愚痴をぶつけられるほどの度胸を持ち合わせていなかった。
「シノも、今回は出陣するのかな……」
雷銃隊が新たに編成されてからというもの、射撃の腕を見込まれたカヨが引き抜かれたので、シノとは別の部隊になってしまっていた。この部隊は、どこを見ても見知った顔はいない。
雷銃隊の集合場所に行く前に、あの虎耳の少女を探したのだが、八百余名もいる人混みの中から彼女を見つけることは、ついぞ叶わなかった。
最後に、彼女とまともに会話したのはいつだったか、そんなのを思い出していると、隊の中から見知らぬ誰かの声が彼女の狼耳に入ってきた。
「本当に、人を撃つのか……?」
それは、今のこの状況に対してまるで怯えきっている声であった。恐らくは、銭に目が眩んで志願した徴募兵なのであろう。もしかしたら彼は、戦など起きないと思っていたのではないだろうか。
カヨはいつだったか、馴鹿を撃った時のことを思い出した。首から鮮やかな朱色の血を噴きながら、こちらを見つめてくる雌の馴鹿の目。暫くは、あの瞳の色を忘れることはできないだろう。
獣は撃てる。しかし、怨敵であるとはいえバータル兵、人間だとどうであろうか。本当に自分は引き金を引けるのだろうか。
そんな、思考を巡らせていた時である。カヨは、どこかから見られている感覚を覚えた。
視線の主を探すのには、それほど時間はかからなかった。この隊で唯一、見知っている顔の鉄砲頭が、彼女を見ながら微笑んでいる。
「またか……」
カヨは、利次殿が向けてくる笑みを、無視すると小さな溜息をついた。
古屯陣屋にて、利次殿に再会してからというもの、彼への心象は低くなる一方である。
――どうしてこうなったのよ。
そう思わずにはいられない。気が付いたら、彼はやたらとカヨに付きまとってくるようになっていた。
きっかけがあったとすれば、受け取った雷銃をシノと一緒に陣屋の的場にて試し撃ちをしていた時である。
「おぉ、本当に螺旋を描きながら飛んでいってる」
「なんでも、この雷銃とやらは筒の中に溝が彫ってあって、放たれた弾丸が螺旋を描きながら飛ぶことで従来の鉄砲よりも遠くへ、そして正確に弾丸が飛ぶんだって」
「へぇー……お、本当に中が渦巻みたいになってら」
今の話で、構造を理解しているのかわからないが、シノはカヨが持っていた雷銃を持つと、硝煙の香りがまだ強く残る巣口から筒の中を覗き込んでは、感嘆の声を上げていた。
「ほら、もう一発撃つから返してよ」
望遠鏡のようにずっと覗いているシノから雷銃を取り返すと、首から下げている瓢箪で出来た胴薬入れから巣口へ火薬を流し込む。次に飴玉のような鉛の弾と、小さな亜麻布を取り出すと、弾を亜麻布で包むようにしながら巣口に置くと、取り出した槊杖で底まで突き込もうとする。
「これが固いんだよな……」
今までの鉄砲では、抵抗なくすんなりと筒の底まで突き込めるのだが、雷銃では彫ってある溝に弾を包んだ亜麻布を嚙合わせるために、筒と弾の隙間がほとんどないのだという。そのためにこの突き込む作業ではそれなりの力が要り、従来の鉄砲のように早く装填することは、叶わないものとなっていた。
少し力を込めながら弾を底まで突き込むと、最後に撃鉄を上げてから口薬入れで雷銃の火皿に火薬を注入してから狙いを定める。この雷銃は燧石で点火するために火縄を気にしなくていいのは良いところではあるのだが、やはり装填は遅いし、疲れる。
狙いを定め、引き金を引く。撃鉄が火皿に落ちた瞬間、眩い閃光が目の前を覆った。
巣口から飛び出した弾丸は、螺旋を描きながら的場の中を飛んでいく。命中したのは先程撃った弾が当たったところのすぐ隣であった。
「……美しい」
着弾点を見てシノが再び感嘆の声を上げたと同時に、的場の入り口から別の声が耳に入ってくる。
シノと振り返ると、そこには利次殿が入り口で目を見開いていた。
はじめは、持っているこの真新しい鉄砲の性能と機能美にほれ込んで出てきた言葉だと思っていた。確かにこれは既存の物とは全く違う、本当に素晴らしい性能である。
