第九話 距離と気づき
第九話 距離と気づき
翌朝、和はいつもより早く目が覚めた。
窓の外は薄い灰色の空で、雨は止んでいたが、湿った空気が部屋に残っている。
昨夜のことが、まだ胸の奥に残っていた。
——湊は、私のことを忘れられなかった。
——また会いたいと言ってくれた。
その言葉が、嬉しくて、怖かった。
和はベッドから起き上がり、
キッチンでコーヒーを淹れながら、
スマホをちらりと見た。
通知はない。
「……そりゃそうだよね」
会った翌日に連絡が来るなんて、
期待しすぎだと分かっている。
でも、
期待してしまうのは止められなかった。
*
仕事に向かう電車の中、
和は窓の外をぼんやりと眺めていた。
湊の言葉が、何度も胸の奥で反響する。
「上月さんのこと、忘れられなかった」
「また会ってくれる?」
その声が、耳に残って離れない。
——私はどうしたいんだろう。
答えは分かっている。
湊に会いたい。
もっと話したい。
もっと知りたい。
でも、
その先にあるものを考えると、
胸が締めつけられる。
——また傷つくかもしれない。
——また、あの時みたいに。
和は深く息を吐いた。
「……怖いな」
自分の心が、
湊に向かって動き出しているのが分かる。
その動きが、嬉しくて、怖い。
*
一方その頃、湊は京都のオフィスで、
パソコンの画面を見つめていた。
だが、仕事に集中できなかった。
——上月さん、今何してるんだろう。
そんなことばかり考えてしまう。
「佐伯くん、これ確認お願い」
上司の声に、湊は慌てて返事をした。
「すみません、すぐやります」
資料を開きながらも、
頭の中は和のことでいっぱいだった。
喫茶店での表情。
駅前での静かな笑顔。
「忘れられなかった」という言葉。
湊は深く息を吐いた。
——俺は、どうしたいんだろう。
答えは分かっている。
和に会いたい。
もっと話したい。
もっと近づきたい。
でも、
その先にあるものを考えると、
胸がざわつく。
——また傷つけてしまうかもしれない。
——また、逃げてしまうかもしれない。
湊はスマホを手に取り、
和の名前を見つめた。
メッセージを送ろうとする。
けれど、指が止まる。
「……まだ早いかな」
焦ってはいけない。
ゆっくりでいい。
そう自分に言い聞かせる。
でも、
胸の奥では別の声が響いていた。
——上月さんに会いたい。
*
その日の夜、
和は仕事帰りにまた書店に寄っていた。
理由は分かっていた。
湊が来るかもしれない、
そんな期待が胸の奥にあった。
「……来るわけないよね」
自分に言い聞かせながら、
世界の不思議コーナーへ向かう。
棚の前に立ち、
本を手に取る。
『世界の奇妙な事件100選』
ページをめくると、
湊の声が聞こえる気がした。
「説明できない余白があるから、人は惹かれるんだよ」
和は本を閉じ、
深く息を吐いた。
「……会いたいな」
その言葉が、
思わず口から漏れた。
その瞬間、
スマホが震えた。
和は驚いて画面を見た。
——湊。
胸が跳ねる。
震える指でメッセージを開く。
『今日は仕事が早く終わった。
もし時間あったら、少し話せないかな。』
和は息を飲んだ。
——会いたい。
——でも、怖い。
胸の奥で二つの気持ちがぶつかる。
和は深呼吸をし、
ゆっくりと返信を打った。
『今、書店にいるよ。
時間あるなら……来る?』
送信ボタンを押した瞬間、
心臓が大きく跳ねた。
数秒後、
湊から返信が来た。
『行く。すぐ行く。』
和は胸の奥が熱くなるのを感じた。
——湊も、会いたかったんだ。
*
雨は止んでいたが、
湿った風が店内に入り込んでいた。
和は棚の前で立ち尽くし、
心臓の鼓動を抑えようと深呼吸をした。
店の入り口のベルが鳴る。
和は振り返った。
湊が立っていた。
息を少し切らし、
でも、笑っていた。
「……上月さん」
「湊……」
二人はゆっくりと近づいた。
「来てくれて、ありがとう」
和が言う。
「来るよ。
上月さんがいるって聞いたら……
来ないわけない」
その言葉に、
和の胸が静かに震えた。
——距離は、まだある。
——でも、確かに近づいている。




