第七話 彼の影と弱さ
第七話 彼の影と弱さ
レトロ喫茶店「アカシア」を出ると、
雨はほとんど止んでいた。
濡れたアスファルトが街灯を反射し、
夜の街を淡く照らしている。
和と湊は、店の前でしばらく立ち止まっていた。
「……久しぶりに、こんなに話したね」
湊が小さく言う。
「うん。なんか……大学の頃に戻ったみたい」
「戻れたらいいのにね」
その言葉に、和の胸が静かに震えた。
——戻れたらいいのに。
——でも、戻れない。
二人の間に、言葉にできない距離があった。
*
「駅まで送るよ」
湊が言った。
「いいよ、近いし」
「いや……送らせて。
上月さんと、もう少し歩きたい」
その言い方が、どこか切実だった。
和はうなずいた。
二人は並んで歩き出す。
街灯の下、二人の影が並んで伸びる。
「上月さん、さっきの話……」
湊が口を開いた。
「怖いって言ったこと?」
「うん」
湊は少し俯き、歩幅をゆっくりにした。
「俺……恋人と別れた時、
自分がどれだけ臆病だったか思い知らされたんだ」
和は黙って聞いた。
「相手の気持ちをちゃんと見ようとしなかった。
自分が傷つくのが怖くて、
大事なことを言わなかった。
言わないまま、全部失った」
湊の声は、静かに震えていた。
「それから……誰かを好きになるのが怖くなった。
本気で好きになったら、また同じことを繰り返す気がして」
和は胸が締めつけられた。
——湊は、ずっと怖かったんだ。
——私と同じように。
「でもね」
湊は続けた。
「今日、上月さんと話して……
なんか、少しだけ怖くなくなった」
和は足を止めた。
「……どうして?」
湊は和の方を向き、
少し照れたように笑った。
「上月さんって、変わらないから。
優しくて、丁寧で……
俺の話をちゃんと聞いてくれる」
和は視線を落とした。
「そんなこと……ないよ」
「あるよ。
上月さんは、自分で思ってるよりずっと……人の心に寄り添える人だよ」
その言葉が、和の胸に深く刺さる。
——そんなふうに言わないで。
——期待してしまう。
「……湊」
和は小さく言った。
「うん?」
「私、湊のこと……忘れられなかったよ」
湊は息を飲んだ。
「……本当に?」
「うん。
忘れようとしたけど……
書店に行くたびに思い出してた。
ミステリーの本を見ると、湊の声が聞こえる気がして」
湊はゆっくりと目を伏せた。
「……俺もだよ」
和は驚いて顔を上げた。
「え?」
「俺も……上月さんのこと、忘れられなかった。
仕事で疲れた時、ふと上月さんのことを思い出して……
あの時、連絡先を聞かなかったことを後悔した」
和の胸が熱くなる。
「どうして……聞かなかったの?」
湊は苦笑した。
「怖かったから。
聞いたら……期待してしまうと思った。
期待したら……また傷つくと思った」
和は静かに言った。
「……私も、怖かったよ」
湊は和を見つめた。
「上月さん……」
その目は、大学時代と同じ、
でもどこか違う。
深い影と、弱さと、温かさが混ざっていた。
*
駅が近づくと、
人の声が少しずつ増えてきた。
「ここまででいいよ」
和が言う。
「うん……」
湊は立ち止まり、
和の方を向いた。
「上月さん」
「なに?」
「また……会ってくれる?」
和は迷わなかった。
「……うん」
湊はほっとしたように笑った。
「ありがとう。
本当に……ありがとう」
和は胸の奥が温かくなるのを感じた。
——この再会は、偶然じゃない。
——きっと、まだ終わっていない。
「じゃあ……また連絡するね」
湊が言う。
「うん。待ってる」
二人は小さく手を振り、
それぞれの方向へ歩き出した。
和は駅の階段を上りながら、
胸の奥で静かに思った。
——湊は、変わった。
——でも、変わっていない。
そして、
自分の心もまた、
大学時代から何も変わっていないことに気づいた。