「大泊で一目見た時も思っていたが、本当に美しい。まるで、天に輝く日輪のような美しさだな、君は」
しかし、目の前にいる狐耳の彼が抱いていた感情は違ったようである。急に近寄って来たかと思えば、カヨの手を急に握りながら興奮冷めやらぬといった表情でこちらを見てきていた。しかも、私の事を覚えていたのである。いきなりの事で、彼女の脳の処理量は簡単に振り切れてしまった。
「え……?」
ここ数年、そんな言葉とは無縁な、女として扱われないような境遇で生きていた彼女にとって、利次殿の口から紡がれた言葉は、あまりにも衝撃的であった。
カヨという女子は男とは縁の無い人生であった。大泊の皆とはいわば家族のような気持ちでいたし、嫁ぐのであれば隣の村とかそんな遠い場所に行くものだと思っていた。
そんなことをぼんやりと考えているうちに、家族と思っていた人はあの日いなくなった。それからは、恋とは程遠い日々を過ごしてきていたのである。
『自分が女性として見られ、殿方から褒められている』
意識をしはじめた途端、急に頬が熱くなる感覚がカヨにはあった。
「どうした? もしかして、こういった言葉を言われるのは慣れておらぬか! 君はどちらかと言うと青年のような精悍さがあるからなぁ!」
「え、あ、いや……」
彼の言葉を耳で聞き、頭では理解しているはずなのに、目の前の狐族の男が何を言っているのかわからない。
これは愛を囁かれているのか?
こんな時は何といえばいいのか?
どんな顔をすればいいのか?
そんな気持ちが浮かんでは、すぐに消えていく。彼女の脳内は、今や破裂寸前であった。
「こいつは何を言っているんだ?」
混乱して言葉に詰まっていた彼女に代わって口を開いたのは、隣にいたシノであった。
「開口一番に、見ず知らずの女を口説くのが箱館での流儀なのかい?」
「うん? 美しいものに賛美の言葉を掛けて何が悪いのだ? それに彼女は、私とは初対面ではないだろう?」
利次殿の言葉を聞いてシノは、こちらに確認を取るかのようにカヨへと目線を向ける。頭が他の事でいっぱいになっていた彼女は友人に対して小さく首を縦に振るのがやっとであった。
「……まぁ、初対面ではないのはわかった。でも、おらの親友がこんなになっちまった。今日のところはお引き取り願えねえかね?」
「うむ、確かに幼気ない麗しい少女相手に悪戯が過ぎたようだな。では、また日を改めるとしよう」
耳まで真っ赤に染め上げながら固まっているカヨを前にして、漸く正気に戻ったのか、それともシノの鋭い眼光に負けたのか、ばつの悪そうな顔をしながら頭を掻きつつ、利次殿は的場を後にしていった。
この日はそれで事なきを得たのは良かったが、それからあの狐族の男は人目につかないところで何かとカヨにちょっかいを出してくるようになった。
暫くは、彼女の用心棒であるシノが彼から護ってくれていたものの、それも雷銃隊が新たに編成されると、他部隊となった少女二人の時間は減り、鉄砲頭である利次殿との時間は増える一方であった。
「利次殿って私の事が好きなのですか?」
いつだか、そんな事を彼に聞いたことがある。
「好きという感情とは違うような気がするのだよな。なんというか、君は私にとっての光なのだ。その暖かな光を、私はずっと眺めていたいのだよ」
掴みどころ無い笑みを浮かべながら彼はそう語った。
「……それって、好きとは何が違うのですか」
そんな、彼女の問いに答えることなく、彼は去っていった。未だにその答えは、彼から貰えずにいる。
目線が、自然と彼を探してしまう。
陣笠ばかりの人混みの中で、兜を被った利次殿を探すのは、それほど時間のかからない事であった。雷銃隊の鉄砲頭は、皆の先頭で陣屋の表門が開くのを待っていた。
その凛々しく整った横顔から、 目が離せなくなっている自分がいることに、カヨは狼狽した。
「……どうしちゃったのよ。私」
他の誰にも聞こえないような声で、カヨは小さく自分に愚痴を漏らした。
彼と話していると、まるで実の兄といるかのような、そんな妙な心地よさというか、一種の安心感を心のどこかで抱きつつあることに、彼女は気が付いていた。
そして、それがこの場には似つかわしくない感情であるということもである。
――戦を前にして何を浮いているんだ。
心底、自分が嫌になる。
カヨの兄は、大泊の井戸の底で最期を迎えたのである。その兄の弔い合戦を目前にしているというのに、自分に優しくしてくれただけの殿方に、兄の幻影を見ていたのである。
気持ちを入れ替えるために、深く一息入れると、自らの頬を軽く叩く。
乾いた音が、陣屋の土塀に囲まれた狭い空に溶けていった。頬から伝わる痛みで自分は正気であることを自覚すると、睨むような目つきで前を見た。
視界の端に利次殿の姿が映るが、先程よりは気にならなくなっていた。
――それでいい。
今から私は、人を殺めに行くのだから。
しかし、彼女の覚悟は無意味に終わってしまった。
「急報!」
陣屋の中心に位置する屋敷から、伝令が叫びながら走ってくる。
伝令からの報告を聞いた利次殿は、雷銃隊の出陣を取りやめる事と、このまま臨戦態勢にて待機する事を皆に知らせた。
「敵の本隊が想定よりも早く現れた。今から先遣隊を叩きに行ったのでは、我らが逆に討たれる危険がある」
敵の先遣隊を先に叩くことで、後から来るであろう本隊との戦闘の前に先手を取って戦いの主導権を握る。それが出来なくなった事を意味していた。
「縫江から約六十里の距離を、道もないのに一ヶ月ほどで踏破してくるか……思ったよりも、早かったな」
陣屋の屋敷では、総大将の蓮見利義が呻きながら地図を睨んでいた。
武意加川と幌内川の合流地点の近くには、黒い碁石が一つ。さらにその北側にはもう一つの黒い碁石が置かれていた。
敵の本隊を見つけた者によると、その軍勢は掴みで五千を超えるという。
「うぅむ……」
地図を睨みながら腕を組み、唸り声を上げる。
想い描いていた戦の賽が、彼の手の中から転がり落ちようとしていた。
「お呼びになられましたか、父上」
考え込んでいると、不意に声が耳に入る。利義が顔を上げると、利次が戦支度のまま部屋に上がり込んできていた。
「おう、来たか利次よ。まぁそこに座れや」
「はっ……早速ですが、物見の話では五千のバータル軍が寄せてきているようですが、流石に誇張かと」
「そんなことはわかっている。呼んだのはそんな話をする為ではない」
座るなり、自分が縫江で見てきた知見から意見を口にしようとする利次を、利義は片手で制しながら本題を切り出した。
「お前には、伝令として多来加湖の富内陣屋にまで行ってもらう」
「ここに援軍を要請する為、ですか」
「左様、籠城戦において後詰のない籠城では完璧な勝ちなど望めぬ。それは判るな」
利義の言葉を聞いて利次は静かに頷いた。
「幕府軍は何も言っても富内からは動かぬだろう。狙い目は、幕府の与力として布陣している我が藩主や周辺の諸大名の軍だ。彼らをうまいこと説得して連れて参るといい」
「藩主、蠣崎殿が狙い目ですな、わかりました」
「ここから富内まではおよそ二十里、早馬であれば一日でつくであろう。それを踏まえてお前には五日やる。それまでに後詰を引き連れてこい」
「かしこまりました。……しかし、それまでバータル軍は待ってくれるでしょうか?」
今、古屯陣屋に寄せてきているバータル帝国軍本隊。この短期間で六十里を走破するという強行軍をしている以上、一日や二日では攻めては来ないだろうという考えは利次にもあった。しかし、それが富内の後詰来援まで持つのか、という疑いを捨てきれずにいた。
「奴らは動かん」
利義は利次の疑念を即座に一蹴した。
「それは、父上の願望ではなく……?」
「これは長年の経験から来る確信だ。奴らは長期戦を取る」
「……わかりました。それでは行ってまいります」
自分の親が口にする言葉には、確固たる自信があった。それを、利次は信じてみることにした。
結果的に、この時に蓮見利義の下した決断は、後に『英断』として後世に語り継がれることになる。




